上杉謙信に属した羽生勢の最初の仕事は、
小田原城攻めへの参陣である。
永禄3年8月に初めて関東へ越山した謙信に、
関東の諸将は従属の意を示した。
翌年、謙信が小田原城に着陣したとき、
城を取り囲んだ兵は11万5千余騎に及んだ。
その頃作成された上杉方の史料「関東幕注文」には、
「羽生之衆」として書き記されている。
広田直繁と川田谷(木戸)忠朝ら「羽生之衆」は、
忍城主成田氏らとともに第2陣に布陣。
先陣には、岩付城主太田資正らがいた。
11万5千騎の圧倒的な大軍の前では、
落城は時間の問題と思われる。
しかし、天文15年の河越夜戦のような前例もある。
油断はできない。
それに、小田原城の守りは固い。
謙信の感情の起伏の激しさを鑑みて、
「籠城シ、彼血気ヲ属シ、兵力ヲ疲弊セシメ」の作戦に出た北条氏康は、
下手に戦を仕掛けるのを避けた。
しかし、先陣と第2陣に布陣した武将たちの士気は高い。
太田資正は3千5百騎を率いて城を攻める。
蓮池門まで攻め入り、新たな城兵が現れても、
「運ハ天ニアリ、一人残ラズ討死セヨ」と槍をとって戦った。
第2陣の1万2千余騎も奮戦する。
太田資正の士気に触発された彼らは、
城の北東より攻める。
広田直繁、川田谷忠朝が目の当たりにする大戦だった。
そんな戦闘の中、謙信はカリスマ性を見せる。
蓮池門まで自ら馬を進めると、
城兵たちの前で弁当を取り寄せ、堂々と茶を飲むのである。
城兵たちは千載一遇とばかりに鉄砲を構える。
そして、謙信に狙いを定め、引き金を引く。
ところが、一発も当たらない。
たまたま手元が狂っただけ。
次こそは外さない。
城兵たちは再び玉をこめると、謙信を狙った。
しかしまたしても一発も当たらなかった。
もう一度撃っても、左の袖と鎧の鼻に当たっただけで、
謙信は無傷だった。
元より毘沙門天の化身と言われた謙信である。
武神の加護を受けているに違いない。
謙信は茶をゆるゆる三服のむと、悠々とその場から立ち去った。
その姿に敵も味方も目を奪われ、
同時に畏れを抱かない者はいなかった。
広田直繁と川田谷忠朝も、そんな謙信を目の当たりにしていた。
この方こそ神の化身。
敵味方も越えた聖将である。
二人は呆然と謙信の姿に見取れていた。
しかし、その謙信をもってしても小田原城は落ちなかった。
兵粮が乏しくなり、また武田信玄が不穏な動きをみせたため、
謙信は一旦退却する。
そして、鎌倉の鶴岡八幡宮に向かうのだった。
小田原城(神奈川県小田原市)
小田原城攻めへの参陣である。
永禄3年8月に初めて関東へ越山した謙信に、
関東の諸将は従属の意を示した。
翌年、謙信が小田原城に着陣したとき、
城を取り囲んだ兵は11万5千余騎に及んだ。
その頃作成された上杉方の史料「関東幕注文」には、
「羽生之衆」として書き記されている。
広田直繁と川田谷(木戸)忠朝ら「羽生之衆」は、
忍城主成田氏らとともに第2陣に布陣。
先陣には、岩付城主太田資正らがいた。
11万5千騎の圧倒的な大軍の前では、
落城は時間の問題と思われる。
しかし、天文15年の河越夜戦のような前例もある。
油断はできない。
それに、小田原城の守りは固い。
謙信の感情の起伏の激しさを鑑みて、
「籠城シ、彼血気ヲ属シ、兵力ヲ疲弊セシメ」の作戦に出た北条氏康は、
下手に戦を仕掛けるのを避けた。
しかし、先陣と第2陣に布陣した武将たちの士気は高い。
太田資正は3千5百騎を率いて城を攻める。
蓮池門まで攻め入り、新たな城兵が現れても、
「運ハ天ニアリ、一人残ラズ討死セヨ」と槍をとって戦った。
第2陣の1万2千余騎も奮戦する。
太田資正の士気に触発された彼らは、
城の北東より攻める。
広田直繁、川田谷忠朝が目の当たりにする大戦だった。
そんな戦闘の中、謙信はカリスマ性を見せる。
蓮池門まで自ら馬を進めると、
城兵たちの前で弁当を取り寄せ、堂々と茶を飲むのである。
城兵たちは千載一遇とばかりに鉄砲を構える。
そして、謙信に狙いを定め、引き金を引く。
ところが、一発も当たらない。
たまたま手元が狂っただけ。
次こそは外さない。
城兵たちは再び玉をこめると、謙信を狙った。
しかしまたしても一発も当たらなかった。
もう一度撃っても、左の袖と鎧の鼻に当たっただけで、
謙信は無傷だった。
元より毘沙門天の化身と言われた謙信である。
武神の加護を受けているに違いない。
謙信は茶をゆるゆる三服のむと、悠々とその場から立ち去った。
その姿に敵も味方も目を奪われ、
同時に畏れを抱かない者はいなかった。
広田直繁と川田谷忠朝も、そんな謙信を目の当たりにしていた。
この方こそ神の化身。
敵味方も越えた聖将である。
二人は呆然と謙信の姿に見取れていた。
しかし、その謙信をもってしても小田原城は落ちなかった。
兵粮が乏しくなり、また武田信玄が不穏な動きをみせたため、
謙信は一旦退却する。
そして、鎌倉の鶴岡八幡宮に向かうのだった。
小田原城(神奈川県小田原市)