雉岡城は埼玉県児玉郡児玉町にある。
以前、拙ブログで書いたが、
同城跡には夜泣き石があり、ある悲話を伝えている。
現在の城跡は公園になっている。
土塁や堀の遺構が残り、往時を偲ばせてくれる。
とはいえ、縄張り全ての遺構が現存しているわけではない。
公園となっているのは“南の郭”となっているところ。
本丸や二の郭は、現在の中学校と高校に比定される。
復元図によると、広大な面積を有していたようだ。
いくつもの廓が連なり、
あちこちに馬出廓があるのが特徴的だ。
これが築城当時からあったわけではなく、
戦乱の激化に伴って整備されていったのだろう。
『新編武蔵風土記稿』によれば、山内上杉氏によって築城されたという。
しかし、ここではだんだん不便になったらしく、
山内上杉氏は上州平井城に移る。
雉岡城には“有田豊後守定基”を置いて守らせた。
有田氏はのちに“夏目”氏に改称し、上杉氏に属していたが、
永禄年間に後北条氏によって「落去」。
鉢形城主北条氏邦の持ち城となったという。
雉岡城は鎌倉街道上道沿いに位置し、
『宴曲抄』にも「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」とある。
交通要衝地としてかねてより注目されていた。
そして、戦乱の時代に交通を押さえる場所として築城されたのだろう。
享徳の乱の時代は、五十子の陣の兵站を確保する役割を担っていたという見方もある。
戦国時代に、鉢形城の支城として機能。
天正18年(1590)に前田利家らの軍勢が関東に押し寄せたとき、
雉岡城の兵は鉢形城へ移ったという。
後北条氏が没落すると、
雉岡城は“松平清宗”に与えられた。
その子家清のとき、三河国吉田に移封となって廃城となる。
そして、時代と共に遺構は消滅していく。
戦国時代、近隣の御嶽城には武田信玄や上杉謙信が進攻している。
永禄12年に比定される北条氏邦の書状には、
武田信玄が御嶽城を攻め、100余りを討ち取ったと見える(「上杉家文書」)。
雉岡城攻撃については何も書かれていない。
ただ、その影響は免れなかったことは想像に難くない。
現在の城跡は、前述のとおり公園になっていて、
自由に出入りできる。
城跡に建つ学校に通う中学生・高校生は、
雉岡城をどう見ているのだろう。
意識的に見ている生徒もいれば、
当たり前にありすぎて、気にも留めていない生徒もいるかもしれない。
ぼくが雉岡城に足を運んだとき、
公園の出入り口にペンケースが落ちていた。
種類からして、若者が使うものだ。
中学生が落としてしまったのだろうか。
違和感を覚えなくもない。
ホームズならば、持ち主の人物像を具体的に言い当てるのだろう。
日は沈み、外灯に明かりが灯る。
城跡に落ちたペンケース。
迫りくる夕闇に包まれていった。