クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生市内で目にする “城”の字は? ―城橋―

2023年06月28日 | 羽生城跡・城下町巡り
羽生城の遺構は消え去っても、羽生の町なかで散見される「城の字」。

例えば、葛西用水路に架かる「城橋」がある。
かつて城のたもとには「しろばしや」という店があり、
意識せずとも羽生市民にとっては馴染みのある名称かもしれない。

ただ、葛西用水路の掘削は1660年で、
羽生城が廃城したのは1614年だから、
城が軍事施設として機能していた頃には、橋は存在していなかったことになる。
用水路の掘削は、既存の堀を利用したとすれば何らかの橋が存在していたかもしれないが、
少なくとも「城橋」という名称ではなかっただろう。

『新編武蔵風土記稿』には、城橋付近に城の大手(正門)があったと記されている。
同書は羽生城の構造についても触れられている。
が、江戸後期に編纂されたものであり、城の遺構が当時どこまで残っていたのか疑問視される。
遺構が皆無ではなかったにせよ、
城絵図の「浅野文庫蔵諸国古城之図」と「武陽羽生古城之図」を見比べても、
沼や曲輪が消滅していく様が見て取れることから、少なくとも戦国時代の面影はほとんど消えていたのではないだろうか。

したがって、『風土記稿』が伝える城橋に大手門があったというのも注意が必要である。
そもそも、同書は1660年以降の編纂である。
おそらく、記述者は「武陽羽生古城之図」を参考にしたのだろう。

羽生城時代、城橋の前身にあたる橋はあったかもしれない。
ただ、橋の東方に本丸が位置しているため、そこが大手門だったとは捉え難い。
橋から東へ向かう道にしろ、羽生城時代にその前身があったとしても、
整備され、一般的に使用されるようになったのは、廃城以降のことと思われる。

現在の城橋は道路の一部であり、車の交通量も多い。
昭和の時代、城橋の工事で使えなくなると、大渋滞を起こしたという。
いまや欠くことのできない橋である。
四方向から車が来るため、城橋を見学する際は気を付けたい。
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羽生の“初山”はどこをどう登る? ―6月30日・7月1日の初山祭りー

2023年06月26日 | 民俗の部屋
今年も7月1日が来て、“初山”を迎える。
周知のとおり、生まれてきた赤ん坊が初めて迎える7月1日に浅間神社を詣でる行事だ。
“初山参り”や“初山登り”などと呼ばれ、
詣でることで富士山を登ったことになるとしている。

羽生市内においては、古江宮田神社で初山祭りが開催される。
6月30日が宵祭り、7月1日が例祭。
古江宮田神社という名称だが、浅間神社及び秋葉神社が祀られているため、
初山は前者を参拝していることになる。
富士山を登り、子どもの無事の成長を祈念する。

同社は羽生駅から下って1つめの踏切に鎮座している。
小高い山は“毘沙門山古墳”と呼ばれる前方後円墳で、
これを富士山に見立てて登るわけである。
平地だから小高い丘はなく、だからといって人力で土を盛るのも労力を要するため、
既存の古墳を利用しようと思ったのだろう。
(古墳については拙著『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)を参照ください)

ただ、ここの浅間神社は最初から毘沙門山古墳の墳頂に祀られていたわけではない。
元々は、羽生北小学校に観音寺という寺院があり、その境内に鎮座していたという。
しかし、万治3年(1660)の葛西用水路掘削で移転を余儀なくされ、遷座した。
記録や言い伝え等を見聞きしたことはないが、
観音寺境内においても同社は小高い場所に祀られていたのではないだろうか。

実を言うと、墳頂には2つの浅間神社が鎮座している。
社殿に祀られているのを“上浅間”と呼び、
墳頂の中ほどに建つ「参明藤開山」が“下浅間”である。
古墳を登る石段が2か所あり、
最初に下浅間を詣でたあと上浅間に祈念するのが通例だった。
前者の石段を女坂と言い、後者は男坂の呼び名がある。

現在は男坂を登って、直接上浅間を参拝するのが通常となっている。
時代が移れば、祈念の仕方も変わるということだ。
ただ、子どもの健やかな成長を願う気持ちは変わらない。
出生率は年々下がっているが、初山参りは連綿と続いていくだろう。

6月30日、7月1日の境内は多くの人で賑わう。
コロナ禍で初山参りを自粛した人もいるかもしれない。
同社のホームページを見ると、
「前年度に、初山印を押せなかった人も是非いらしてください」とあるから、
改めて詣でるのを検討してもよい。
健やかな成長を願うとともに、
ニュースで流れる子どもに係る痛ましい事件が少しでも減ることを祈念したい。

羽生の浅間神社のホームページ
https://hatuyamamaturi.jimdofree.com/
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学びと研究の人の背中に何を見る?

2023年06月24日 | コトノハ
大人になっても、新たに学び始められる。
また、「卒業」もない。
かつて社会教育と呼ばれた「生涯学習」の語があるように、
自分の関心の高いもの、好きなことは生涯学び続けられるものだ。
『大人の学び方』(世界文化社)を著した宮崎伸治氏は、大人の学びを次のように定義する。

① 好きだからというただそれだけの理由で自発的に行うもの
② 努力を要するもの
③ 自分を成長させる、または社会に貢献することを目的とするもの

いま、放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルである植物学者“牧野富太郎”も、
己の好きなことを学び続け、貫き通した人物と言える。
お金儲けのためではない。
異性にもてるためでもない。
植物が好きで仕方ないから、自ずと行動してしまうのだろう。

むろん、酒蔵の頭首という立場だったから、
周囲の理解と協力が必要不可欠ではあったが、それがなくても実行に移していたかもしれない。
要は理屈ではなく、己の内なる声に従順だったのだろう。
それを貫き通したとき、「宿命」に変わる。

ところで、谷口克広氏が著した『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)という書籍がある。
1995年に刊行され、その後全面改訂した第2版が2010年に出ている。
一度開けば、著者の長年にわたる膨大な研究が結集された書ということがわかる。

研究として活用できるし、読み物としてもおもしろい。
内容もさることながら、僕は旧版の「あとがき」が好きだ。
短い文章だが、谷口氏の研究に対する姿勢、またその生き様を感じ取ることができる。

(前略)もともと好きで選んだ道のはずだけれど、今でも好きか、と問われると、答えるのに躊躇する。すっかりそうした生活のパターンができてしまい、好き嫌い以前に、やるのがあたりまえという形になってしまっているのである。振り返ってみれば、私の場合、三十代より四十代、四十代より五十になってからの二年間の方が、迷うことなく一心不乱に勉強しているのではなかろうか。
 長い教員生活でこれまでに教えた生徒は何千人にものぼるが、私のような人生を送る者はほとんどいないにちがいない。また、私自身教職を通じて、彼らに人生の糧をあたえてきたと言い切れる自信もない。だが、たったひとつ私が胸を張って彼らに語ることのできる教訓がある。それは、平凡な能力の持ち主が、決してめぐまれた環境になくとも、長く続けることによって一つの成果をあげることができる、ということである。
 「継続は力なり」。継続さえすれば、必ず力になる。この本を通じて、これまで送り出してきた大勢の教え子たちにひとつの真実を贈りたい(後略)

公務に追われても、日ごと1時間は机に向かっていたという谷口氏。
日曜やまとまった休みに研究及び「史料漁り」をするほかなく、
大きな制約がある中、コツコツと積み重ねてきた。
その成果が『織田信長家臣人名辞典』として表れ、
このほかにも多くの本を著し、いずれも評価は高い。

歴史学習・研究に関して言えば、いつでも始められるし、また終わりもない。
考古学者で知られる斎藤忠 氏は104歳で没するまで生涯現役だった。
歴史を勉強している人、研究している人は、
「大人の学び」を実践している方が多いのではないだろうか?
お金儲けのためでも、異性にもてるためでもなく、好きだからその世界に入り込んでいる人。
(むろん、お金やもてる目的でやっている人もいるだろうが)

歴史に対する「好き」はいくつか種類がある。
時代の流れが好きな人、歴史上の人物に惹かれる人、その時代の文化に心奪われる人など、
入り口は多種多様だ。
年齢制限はないし、やればやるほど派生する枝葉が増えて深みが増すものだから、
「十分やり尽くした」と思う人は少数派ではないだろうか。

牧野富太郎も94歳まで現役で研究し続けた人物だった。
和田秀樹氏も述べているが、高齢の研究者がいたら、
その年まで研究ができる、学び続けられると捉えてよいだろう(講演CD「生涯学習のススメ 40歳からの勉強法」)。

それを福音と考えるかは個人による。
人によっては、終わりが見えないことにげんなりし、絶望するかもしれない。
「もういいや」と投げ出すこともあるだろうか。

あるいは、そこまで深く考えず、気軽に好きな世界に触れ続けるというのも手段の一つと思う。
「生涯学習」も、楽しかったり面白くなければ長続きしない。
強制でも義務でもないのに、苦痛に感じるものをどうして続けようと思うだろう。

ただ、多くは古くから各時代の人が積み重ね、
次の世代へつないできたものである。
一つの成果を踏まえて次代の者が深化させ、さらに次の世代が推し進め、
時は予想もしなかった新たな扉が開かれる。
そうした時間の積み重ねによって成り立っていることに想いを馳せれば、
本時代における自分の役割、やるべきこと、次代へつなぐものが見えてくるかもしれない。

牧野富太郎もそうだったのではないだろうか。
富太郎を「植物学者」として見なさない同世代の人はたくさんいたに違いない。
悔しい想いも少なからずしたはずだ。
しかし、生涯学び続け、成果を形にし、
その足跡を次代へつないだ富太郎はいまなお輝き続けている。
時代が変わっても、そんな生き方を素敵だと思う。
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青毛堀川の“起点”はどこにある?

2023年06月22日 | 利根川・荒川の部屋
埼玉県加須市のビバモール加須の北側に、“青毛堀川”が流れている。
そこからほんの少し上流へ向かうと、
北青毛堀川と南青毛堀川が合流している地点がある。
ここが青毛堀川の起点である。

合流地点には白い石碑が建っている。
小さな石碑だが、妙に存在感を放っている。
その石碑の東面には「境界 準用河川青毛堀川起点」とあり、
西面には「青毛堀用悪水路土地改良区」の銘が確認できる。

合流地点と石碑は、青毛堀川に架かる橋からよく見える。
石碑自体は小さいが、車内からも目にすることができるだろう。
ただ、車から降りてわざわざ見に行くには、いささか負担に感じるかもしれない。
距離としては大したことないが、交通量の多さが二の足を踏んでしまう。

左岸には新興住宅が軒を連ね、そこから北へ抜ければ加須南小学校がある。
住宅も学校も新しく、ビバモール加須も工業団地も古参ではない。
さらに少し川を上れば、完成して間もない埼玉県済生会加須病院がそびえたっている。

「開発」の象徴のような景観かもしれない。
田んぼの中を広い道路が通り、今後徐々に民家も増えていくのではないだろうか。

2本の川の合流と、ポツンと建つ石碑。
その橋を通るたび、つい目を向けてしまう。
特殊な景観というわけではないが、惹かれるものがある。

ちなみに、この川の名称は青毛村(旧太田村・現久喜市)に由来するという。
かつて、阿佐間村(旧大利根町)を流れているから利根川の一部が浅間川と呼ばれていたのと似ている。
なお、収穫にはまだ早い作物を刈り取るところに「青毛」の由来があるらしい。
ただ、これは説の一つとして留めておくのが無難だろう。

青毛村には、亡くなった義母の実家がある。
同村には河畔砂丘が所在することもあり、何度か足を運んだことがあった。

義母の嫁ぎ先は、青毛堀川の上流にあたる。
住まいから近く、嫁いでから何度も川を目にしたはずである。
川から実家を連想しただろうか。
その水面に、遠い過去を写すこともあったかもしれない。
東武伊勢崎線の電車の中からも目にすることのできる青毛堀川。
今日もたくさんの人生を水面に映して川は流れている。
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羽生市内で目にする “城”の字は? ―東城橋―

2023年06月20日 | 羽生城跡・城下町巡り
羽生城の遺構は消えても、
町の中に散見される「城」の字。

例えば、「東城橋」がある。
埼玉県羽生市東8丁目に架かる橋で、
うどん・そば店「よしの」のすぐ北側に位置する。
道路の一部となっているから、「橋」という認識を持っている人は少ないかもしれない。

「東城橋」があるなら西・北・南があるかと言えば、ない。
東城橋から西に向かってぶつかるのは「城橋」である。
前者が城沼落としに対し、後者は葛西用水路に架かっている。

城の字が付いても、戦国時代まで遡らない。
城絵図を見ると、羽生城は東南北を大沼で覆われているため、
往時において東城橋は姿形もなかったと思われる。

橋のそばは交差点になっており、車の交通量が多い。
なので、見学の際には注意が必要だ。

この十字路を通り過ぎるたび、過去の時間が交差する。
かつて、「よしの」の向かいには「シバタ薬局」という店舗が建っていた。
髪を茶色く染めたのは15歳のときで、
人生初のヘアカラー購入は「シバタ薬局」だった。

学校で髪を染めることは禁じられていたから、
身だしなみ定期検査をクリアする必要があった。
そのため、検査前日に「シバタ薬局」で手に入れたのは髪を黒くするヘアカラー。
付け焼刃もいいところだったが、不思議と職員室に呼び出されることはなかった。

「シバタ薬局」の向かい側には、「清香軒」というラーメン店があった。
同級生から美味と教えられ、部活帰りに友人と何度も足を運んだ。
いつしか常連客の一人になっていたと思うが、
期末テスト前の放課後に食べたのを最後に、わけあって足を運べなくなってしまった。
いつの間にか閉店してしまい、ラーメンのみならず終わっていく寂しさを知った。

東城橋から城沼落としを下っていくと、やがて中川に合流する。
その手前に「セーブオン」というコンビニがあった。
他校の同級生がバイトをしていたらしい。
釣り場へ向かう明け方、窓越しに見えたのはその同級生だったかもしれない。
それが本人だったか否かいまもわからず、
答えを知ったところでどうにかなるわけでもないのに、そんなことが妙に引っかかる。

「清香軒」の横にあったお好み焼き店は最初で最後の入店となり、
交差点近くに住んでいた国語教師は、とっくに引っ越しているだろう。
変わらないのは、「よしの」の美味しいそばくらいか。

カウンターでラーメンをすすっていた頃は「城」の視点を持っておらず、
どこにでもある町の一角にしか目に映っていなかった。
「城橋」の言葉に何ら違和感を覚えず、
そこが「東城橋」と知っても立ち止まることはなかった。

橋の欄干代わりのカードレールには、
「東城橋」と書かれたプレートが取り付けられている。
信号待ちをしている間、遠い羽生城の時代に想いを馳せてもいいかもしれない。
時間が交錯するだろうか。
ただ、上杉謙信が羽生の地に立った1574年よりも、
「清香軒」で最後にラーメンを食べた1995年の方が遠くに感じるのはなぜだろう。


埼玉県羽生市
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休むにも“技術”がいる? ―西伊豆松崎町―

2023年06月18日 | 歴史さんぽ部屋
tさんに連れられて、船から釣り糸を垂らした。
教わるままに小エビを針に刺し、西伊豆の海の数メートルの深さまで落とす。

釣り糸の動きから魚が食いついたかどうかがわかるという。
なるほど、怪しい動きに気付いて糸を上げてみるとアジがかかっていた。
ヘラ釣りの感触とは違う。
その気になれば船上でアジを捌き、食べることもできただろう。

異なるのは棹の感触のみならず、自分の体が揺れていること。
酔い止めのクスリをもらったのに、見事なまでに船酔いに襲われる。
下を向くと一気に酔いが来る。
気持ち悪くて仕方がない。
なるべく顔を下に向けないようにしても、
エサの仕掛けでどうしても船酔いコースを辿ってしまう。

結局、アジ2匹とコサジ1匹を釣り上げ、陸に戻ることにした。
tさんも僕と同じ釣果に加え、サバを釣り上げていた。
僕の船酔いのためtさんの釣果を邪魔してしまい、申し訳ないことをした。

tさんは気が向くと西伊豆へ出掛けるという。
映画「世界の中心で愛を叫ぶ」が好きで、以来松崎町を訪れるようになったらしい。
子どもはすでに大きくなったから、一人出掛けて気ままに釣り糸を垂らすのだとか……。

大人の休日である。
贅沢な過ごし方かもしれない。

休むにも技術がいる。
心身に支障をきたして以来、そう考えるようになった。

休み方にも「静」と「動」がある。
何もせずのんびり過ごすのが前者ならば、
tさんの西伊豆での過ごし方は後者だろう。

「静」と「動」をバランスよく組み合わせるのが、大人の上手な過ごし方という(西多昌規著『休む技術』だいわ文庫)。
ただ、心を壊した場合は「静」が重視されるから、
その組み合わせのバランスはその時々によって異なるかもしれない。

実は、少し前から休日の過ごし方に悩んでいた。
これまでの過ごし方がしっくりこない。
脳内からドーパミンが出ない。
なんか不安。
心配事が頭から離れない。

心が倦んでいく。
休んだ気になれず、実際に勤務をされている方には申し訳ないが、何十連勤もしているような感覚に見舞われる。
版元から次の一手がなく、辛抱強く待つことにいささか疲れてしまったせいもあるかもしれない。

そんなとき、海釣りに誘ってくれたのがtさんだった。
渡りに船で、これまで自分にはなかった世界の風に吹かれたかった。
何かきっかけが欲しかった。

tさんも、僕と息子が釣りへ出掛けるきっかけになってくれればと言ってくれた。
確かに、一度経験してしまえば選択肢に組み込まれる。
tさんの世界にお邪魔する形でその船に乗ったようなものだった。

確かに、そこは普段自分が目にすることのない世界が広がっていた。
休み方も迎える転機があるらしい。
いや、物理的ではなく感覚的な節目が存在するのかもしれない。
コロナウイルスによる自粛ムードも影響しているように思う。
一度トンネルに入った心身は、そこから抜け出たときに相応のエネルギーを要する。
つまり、負担が大きい。
「別に変わらないよ」と言う人も多いが、僕はまだ軌道に乗れずにいる。

会心の一撃を求めず、徐々に自分のペースを掴んでいくしかない。
書を捨て町へ出ようと言ったのは寺山修司だった。
書を捨てることはできそうもないが、
これまでの凝り固まった世界から距離を置くことは可能だろう。
異なる世界を前にしても、「たたくより、たたえ合」いたい(ACジャパン)

ところで、船酔いの克服の仕方はあるのだろうか。
いつか船釣りをリベンジしたいものだ。
海なし県に住んでいるから、船に乗る機会はそうはない。
インターネットで検索したら、ブランコやシーソーなどで訓練する方法もあるらしい。
息子も乗り物酔いしやすい体質だから、
船の前に、とりあえず近所の遊具から乗るところからかな……。
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羽生市内にある“城”の字は? ―城沼公園―

2023年06月16日 | 羽生城跡・城下町巡り
埼玉県羽生市内に城の遺構(堀や土塁など)はないが、
「城」の字がいくつか散見される。

例えば、「城沼公園」。
羽生市東7-8に位置する公園で、
羽生警察署や羽生市役所が近い。

羽生城は平地に築かれた平城で、
絵図から推察されるに、沼を天然の堀としていた。
沼に突き出るようにあった台地を利用し、
そこに本丸や二の丸といった郭を配置したのだろう。

したがって、羽生城は沼や湿地帯で防御を固めた城だったことが考えられる。
このことは、近隣の忍城や騎西城、館林城や深谷城などからも類推される。

羽生城が廃城となったのは慶長19年(1614)で、
城跡は代官所として使用されても、軍事的要素は薄くなっていったのだろう。
時代とともに沼は埋め立てられ、新田として開発された。
沼の全てが一気に消えたわけではなく、
昭和49年の羽生市役所庁舎完成以前に残っていた沼や湿地帯を実際に目にした人は多い。

現在はアスファルトに覆われ、沼を想像するのも難しい。
ただ、ゲリラ豪雨後に市役所付近に水が溜まるのは往時の名残と言ってよい。
その名残を示すかのように、「城沼」の言葉が使用されている。

城沼公園は個人的に好きな公園の1つだ。
南には中川、少し西へ行けば葛西用水路が流れている。
かつては伊奈忠次の銅像が近くに建ち、中川沿いには桜並木があったが、
中川改修工事によっていずれも姿を消した(銅像は移転された)。

かつて公園内にあったターザンロープもない。
ただ、キンカ堂の古書市の帰りに『田舎教師』を拾い読みしたベンチはいまも残っている。
三角屋根の四阿も現存し、園内のケヤキも変わらず立っている。

景色が変われば、むろん人も不変ではない。
あの頃かかりつけの医師はなかったのに、
気が付けば城沼公園から2軒横の平野クリニックの常連になっている。


城沼公園(埼玉県羽生市)
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埼玉で古墳をあつめる“御墳印”が始まった?

2023年06月13日 | 考古の部屋
令和5年6月10日より、埼玉県内で「御墳印」プロジェクトがスタートした。
御朱印や御城印ならぬ、御“墳”印である。
つまり、県内の古墳を巡ってスタンプ(御墳印)を集めるというもの。

古墳の熱い季節がやってきた。
古墳の存在感に惹かれるのはなぜだろう。
なぜ、古代の人がその場所に、どんな理由で、
どのようにして古墳を築いたのかという想像をかき立てられるからだろうか。

古墳を築造するにも政治的・経済的理由があったわけで、
気まぐれに思いついて作ったわけではないだろう。
古墳の規模や形態、副葬品から被葬者の人物像に想いを馳せれば、
出土した埴輪も歴史に彩りを添える。

僕は古墳の研究者ではないが、昔から不思議と惹かれるものがあった。
身近に古墳があったせいかもしれない。
保育園の卒園アルバムを開くと、
“丸墓山古墳”の階段に並んだ集合写真があることに驚く。
おそらく人生で初めて行った“さきたま古墳群”だったのだろう。

“初山祭り”でおでこにハンコを捺してもらったのは、
羽生の毘沙門山古墳の墳頂に祀られた神社だった。
0歳だから記憶があるはずもないが、人生初の古墳との接点だったに違いない。

中学生のとき、誰の発案からか自転車で向かったのは吉見町の“百穴”だった。
日本一の川幅を自転車で越えて百穴へ向かい、現地ではみそおでんを食べた。
一緒に行った同級生に古墳好きがいたとは思えず、
誰が何のために言い出したのか、もはや永遠の謎である。

中学1年生のときに校外学習で行ったのは隣町の行田市で、
忍城コースとさきたま古墳群コースの2種類があった。
もし僕らの班がそのとき古墳コースを選んでいたら、
僕は大人になって歴史の中でも古墳時代に目を向けていたかもしれない。

1995年の行田からの帰り道でいつも目にしていた真名板高山古墳で、
息子がまだ幼児のときに連れて行ったのは、
深谷の鹿島古墳群や東松山の将軍塚古墳だった。

身近にあった分、古墳に対する親近感は自ずと育まれてきたように思う。
いまでも古墳を見るのは好きだし、その歴史的背景に想いを馳せてしまう。
職場の同期は、「古墳へ行くまでが好き」と言った。
なるほど、あの行くまでのワクワク感はなんとも言えない。
それは自転車でも車でも変わらない。

御墳印プロジェクトは、そんなワクワク感に満ちた企画ではないだろうか。
すでに行ったことのある場所、未知の古墳、
初めて行く地域もあれば、見知った町なのに知らなかった古墳というのもあるだろう。
御墳印をきっかけに、古墳の熱い風に吹かれてみてはいかがだろうか。
今回用意された御墳印は以下のとおり。

・さきたま古墳群の9古墳(埼玉県行田市)
・小見真観寺墳(同上)
・八幡山古墳(同上)
・地蔵塚古墳(同上)
・真名板高山古墳(同上)
・浅間塚古墳(同上)
・宮塚古墳(熊谷市)
・甲山古墳(同上)
・永明寺古墳(羽生市)
・天王山塚古墳(久喜市)
・将軍塚古墳(東松山市)
・若宮八幡古墳(同上)
・鹿島古墳群(深谷市)
・吉見百穴(吉見町)

ちなみに、拙著『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)で取り上げた古墳もある。
参考までに、この機会に参考にしてもらえれば幸いです。


天王山塚古墳(久喜市)


鹿島古墳群(深谷市)


宮塚古墳(熊谷市)


吉見百穴(吉見町)


永明寺古墳(羽生市)

御墳印ホームページ
https://gofunin.jp/
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どんなところに“歴史”を面白くさせるスイッチがあるのか?

2023年06月06日 | コトノハ
歴史に興味を持つきっかけはいくつかあったにせよ、
それは教科書を読んだからではなかった。
いまでは時々読み返して面白がってはいるが、
10代の心の琴線に触れるものではなかった。

1990年代半ば、あの頃読んで面白かったのは、
菅野祐孝氏の『菅野日本史B講義の実況中継』(語学春秋社)だったのを覚えている。
なぜなら、そこに菅野氏の史観があったから。

短くはない義務教育の中で、
何が一番印象に残っているかというと、教師が話した逸話にほかならない。
それは、その教師の「個」や「人間性」に触れるからなのだろう。
このことは、自分が表現をする上でもよく思い返し、確認することでもある。

記憶に残る面白い受験参考書に、『田村の「本音で迫る文学史」』がある。
その「はしがき」には、次のように書かれている。

(前略)どうせ「面白参考書」なのだから、読み物として面白いものにしようと思った。
それには事実の羅列ではなく、著者としての“私”が出なくてはならない。
つまり、私の文学史観がはっきり示されなくてはならないと思ったのである(後略)
(田村秀行著『田村の「本音で迫る文学史」』大和書房)

ここには、“面白さ”の本質について触れている気がする。
受験参考書ゆえ、知識の羅列は免れないものの、
本書は田村氏の「文学史観」が織り交ざっており、特異な場所に位置している。
つまり、教科書ではない。
田村氏でしか書けない1冊となっている。

人は、その人の個性に触れたとき、関心を覚えるのだろう。
情報や知識の羅列が悪いわけではない。
それはそれで重要である。
ただ、その人の考え方、価値観、見方、経験談、逸話が、
ときに情報や知識を凌駕することがある。
その人を通して、世界に興味を持つことは往々にしてあるだろう。

自分が講師として人前で話をするようになったとき、
職場にいた先生が、まず自分を語りなさいと教えてくれたのをよく思い出す。
聞き手は、講演のテーマもさることながら、それ以上に講師に関心を持っているもの。
講師がどんな人物なのか、その人間性を見ているのだから、
遠慮せず自分を出しなさいという教えだった。

もう昔の話で、先生はすでに鬼籍に入られてしまったが、
その言葉を疑ったことは一度もない。
先生自身、独自の個性を持っていたのはそのことに意識的だったからかもしれない。

“面白さ”に意識的で戦略的なのは小説家で、
中国の歴史を題材に作品を書き続けている北方謙三氏は、
『北方謙三の『水滸伝』ノート』の中で次のように述べている。

 ですから、キューバ革命を意識しながら『水滸伝』を書くということは、常に私の心を熱くしてくれました。自分の青春を、実際の渡しの人生の中で蘇らせることはできません。しかし、小説の中でなら可能なのです。あの熱い季節をもう一度、小説の中でなら、生き直すことができたのです。そして、それこそが小説なのだという思いも、私の中にはありました。
 (北方謙三著『北方謙三の『水滸伝』ノート』NHK出版)

そして、「歴史的に動かしがたい事実に立脚しつつ、そこから作家的な想像力の翼を広げてゆく」という北方氏。
小説家としての歴史の捉え方は、
「人一人の生き方でとらえるしかない」とも述べている。

氏の作品の面白さと人気の高さは、小説的技法もさることながら、
そこに作家の強烈な個性が表れているからだろう。
歴史を題材にしているとはいえ、そこには北方氏の独自の世界がある。
歴史的人物も作家の「人生観や人間観」が反映されているからこそ、
読者を惹きつけてやまない。

では、学問的に歴史に対して面白さを求めてはいけないのだろか。
そもそも、歴史学が一個の学問として独立したのは明治維新以降という(坂本太郎著『日本の修史と史学』講談社学術文庫)。
叙述というのはなかなか難しい。
史料批判の手続きを踏んでも、その捉え方は一つに限られるわけではない。
どういう史料をどのように使用するかは叙述者による。
主観によって物の見方も変わる。

だから、明治34年より事業が開始された『大日本史料』のように、ひたすら史料を編纂するのがしかるべき方法であり、
史観や面白さはあくまでも個人的な営みでしかないのだろうか。
歴史学に面白さを求めてはいけないのか。
しかし、遅塚忠躬氏は次のように語る。

 (前略)むしろ,歴史学が,研究者の個性(好み)や着想(想像力)を活かし,それぞれの創意工夫を生かす余地の非常に大きい,ソフトな学問で,それだけにたいへん魅力的な学問である(後略)
 (遅塚忠躬著『史学概論』東京大学出版会)

菅野祐孝氏の『菅野日本史B講義の実況中継』を初めて読んで以来、
いつの間にか30年近い歳月が経った。
いまでも、関心のスイッチが押されるのは“人”であることが多い。
歴史的人物の面白さ、その人の持つ史観、人間性、あるいはドラマ。
そのようなところから心の琴線に触れ、派生していくことがほとんどだ。

歴史的事件に興味を覚えたら、その人の史観だけに限らず、
ほかの人はどう捉えているのか、それに関する文献を紐解く。
それに並行して史料に触れる。
論文・小説・自治体史、参考書等にはそれならではの面白さがあり、
史料には史料の迫力と魅力がある。

何に面白さを感じるかは個人差がある。
なんだかんだ言っても、面白くなければ長続きしないのではないだろうか。
それは、惹きつけてやまぬ魅力、あるいは好奇心に置き換えてもいいだろう。
新たに発見される史料もあれば、全く別のジャンルのものと結びつき、
化学反応を起こすこともあるから油断ならない。

だから、好奇心の芽は摘まない方がいい。
社会に迷惑をかけるものでなければ、
面白さを感じるものにどんどん首を突っ込んでいけばいい。
そう信じて生きてきたこの30年。
そうさせてくれた環境と人に感謝もすれば、
かえって失ったものもあって悩むこともあったが、
生きてさえいればどんな展開もありうるのだから、
総じて「不正解」と疑ったことは、一度もない。
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妻沼聖天山の“未完成”から幸せを祈る?

2023年06月04日 | 神社とお寺の部屋
6月2日、朝から晩まで降り続いた雨。
旧暦のこの日は、
織田信長が明智光秀の謀叛にあう“本能寺の変”が起こった日でもあった。

使い古された言葉だが、やまない雨はない。
ずっと降り続けた雨も、翌日には雲の切れ間から太陽の光が差した。

どんなことも、その状況が続くわけではないということ。
苦しいこと、不安なこと、不満なこともいつか転機が訪れる。
そういう例え。

転機は来るべきして来る。
物事にはタイミングというものがある。
急いては事を仕損じる。
状況を打破しようと無理するより、
時が来るのを辛抱強く待った方がいいこともある。
やまない雨はないのだから。

一方で、鉄は熱いうちに打てともいう。
ここが打ちどころと感じれば、そのときこそ「転機」なのだろう。
遠慮せず、思い切って前進するのみ。

「あとでいいや」と思えば、その「あと」は2度とやってこぬもの。
例え前進して失敗したとしても、前より状況は変わっている。
だから、きっと好転すると信じて焦らず、力まず、無理をせず、
じっと待つことも大切なのだと思う。

ところで、状況の変化は、苦しいことだけに限らない。
充実した日々においても、転機のときはやってくるということだろう。
建築におけるジンクスのようなものに、
「わざと完成させない」というものがある。

埼玉の日光と言われた“妻沼聖天山”(埼玉県熊谷市)の彫刻も、
本殿に色が塗られていない箇所がある。
職人が忘れたわけではない。
「完成」したものは、いつか壊れてしまう。
換言すれば、「完成後」に待ち受けているのは、
「老朽化」や「破損」、あるいは「破壊」といったもの。
だから、わざと色を塗らず、「完成」させていないのである。

未完成のままならば、建設途中なのだから朽ちていくことはない。
そのような考えのもと、色を塗っていないという。
そこには、建築の美学のようなものも感じる。
未完成だからこそ美しい。
そんな思いも込められている気がする。

これを「やまない雨はない」に当てはめてみれば、
いまの日々が充実しているなら、あえて逃げ道を作っておいた方がいいということかもしれない。
「幸福だ」と言い切ってしまうと、そうではない日々に向かっていくことになる。

幸福を長続きさせるには、あえて未完成の部分を残しておく。
胸の内の不安・不満・不平を、引きずられない程度に意識する。
心の隙間を残しておく。
完璧な幸福ではないけれど、まあまあ幸せ、と感じるくらいがちょうどいいのかもしれない。
そうすれば、平穏な日常が続いていく。
そういうことだろうか。

時は流れ、嫌でも変化は訪れる。
転機を待ち望む人もいれば、そうでない人もいる。
どちらにせよ、何に重きを置き、どういうものに充実感を覚えるのか。
自分自身の価値観を見つめることは、今度ますます大切になっていくだろう。
その価値観もまた、やまない雨はないように不変ではないのだから。
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