クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の“商工まつり”に行きませんか?

2015年10月31日 | お知らせ・イベント部屋
羽生市のプラザ通り(本町通り)において、
11月3日(祝)に“商工まつり”が開催される。
歩行者天国となり、商工業製品の展示販売のほか、
ものまねライブや地元のおはやし保存会の演奏などがある。

時間は午前11時から午後4時まで。
雨天決行だ。

ちょうど季節の変わり目のせいか、
商工まつりの時期になると、
今年も冬がやってきたことを感じる。
今年はどんな冬になるのだろう。
そんな新しい季節の始まりに、
羽生の商工まつりを楽しんではいかがだろうか。
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好きすぎてキーボードを叩く? ―ウラ部屋―

2015年10月28日 | ウラ部屋
書いて覚えなさい。
子どもの頃にそんな教えを受けた。
だから、テスト勉強や受験勉強のときは書きまくっていたし、
同級生からもそれを指摘されたことがある。

そのせいだろうか。
好きな文章に出会うと自ずと書きたくなってくる。
文章は書き手の思考の跡。
その思考をなぞりたくて書写に走らせる。

これまで、小説・詩・論文・戦国武将の書状・古記録など手書きしてきた。
小説をまるまる書き写したこともあれば、
ほんの一部分を書くことも多い。
古文書はくずし字ではなく翻刻されたもの。
いずれくずし字に走るだろうか。

ちなみに、文章読本などでは、書き写すことが文章上達の手段としているものがある。
大いに上達した人もいるだろう。
でも、ぼくは構造や効果について学ぶことはできても、
文章上達には直接的ではないと考えている。

自分の言葉で書くのが一番だ。
だから、文章上達を目的に書写したことは一度もない。

好きだから書く。
それ以外に理由はない。

妻の知人にこれと似た人がいたという。
その人は『南総里見八犬伝』が好きすぎて、
同書を書き写したらしい。

いや、厳密に言うと“書写”ではない。
“入力”だ。
つまり、『南総里見八犬伝』を全てパソコン入力したという。

入力……。
考えもしなかった。
ぼくは手書きすることで、
相手の思考に触れることができる(気がする)のだが、
その人はキーボード越しということになる。

世代による影響もあるかもしれない。
ぼくが十代のはじめの頃はまだパソコンは一般的ではなかったが、
妻が幼い頃にはすでにインターネットが普及し始めていた。
ぼくがもっと早い時期にパソコンに触れていたならば、
キーボードで「書写」していただろうか。

データ化してしまえば、あとは自由である。
書体をポップ体に変えて『南総里見八犬伝』を読むことも可能。
色線やマーカーを引くのも自由。
部分的にプリントアウトして持ち歩きもできる。

その人は『南総里見八犬伝』のデータをいまでも持っているのだろうか。
ほかにどんな楽しみ方をしているのだろう。
音読はもとより、節までつけているかもしれない。

ちなみに、その人は女性。
好きすぎて何かをやってしまう話は面白し、
聞いていて気持ちがいい。

好きこそものの上手なれ。
『南総里見八犬伝』について専門家になっているかもしれない。
あるいは、ほかにも好きすぎるものを見つけて、
ばちばちキーボードを叩いているだろうか。
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羽生の“ふるさと歴史散策”に出かけませんか?

2015年10月26日 | お知らせ・イベント部屋
羽生市広報10月号によると、
11月15日(日)に「ふるさと歴史散歩~井泉地区を歩く~」が開催される。
羽生市立郷土資料館主催の“ふるさと講座”だ。

井泉地区にある神社仏閣をはじめとする地域の歴史を訪ねるという内容。
広報に講師名は書かれていないが、
この講座は例年“間仁田勝”氏が務めている。

井泉公民館を出発し、香取神社や八幡神社、観乗院などを訪ねるという。
定員は30名。
11月1日(日)までの申し込みとなっている(先着順)。

散策の時間は午前9時から午後3時まで。
地元民や地域の歴史に興味のある方でも、
いままで気付かなかったものや、意外な歴史を知る機会となるだろう。
申し込みや問い合わせは郷土資料館(048-562-4341)まで。
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羽生城に宛てた上杉謙信の文書が鑑定される?

2015年10月24日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
上杉謙信が羽生城将に宛てた文書が新たに発見された。
写しはすでにあったのだが、
謙信直筆の原本が世に出るのは初めてということだ。

という内容が、テレビ番組「なんでも鑑定団」で放送された。
所有者が鑑定してもらったところ、
上杉謙信の直筆の文書であることが判明。
羽生城の映像は出なかったが、
「羽生城に宛てた手紙」とはっきり放送したという。

羽生城将とは「菅原氏」。
羽生城主広田直繁の嫡子だろう。
幼い頃は人質として越後で過ごした人物だ。
羽生城に戻ってからは城将として、
孤立無援と化した城を必死に守ろうとした足跡を残している。

ぼくは、この文書が登場した回を見ていない。
中学時代の友人のK君から連絡があって初めて知った。
何気なく見ていたら、突然「羽生城」の言葉が出てきて驚いたらしい。
わざわざすぐに知らせてくれた。

それから約1週間後、
中世を専門とする学芸員と立ち話する機会があった。
何を根拠にしてか理解に苦しむが、羽生城の存在を疑問視する声がある中、
謙信の文書が発見されたことは学芸員も知っていて、
「地元で盛り上がるといいね」と言った。

それから約1ヶ月。
羽生市稲子にあるお寺のご住職から、
同番組の再放送の連絡を貰った。
「謙信の文書が出るとは知っていましたが、羽生城の言葉が出てきてしびれました」と、
若住職は話す。

そう、再放送されるのだ。
10月25日(日)の昼の12時54分から、
上杉謙信の古文書が登場する回が再放送されるという。

これは見逃せない。
ビデオのセットである。
生憎、リアルタイムで見られそうもないのだが、
黙って見過ごすわけにはいかない。
前回見過ごした方は要チェックである。

最後になってしまったが、
わざわざ情報を知らせてくれたK君と若住職に改めて感謝したい。
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外国人が熱いまなざしを向ける埼玉の美術館は?

2015年10月21日 | パワースポット部屋
さいたま市盆栽美術館は、
JR宇都宮線の土呂駅から歩いて7、8分のところにある。

かつて、正直なところ盆栽に興味はなかった。
地味で年寄くさく、
“波平”の趣味というイメージがあった。

ところが、何気なく足を運ぶと、
これがわりと面白い。
盆栽の見方について丁寧に解説があって、
素人でも何とはなしに視点が定まる。

知ったかぶりで盆栽を眺める。
心が洗われる。
それでいて、力強い生命力にエネルギーをもらう。

これまで知らなかった自分に出会った気がした。
癒し系かつパワースポット。
外国人の姿も目立つ。
若い女性の来館者もいる。

地味に見えてどこか新鮮。
深い伝統を持ちつつも新しい。
何とはなしに足を運べば、
自分なりの発見があるかもしれない。

さいたま市盆栽美術館は土呂駅から近い。
が、目立つ建物でもない。
自治人材開発センターの横に位置している。
そこを目印にした方がわかりやすいかもしれない。
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鉢形城址には何がある?

2015年10月19日 | 城・館の部屋
鉢形城跡は国指定文化財になっている。
同跡には“鉢形城歴史館”が建っているほか、
時期になれば祭りも開催され、観光スポットの一つに数えられる。

かつては主家に背いた“長尾景春”が拠点とした城だった。
戦国末期には武田信玄や上杉謙信の進攻を受け、
最後には前田利家らに包囲されて開城となった鉢形城は、
何かと歴史の表舞台に登場する。
ここに足を運んだ歴史好きは多いだろう。

両脇には荒川と深沢川が流れ、
人を寄せ付けない断崖は、難攻不落の体を示している。
鉢形城歴史館を出て深沢川を越えれば、
本曲輪、二の曲輪、三の曲輪などが形成されている。

本曲輪よりも先に、二の曲輪や三の曲輪に足を運ぶ人は多いかもしれない。
柵や堀立柱建物、池などが復原されており、嫌でも目を引く。
二の曲輪と三の曲輪との間に横たわる堀には、
“畝堀”であったことを確認。
なお、“馬出”が数か所あり、
土塁には“石積み”が施されていたことが調査によって判明した。

石積みの目的は諸説ある。
土塁の崩落を防ぐためや、兵が土塁上に配置しやすいなどというもので、
気まぐれに積んだわけではないことは確かだろう。
鉢形城の石積みは川原石を主とし、階段状に積み上げているところに特徴がある。
発掘調査の成果によると、鉢形城では4つの形態が認められたというが、
この記事では詳細については触れない。

現在の鉢形城址は整備されており、散策しやすくなっている。
三の曲輪内の秩父曲輪では四脚門や池、石積みが復元されている。
諏訪神社が鎮座する場所は馬出であり、その周囲の堀や土塁、食い違い虎口が現存。
二の曲輪の一角は“御金蔵”と言われていたが、
馬出であることが確認され、石積みも施されていた。
なお、木橋が復元されている。

本曲輪は林になっていて、本丸跡を伝える石碑が建っている。
田山花袋の歌碑が建っているのもここだ。
眼下の荒川を眺められなくはないが、
夏だと樹木が邪魔して司会を阻む。
ただ、展望台めいたものが設置されている。

本曲輪を守るように構えられているのが笹曲輪だ。
その南にも馬出があり、この辺りは搦手にあたる。
笹曲輪内には鉢形城の地形模型が設置されており、
城に対する町の力の入れようが伝わる。

このように曲輪をいくつも連ね、馬出を設けたのは、
後北条氏の時代になってからのことだろう。
長尾景春が拠点とした頃は、もっと小規模だったはずだ。

鉢形城は、「城」と一般的にイメージされるものではないかもしれない。
石積みも、高くそびえ立つ石垣とは異なる。
天守閣もない。
しかし、ここが武蔵国において主要な城であったことは間違いない。
そして、城に眠る歴史はほかに引けをとらないほど豊かである。
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『田舎教師』の主人公はどこから利根川を渡った? ―旗井―

2015年10月17日 | ブンガク部屋
管見によるが、小説『田舎教師』の中で、
中田宿の章を好きという人に会ったことがない。
むしろ不評。
こんな章は書かなくてもいいのに……という声を聞いたこともある。

中田宿へ行く章は、田山花袋の創作と言われる。
主人公のモデル小林秀三の日記に、中田宿へ行くことは描かれていない。
花袋は小説の物語展開として必要性を感じ、創作したのだろう。

ちょっと気になることがあって、主人公林清三が通った場所を訪ねた。
中田宿までの行程である。

清三は、羽生から利根川沿いの道を歩いて中田宿に向かっている。
中田宿へ行くには利根川を越えなければならない。
どこで越えたか?
それは旗井という村である。

旗井は現在の加須市に位置する。
彼はこの村の飲食店に入り、ビール1本を飲み、
うどんの盛りを3杯食べている。
飲食店に入る前には、行水をしている「若い上さん」の姿を目にしており、
明治の風情がそこはかとなく香ってくる。

清三は、旗井の渡船場から乗船。
花袋は次のように描写している。

 十日ばかりの月が向う岸の森の上に出て、渡船場の船縁にキラキラと美しく砕けていた。
肌に冷かな風がおりおり吹いて通って、柔らかな櫓の音がギーギー聞える。
岸に並べた二階家の屋根がくっくりと黒く月の光の中に出ている。

孤独感を抱える清三は、
川向うの中田宿はどのように見えただろう。
ちなみに、旗井村の地名は、
奥州攻めに向かう源義家が、立ち寄った天神社で八幡祠を建て、
白旗を奉じたという旗井神社にちなむという。

「旗井村」となったのは、明治8年のこと。
渡沼村と合併して旗井村となり、その後「東村」となったのち、
大利根町旗井となる。
平成の大合併で加須市となったが、
ぼくはまだ「大利根町」の感覚の方が強い。


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失恋したときは雨がいい? ―コトノハ―

2015年10月15日 | コトノハ
 あとどれくらい 眠れず朝を迎えたらいいの?
 あとどれくらい 涙流せば思い出になるの?
 取り残されたように 動けなくなった
 鳴り響くあのコトバ しつこい六月のこの雨のように
 (諌山実生作詞「六月のうた」より)

 想い出さえ沁みている
 愛はこんなに辛いものなら
 私ひとりで生きていけない
 September rain rain
 九月の雨は冷たくて
(松本隆作詞「九月の雨」より)

出口のない不安を抱えたり、
落ち込んでいるときの雨は気持ちが重くなる。
雨好きとはいえ、外の明るさはやはり心理に影響する。

一方で、晴れの日も気持ちがふさがるものだ。
思うように結果が出ないとき、
窓の向こうで降り注ぐ明るい陽射しは、
かえって息苦しい。
同じ場所で足踏みしているような、そんな閉塞感を覚える。

例えば失恋しているとき、
快晴が続くとかえって心が痛い。
たった一言で思い描いていた未来が壊れてしまったとき、
続く晴れの日を恨めしく思ったことがある。

外の明るさが心に濃い影を落とす。
たった1日でも雨が降っていたら、
果たして気持ちに変化はあっただろうか。

雨は浄化。
籠っていた感情を洗い流す。
同時に新しい自分に生まれ変わる。
そう前向きに考えたかった。
きっと停滞しているものもきっとうまくいくから。

雨と晴れの日。
雨が降るから悲しいわけではない。
晴れの日がいつも気持ちいいわけではない。

心の状態によってさまざまな表情を作る。
そして気持ちを大きく左右する。
10月の雨。
いまどんなふうに降り注ぐだろうか。
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洪水から復旧を遂げた古代の集落は? ―飯積遺跡―

2015年10月13日 | 考古の部屋
飯積遺跡は、現在の“河川防災ステーション”に位置する。
現在は加須市だが、旧北川辺町と言った方が、
ピンと来る人は多いかもしれない。

利根川の堤防が高く築かれ、遺跡はその下に眠っていることになる。
しかし、河川防災ステーションの建物の傍らに、
「飯積遺跡の地」と刻された石碑と案内板が建っている。

飯積遺跡は古代集落跡だ。
古墳時代から平安時代までの人々の暮らしの営みが記憶されている。

おもしろいのは、ここが「国境の集落」ということ。
利根川、渡良瀬川、思川などの流れが複雑化させ、
現在の埼玉、群馬、茨城、栃木の国境が入り込んでいた。

いわば、飯積遺跡は河川交通の「結節点」となっていたわけだ。
出土した土器の形式も多地域に及び、
この場所が国境を越えての交流が盛んだったことを示している。

川は恵みをもたらす一方で、時には牙をむく。
飯積遺跡も例外ではない。
あるとき洪水の被害を受ける。
いや、1回ではない。
複数回水をかぶっており、
集落もその影響を大きく受けることとなる。

集落の住居数は激減。
その位置も変更を余儀なくされた。
環境が変わり、集落から出ていかざるを得ない人々がいたのだろう。

しかし、残る人々もいた。
彼らは環境の変化に心が折れることはなく、
粘り強く、着実に生活を営んでいった。
そして、住居数は増え、見事に復旧を果たしたのだった。
これは災害に無関係ではない現代の我々にとっても、
勇気を与えてくれる事例の一つに数えられるかもしれない。

国境の集落として、物や人が盛んに交流し合っていた飯積遺跡だが、
やがてその役割を終える。
10世紀前半の住居跡が2件確認されて以降、
人々の暮らしの足跡は見られなくなる。
それは集落の終焉を意味し、
発掘調査がなされるまで長い眠りについた。

前述のように、飯積遺跡には河川防災ステーションが建ち、
往時を偲ぶものはない。
目の前を流れる利根川が往時を偲ぶものに数えられそうだが、
時代によって川の流れは異なる。
変わらずその場所を流れていたとは限らず、
かつての流路跡を探すのも歴史散策としてはいいと思う。





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鉢形城の“二の曲輪”には何があった? ―鉢形城―

2015年10月11日 | 城・館の部屋
鉢形城内の現在の二の曲輪は稲荷神社が鎮座しているくらいで、
特に目立ったものはない。
ただ、発掘調査によって、掘立柱建物跡や工房跡などの遺構が検出された。

工房跡からは、炭や鉄滓が出土していることから、
鍛冶工房と考えられている。
ということは職人もいたのだろう。
鍛冶道具ももっとたくさんあったはずだ。
そこにはどんな暮らしが営まれていたのだろうか。
ガランとしているだけに想いを馳せやすい。

三の曲輪の“四脚門”や“掘立柱建物跡”、
“石積”など復元物に目を奪われがちかもしれない。
ぼく自身、二の曲輪を歩いているときは、
そこが「二の曲輪」ということを忘れそうになる。
つまり、別のことを考えてしまいがちになるのだ。

でも、そこは鍛冶工房などがあった場所。
道を挟んだ向こうには馬出が設けられている。
その馬出の端に立てば、
眼下を流れている深沢川。

南側の低地は“おくり泉水”と呼ばれている。
「城兵の飲料水を確保するための水場」との可能性が指摘され、
“人”の気配がして興味深い。

高所恐怖症の人は近付かない方がいいかもしれない。
子どもも近寄らせてはいけない。
ただ、サスペンスドラマで犯人が自白する場所としては、
木々が鬱蒼としていて雰囲気がいまひとつ出ない。
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羽生のコスモスフェスティバルに行きませんか?

2015年10月09日 | お知らせ・イベント部屋
羽生市の三田ヶ谷では、
毎年“コスモス”が咲き乱れる。
10月11日(日)には、
第23回コスモスフェスティバルが開催。
会場は羽生市清掃センターの南側だ。
農産物直売やスタンプラリーがある。
秋の1日を羽生のコスモスで彩ってみてはいかがだろうか。
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万里集九は“鉢形城”をどう詠んだ? ―鉢形城―

2015年10月06日 | 城・館の部屋
鉢形城には文人たちがよく足を運んだ。
井伏鱒二は小説『武州鉢形城』を書き、
田山花袋もまた鉢形城をモチーフに句を詠んでいる。

2人とも、鉢形城が「城跡」になってからのことだ。
「城」として機能していた頃ではない。

では、鉢形城が「現役」だったとき、文人は訪れなかったのか?
いや、訪れている。
例えば、万里集九(ばんりしゅうく)がいる。

正長元年(1428)に近江国で生まれた集九は、西国で文名を高め、
のちに太田道灌に招かれて関東に下向。
長享の乱で緊張の増す関東の情勢の中、
集九は各所に行き、歌を詠んでいる。
その中に鉢形城があった。

長享2年(1488)9月、武蔵国の「平澤之旅房」(現嵐山町)を出た集九は、
鉢形城に赴く。
そして、山内上杉顕定が拠る鉢形城において、
城の堅固さと民家の素朴さを対比した歌を詠むのだった。

鉢形の城壁は鳥もうかがいがたし
地軸(ささ)げ来たりて万仞(まんじん)そばだつ
三、四渡河して上野に望めば
民蘆(みんろ)の大半は棘(いばら)を籬(かぎ)となす
 (※読み下し 『梅花無尽蔵』)

集九を関東に招いた太田道灌は、すでに謀殺されてこの世の人ではない。
戦死者が7百余人にも及んだ須賀谷合戦のそばにいたこともある。
太田資康の陣営で、詩歌会を催したこともあった。
城は堅固であるのに、民家は簡素という対比に、
集九の皮肉めいた感情が込められているのかもしれない。

それにしても、集九に「鉢形の城壁は鳥もうかがいがたし」と詠ませた鉢形城は、
往時から堅固な城であったことをうかがわせる。
荒川と深沢川に守られ、断崖を有し、
集九の目には難攻不落の城として映ったことだろう。

戦国時代末期には北条氏邦が城主となり、武蔵国内の要の城として機能し、
武田信玄や上杉謙信の進攻を受けている。
天正18年(1590)には、前田利家や上杉景勝らに包囲されることになる。
鉢形城において、集九は激化する戦乱を予感しただろうか。
なお、鉢形城を経った集九は、その後上野国(群馬県)に足を運んだ。
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どこへ“冒険”に行く? ―コトノハ―

2015年10月04日 | コトノハ
 晴れた日は出かけよう どこか遠くへ
 知らないとこ 目指して歩いて行こう さあ冒険だ
 昨日より 今日が好き 新しいから
 ワクワクするこの気持ちなんだろう さあ冒険だ
 (森高千里with s.ltoi作詞「さあ冒険だ」より)

高校3年生の夏、毎朝観ていた「ポンキッキーズ」で、
ときどき和田アキ子さんの歌う「さあ冒険だ」が流れていた。
以来、夏が来るたびにこの曲を口ずさむ。

風邪をひいて寝込んでいたとき、
ウォークマンからこの曲が流れてきた。
風邪を引いている身ではどこも出かけられない。
出かけたくない。
出かけても悪化は目に見えている。

「冒険」は、外に出ることだけに限らない。
部屋の中にいたってできる。

これだけSNSが発達した世の中だ。
仮想空間に身を置いて、一度も会ったことのない人と一緒にミッションをクリアする。
現実世界よりよほど「冒険」ぽい。
ネトゲ廃人、なんて言葉があるが……。

あとは、本。
本があればどんな世界にも行ける。
新しい世界を切り開くこともできる。
読書は「冒険」に似ている。
万巻の書は冒険の海だ。

本嫌いな子がいる。
そういう子は、文芸=物語と相性が合わないだけかもしれない。

本は小説だけに限らない。
図鑑や絵本、実用書も本だ。
活字の物語が嫌いな子に文芸書を勧めても、
本嫌いが加速するだけ。
興味のあるジャンルの本を選ぶのが、
一つのポイントだと思う。

本嫌いではせっかくの「冒険」もできない。
例え「冒険」が嫌いでも、
その世界を知っておいても重くはないだろう。

ちなみに、風邪をひいていると、本を読むのも億劫になる。
だから、ぼくは朗読や落語CDを聴いている。
ただ、稲川淳二の怪談シリーズはなぜか聴かなかった。

ここではない場所に誘ってくれるもの。
どこか遠い世界に連れて行ってくれるもの。
高校3年生から何年もの歳月が流れても、
「冒険」に連れて行ってくれるワクワク感は変わらない。
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“雉岡城”は交通の要衝地にあった?

2015年10月01日 | 城・館の部屋
雉岡城は埼玉県児玉郡児玉町にある。
以前、拙ブログで書いたが、
同城跡には夜泣き石があり、ある悲話を伝えている。

現在の城跡は公園になっている。
土塁や堀の遺構が残り、往時を偲ばせてくれる。

とはいえ、縄張り全ての遺構が現存しているわけではない。
公園となっているのは“南の郭”となっているところ。
本丸や二の郭は、現在の中学校と高校に比定される。

復元図によると、広大な面積を有していたようだ。
いくつもの廓が連なり、
あちこちに馬出廓があるのが特徴的だ。
これが築城当時からあったわけではなく、
戦乱の激化に伴って整備されていったのだろう。

『新編武蔵風土記稿』によれば、山内上杉氏によって築城されたという。
しかし、ここではだんだん不便になったらしく、
山内上杉氏は上州平井城に移る。

雉岡城には“有田豊後守定基”を置いて守らせた。
有田氏はのちに“夏目”氏に改称し、上杉氏に属していたが、
永禄年間に後北条氏によって「落去」。
鉢形城主北条氏邦の持ち城となったという。

雉岡城は鎌倉街道上道沿いに位置し、
『宴曲抄』にも「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」とある。
交通要衝地としてかねてより注目されていた。

そして、戦乱の時代に交通を押さえる場所として築城されたのだろう。
享徳の乱の時代は、五十子の陣の兵站を確保する役割を担っていたという見方もある。
戦国時代に、鉢形城の支城として機能。
天正18年(1590)に前田利家らの軍勢が関東に押し寄せたとき、
雉岡城の兵は鉢形城へ移ったという。

後北条氏が没落すると、
雉岡城は“松平清宗”に与えられた。
その子家清のとき、三河国吉田に移封となって廃城となる。
そして、時代と共に遺構は消滅していく。

戦国時代、近隣の御嶽城には武田信玄や上杉謙信が進攻している。
永禄12年に比定される北条氏邦の書状には、
武田信玄が御嶽城を攻め、100余りを討ち取ったと見える(「上杉家文書」)。
雉岡城攻撃については何も書かれていない。
ただ、その影響は免れなかったことは想像に難くない。

現在の城跡は、前述のとおり公園になっていて、
自由に出入りできる。
城跡に建つ学校に通う中学生・高校生は、
雉岡城をどう見ているのだろう。
意識的に見ている生徒もいれば、
当たり前にありすぎて、気にも留めていない生徒もいるかもしれない。

ぼくが雉岡城に足を運んだとき、
公園の出入り口にペンケースが落ちていた。
種類からして、若者が使うものだ。
中学生が落としてしまったのだろうか。

違和感を覚えなくもない。
ホームズならば、持ち主の人物像を具体的に言い当てるのだろう。
日は沈み、外灯に明かりが灯る。
城跡に落ちたペンケース。
迫りくる夕闇に包まれていった。





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