クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の“岩瀬”を過去の記憶と比べると……

2020年08月30日 | 近現代の歴史部屋
羽生市の岩瀬地区が別世界のようになっています。
というのも、複合商業施設がオープンしたからです。

以前の景色を知っている者にとっては別世界でしょう。
広がっていた田んぼは店舗になり、あぜ道は車が何台も通り過ぎるアスファルトに変貌。
小さな排水路は拡大されると同時に、
羽生第一高校の北側を流れる早生田堀はアスファルトの下に……。

岩瀬地区の特徴の一つは、学校が多いことではないでしょうか。
羽生第一高校をはじめ、羽生南中学校、岩瀬小学校、埼玉純真短期大学が建っています。
元々岩瀬小学校があったのは、現在の岩瀬公民館のところです。

また、埼玉純真短期大学の正門前を流れる排水路は、
太平洋戦争時に早稲田大学の学生たちが勤労奉仕で掘削したものです。
ゆえに、「早生田堀」という名前がついています。
「学生」にゆかりのある堀と言えるでしょう。

おそらく、学校一つができるたびに景色が変わったはずです。
田畑だったところに建物が建つのですから、
それはその当時の「現代」の象徴のように目に映ったと思われます。

道路もまたしかりです。
岩瀬地区を通る国道122号は、元々町中を走っていました。
それを現在のような形で新設されたのは昭和49年のことです。
この工事に伴い「念仏堂遺跡」の発掘調査が実施され、中世の遺物が出土しました。

また、国道122号沿いに小松工業団地の工場造成が始まったのは平成3年で、
これは僕も目の当たりにした地域の歴史です。
僕が中学生になった頃に一気に建物の建設工事が始まったのを覚えています。
それまでは田んぼの小さな道を通り、羽生第一高校の北側にあった書店「文栄堂」へ行っていたのですが、
景観がすっかり様変わりしました。

南中学校の前には南部幹線の陸橋が架かり、その向こうにできた遊水池。
羽生栗橋線こと埼玉県道84号の開通は平成4年のことで、
僕にとってこの道路は「川」に似た感覚でした。
羽生の「町」へ行くには、この川を越えなければならなかったわけです。
南中学校も羽生第一高校も健在ですが、
相次ぐ開発によって校舎がいささか小さく見えるのは気のせいでしょうか。

先日、埼玉純真短期大学で講義をする機会があり、改めて岩瀬地区の歴史を調べました。
隔世の感を否めません。
中学生の頃から何かと縁のあった岩瀬です。
親しい部活仲間は岩瀬が多かったですし、
高校生の頃は岩瀬に住む同級生とよく一緒に帰っていました。
そのため、1990年代の景色はいまでも覚えています。


その頃に比べたらまるで別世界です。
さすがに愛宕神社や岩松寺、岩瀬公民館などは変わっていませんが、
国道沿いに新しい店が建ち、田んぼだったところに羽生病院がそびえたっています。

むろん、なくなったお店もあります。
国道沿いにあったそば屋さんや交差点にあったガソリンスタンド。
高校近くの商店や精肉店。
岩瀬公民館から南へ向かったところには商店がありました。
隠れ家のような雰囲気が個人的に好きでしたが、
その面影を見つけるのは難しい状況です。

今後は住宅がどんどん建ち、さらに景色が変わるのでしょう。
複合商業施設の開発に伴い、「中岩瀬遺跡」の発掘調査が実施されたのですが、
古代の人々が目にしていた景色とは異世界であることは言うまでもありません。
自分が親しんだ地域が、こんな形で変わるとは思いもしませんでした。

田んぼの真ん中を通る小さな道を同級生と自転車で走り、
「ツタヤ」方面へ行ったのは遠い記憶です。
もう一度、あの頃の景色を目にしたくても見らない。
戻りたくても、あの頃の感性には帰れない。
懐かしさと寂しさが入り混ざっても、あの頃という歴史を知っているから前を向くのでしょう。
かつて小松工業団地から見えた羽生第一高校の校舎は複合商業施設に遮られ、
いまの岩瀬は夜になれば明るい光りに包まれています。

※最初の写真は複合商業施設ができる前の光景
コメント (4)
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図書館に咲く高嶺の花は……

2020年08月22日 | コトノハ
浜田久美子著の『日本史を学ぶための図書館活用術』(吉川弘文館)は、
日本史について調べるための辞典類が紹介されています。
本書の「はじめに」で、「日本史初学者に向けた図書館活用術である」と述べられているように、
辞典・年表・注釈書など、多くの図書館が蔵書しているものが取り上げられているわけです。

「図書館活用術」とは言いますが、蔵書派ならば手元に置きたい本ばかりではないでしょうか。
僕も蔵書派です。
線を引き、書き込まなければ「読んだ」とは言えない厄介な性分です。
可能ならば蔵書したい。
自分の近くに置きたい。

が、いずれも「手軽さ」とは程遠いものです。
例えば、「日本史辞典の王様」と呼ばれる『国史大辞典』(吉川弘文館)は15巻17冊もある圧倒的ボリュームを誇っています。
しかも、1冊が重い。
気軽にカバンに入れ、電車の中で読む……という人はほとんどいないでしょう。

むろん1冊完結のものもありますが、多くが重厚感のあるものばかりです。
カバンに収まればいい方で、収まったとしても他の荷物がほとんど入りません。

そんな類の本を蔵書するのは決して楽ではありません。
スペースはとるし、お金もそれなりにかかります。
それに、「読む」というより「調べる」ための本。
家族みんなが使う、と言うにはいささかハードルが高く設定されます。

20代のはじめ、そんな本を蔵書し、自分の本棚に並べることは憧れでした。
インターネットが普及し始めた頃でしたが、
紙ベースの書物をこよなく愛していましたし、スマホを持ついまも変わりません。
あの頃の憧れとして図書館にあったのは、

『国史大辞典』
『大日本史料』
『古事類苑』
『群書類従』
『国史大系』
『日本史大辞典』
『日本語大辞典』
『大漢和辞典』
などなど。

それはまさしく「高嶺の花」とも言うべきものでした。
拒まれはしませんが、距離を縮めることができません。
会える場所は図書館や古書店など限られており、自分とは釣り合っていないような……。

そもそも、それらを蔵書したところで、自分がどこまで使えるか甚だ疑問でした。
死蔵になる可能性も大。
積読は避けたいところで、僕は本を“読む”のではなく、“使用”したいという思いが強くありました。

とはいえ、それが自宅にあったらカッコいいだろうなぁという思いは拭えません。
『古事類苑』を最初から最後まで読み通すという作家の京極夏彦。
小説を書き始めると、古書店街からそのテーマの本が全て消えると言われた司馬遼太郎。
作家に限らず、博覧強記の学者や在野の研究者の逸話などに触れると、
そんな大人がとてもカッコよく見えたものです。

こうも思いました。
そんな大人になりたい、と。
将来は本を使う仕事がしたい。
本の匂いのする大人になりたい、と。

具体的にそれがどういう職業/仕事なのかはすぐに思いつきませんでしたが、
物書きはその一つでした。
ある歴史作家が、歴史系原稿を書くならば『国史大辞典』が手元にあった方が便利である、少し無理をしてでも買い揃えた方がよいという文章を読んだせいもあるかもしれません。
それは、職業にしたいというのではなく、仕事にしたいという意味だったと思います。

案外、そういう気持ちは大切かもしれません。
特に若いときに受けた刺激は、その後の人生の方向を決めかねないからです。
事実、『国史大辞典』や『国史大系』を見上げて抱いた20代のときの想いは、いまなお生きています。
胸の内に燃え続け、いまのところ消える気配はありません。
あの頃の自分がいまを見てどう感じるかはわかりませんが、
夏の図書館で『広辞苑』を使いながら原稿を書き、大人になっても書き続けたいという想いは、いまも裏切っていないと思います。

何にときめくか。
どんなものに憧れるか。
心惹かれる感性はその人だけのものです。
どんなに仲のいい友人でも、ときめきや憧れが同じとは限りません。
だから、そういう自分だけの“気付き”を大切に持っていた方が、
多かれ少なかれ人生に彩りを与えるのではないのでしょうか。

ところで、本は望んでいる人のもとのところにやってくると言いますが、
実感するコトノハの1つです。
気が付けば、20代の頃に憧れた高嶺の花が手元にやってきたものもあります。
空腹を抱えて身銭を切ることもあれば、
人との縁を通して手元にやって来たものもあります。
不思議とその一つ一つにドラマがあるものです。

時代が進み、先に挙げた本の中にはインターネットで見られるものもあります。
つまり、図書館へ行かずとも、あるいはわざわざ蔵書せずとも活用できるわけです。
辞典類は時が経つごとに古さが増していきます。
現在の考え方と異なるものもあります。
活用方法が変わっていくことは免れません。
インターネットの時代を迎え、高嶺の花は「身近な友だち」になったでしょうか。

時折、自分を見失うときがあります。
相手に悪意はなくとも、齟齬によって傷つき、心を損ねることがあります。
そんなときは、上に挙げた本を目に入ることさえ嫌になります。
図書館には行かず、手にした蔵書を全て捨て去りたくなる衝動に駆られることも。

しかし、見失った自分を取り戻すのも、あの頃に憧れていた本のような気がします。
あの頃ときめいていたもの、なりたかったもの、手にしたかったもの……。
心を損ねることで視点が変わるのでしょう。
いつの間にか見えなくなっていたものに気付かされるのです。

僕にとって、高嶺の花はいまなお手に届き難い存在です。
所有したいという想いとは異なります。
それは本越しに思い描く夢なのかもしれません。
手にしたものや逆に失ったもの。
いまなお追い続けているもの。
高嶺の花は変わらず美しくもあり、どこか切なく目に映るのです。
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戦時下、北埼玉にも爆弾や弾丸の雨が降った?

2020年08月14日 | 近現代の歴史部屋
昨夏、古写真集『行田・加須・羽生の昭和』(いき出版)の原稿執筆の際、
戦時下の古写真を多く見ました。
北埼玉にも間違いなく「戦争」の波は押し寄せており、
多くの人が戦場に駆り出され、おびただしい数の命が失われたことは事実です。

本土空襲においても無関係ではありません。
北埼玉にも「敵機」が襲来するようになったのは、昭和20年のことです。
それまでは、東京大空襲のように都市部に敵機が襲来していましたが、
やがて地方都市にも目が向けられるようになったのです。

昭和20年2月10日の夜、現行田市の埼玉村に爆弾3個が投下。
2戸の家屋が倒壊し、9名が亡くなりました。

同月25日の正午頃、今度は羽生方面に敵機が来襲。
利根川に架かる東武伊勢崎線の鉄橋目がけて爆弾が投下されました。
しかし、これは外れて利根川に落下。
本気で鉄橋を狙うつもりはなかったのではないか、と言う古老もいます。

午後2時頃には井泉村(現羽生市)に敵機が現れ、爆弾1個が投下されました。
そのほか、下村君(同)に200発を超える油脂焼夷弾の雨が降っています。
村君地区はのどかな地域ですが、
現存する前方後円墳には防空壕跡が確認でき、戦争の爪痕がはっきりと残っています。

7月18日、加須の龍蔵寺付近に敵機が現れ、いきなりの機銃掃射。
また、同月28日には羽生町の羽生ゴム株式会社の第二工場が機銃掃射を受けました。
これにより、住民一人が亡くなっています。
同じく、手子林の帝国糸業岡戸工場にも弾丸の雨が降りました。

8月14日に熊谷が大空襲を受け、多くの死傷者を出したことは周知のとおりです。
同日、行田でも多くの焼夷弾が投下され、各村合わせて40戸を超す家屋が全焼しています。
また、その翌日に悲劇が起こりました。
前夜に投下された焼夷弾に触れ、死者5名、負傷者5名が出てしまったのです。

このように、各地域で敵機が現れ攻撃を受けています。
被害がゼロだった地域はあるものの、緊張を強いられたことは間違いありません。
「田舎」だからと言って、決して弾丸や爆弾と無関係というわけではなかったのです。

ちなみに、敵機が墜落するという出来事が起こり、その一つに群馬県大泉町があります。
当時、学生だった羽生在住のS先生の話によれば、
敵機来襲により、礼羽(現加須市)で電車が急停車。
S先生を含め乗客は電車から飛び降りると、物陰に隠れます。
先生が隠れたのは礼羽の千方神社の物陰でした。

敵機は来襲ではなく、様子がおかしかったとのこと。
やがて上空を通り過ぎ、北へ向かって飛んでいきます。
先生は神社境内からその様子を眺めていると、
やがて飛行機は墜落したそうです。

すると、翌日学校で急遽行われたのは墜落現場の見学会でした。
「戦争」を間近に目にし、また軍国精神を鼓舞する狙いがあったのでしょうか。
加須から歩き、川向こうの大泉町まで行ったということです。
緊迫する戦時下だったことは確かです。
ただ、墜落した敵機を徒歩で見に行くなど、どこかのどかさも感じてしまうのは僕だけでしょうか。

戦時下の空気は、おそらく経験した者でなければわからないのでしょう。
古写真は戦争の一場面を記録しています。
ある亡くなった写真家が言っていました「写真は記録なのだ」と。
時は流れ、写真も次第に色褪せていきます。
しかし、一枚の写真が伝える記憶と記録は、年を追うごとに重みを増しています。
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夏休み、羽生図書館が終わったそのあとで ―深谷上杉氏の小泉城攻め―

2020年08月09日 | 戦国時代の部屋
夏休みの羽生図書館で閉館時間まで勉強したあと、
利根川へ行くのがお決まりのコースでした。
高校生最後の夏。
1日中館内に籠っていただけに、高い土手に登って吹き抜ける風に当たりながら眺める利根川は、とても開放的に感じたのを覚えています。

そして、その帰りに羽生市役所近くのそば屋へ寄り道。
利根川で過ごしたせいもあるかもしれません。
その店で食べるそばは絶品で、注文するのはいつも大盛でした。
“ざるそば”と“もりそば”の違いがノリの有無と知ったのもその店です。
勉強して、川で遊んで、グルメで締める。
時間に追われる日々でしたが、出来事の一つ一つが熱を帯びていた夏だったように思います。

家に着くのはおおよそ19時15分で、
再び机に向かって広げる『菅野日本史B講義の実況中継』や『日本史B用語集』はとても刺激的でした。
ずっと読み続けたい本でしたし、参考書をそんな風に思えるのはほかになかったかもしれません。
いまも「読書」として読み返すことのできる参考書です。

ところで、いまから約5百年前の戦国時代においても利根川は流れており、
交通や軍事として重要な存在でした。
当時は軍事的理由から恒常的な橋は架けられていません。
したがって、川を渡るには舟橋を架けたり、浅瀬を歩いたりしなければならず、
大軍であるほど川の状態によって行動が規制されたのです。

洪水が起これば、むろん動けません。
武田信玄も北条氏康もそのために進軍を見合わせることがありました。
「利根川無渡候上者、後詰之擬別ニ無了簡候」と、武田信玄が佐野昌綱に伝え(「渡辺(茂)家文書」)、
「氏康者号大神所迄出陣、洪水故于今進陣無之候」と、小田氏治が白川義親に状況を報告したように(「東京大学白川文書」)、
軍事事業に支障をきたし、延期せざるを得なかったのです。

また、春先は融雪によって川が増水し、渡河を困難にさせます。
羽生城救援へ向かった上杉謙信が利根川に阻まれ、大輪(群馬県明和町)で足止めを余儀なくされたことがありました。
せめて物資だけでも羽生城(埼玉県羽生市)へ送り込もうとしますが、
これを担当した「佐藤筑前守」が地形を見誤り、失敗に終わったことはよく知られています(「東京大学文学部所蔵謙信公御書集」)。

坂東太郎の異名を持つ利根川です。
関東を舞台に合戦を繰り広げた上杉謙信、北条氏康・氏政父子、武田信玄は少なからず利根川の影響を受けています。
そんな利根川を背にして敵城に攻め込んだ深谷城勢が、敗北した上に溺死するということがありました。
背水の陣ゆえの結果です。

深谷上杉勢は利根川を越えて小泉城(群馬県大泉町)へ出撃。
ところが、城方の抵抗を受けて数多討ち取られます。
無理な力攻めは得策でないと判断したのでしょう。
深谷城主上杉憲盛は撤退を下知します。

すると、反撃するかのごとく小泉城では追撃の兵が出撃します。
深谷城へ戻るには利根川を渡らなければなりません。
進めば坂東太郎、引き返せば小泉城勢。
そんな状況が展開されました。

そして、退路を断たれた深谷城勢の多くは川に飛び込んだのでしょう。
無事に渡河する者もいれば、溺死する者も多くいました。
この合戦の知らせを受けた謙信は、小泉城主富岡氏に宛てて次のような書状を送っています(「冨岡家文書」)。

 従深谷至于其地、被成懸動之処、引付突而出、凶徒数百討捕、残党利根河へ逐入之由、其聞候、心地好候、乍不初儀、戦功無比類候、弥相挊簡要候、猶河田豊前守可申遣候、謹言
   卯月十日              輝虎(花押)
       冨岡主税助殿

深谷上杉勢を数百人討ち取ったあと、その残党は利根川へ入水したことを聞き「心地よし」と喜びを表す謙信。
初めてのことではないにせよその戦功は比類がないと誉め、いよいよ尽力せよと結んでいます。

このように、戦国時代において利根川で命を落とす者は少なくなかったと思われます。
先述した上水謙信の羽生城救援の際、物資を送り込もうとした佐藤筑前守は、
三十艘の船を「一船」にして渡河する予定でした。
この「一船」を“一線”と読むか、“一勢に”と捉えるか悩ましいところですが、
敵の妨害にあい、謙信に「一世中之不足おかき候事」と言わしめています。

この敵の妨害にあったとき、利根川に水没する者がいたとしても不自然ではありません。
命を落とす者もいたでしょう。
羽生城救援に向けた動きは、
例え干戈を交えずとも、犠牲になった者が皆無ではなかったと思われます。

利根川を舞台に戦国大名や国衆たちが火花を散らしてきたわけですが、
高校生最後の夏に眺めた利根川に、そのような視点は持ち合わせていませんでした。
羽生城の存在を知ってもその歴史はわからず、
利根川を舞台に謙信の救援失敗があったことなど、見たことも聞いたこともなかったのです。
図書館で勉強した古典の余韻にひたり、土手の上で「いとあはれなり」と口にするくらいです。
もし、郷土の歴史を知っていたら、選ぶ進路も変わっていたかもしれません。

あれから短くはない時間が流れ、色々なものが変わっていきました。
一緒に利根川へ行った同級生と顔を合わせることもなくなっています。
あの頃、図書館へ行けば勉強している同級生の1人や2人がいたものですが、
いまはそれぞれの日常を過ごしているということでしょう。

むろん、上杉謙信や後北条氏が生きた時代は遠い昔です。
利根川はいまも流れていますが姿を変えています。
流路さえ変わっているのですから。

僕はいま41歳の日常を過ごし、あの頃知らなかった人たちがそばにいます。
変わらないのは、利根川帰りに食べたそばの味でしょうか。
太くてコシの強いそば。
時代の流れはどんどん早くなっていますが、自分が親しんだ変わらぬ味があるというのはいいものですね。
そして、夏の利根川帰りにそばを食べたくなる自分自身も、
根本的には変わっていないということなのでしょう。
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席向かいの小説準備家

2020年08月02日 | ブンガク部屋
手に取ること自体、本からの声を無意識に受け取っているのかもしれません。
そこで目に留まったのは、チクチクと胸に痛いコトノハ。

 我々研究者にとって、まともに研究できるのは二〇~三〇年くらいしかない、この間、大きな研究テーマを追求するのは、一~三程度しかできないであろう。そのなかでの小さなテーマだけをとってみても最低二~三年を要すると考えれば、生涯に真剣に取り組める小テーマでさえしょせん多くはないのである。(中略)ボルテージの最も高いうちにまとめるべきであって、もう少し勉強してからということで延ばしていったら、結局そのままになってしまう場合が多い。
(矢田俊文記「「研究すること」と「活字にすること」」より。『矢田俊文著作集第四集 公立大学論(下)平成の大学改革の現場実践録』社原書房収録)

鉄は熱い内に打てとはよく言ったものです。
そのときにしか書けないもの、
そのときでしか伝えられないものは確かにあります。

あとでじっくり腰を据えてやればいいと思っても、
いつの間にか熱は冷めてしまうもの。
あれほど全身で求めていたのに、その情熱は手の平をすりぬけ、二度と摑まえることができない。
そんな経験は多々あります。
「一期一会」は人との出会いに限らず、自身の胸の内に湧き起こる感情にも言えることです。

ところで、自分を棚に上げてふと思い出すのは、かつて僕の近くにいた小説準備家です。
彼は小説を書くための準備をしている人でした。
「彼」と呼ぶには失礼にあたるほど年が離れていましたが、とても若く見えたのを覚えています。

真面目な人で、1つの文芸作品を繰り返して読んでいました。
自分の血肉になるほど読み込まなければ「読書」とは言えない。
席向かいでそう言っていたのを聞いたことがあります。
繊細な人で、胸の内に抱えるものがあり、その人にとって文学は心の拠りどころだったかもしれません。

そんな彼に僕の作品を読んでもらえないかお願いしたことがあります。
「誰かの感想をもらうといいよ」と別の人からアドバイスがあったので、
思い切って彼に声をかけたのです。

すると、予期せぬ言葉が返ってきました。
「あなたの作品は読むに値しない。だって評価を受けていないじゃないか」。

当時、僕は煮詰まった状態でした。
何をやっても結果が出ず、行き詰まり、閉塞感を強く感じていた頃です。
そういうときは、選ぶものもおおよそイレギュラーです。
通常であれば選ばないものを選び、声をかけないひとに声をかけてしまうものです。

そのときもそうだったと思います。
普通に考えれば、僕の作品を読んでもらうことはその人にとって負担の何ものでもありません。
そのことに思い至らなかったのですから、当然のしっぺ返しでした。

そんな彼は小説家の卵でした。
小説を書こうとしていました。
一つの作品を熟読するのは、創作の勉強のためでもあったのです。
その作品の感想や評価を文章にし、仲間内で発表。
勉強熱心な彼をみんなが感心し、評価もしていました。

が、彼の書いた小説はいつになっても目にすることはありませんでした。
感想文以外にも書いていた文章があります。
それは彼の身辺を綴ったもので、構成はなく、肉付けされた登場人物もなく、
あえてそのように意図して書かれたわけではないことは明らかでした。
それを「作品」と呼ぶには疑問でしたし、彼もそう言っていたわけではありません。

そのまま歳月が流れていきました。
変わらないのは勉強に対する熱意です。
小説の準備。
その力の入れようは誰よりも勝っていたと思います。

ロラン・バルトの『小説の準備』という書物があります。
僕はそのタイトルを目にするたび、ふと彼の顔が思い浮かぶのです。
彼の小説の準備に対する情熱を形にすれば、同様のタイトルの「作品」が完成するのかもしれません。

実は、彼はすでに何作もの小説を書いていたのではないか。
そう思うことはあります。
たまたま僕の目に入ることがなかっただけのことで、書き上げた小説があった。
それを仲間内で回し読みしていた……。

その真相はわかりません。
いまとなっては僕の日常から遠い人です。
彼の勉強熱心さと「読むに値しない」と返って来たコトノハ。
彼は「読むに値」する文章を書いたのかどうか、どちらにせよ心の琴線に触れないものです。

準備は必要です。
問題なのはいつスタートを切るかです。
見切り発車する人もいれば、三島由紀夫のように緻密に構想を練って書き出す人もいます。
どのタイプに属するのか、それもやってみなければわからないことでしょう。
矢田俊文氏は、研究においても同様の問題があることを述べています。

 一つのテーマに取り組んだとしても、いつまとめにはいるかが問題である。まだまだ読まなければならない文献がある、必要な資料が十分に集まっていない、一生懸命考えてもうまくまとまらない、などの現実にいつも直面する。テーマに真剣に取り組めば取り組むほど、また、自分に対して謙虚であればそれだけ、途中でまとめることに躊躇してしまう。
(前掲書)

僕個人としては、骨格ができ次第スタートする方です。
どんなに準備をしても、実際に動き出せば、予期せぬものが必ず出てくるものです。
走りながら必要に応じて「準備」をする。
そしてまた走り出す。

骨格さえしっかりしていれば、道に迷うことはありません。
思わぬ着地点が見えても、軌道修正は可能です。
逆に、骨格がないと方向性を見失い、泥沼にはまり、リタイアを余儀なくされることがあります。
例えばテスト勉強にしても、教科書を読み込むインプットに時間をかけても、
問題集を解くアウトプットをしなければ、
何がどう問われるのかわからず結果を出せないのと似ているのではないでしょうか。

ボルテージが高まったら、ある程度見切り発車でもいいのかもしれません。
心が熱い内が、人生で最もそれに惹かれているときなのでしょう。
何歳になったら始める。
時間に余裕ができたらやる。
何かとそう口にしがちですが、実際にその時が来ても、関心が持続しているとは限らないのですから。
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