羽生市の岩瀬地区が別世界のようになっています。
というのも、複合商業施設がオープンしたからです。
以前の景色を知っている者にとっては別世界でしょう。
広がっていた田んぼは店舗になり、あぜ道は車が何台も通り過ぎるアスファルトに変貌。
小さな排水路は拡大されると同時に、
羽生第一高校の北側を流れる早生田堀はアスファルトの下に……。
岩瀬地区の特徴の一つは、学校が多いことではないでしょうか。
羽生第一高校をはじめ、羽生南中学校、岩瀬小学校、埼玉純真短期大学が建っています。
元々岩瀬小学校があったのは、現在の岩瀬公民館のところです。
また、埼玉純真短期大学の正門前を流れる排水路は、
太平洋戦争時に早稲田大学の学生たちが勤労奉仕で掘削したものです。
ゆえに、「早生田堀」という名前がついています。
「学生」にゆかりのある堀と言えるでしょう。
おそらく、学校一つができるたびに景色が変わったはずです。
田畑だったところに建物が建つのですから、
それはその当時の「現代」の象徴のように目に映ったと思われます。
道路もまたしかりです。
岩瀬地区を通る国道122号は、元々町中を走っていました。
それを現在のような形で新設されたのは昭和49年のことです。
この工事に伴い「念仏堂遺跡」の発掘調査が実施され、中世の遺物が出土しました。
また、国道122号沿いに小松工業団地の工場造成が始まったのは平成3年で、
これは僕も目の当たりにした地域の歴史です。
僕が中学生になった頃に一気に建物の建設工事が始まったのを覚えています。
それまでは田んぼの小さな道を通り、羽生第一高校の北側にあった書店「文栄堂」へ行っていたのですが、
景観がすっかり様変わりしました。
南中学校の前には南部幹線の陸橋が架かり、その向こうにできた遊水池。
羽生栗橋線こと埼玉県道84号の開通は平成4年のことで、
僕にとってこの道路は「川」に似た感覚でした。
羽生の「町」へ行くには、この川を越えなければならなかったわけです。
南中学校も羽生第一高校も健在ですが、
相次ぐ開発によって校舎がいささか小さく見えるのは気のせいでしょうか。
先日、埼玉純真短期大学で講義をする機会があり、改めて岩瀬地区の歴史を調べました。
隔世の感を否めません。
中学生の頃から何かと縁のあった岩瀬です。
親しい部活仲間は岩瀬が多かったですし、
高校生の頃は岩瀬に住む同級生とよく一緒に帰っていました。
そのため、1990年代の景色はいまでも覚えています。
その頃に比べたらまるで別世界です。
さすがに愛宕神社や岩松寺、岩瀬公民館などは変わっていませんが、
国道沿いに新しい店が建ち、田んぼだったところに羽生病院がそびえたっています。
むろん、なくなったお店もあります。
国道沿いにあったそば屋さんや交差点にあったガソリンスタンド。
高校近くの商店や精肉店。
岩瀬公民館から南へ向かったところには商店がありました。
隠れ家のような雰囲気が個人的に好きでしたが、
その面影を見つけるのは難しい状況です。
今後は住宅がどんどん建ち、さらに景色が変わるのでしょう。
複合商業施設の開発に伴い、「中岩瀬遺跡」の発掘調査が実施されたのですが、
古代の人々が目にしていた景色とは異世界であることは言うまでもありません。
自分が親しんだ地域が、こんな形で変わるとは思いもしませんでした。
田んぼの真ん中を通る小さな道を同級生と自転車で走り、
「ツタヤ」方面へ行ったのは遠い記憶です。
もう一度、あの頃の景色を目にしたくても見らない。
戻りたくても、あの頃の感性には帰れない。
懐かしさと寂しさが入り混ざっても、あの頃という歴史を知っているから前を向くのでしょう。
かつて小松工業団地から見えた羽生第一高校の校舎は複合商業施設に遮られ、
いまの岩瀬は夜になれば明るい光りに包まれています。
※最初の写真は複合商業施設ができる前の光景
というのも、複合商業施設がオープンしたからです。
以前の景色を知っている者にとっては別世界でしょう。
広がっていた田んぼは店舗になり、あぜ道は車が何台も通り過ぎるアスファルトに変貌。
小さな排水路は拡大されると同時に、
羽生第一高校の北側を流れる早生田堀はアスファルトの下に……。
岩瀬地区の特徴の一つは、学校が多いことではないでしょうか。
羽生第一高校をはじめ、羽生南中学校、岩瀬小学校、埼玉純真短期大学が建っています。
元々岩瀬小学校があったのは、現在の岩瀬公民館のところです。
また、埼玉純真短期大学の正門前を流れる排水路は、
太平洋戦争時に早稲田大学の学生たちが勤労奉仕で掘削したものです。
ゆえに、「早生田堀」という名前がついています。
「学生」にゆかりのある堀と言えるでしょう。
おそらく、学校一つができるたびに景色が変わったはずです。
田畑だったところに建物が建つのですから、
それはその当時の「現代」の象徴のように目に映ったと思われます。
道路もまたしかりです。
岩瀬地区を通る国道122号は、元々町中を走っていました。
それを現在のような形で新設されたのは昭和49年のことです。
この工事に伴い「念仏堂遺跡」の発掘調査が実施され、中世の遺物が出土しました。
また、国道122号沿いに小松工業団地の工場造成が始まったのは平成3年で、
これは僕も目の当たりにした地域の歴史です。
僕が中学生になった頃に一気に建物の建設工事が始まったのを覚えています。
それまでは田んぼの小さな道を通り、羽生第一高校の北側にあった書店「文栄堂」へ行っていたのですが、
景観がすっかり様変わりしました。
南中学校の前には南部幹線の陸橋が架かり、その向こうにできた遊水池。
羽生栗橋線こと埼玉県道84号の開通は平成4年のことで、
僕にとってこの道路は「川」に似た感覚でした。
羽生の「町」へ行くには、この川を越えなければならなかったわけです。
南中学校も羽生第一高校も健在ですが、
相次ぐ開発によって校舎がいささか小さく見えるのは気のせいでしょうか。
先日、埼玉純真短期大学で講義をする機会があり、改めて岩瀬地区の歴史を調べました。
隔世の感を否めません。
中学生の頃から何かと縁のあった岩瀬です。
親しい部活仲間は岩瀬が多かったですし、
高校生の頃は岩瀬に住む同級生とよく一緒に帰っていました。
そのため、1990年代の景色はいまでも覚えています。
その頃に比べたらまるで別世界です。
さすがに愛宕神社や岩松寺、岩瀬公民館などは変わっていませんが、
国道沿いに新しい店が建ち、田んぼだったところに羽生病院がそびえたっています。
むろん、なくなったお店もあります。
国道沿いにあったそば屋さんや交差点にあったガソリンスタンド。
高校近くの商店や精肉店。
岩瀬公民館から南へ向かったところには商店がありました。
隠れ家のような雰囲気が個人的に好きでしたが、
その面影を見つけるのは難しい状況です。
今後は住宅がどんどん建ち、さらに景色が変わるのでしょう。
複合商業施設の開発に伴い、「中岩瀬遺跡」の発掘調査が実施されたのですが、
古代の人々が目にしていた景色とは異世界であることは言うまでもありません。
自分が親しんだ地域が、こんな形で変わるとは思いもしませんでした。
田んぼの真ん中を通る小さな道を同級生と自転車で走り、
「ツタヤ」方面へ行ったのは遠い記憶です。
もう一度、あの頃の景色を目にしたくても見らない。
戻りたくても、あの頃の感性には帰れない。
懐かしさと寂しさが入り混ざっても、あの頃という歴史を知っているから前を向くのでしょう。
かつて小松工業団地から見えた羽生第一高校の校舎は複合商業施設に遮られ、
いまの岩瀬は夜になれば明るい光りに包まれています。
※最初の写真は複合商業施設ができる前の光景