記事「羽生のあの桜並木はいつやってきた?」(07.1.30)で、埼玉県羽生市の葛西用水路沿いの桜並木を紹介しました。
この桜が植えられたのは昭和31年です。
以前にもあったそうですが(大天白神社まで続いていた)、
先の大戦で濫伐されたということです。
(用水路沿いの愛宕神社にも大きな桜があったとのこと)
しかし、昭和12年頃の写真を見ると、
葛西用水路沿いには“ハンノキ”が並んでいたようです(画像参照)
『羽生旭町誌』に所収された昭和20頃の地図には、
ハンノキは用水路左岸に描かれています。
この樹木は水気を好む植物。
ラテン語Alor anne(水辺に栄える)の言葉から命名され、
『日本の樹木』には次のように記されています。
普通ハンノキというのは平地の湿地などに多いもので、水田の畦などに立っていたり、
あるいは稲架用にわざわざ植えてあったりする。
実際ハンノキは水田化された湿地で本来もっとも典型的な樹木だった。
むしろ、湿地本来の樹種と言うべきである。
かつて羽生市に並んでいたハンノキも葛西用水路沿いという水気の場。
そもそも多くの田んぼの畦道にはハンノキが立っており、
農作業にしばしば使われていました。
生活にとけ込んだ樹木だったと言えます。
ところで、羽生城絵図に「武陽羽生古城之図」(1753年成立)があります。
そこには東谷天神社以外に具体的な建物は描かれていないのですが、
2列のエノキ並木が確認できます。
ひとつは三ノ丸、もうひとつは士辺曲輪の消滅した堀の上です。
おそらくこれは作成者が実際に目にしたものを描いたのでしょう。
ちなみに、この絵図に葛西用水路(1660年開削)は描かれていません。
羽生城の遺構は全て消滅しており、
堀や土塁、曲輪跡がどこなのか具体的にわからないのが現状です。
ほかの視点から探っていかなければならないのですが、
絵図に描かれたエノキ並木こそが葛西用水路の流路かもしれません。
士辺曲輪を羽生旭町付近とするならば、
2列あるエノキ並木の内西側のがそれにあたるでしょうか。
城跡を描いたもう1枚の「東谷の絵図」(1867年成立)にも、
やはり用水路沿いに樹木が並んでいるのです。
あくまでもぼくの推測ですが、
エノキ並木のいずれかが葛西用水路を指し示しているものと思われます。
現在の羽生城跡は住宅ばかりが建ち並んでおり、
樹木はほとんど見掛けられません。
しかしかつては屋敷林が多くあったそうです。
ぼくがうっすら覚えているのは現在の「ケンコーセンター」にあった屋敷林で、
冬になるとたくさんの鳥がとまっていました。
その頃はそこが城跡という意識はなく、
気が付いたらすでになくなっていた状態でした。
もう1度あの景色を目にしたい思いは、
羽生城の奥へ入るごとに強まっています。
またそれ以前の田畑の広がる生々しい風景を見られなかったことは、残念でなりません。
引用文献
辻井達一著『日本の樹木』中公新書
この桜が植えられたのは昭和31年です。
以前にもあったそうですが(大天白神社まで続いていた)、
先の大戦で濫伐されたということです。
(用水路沿いの愛宕神社にも大きな桜があったとのこと)
しかし、昭和12年頃の写真を見ると、
葛西用水路沿いには“ハンノキ”が並んでいたようです(画像参照)
『羽生旭町誌』に所収された昭和20頃の地図には、
ハンノキは用水路左岸に描かれています。
この樹木は水気を好む植物。
ラテン語Alor anne(水辺に栄える)の言葉から命名され、
『日本の樹木』には次のように記されています。
普通ハンノキというのは平地の湿地などに多いもので、水田の畦などに立っていたり、
あるいは稲架用にわざわざ植えてあったりする。
実際ハンノキは水田化された湿地で本来もっとも典型的な樹木だった。
むしろ、湿地本来の樹種と言うべきである。
かつて羽生市に並んでいたハンノキも葛西用水路沿いという水気の場。
そもそも多くの田んぼの畦道にはハンノキが立っており、
農作業にしばしば使われていました。
生活にとけ込んだ樹木だったと言えます。
ところで、羽生城絵図に「武陽羽生古城之図」(1753年成立)があります。
そこには東谷天神社以外に具体的な建物は描かれていないのですが、
2列のエノキ並木が確認できます。
ひとつは三ノ丸、もうひとつは士辺曲輪の消滅した堀の上です。
おそらくこれは作成者が実際に目にしたものを描いたのでしょう。
ちなみに、この絵図に葛西用水路(1660年開削)は描かれていません。
羽生城の遺構は全て消滅しており、
堀や土塁、曲輪跡がどこなのか具体的にわからないのが現状です。
ほかの視点から探っていかなければならないのですが、
絵図に描かれたエノキ並木こそが葛西用水路の流路かもしれません。
士辺曲輪を羽生旭町付近とするならば、
2列あるエノキ並木の内西側のがそれにあたるでしょうか。
城跡を描いたもう1枚の「東谷の絵図」(1867年成立)にも、
やはり用水路沿いに樹木が並んでいるのです。
あくまでもぼくの推測ですが、
エノキ並木のいずれかが葛西用水路を指し示しているものと思われます。
現在の羽生城跡は住宅ばかりが建ち並んでおり、
樹木はほとんど見掛けられません。
しかしかつては屋敷林が多くあったそうです。
ぼくがうっすら覚えているのは現在の「ケンコーセンター」にあった屋敷林で、
冬になるとたくさんの鳥がとまっていました。
その頃はそこが城跡という意識はなく、
気が付いたらすでになくなっていた状態でした。
もう1度あの景色を目にしたい思いは、
羽生城の奥へ入るごとに強まっています。
またそれ以前の田畑の広がる生々しい風景を見られなかったことは、残念でなりません。
引用文献
辻井達一著『日本の樹木』中公新書