クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“ムジナモ”はどこに嫁いでいく? ―さいたま水族館―

2010年05月30日 | 子どもの部屋
今日5月30日、ぼくは“さいたま水族館”にいる。
あるイベントに参加。
その名も「食虫植物ムジナモを育ててみよう!」

“ムジナモ”とは何なのか?
ムジナモは一体どこにいるのか?
そんな説明を、「いつも」「ニコニコ」「元気よく」なテンションで、
ビデオを流しながら話させてもらう。

もちろんぼくだけではない。
さいたま水族館の人や、ムジナモ保存会の人も一緒で、
「ムジナモの育て方教室」が開催されるわけである。

教室は1日3回。
事前の申し込みが必要なのは、
ムジナモの株を配布するため(5月19日で締め切られた)。
今年は天候不順でムジナモもその影響を受けているのだが、
特に元気のいいムジナモを嫁がせていく。
10月24日には、水族館と隣接する宝蔵寺沼に放流する予定だ。

このイベントはあくまでも、“さいたま水族館”さんが主体。
同館の「春の特別展」の広告にあるとおり、
ぼくはそれに協力するという形だ。
(こう書くと、なんだかムジナモのお兄さん(?)みたいだが……)

でも、ここ数ヶ月一緒に過ごしたムジナモを、
来館者に渡すというのは、娘を嫁にやるような気持ちである。
少しの寂しさはあるが、
ムジナモが幸せに育ってくれればそれでいい。
みんなに愛されるムジナモであってほしい。
まるで父親気分。

水面をのんびり浮かんでいるムジナモだが、
どうかみんなに幸せを運んできてほしい。
幻のムジナモの花は、
幸せを運ぶ白い花だと信じている……



幻のムジナモの花



さいたま水族館(埼玉県羽生市三田ヶ谷)
http://www.parks.or.jp/suizokukan/



羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html
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斗南先生よ、どこへ行く? ―中島敦と「斗南先生」―

2010年05月28日 | ブンガク部屋
“中島撫山”撰書の碑が、
羽生市内にいくつか建っている。
撫山(ぶざん)とは、作家“中島敦”の祖父である。

高校の国語の教科書で、「山月記」は読んだだろうか?
虎になった李徴の哀しい小説だ。
その作者が中島敦で、
幼少時代は撫山が久喜で営んでいた塾で一時期過ごしていた。

中島敦の作品の中で『斗南先生』という小説がある。
実は、中島一族は漢学一家で、
斗南先生は実在した敦の伯父をモデルにしている。
小説では愛すべき人物かもしれないが、
実際に近くにいたら、そばに寄りたくない人物でもある。

斗南先生をひと言で言えば偏屈。
儒者で優秀な人らしいが、
「一生、何らのまとまった仕事もせず、志も得ないで、世を罵り
人を罵りながら死んでいった」という。

敦の筆は次のようにも語る。
「伯父は、人間の好悪が甚だしく、気に入らない者には新聞も読ませない」
「質的にはすこぶる強烈であるが、時間的には甚だ永続的でない。移り気なのである」
「敬われはしたかも知れないがついに誰にも愛されず、孤独な放浪の中に一生を送った」
「一生を焦燥と憤懣との中に送った」

例えば、生徒でも弟子でも、
こんな男から命令をされる立場にいたら、
全てをねじ曲げさせるだろう。
何かが順調に運んでいても、
介入しただけで歪にしてしまう。

なぜなら、「人を罵る」彼は、
人の心を掴めないからである。
はなから人の心に歩み寄ろうとしない。
学問的に敬れはしても、誰にも愛されないのは当然である。
人と人との関係に角を立たせ、
空気も読めなければ、時代も読めない。

学者ならば、そんな気質が要素としてあってもいいのかもしれない。
しかし、斗南先生は「まとまった仕事」を残していない。
大層なご批判や、最もらしいことを言うのだろうが、
「仕事」を残さなければ机上の空論である。

聞く耳持ってもただの「参考意見」。
百歩譲って学ぶとすれば、
その言葉の逆のことをすればいいということ。
「一生を焦燥と憤懣」に生きたくなかったら、
反面教師として大いに参考になるだろう。

人の心を掴めない斗南先生は孤独に死んでいく。
先生は居を変えたり、移動好きだったらしいが、
例えば一つの場所で何十年と教鞭を執り、
権力でも持とうものなら、優秀な塾でも腐っていく。

気分屋の先生に翻弄され、
生徒や弟子も寄りつきはしない。
ついたとしても、人間として敬うことなどあるのだろうか。
「人を罵る」彼は、逆に罵られることを意味している。

媚びを売るとか、愛嬌を振りまくことが人心掌握ではない。
人の心を鷲掴みすることはできない。
べったり寄り添うこともできないければ、
本当の理解など、それこそ机上の空論なのかもしれない。

つまるところ、誰もが孤独を抱えているのだ。
一人の人間を“人”として見ること。
優秀な斗南先生も、「人間が希望」(『カイジ』)という摂理には到らなかったのだろうか。
「誰からも愛されず」という中島敦の言葉が、
いろいろなことを象徴している。

誤解のないように言っておくが、
『斗南先生』は“小説”である。
モデルになった人物はいても、
それがそのまま書かれたわけではない。
あくまでも創作上の人物の話。

それに、前述したように、小説の人物として読むなら、
斗南先生はある種の魅力を放っている。
小説で最も退屈な登場人物は「普通の人」。
斗南先生は興味深く読めるだろう。

では、あなたは斗南先生タイプを知っているだろうか。
作家的視点で筆を執ったら、
案外面白いものが書けるかもしれない。
あるいは、中島撫山撰書のような碑が建つだろうか。
斗南先生は何も残さなかったが、
中島敦の筆によっていまでも脈々と生きているのだから……




中島撫山邸址(埼玉県久喜)
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“龍馬伝”の音楽と“魔界島”のBGM

2010年05月27日 | コトノハ
2010年の大河ドラマ「龍馬伝」は好きだ。
まだ放送中だが、これまで見た好きな大河ドラマベスト5には入るだろう。

映像も細部にこだわっており、
映画を観ているような感覚である。
制作者側の熱意がビシビシ伝わってくる。

歴史のうねりに巻き込まれていく展開が好きだ。
だから、幼少時代や人格形成期はすっ飛ばす傾向にある。
いろいろな人物の思惑や葛藤、挫折、夢……
ドラマだから“史実”ではなく、“人”が見たい。

ところで、ドラマで重要な要素を占めているのは“音楽”。
音楽の良し悪しによって、その作品は大きく左右される。
「龍馬伝」の音楽は好きだ。
音楽担当は“佐藤直紀”。
製作スタッフ的に彼が抜擢されるだろうという噂があったらしい。
大宮の氷川神社の参道で、そう聞いたことがある。

どんなに作品の質が高くても、
音楽が悪いと全てを台無しにする。
ひどいのは、音楽ではなく、
ただの“音”ではないかと思うものもある。
「全ての芸術は音楽に嫉妬する」という言葉があるように、
音楽の重要性はかなり高い。

ちなみに、幼い頃に親しんだ“ファミコン”にも同じことが言える。
どんなにゲームが面白くても、
そこに流れるBGMがひどいと興醒めだった。
良いか悪いかは別として、「スーパーマリオ」がヒットしたのは、
一度聴いたら耳から離れないあの軽快なBGMが、
一役買っているだろう。

個人的に、ゲームBGMで好きな会社は“カプコン”。
管見だが、プレイしたカプコンのゲームで、
ハズレと思ったことは一度もない。
BGMのよさがゲームの面白さを格段に高めている。

「魔界島」は、忘れられないカプコンのゲームソフトのひとつ。
「魔界村」の姉妹版のようだが、内容はまるで違う。
そこに流れる音楽は、ゲームサウンドとするには勿体ないと思うのも少なくなかった。
特に、ラストステージに流れるBGMは、
ぼくにとっては神曲である。
ファミコンの音ではなく、アレンジしてCD化してもいいと思う。

「魔界島」で遊んだあと、友だちとカブトムシ取りに行った。
ゲームのあとの外出は、
現と異界の狭間にいるような、
世界がどこかぼんやりしていたのを覚えている。

いま「魔界島」のラストステージBGMを聴きながら史跡を巡ったら、
どこかに隠し扉が開いているだろうか。
もしその中に入ったら、
どんな世界に繋がっているのだろう……
ラストボスに出会ったなら、
とりあえず記念写真を撮っておきたい。


http://www.youtube.com/watch?v=7IC_ajgMmmI&feature=related
ユーチューブで聴く「魔界島」の神曲
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雨の日の“岩瀬公民館前バス停”から、どこかへ行きませんか?

2010年05月26日 | ブンガク部屋
雨が降ると、なぜか行きたくなる場所がある。
“岩瀬公民館前バス停”もその一つ。

休日の雨ではない。
平日の雨がポイント。
同じ雨でも雰囲気はまるで違う。

岩瀬公民館前バス停は、これといって何もない。
わざわざ足を運ぶようなところではないし、
雨が降ったからと言って、
ネコバスが停まるわけでもない。

だけど、なぜか惹かれる。
これはもうぼくの好みと言うほかない。
なぜ惹かれるのかよくわからない。
ポツンと佇むベンチがいいのか、
それともその背後に広がる田んぼがいいのか……

かつて、雨が降ると“川俣締切址碑”と、
“誰もいない坂道”に行きたくなっていた。
前者については、引堤工事で“はにゅう道の駅”の隣に移ったため、
もうほとんど呼んではいない。
土手下に埋もれるように建つ雰囲気が好きだったのだ。

後者は、桶川で目にした。
誰もいない荒川の土手だった。
だから、どちらかというとその2つはいま下火である。

ところで、“岩瀬(いわせ)”という地名は古利根川に由来している。
『新編武蔵風土記稿』には、

 会の川は、古へ利根川にて、殊に昔しは流れも広く、
 当村もかの川に添たる地なりし故、岩瀬の名は起りしなるべし

とある。
「会の川」はかつての古利根川であり、
川俣で二つに分かれていたもう一つの流路だった。
いまではコンクリートで護岸された小さな川だが、
往古は大河だったのだろう。
舟が行き来していたに違いない。

『夫木集』に“岩瀬の渡”という言葉が見える。
『夫木集』とは、鎌倉時代に編纂された和歌集。
その中に、次の歌が収録されている。

 五月雨は岩瀬の渡り浪こへて、みやさき山に雲そかかれる

「あっ」と思う。
雨、である。
歌の中に雨が降っている。
岩瀬と雨はよく似合ふ……といったところか。

とはいえ、上の歌が羽生の岩瀬を詠ったものかは不明だ。
かつては岩瀬の渡場跡として、
史跡に指定されていた場所があったのだが、
断定できないとして解除となった。

ただ、渡し場があったことは確かだろう。
“おりっと”“あがっと”と呼ばれている場所もある。
誰もいない渡し場に雨がそぼ降るとき、
どんな光景だったのだろうか。

岩瀬公民館前バス停は、川から離れている。
しかし、後ろの田んぼに水が引かれたせいか、
渡し場のような雰囲気になっている。
そんなところに、たぶん惹かれるのだと思う。

何度も言うが、特に何もないバス停である。
ネコバスも来なければ、トトロもそこで待つことはないだろう。
トトロに会ったなら、それは夢か幻か……。
そんな夢なら見てみたい。

ちなみに、“夢占い”に「バス」や「バス停」はないが、「駅」はある。
夢に登場する「駅」は、急激ではない変化を求める心、
新しい仕事や人生上の決定を象徴するという。
どんな電車や、どの方角に向かうかによって、
その求める人生は異なるらしい。

そして、「雨」は吉夢か、何かを暗示・警告。
もし夢の中に、雨降る岩瀬公民館前バス停が現れたら、
ぼくはどんなバスに乗り、
どこへ向かうのだろう……



最初の画像は“岩瀬公民館前バス停”。
残念ながら雨は降っていない。
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「龍馬伝」、武市半平太の“妻”は何を想う?

2010年05月25日 | 近現代の歴史部屋
「龍馬伝」に登場する武市半平太の妻“富子”は、
もの静かな佇まいながらも、
芯の通った女性として描かれている。
彼女もまたサムライなのだろう。
武士の妻である。

土佐勤王党を立ち上げ、尊皇攘夷を過熱させる夫。
しかし、その勢いは長くは続かない。
山本容堂の弾圧によって土佐勤王党は瓦解に向かう。
そして、半平太は投獄されることになる。

「龍馬伝」では、朝餉を挟んで夫と向き合う富子が描かれる。
どこに行かなくてもいい。
ただ、夫と共に平穏に暮らしていければ……

夫が獄中生活を送っている中、
富子は自らを厳しい環境に追いつめて暮らしたという。
その心は夫と共にあった。
例え夫が家に帰らないのだとしても……。
あるいは夫の帰りを待っていたのかもしれない。

しかし、武市半平太は切腹を命じられてしまう。
慶応元年のことだった。

覚悟はしていたに違いない。
もとより武士の妻。
気高くその死を迎え入れたのだろう。
しかし、夫の死を知った彼女は何を思っただろうか。

家財は没収され、苦しい生活が待っていた。
それでもなお、富子の心は夫のそばから離れない。
サムライに二心がないように、
彼女の心も一途だった。

ふと、一人の女性が思い浮かぶ。
その人の名は“橋本多佳子”(1898~1963)。
俳人であり、
亡き夫を愛し続けた女性だった。

大正6年、多佳子は18歳で橋本豊次郎と結婚する。
4人の子どもに恵まれ、幸せな生活を送っていたという。
ところが、昭和12年に夫が急逝。
多佳子が38歳のときだった。
その悲しみにあまりにノイローゼとなり、
心臓発作に見舞われたという。

人の想いの深さはどこから来るのだろう。
恋多き人もいれば、
一人を変わらず想い続ける人もいる。
多佳子は後者だった。
夫亡きあともその想いは深まっていく。

 月光にいのち死にゆくひとと寝る
 曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ
 息あらき雄鹿が立つは切なけれ
 寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き
 雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ
 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

橋本多佳子をモデルにした松本清張の『花衣』では、
夫の恋人がいるという記述があるという。
しかし、上の句には二心のない夫への想いが詠まれている。

人にはいろいろな生き方がある。
二心あろうと一途だろうと、
どちらが正しいわけではないし、
どちらも正しいのだ。
ひとつに留まれないのが人であり、
一途に想い続けることも人の心である。

武市富子も橋本多佳子も、夫に先立たれた女性だった。
寂しさや苦労はあっただろう。
特に富子の辛さは並大抵のものではなかった。
そんな彼女たちに、哀れみの目を向ける人もいるかもしれない。
しかし、夫を深く愛し、
一途に想い続けた彼女たちの心には、
永遠(とわ)の幸せがあったのではないだろうか。


参照文献
正津勉著『刹那の恋、永遠の愛』河出書房新社
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「龍馬伝」、“サムライ”に生きるか“商人”に生きるか?

2010年05月24日 | 近現代の歴史部屋
高知城の見える場所で、
バッタリ会う“武市半平太”と“岩崎弥太郎”。
大河ドラマ「龍馬伝」では、
2人を遭遇させることによって、
両者の生き方の方向性を表していた。

いうなれば、サムライと商人。
当時は水と油くらいに合わないものだった。
忠義のために生きるサムライと、
時代に己を合わせて生きる商人。

「自分に正直に生きろ」と弥太郎は言う。
しかし、武市の「正直」とは何だろう。
彼は彼の信念をもって生きるのだろう。

ところで、「正直に生きる」とは近代的な感覚である。
明治維新前の伝統社会においては、
職業はおろか、結婚も自分の意志では決められなかった。
住む場所や家も決まっており、
それに反した生き方をすれば、
村の共同体から放逐される異分子であった。

しかし、近代社会になると職業や、
配偶者の選択の自由が認められるようになる。
したがって、おのずと目は外に向けられる。

ただ、その分背負うリスクも大きくなった。
選択に伴うリスクである。
山田昌弘氏は次のように言う。

 自由で人生の選択が可能な社会とは、逆に、
 選択に伴う新たな危険に出会う可能性がある社会なのである。
 つまり、選択の結果、人並みの生活すらできなくなる可能性が生じる社会でもある。
 (『希望格差社会』より)

幕末を描く「龍馬伝」では、定義的には伝統社会ということになるが、
日本全体が大きく揺れ動いている時代である。
その中で伝統に生きる者と、
村の枠を超えて生きる者とそれぞれだっただろう。

岩崎弥太郎は「正直に生き」てはいるが、
相応のリスクも背負っている。
龍馬もまたしかりだろう。
しかし、リスクを乗り越えた先には自己実現がある。
「坂本龍馬」、「岩崎弥太郎」という“個”が生きる。
いわば、村の秩序を乱す厄介者は、
“個”として歴史に名を残すことになる。

現代社会はリスクが普遍化し、
また自己責任を負わなければならない社会だという。
「絶対」の保障はどこにもなく、
我々は常に自分で選んでいかなければならない。
自分に正直に生きることもできるし、
伝統に生きるという自由もある。

ただ、ひとえに「自己責任」と片付けられない社会に直面している。
自らリスクを負い、
失敗した者は自己責任の一面もあるかもしれない。
しかし、ハイリスクを普遍的に強いているのが現代社会の特徴だろう。

努力がなかなか報われない時代である。
どんなに努力をしても結果を出せず、
それをひとえに自己責任とするのは、
努力が報われた時代の感覚だ。
ハイリスクを負わせ、努力を報わせなくさせている構造が現代社会にはある。

岩崎弥太郎もリスクを背負って材木を売っている。
材木はなかなか売れない。
しかし、彼は希望を失ってはいない。
すねることはあっても、前向きに生きている。
それが、彼を財閥にさせる原動力にもなっていた。

その原動力を作っていたのは、社会だったか、時代だったか。
時代が大きく変わろうとしていたとき、
武市も弥太郎も龍馬も、
真っ黒な不安を抱えていた。
そんな中、彼らは模索をし、懸命に生きている。
自分を信じ、希望を失ってはいない。

現状に不安や不満を持っていても、
一縷の希望だけは捨ててはいけないのだろう。
希望が現状を変える力となる。
自分を変える原動力となる。

サムライにはサムライの希望、
商人には商人の希望がある。
不安に押し潰されそうになっても、
それをほんの少し上回る希望を持っていたい。
そういう人が増えれば、
この行き詰まった現代社会に風穴があくのかもしれない……
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女子が巡る羽生の史跡は?

2010年05月23日 | 歴史さんぽ部屋
さっちゃんは羽生の史跡に興味津々で、
「巡ってみたい」と言った。
さっちゃんは中学のとき塾が一緒だった同級生。
じゃあ、ゲンパ君(普段そう呼んでいるわけではない)も誘ってということで、
ぼくらは羽生史跡巡りに出かけた。

羽生城(古城天満宮)
 ↓
堀越館
 ↓
源長寺
 ↓
毘沙門堂古墳
 ↓
保呂羽堂古墳
 ↓
堂城稲荷神社
 ↓
岩瀬河原古戦場跡
 ↓
伝徳川家康鷹狩り跡
 ↓
本陣
 ↓
勘兵衛松
 ↓
川俣関所跡
 ↓
道の駅でムジナモ
 ↓
川俣締切跡碑
 ↓
旧川俣駅
 ↓
千手院
 ↓
葛西用水路元圦
 ↓
稲子の伝説
 ↓
避来矢神社
 ↓
御廟堂古墳
 ↓
尾上朝雲生家
 ↓
永明寺古墳
 ↓
延命寺
 ↓
堀の内城跡
 ↓
常木神社
 ↓
蓮台寺
 ↓
お種さんの資料館
 ↓
手子林古城
 ↓
清浄院

車でこれらの史跡を巡る。
車から下りてじっくり見たものもあれば、
ただ通り過ぎたものもある。

かなりマニアックな史跡巡りである。
説明されないと、絶対にそこが史跡とわからないものばかりだ。
伝説も多く、もちろん説明看板が建っているわけでもない。

そんなところを女子二人が巡っている姿は、妙に絵になった。
ガイドブックを作るような気持ちで、
2人に許可をとって写真を撮らせてもらう。

ぼくらが幼い頃に聴いた「みんなのうた」で盛り上がり、
手子林のお寺では中学時代の同級生と偶然会った。
縁は縁を呼ぶものである。
不思議そうにぼくらを見る老爺の姿もあった。

ちなみに、彼女たちの心を一番くすぐったのは“清浄院”。
ここは“羽生領二十一ヶ所札所めぐり”の第十二番目なのだが、
ほかの寺院とはひと味違った赴きがある。
境内はバラで彩られ、
「夢つかみ橋」では彼女たちは何を思いながら渡ったのだろう。

「しのづか」で“メロクリ”を買って食べる。
高校3年生のときよく買い出しに行った店で、
ゲンパ君と一緒に入るのは十数年ぶりということになる。

そんなゲンパ君は中学2年生のときの写真を持ってきていて、
その中には、ファンが多かった女の子のレア写真や、
先日会ったタヌキさんが恋していた子も写っていた。
あまり変わらないと思っていても、
否応なく変わっているものである。
少なくとも、その頃は羽生の史跡巡りなど考えもしていなかった。

ところで、さっちゃんはテープレコーダーを持ってこようとしたらしい。
ぼくの解説を吹き込もうと……
そんな大層なガイドはしていないし、
元より口下手である。
テープで聴き直したら不快になるだけだろう。

中学の同級生なのだから、
言ってくれればいつでも連れていってあげる。
「史跡巡り夜編」というのもある。
昼間とは全く違った顔が見える。
ただ、町はずれの古墳や墓場などは、
単純に不気味である。

「恐そう」とさっちゃんが言ったから、
ぼくも女子のように怖がってみせた。
しかし、同じB型だから、行ったらわりと楽しみそうである。
同級生が揃って、
警官から職務質問を受けるかもしれないけれど……



羽生城天神曲輪跡(古城天満宮)
埼玉県羽生市東5丁目



源長寺(同市藤井上組)
“武田家高札”と“不得道可夫妻肖像画”の文化財説明板が建っている。



お種さんの資料館(同市弥勒)
田山花袋の小説『田舎教師』に登場する“お種”ゆかりの資料が展示されている。


清浄院(同市下手子林)
「夢つかみ橋」を渡る。
羽生市内の寺院の中でも、同寺は独特の雰囲気がある。



同上
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5月17日付の「埼玉新聞」に載った羽生の話題は?

2010年05月22日 | 近現代の歴史部屋
田んぼで鳴くカエルの声が大好きだ。
夏の到来を感じさせる。

新年度が始まって2ヶ月が経つ。
肌寒かった春は遠く、
日ごとカエルのテンションは上がっている。

地元の羽生もいろいろな動きがあって、
5月には市長選が行われた。
現職の“河田晃明”市長が無投票で再選。
市外に住む人が、なぜかぼくに「おめでとう」とメールを送ってきた。

拙ブログでは政治のことは書けないし、
立場的に書いていいのかもわからない。
ただ、拙ブログに河田市長がコメントを寄せて下さるし、
いち市民としてその期待感は大きい。
いままでになかった新しい風が吹いている。
そもそも、そのお名前からして羽生の未来は明るいではないか。

そうだ、「埼玉新聞」の話をしよう。
あくまでも、同紙に載った羽生の話題。

5月17日付の「埼玉新聞」では、
羽生市長選の無投票再選を果たした河田市長と、
26巻で完結した『羽生昔がたり』が取り上げられている。

『羽生昔がたり』は昭和59年に刊行された昔話集。
羽生ゆかりの昔話が、囲炉裏端で老婆から聞くみたいに紹介されている。

著書は“掘越美恵子”さんと“田村治子”さん。
ぼくが初めて羽生郷土研究会に参加したとき、
発表していたのが田村さんだった。
その後、中学時代の恩師の母親だということが発覚。
同会で行った佐倉の博物館では、
ずっと一緒だったのを昨日のことのように覚えている。

掘越さんとは羽生城をきっかけにお会いした。
ふるさと市民大学やパープル羽生での講演に来て下さって、
後日歴史の話や、冨田勝治先生との思い出話を聞かせてくれた。
とても熱い方で、『羽生昔がたり』は完結したが、
歴史熱はまだまだ燃え続けるだろう。

その記事のすぐそばに、
「時の人」として河田市長が紹介されている。
行政コスト削減や、
観光交流人口100万人都市を目指す抱負が語られる。

河田市長は元々教員畑の人である。
記事では次のように書かれている。

 大学卒業後は教員を務めてきたが、
 「学校だけではなく、市全体に自分の教育を広めたい」と政治家に転身。

 「政治家と教員の違いは何百億円というお金を扱う点だが、共通点もある。
 明るい家庭で子どもが育つように、市が元気でなければ市民の生活も良くならない」

登る山には、“高い山”と“低い山”がある。
後者が決して楽とは言わないが、
さほどのリスクをかけずに頂上に到達できる。
しかし、ふと見渡せば、
同じように頂上に辿り着いた者も多い。
「その他大勢」から突き抜ける高さがない。

一方、高い山はリスクが伴う。
必ずしも到達できるとは限らないし、
途中で引き返さざるを得ないかもしれない。

それに、低い山とは違ってすぐには辿り着けない。
時間と労力を要する。
すぐに結果は出ず、
なかなか見えてこない頂上に挫折する人もいるだろう。

ただ、頂上にたどり着けば、
大勢から突き抜けた高さに立っている。
そこが最頂上ではないかもしれないが、
誰もが簡単に追いつける背中ではなくなっている。

低い山でまとまるか、
それともさらに高い山に挑戦するか……
どちらが良い悪いではない。
いずれも生き方である。

河田市長と掘越美恵子さん、田村治子さんは、
高い山を登り続けている人だろう。
河田市長は「学校」の頂上にいれば、
ずっと安泰だったはずである。

しかし、その山からさらに、
リスクの高い山を登った。
そこに留まることなく高みを目指す。
人間、前を向いている限り、終わりはない。
強い想いが夢を叶えていく。

「埼玉新聞」の記事からは、
そんなことが読み取れるのではないだろうか。
3者とも名を残し、きら星のような存在感を放っている。
いつか、別の形で「昔語り」に収録されるだろう。


午前8時の羽生の町並。
最初の画像は午前5時。


web埼玉(埼玉新聞情報サイト)
http://www.saitama-np.co.jp/


羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html
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クニのウラ部屋雑記(128) ―女子とうどん―

2010年05月21日 | ウラ部屋
「今日のこと、ブログに書いて下さいよ」と、A氏は言った。
ぼくも正直者で、こうして机に向かっているわけだが、
その日の出来事を翌日に載せることはほとんどない。

この拙ブログは日記でないことを断言する。
ぼくは日記を書きたいのではない。
その日にあったことをただ書き綴るだけの文章は、
読むのはともかく、書きたくはない。
題材は「日常」でも、それを捉える「切り口」は明確にしたい。

A氏とは、職場絡みの会で会う。
夜に集まった店に、
A氏がすぐ近くに座っていた。
ラーメン好きの彼だが、
最後に出されたうどんはどう食べたのだろう。

ところで、その店は同級生の実家でもある。
メガネをかけた女の子だった。
彼女はぼくの友だちを好きになり、
ぼくは彼女の友だちに恋していた。
お互い手を組めば、“利”は一致している。

とは言え、まだ幼い10代の恋。
彼女と盟約を結んだわけではなく、
昼休みや放課後に4人で会えればそれでよかった。

しかし、彼女とは別の女の子が、
ぼくの友だちに恋していることが発覚。
女子の恋の争いは、バイオレンスではないが、
静かに激しい。
なんだかとても不気味だったのを覚えている。

勝利の軍配は、どちらに上がるというわけでもなかった。
その年の春、みんなと一緒に映画を観に行く。
そのとき一緒にいたクラスメイトが、
数ヶ月後に彼とつき合うことになったのは、
意外な結末だったと思う。

彼女にしてみれば、ただアタックするのではなく、
いろいろな策略があったのかもしれない。
「勝つ」というのは、
「具体的な延長戦にある確実な未来」(『カイジ』福本伸行)だという。
運否天賦に闇雲に行くのではなく、
勝つべくして勝つ論理を組み立てていく。

例えば、豊臣秀吉が合戦を得意としていたのも、
その論理を構築していたからである。
城攻めも、単に猛進していては「勝ち」は拾えない。
拾ったとしても、自軍の犠牲は大きい。

彼は、城を落とす人心掌握的な巧妙な手段を使っていた。
勝つべくして勝っていたわけだ。
関ヶ原の戦いも、徳川家康の合戦前の工作によって勝ちを拾っていた。
肝心なのは、合戦本番ではなくその前である。
勝ちの論理を組み立てた者が勝利を掴む。

とはいえ、理屈ではないのが恋だろう。
恋は猪突猛進でいい。
ましてや、十代の恋ならなおのこと。
下手な策略など打たない方が、
相手の心を掴むかもしれない。

A氏の近くでうどんを啜りながら、
10代の同級生のことを思い出していた。
卒業してからもう何年も会っていない。
地元を出て別の町に暮らしているという。

すると、白髪のおばちゃんがぼくに近付いてきた。
「ねえ、うちの息子と同級生なんだって?」
別の同級生の母親だった。
世間は狭い。
もうやんちゃではなくなったという同級生の消息を耳にしながら、
ぼくはうどんをすすっていた。
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ムジナモは“女子”か、それとも“男子”か?

2010年05月19日 | 利根川・荒川の部屋
ムジナモは“女子”だろうか、
それとも“男子”だろうか?

ムジナモは羽生に唯一自生する“食虫植物”である。
水面に浮かぶ根無し草で、
ミジンコなどを葉でとらえて食す。

まれに花を咲かせることで知られていて、
かの“牧野富太郎”は詳細な解剖図を描いたために、
世界の富太郎となった。
つまり、日本の学問が世界に認められたわけである。
ムジナモは日本人の誇りでもあるのだ。

ムジナモは枝分かれして増殖する。
ごくまれに花を咲かせるが、自家受粉して種を残す。
だから性別はない。
女子でもあり、男子でもある。

しかも、食虫植物と言うが、
ミジンコを食べる必要性は特にない。
普段は光合成をしている。
虫一匹いない水槽に浮かべても、
充分生きていける。

まだ謎の多いムジナモだが、
劣悪な環境では生きていけないし、
かと言って綺麗すぎてもいけない。
アオミドロにからまれば生死にかかわり、
水の流れがあれば、根無し草ゆえにどこかへ流れていってしまう。

とても気むずかしくて、繊細。
草食系のようで、実は肉食系。
めきめき増殖したかと思うと、
ちょっとしたことで機嫌を損ね、
「さよなら」を告げてしまう。

女子のような気もするし、
男子のようでもある。
断言できないのがムジナモの難しいところだが、
実はそこが魅力でもあるのだ。
わりと高嶺の花なのである(草だが)。

最近はムジナモとマブダチになっている。
彼女、あるいは彼に少しでも近付こうと必死だ。
へそを曲げさせることなく、
だからと言って馴れ合うことはない。
人間も植物も大切なのは、「ちょうどいい距離」。
まるで、お年頃の乙女か男子に接するみたいだと思う。

ちなみに、ムジナモは“ムジナ”のしっぽに似ていることからその名前がつけられた。
タヌキではなくムジナだ。
(「タヌキモ」の名がすでに存在していたため)
変幻自在であり、ぼやぼやしていたら簡単に化かされてしまうだろう。
いや、むしろ化かされたい。

どこまでもマイペースで、
どこ吹く風でプカプカ浮かぶムジナモ。

ふと思う。
我が道を行くムジナモは、
女子か男子と言う前に、
B型なのかもしれない、と。
「右と言われれば左と言う。それが基本」(『B型自分の説明書』文芸社)
あなたはどう思うだろうか?



ムジナモ



「ロアール」で売っている「むじなも」
ムジナモ味というわけではないので、あしからず。



“ムジナもん”のシッポはいつも花が咲いている。



ムジナモ自生地(埼玉県羽生市)
世界でもムジナモを保護しているのは羽生だけ。


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29歳の“坂本龍馬”は10年後どうなっていたのか?

2010年05月18日 | 近現代の歴史部屋
「龍馬伝」で“坂本龍馬”は、
兄に「10年後に故郷へ堂々と帰る」と言った。
時に文久3年。
龍馬は29歳だった。

10年という数字はよく目に付く。
「石の上にも三年」ということわざもあるが、
志を立てた人間が何かを成すには、
少なくとも10年はかかるのかもしれない。

詩人の“正津勉”先生は「10年の継続」をよく口にしていた。
物書きなど、10年経ってようやく芽が出る程度なのだと……

学者先生も「10年の投資」を述べていた。
自分の好きなもの、あるいは夢と決めたものは、
とりあえず10年やり続ける。
やり続ければチャンスは必ず来るし、
例え自分の理想とは違っていても、“何か”には成る。

ここぞというときのチャンスは、
継続していないとなかなか掴めない。
チャンスとすら認識しない。
ぼんやり見過ごしてしまう。

「10年」と言うのは容易いが、
実行するのは難しい。
時間や環境がそれを許さないかもしれない。
人は嫌でも変わる。

特に時代の転換期と言われるいまは、
環境も心境も変わりやすい。
それでも、とにかく持続して積み重ねる。
学者先生は、それを「将来への投資」と言っていた。

換言すれば、“結果”というのはすぐには出ないということだ。
努力に比例して結果が出るわけではない。
むしろ、失敗ばかりで停滞、あるいは低下と感じることもあろう。
それほど“結果”はすぐには出ないもので、
そこで諦める人も少なくない。

努力はあとから効いてくるものである。
比例ではなく、ある地点を通り過ぎたときに、
線はどんどん上を向いてくる。
だから、「結果は後からついてくる」と言う。
目先のことではなく、もっと先に目を向けるべきである。

始めることに遅すぎることはない。
ただ、ある程度の“結果”を出すには、
時間の投資も必要だ。
「余裕ができてから」と先延ばしにしていると、
逆に余裕がなくなってしまう場合もある。
それに、「後で」と「お化け」は出たためしがない。

志を持つ龍馬の10年後は39歳。
志半ばで倒れてしまうが、
彼の10年後はどんな人物になっていたのだろう。
故郷に錦を飾る人物になっていたかもしれないし、
いま我々が知る龍馬像とは違う何かになっていたかもしれない。

いずれにせよ、志を持つ龍馬はかっこいい。
真っ直ぐである。
33歳という若さでこの世を去ってしまうが、
いまも昔も志を抱いて生きる人間は、
一つの星のように輝いている。
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「龍馬伝」。“平井収二郎”の切腹に龍馬が言った言葉とは?

2010年05月17日 | 近現代の歴史部屋
文久3年6月8日、切腹を命じられた“平井収二郎”。
彼は信念を曲げることなく、
自らの正義を貫いた。
収二郎の切腹の知らせを受けた“坂本龍馬”は、
姉に次のように書き送っている。

 平井の収次郎(ママ)ハ誠にむごいむごい。
 いもうとかをがながき、いか計か

大河ドラマ「龍馬伝」では、
見方によって物事は変わると“勝海舟”に言わせている。
そして、“横井小楠”は、新しい時代が来て、
物事の価値観が変わったとき、
古き人間は使い捨てられると述べた。

見方によって物事は変わる……
“岩崎弥太郎”の材木の話もそれを象徴している。
普段はただの板きれでも、
家の修復を迫られた者にとっては価値がある、と……。

いまの時代にも通じることだろう。
アインシュタインが「絶対」を否定したように、
人間が作り出す思想や価値観などは、
むろん「絶対」とは言えない。
その時代では絶対に見えても、
歳月の流れによって悪に変わるかもしれない。

関ヶ原の戦い以後、悪とされた石田三成も、
いまでは義の人である。
切腹して果てた三成自身、
己の正義を信じてこの世を去っただろう。

文久3年当時、龍馬は29歳。
彼自身ひとつの節目を迎えようとしていた。
そんなとき、ドラマの中の龍馬は、
兄に向かってこう言った。
「十年後には必ずや故郷に堂々と帰ってみせます」

それに対し、兄は「志半ばで命を落とすな」と言う。
予言的な言葉である。
収二郎の切腹は、龍馬にとって何を暗示しているのか。
龍馬は十年後の自分に会うことなく、
この世を去ってしまう……
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さきたま古墳群の“旬”は? ―丸墓山古墳の伝説―

2010年05月16日 | 奇談・昔語りの部屋
史跡にも“旬”がある。
ぼくにとって“古墳”の旬は、
春先から初夏にかけてだ。

これといった理由はない。
新緑の季節に古墳が彩られるとか、
自主的に初めて足を運んだのが初夏だとか、
いろいろな理由は挙げられるが、
いずれも個人的であり、人によって旬の時期は異なるだろう。

さきたま古墳群の“火祭り”は5月4日に開催される。
この祭りに参加している人にとっては、
5月が古墳の旬と感じているかもしれない。

同古墳群で最大規模を誇るのは“丸墓山古墳”である。
東国最大の円墳であり、
最近では“石田三成”が忍城を攻める際、
丸墓山から城を望んだことで知られている。

実は、丸墓山古墳には“聖徳太子”の伝説がある。
太子が富士山に登ったとき、
東の方に紫色の雲がたなびいているのが見えた。

「あれは武蔵のさきたまの辺りだろう。わしが死んだらあの地に墓を作り、
 地蔵菩薩を建てなさい」
と、お供の“調子麿(つきのねまろ)”に言った。

太子の死後に子麿が武蔵へ下ると、
丸墓山のところで太子の遺骨が石のように重くなったという。
そこで、子麿はここに墓を築いたと伝えられる(『埼玉の伝説』)。

かつて丸墓山古墳のそばに“西行寺”という寺があった。
『新編武蔵風土記』によると、國王山地蔵院と号し、
本尊は延命地蔵だったという。

この西行寺の庭前に梅の古木があり、「千年木」と称していた。
しかし、明治11年の冬に暴風によって倒れてしまう。
その梅にちなんで、“梅塚古墳”という塚があった。
現在は何もなく、公園の一部になっている。

実は、火祭り会場となる“産屋”の周辺には、
いくつもの古墳が存在していた。
その一つが梅塚古墳であり、
火祭りは古墳跡で開催されていると言っても過言ではない。
現在残っている古墳は、「生き残り」なのである。

初夏の古墳は新緑に彩られ、何となくさわやかだ。
墓だが、命の芽吹きさえ感じさせる。
丸墓山古墳に伝わる聖徳太子の伝説は史実とは言い難い。
しかし、なぜ太子や“蘇我調子麿”の名が伝わっているのか、
探れば「歴史ミステリー」に遭遇するだろう。
旬のこの時期に古墳へ出かけよう。




丸墓山古墳(埼玉県行田市)



同上
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10代の恋話には“ゆずみつサワー”か? ―ウラ部屋(147)―

2010年05月15日 | ウラ部屋
動物占いがタヌキさんの呼びかけで、
ぼくらは「動物の杜」に集まった。

まめな人間やそうでない人、
文章を書くのが得意な人や、
絵が得意な人。
ジャズ好きの人や、女子アナに詳しい人。
タイプはそれぞれである。

中学時代、ノノと呼ばれた人がいた。
男子のみならず女子からも人気のある子で、
彼女を嫌いという人は一人もいなかったと思う。

ぼくとタヌキさんにとっては、
ノノと高校も一緒である。
お互い彼女の兄と親しかったこともあって、
ノノは身近な存在だった。

実は、タヌキさんはノノに恋していた。
当時のぼくらはそれを知らず、
何でもなく過ごしていた。

ぼくはノノと部活もクラスも一緒で、
高校2年の夏、一緒に大宮へ行ったことがある。
8月に誕生日を迎える人のプレゼントにつき合ってもらっただけで、
タヌキさんが怪しむようなことは何もない。
中学生のとき、グループで大宮へ映画を観に行った延長のようなものである。

高校3年のときは、たまたまカメラを持っている人がいて、
ノノと一緒に撮ったことがある。
なぜノノとだったのかは思い出せない。
何のイベントでもない平日の休み時間に、
2人並んで撮った。
いまでもその写真を持っている。

もちろん、これもタヌキさんが怪しむものではない。
ぼくもノノも、ただの仲のいいクラスメイトだった。
しかし、タヌキさんは心穏やかではない表情。
「お、いいね、恋してるね」
と、ぼくらはタヌキさんをからかう。

不思議な縁で、ぼくはいまノノと同じ職場にいる。
会おうと思えば、いつでも会える。
そのことを言うと、タヌキさんは中学時代から変わらないちょっと困った表情で、
ゆずみつサワーを飲んでいた。

ノノは結婚して、二児の母親になっている。
そのことはタヌキさんも知っている。
だから、いまでも恋をしているとか、
つき合いたいとかというわけではない。

ただ、恋とは違うもっと繊細な想いが、
彼の胸の中にはあるのだろう。
それを何と呼べばいいのかわからない。
とりわけ鮮やかではないが、
胸の奥に咲く、枯れない花のようなものだと思う。

 また君に恋してる いままでよりも深く
 まだ君を好きになれる 心から
 (坂本冬美「また君に恋してる」より)

「動物の杜」でそんな曲が流れていた。
恋の話は何年経っても色褪せない。
流れた歳月の長さによって、
それは美しかったりする。

「感傷」などするつもりはない。
ぼくらは過去に戻りたいわけではない。
ただ、ときどき集まる動物の杜で、
過去を消し去るより、
かつての想いや繊細な心の部分に触れながら、
ゆずみつサワーを飲んでいる。
そんな時間があってもいいだろう。
過去があっていまの自分があるのだから……

「今度、ノノでも呼ぼうか?」
ぼくらがそう言うと、タヌキさんはまた少し困った表情をした。
彼の顔が赤かったのは、
照れなのか、それともゆずみつサワーのせいなのかはわからない。
恋のような甘酸っぱさが、
動物の杜に流れていた。
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「ナニコレ珍百景」。羽生にも“足の生えた蛇”がいた?

2010年05月13日 | 奇談・昔語りの部屋
「ナニコレ珍百景」で、“足のある蛇”が紹介されたという。
ホルマリン漬けにされ、現物が残っているのだとか。

埼玉県羽生市にはホルマリン漬けはないが、
足のある蛇の発見し、供養したのを記念した“碑”が建っている。
その名も“瘞蛇碑”。

瘞蛇碑が建立されたのは慶應2年(1866)。
坂本龍馬たちが活躍した幕末である。
時代が大きく揺れ動いていたとき、
北武蔵の羽生では、
足のある蛇が発見されるという珍事件が起こった。

『瘞蛇記』によると、その昔“建福寺”には老杉があり、
そこから落ちてきた蛇がいた。
蛇は虫の息であり、そのまま死んでしまう。

僧がその蛇を見たところ、足があることを発見。
たちまち騒ぎとなる。
同書はその蛇を次のように伝える。

 蛇長五尺八寸餘 腹周圍三寸、距尾一尺二寸而宥両足長一寸
 如爪形者左右各二十八

こんな蛇がいるなんて大変珍しい。
羽生領全域とはまではいかなくても、
寺の周辺では話題になったことだろう。
その骸を境内に埋め、手厚く供養したという。

 勿乃神龍遺種 両足奇形挺然
 今瘞形骸此地 嗟霊永護決莚
 (『瘞蛇記』より)

ところで、「ナニコレ珍百景」では足の生えた蛇の種明かしをしていた。
断言はしないが、その可能性が高い、と……
羽生で見付かった足のある蛇も、
おそらくそうなのだろう。

しかし、ここで種明かしはしない。
しばし想像を膨らませていたい。
種明かしのあとの虚しさは、
いくつになっても変わらないから……



瘞蛇碑(埼玉県羽生市)
建福寺の境内に有り。
同寺は羽生駅東口の目の前に所在。
『田舎教師』ゆかりの寺でもある。
おそらく田山花袋も瘞蛇碑を目にしたであろう。
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