クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

絵図に描かれたエノキの指し示すものとは? ―武陽羽生古城之図―

2007年01月31日 | 羽生城跡・城下町巡り
記事「羽生のあの桜並木はいつやってきた?」(07.1.30)で、埼玉県羽生市の葛西用水路沿いの桜並木を紹介しました。
この桜が植えられたのは昭和31年です。
以前にもあったそうですが(大天白神社まで続いていた)、
先の大戦で濫伐されたということです。
(用水路沿いの愛宕神社にも大きな桜があったとのこと)

しかし、昭和12年頃の写真を見ると、
葛西用水路沿いには“ハンノキ”が並んでいたようです(画像参照)
『羽生旭町誌』に所収された昭和20頃の地図には、
ハンノキは用水路左岸に描かれています。
この樹木は水気を好む植物。
ラテン語Alor anne(水辺に栄える)の言葉から命名され、
『日本の樹木』には次のように記されています。

 普通ハンノキというのは平地の湿地などに多いもので、水田の畦などに立っていたり、
 あるいは稲架用にわざわざ植えてあったりする。
 実際ハンノキは水田化された湿地で本来もっとも典型的な樹木だった。
 むしろ、湿地本来の樹種と言うべきである。

かつて羽生市に並んでいたハンノキも葛西用水路沿いという水気の場。
そもそも多くの田んぼの畦道にはハンノキが立っており、
農作業にしばしば使われていました。
生活にとけ込んだ樹木だったと言えます。

ところで、羽生城絵図に「武陽羽生古城之図」(1753年成立)があります。
そこには東谷天神社以外に具体的な建物は描かれていないのですが、
2列のエノキ並木が確認できます。
ひとつは三ノ丸、もうひとつは士辺曲輪の消滅した堀の上です。
おそらくこれは作成者が実際に目にしたものを描いたのでしょう。
ちなみに、この絵図に葛西用水路(1660年開削)は描かれていません。
羽生城の遺構は全て消滅しており、
堀や土塁、曲輪跡がどこなのか具体的にわからないのが現状です。
ほかの視点から探っていかなければならないのですが、
絵図に描かれたエノキ並木こそが葛西用水路の流路かもしれません。

士辺曲輪を羽生旭町付近とするならば、
2列あるエノキ並木の内西側のがそれにあたるでしょうか。
城跡を描いたもう1枚の「東谷の絵図」(1867年成立)にも、
やはり用水路沿いに樹木が並んでいるのです。
あくまでもぼくの推測ですが、
エノキ並木のいずれかが葛西用水路を指し示しているものと思われます。

現在の羽生城跡は住宅ばかりが建ち並んでおり、
樹木はほとんど見掛けられません。
しかしかつては屋敷林が多くあったそうです。
ぼくがうっすら覚えているのは現在の「ケンコーセンター」にあった屋敷林で、
冬になるとたくさんの鳥がとまっていました。
その頃はそこが城跡という意識はなく、
気が付いたらすでになくなっていた状態でした。
もう1度あの景色を目にしたい思いは、
羽生城の奥へ入るごとに強まっています。
またそれ以前の田畑の広がる生々しい風景を見られなかったことは、残念でなりません。

引用文献
辻井達一著『日本の樹木』中公新書
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盗まれたのは“モンキッキー”か“山川恵里佳”か? ―嫁盗み―

2007年01月31日 | 恋部屋
gooニュースでモンキッキー(お笑いタレント)と山川恵里佳(タレント)の結婚が報じられていました。
先日明らかになった藤原紀香と陣内智則の結婚といい、
いまや芸人がモテる時代なのかもしれません。
中にはこれを機にお笑いの門を叩く者もいるはずです。

それにしてもネットで報道された「モンキッキーと山川恵里佳……」の文面にはおかしさがこみ上げてきます。
“モンキッキー”を知っているのならまだしも、
知らない人には色々な意味で首を傾げてしまいそうです。
そのモンキッキーとはどんな顔をしていて、国籍は日本なのか……と。
ぼく個人はなんとなく“山”を連想してしまいます。
(だから嫁が「山川」?)

そんなひょうきんな(?)芸名にちなんで、
結婚に関するおもしろい風習があります。
それは“嫁盗み”です。
この言葉通り、嫁を盗むのです。
人妻ではなく未婚の女性、すなわち嫁になる娘を。
この風習は全国に分布していましたが、特に西日本が盛んでした。
何種類かある“嫁盗み”の内もっともオーソドックスだったのは、
娘の両親に結婚を反対された男が仲間に頼み、
こっそり娘を盗み出してしまうというものです。
盗むと言っても駆け落ちと違って近くの適当な場所(土蔵など)に保護し、
改めて両親のもとへ相談にいくというものでした。
いわば娘は人質、両親への報告は強迫のようですし、
現代社会では拉致・監禁と見なされてしまうでしょう。

しかし、カップルが相思相愛の場合、
娘は秘かに盗まれることを望んでいたそうです。
ただ、不本意に盗まれてしまうこともしばしばあったらしく、
男に口説き落とされてしまうケースも少なくなかったようです。
そうした嫁盗みに対処すべく、「正しい盗まれ方」なるマニュアルもありました。

1、盗まれている最中騒いだり泣いたりしてはいけない。
2、相手の男が気に入らなかった場合、はっきりと不承諾の意志を示すこと。
3、結婚してもいいと思う男なら、十分に念を押して婚姻に同意すること

そろそろ盗まれたいと思っていた娘ならともかく、その気のない者にとっては、
心細さのあまり承諾してしまったことも多かったかもしれません。
強引な求婚方法ですが、村内の嫁盗みは顔見知りが多かったはずで、
手荒な真似をすることなく丁重に扱い、
もし不承諾の意を示した場合はきちんと親元へ送り届けたそうです。

この嫁盗みの風習がいまもどこかで残っているのかは、
浅学ゆえわからないし、少なくともぼくの地元埼玉県羽生市では、
近年見たことも聞いたこともありません。
(ハートを盗まれている方は多いでしょうが……)
羽生市ではありませんが、かつてすれ違う男に肩を叩かれ、
「盗むぞ」とからかわれるようなこともあったそうです。
男たちにとってはこの嫁盗みはある種の冒険であり、
中にはお祭り感覚で手を貸す仲間もいたかもしれません。
“嫁泥棒”の異名を持つ者や、ルパン三世の如く
「今夜、嫁を盗みます」の予告を出す者などいたでしょうか。
もし現代にこの風習が蘇ったら、
公然と嫁盗みビジネスが誕生しそうな気がします。

参考文献
柳田國男著『柳田國男全集12』ちくま文庫
大塚民俗学会編『日本民俗事典』弘文堂
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天神の森(8)―創作―

2007年01月31日 | ブンガク部屋
     5

龍神の池を後にして、僕たちは来た道をまた戻り始める。
お互い言葉を交わさず、足取りはどことなく重かった。
僕は両手を上着のポケットに突っ込み、足元を見ながら歩いた。
絡みつく落ち葉に、靴の中まで水滴が染み込んできている。
気温も下がっているのか、手足の指先がひどく冷たかった。
龍神の池を出てからどのくらい経ったか分からない。
森の中の湿った匂いが濃くなったとき、
ふと顔を上げると辺りに霧が立ちこめているのに気付いた。
前を歩く乙次郎さんの背中は青白くぼやけ、あまり濃くはないが、
視界を遮るのに充分だった。

「ねえ、霧が……」
僕は辺りを見渡しながら言った。
「嫌なもんが出てきた」
「帰り道は大丈夫なんかい?」
「なに、心配せんでもだいじゅ(大丈夫)だで。目を瞑ったって出られるよ」
明るく答えた乙次郎さんの言葉に、僕は小さく息を吐く。
確かに乙次郎さんは今まで何度もここへ来ているのだろう。
霧など何てことはないのかもしれない。
実際にしばらくすると、僕たちは二俣の木に辿り着いた。
霧に覆われて立つその姿は、まるで生きているように見える。
「さあ、あとひと息だ。霧が濃くならん内に出てしまおう」
乙次郎さんは笑顔で言う。
僕もそれにつられて微笑む。
二俣の木を横切り、少し足を速めた。
しかし、霧はだんだん濃くなっていく。
辺りはほとんど見えず、僕たちの足音以外何も聞こえてこなかった。

僕たちは黙々と歩き続けた。
二俣の木を出てからだいぶ時間が経ったように思えたが、出口は見えてこない。
体も冷え、僕は何度も手に息をかけた。
そろそろ着いてもおかしくはなかったし、
せめてお囃子の音が聞こえてきてもよかった。
乙次郎さんも様子がおかしいことに気付いたのかもしれない。
さらに足を速め、しきりに辺りを見回すようになった。
僕には二俣の木以外の目印はわからない。
うしろを振り向いても、月の光りに照らされた霧が、青白くたちこめているだけだ。
境内の明かりはどこからも洩れていない。
僕はただ乙次郎さんの後ろをついていくしかなかった。

やがて行き当たった大きな枯木の前で、僕たちの足は止まった。
いや、立ち止まらずにはいられなかった。
上から貫く大きな裂け目に根元に横たわる石碑。
それは二俣の木だった。
「あれ、おかしいで……」
乙次郎さんは首を傾げて言った。
ポカンと口を開けて二俣の木を見上げる。
僕もその横でゆっくり視線を向けた。
「どういうこと?」
「道を間違えたのかな……」
乙次郎さんは何度も首を傾げながら呟く。
実際、二俣の木に突き当たるのはおかしかった。
道は真っ直ぐ続いていて、大きく曲がることはないし、どこかを迂回することもない。
例え道を間違えたのだとしても不可解だった。
乙次郎さんは再び歩き始める。
深まる霧に、いつの間にか服や髪は湿っていた。
すでに靴下は濡れ、息も上がってきている。
僕たちは足を速めて、どんどん前に進んだ。
しかし、どんなに歩いても森が切れることはなく、
霧の中に佇む樹木がどこまでも広がっているだけだった。
(「天神の森(9)」に続く)
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「今週、妻が浮気します」。もしその現場を目撃したら?―太宰治―

2007年01月31日 | 恋部屋
火曜日21時にドラマ「今週、妻が浮気します」が放送中です。
「電車男」に引き続き、インターネット掲示板の書き込みが原作。
ひと昔前では考えられないドラマ化だと思います。
浮気は男の甲斐性といいますが、
妻も(当然のごとく?)浮気をします。
妻の貞淑という概念が一般化されたのは“家制度”の確立後であり、
それまでは武士の世界のものでした。
すなわち、妻がフラフラしていたのでは男は戦地で死ねないのです。
妻の貞淑が守られてこそ、男は勇敢に戦えたのでした。

その概念はいまでも受け継がれ、
明治や昭和初期に比べれば恋愛は自由に見えますが、
一定のモラルは守られていると思います(個人差はどうあれ)。
もしこのモラルがなかったのならば、
「今週、妻が浮気します」もドラマ化されなかったかもしれません。
日常に溢れすぎていて……。

ところで、「今週、妻が浮気します」ではなく、
「浮気している“最中”の妻」が描かれた名作があります。
それは太宰治の『人間失格』です。
浮気そのものがテーマになっているわけではありませんが、
「それは自分の生涯に於いて、決定的な事件でした」と作中にあるように、
この作品に欠かすことのできない要素となっています。
太宰治は一般的に私小説作家と言われているように、
『人間失格』も自伝的要素の濃い作品です。
小説に描写される妻の浮気(正確には「無学な小男の商人」に犯される妻)は、
太宰自身の実体験が基になっていると言われています。
すなわち、太宰の妻「小山初代」と彼の弟分「小館善四郎」の不倫です。
『人間失格』では次のように書き記されています。

 自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。
 電気がついたままで、二匹の動物がいました。
 自分は、ぐらぐら目まいしながら、これも人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、
 おろどく事は無い、など劇しい呼吸と共に胸の中で呟き、
 ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。(中略)
 そのとき自分を襲った感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また悲しみでも無く、
 もの凄まじい恐怖でした。

太宰自身の体験では、実際に妻の不倫現場を目撃したわけではなく、
小館善四郎から直接告げられたものでした。
「妻の浮気を知ってホテルに乗り込むか否か」の前に、
太宰はすでに知ってしまうのです。
――初代さんと間違いを犯しました。
――…………。
――武蔵野病院に入っておられるときに。
――そうか。そうなるかな。
――はい。すみませんでした。
――1回か。
――いえ、1回じゃないです。(猪瀬直樹著『ピカレスク』より)
妻に裏切られ、弟分にも裏切られた太宰のそのときの心境は、
どのようなものだったのでしょう。
『ピカレスク』によると、その2日後の朝、
山岸外史の部屋で太宰は突然気が狂ったかのように暴れ出しました。

 すると太宰はいきなり畳の上に倒れ躯を縮めた。
 髪を掻きむしったり、頭を叩いたりして部屋中を転げ回った。足で畳を蹴った。
 「殴ってくれ。頼む。殴れ」
 絶叫しているので、山岸は躊躇したが馬乗りになって平手で太宰の頬を打った。
 夢中で打った。(前掲書より)

この不倫事件は太宰にとって大きな衝撃を与えました。
芥川賞騒動やパビナール中毒による入院と、太宰にとって踏んだり蹴ったりの時期に、
妻と弟分の不倫発覚はまさに泣きっ面にハチだったと言えます。
(初代にとっても踏んだり蹴ったりだったでしょうが……)
ときに昭和12年、太宰治28歳でした。
そしてその年の3月、太宰と初代は水上温泉でカルモチン心中を図るのです。
結果は未遂。
お互いが翻弄し合うような関係だった太宰と初代は、
同年6月あえなく別れたのでした。

妻の浮気を知った夫はどのような行動をとるか?
太宰の場合は相手の男から告げられたので乗り込むことはありませんでしたが、
悶絶した挙げ句、死を選んだのです。
『人間失格』においても、主人公は致死量以上の薬を呑んでいます。
それが太宰のスタイルと言わんばかりに……

※画像は太宰(左)と初代(右)です。

引用文献
太宰治著『人間失格』新潮文庫
猪瀬直樹著『ピカレスク 太宰治伝』小学館
コメント (2)
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1月31日生まれの人物は?(生命保険の日)

2007年01月31日 | 誕生日部屋
1月31日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

フランツ・シューベルト (作曲家『未完成交響曲』)
ジーン・シモンズ (俳優『スパルタクス』)
ジョニー・ロットン (ミュージシャン(SEX PISTOLS))
大江健三郎 (小説家『飼育』『性的人間』)
鈴木宗男 (衆議院議員)
石野真子 (歌手・俳優)
石黒賢 (俳優)
山田一成 (お笑い芸人(いつもここから))
星野伸之 (野球)
白井雄介 (ミュージシャン(キンモクセイ))
眞中靖夫 (サッカー)
真矢みき(俳優)
香取慎吾 (歌手・俳優(SMAP))

ちなみに、この日起きた事件は以下のとおりです。

前年設立の日本初の生命保険会社「明治生命」が初の保険金支払い。以来この日は“生命保険の日”(1882)
「文學界」創刊(1893)
A.A.ミルン (作家『くまのプーさん』)死去 (1956)
冬季オリンピックで猪谷千春が日本初のメダル(1956)
アメリカ初の人工衛星打上げに成功(1958)
日本初の五つ子が誕生(1976)
ロッキード事件全日空ルートの初公判(1977)
石川達三 (小説家『蒼氓』『生きてゐる兵隊』) 死去 (1985)
渡辺晋 (経営者・渡辺プロダクション創立)死去 (1987)
ジャイアント馬場(馬場正平) (プロレス) 死去 (1999)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“美しい歌をうたう人”とのことです。
誕生花は「リカステ」、花言葉は「清浄」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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羽生のあの桜並木はいつやってきた? ―羽生旭町―

2007年01月30日 | 羽生城跡・城下町巡り
ファミリーブック羽生店の脇を流れる葛西用水路沿いには、南に向かって桜の木が続いています。
羽生市内の花見スポットと言えば、
この桜並木は必ず入るでしょう。
春の季節、桜の下には提灯がぶら下がり、
羽生市内で最も華やかな場所となります。
長距離に渡って並んでいるわけではありませんが、
毎年人々の目を楽しませている桜です。

さて、この桜並木はいつ植えられたのでしょうか?
葛西用水路は万治3年(1660)の開削ですから、それ以降ということになります。
換言すれば、羽生城時代(1536?~1614)に桜はあっても、
並木ではなかったわけです。
『羽生旭町誌』に掲載されている昭和12年頃の写真を見ると、
“はんの木”が並んでいるだけで桜は見当たりません。
すなわち、昭和初期にもなかったということになるでしょうか。
しかし、同書によるとこの頃すでに多数の桜はあったそうです。
ただ、太平洋戦争によって濫伐されてしまいました。

そこで昭和31年3月、葛西堤上に新たに桜の苗木が植えられます。
これが現在我々が目にしている桜並木の原点です。
その後、イタズラや虫の被害にしばしば見舞われましたが、
辛抱強く管理し、徐々に苗木を増やすと、
昭和40年4月には約500本にまで達しました。

同62年、旭町々内会主催により「第一回さくら祭り」が開催。
羽生観光協会の補助のもと、各会社・商店・個人から提供された提灯を、
この桜並木の下にぶら下げました。
すなわち、いまやすっかりお馴染みになった提灯風景は、
昭和62年からということになります。
春の夜、葛西用水路の水面にその明かりが生え、
幻想的な風景を演出しています。

平成元年11月14日、長年の桜と堤の管理が認められ、「しらこばと賞」を受賞。
現在も春に葛西用水路沿いの桜並木を楽しむことができるのも、
こうした人々の努力のおかげというわけです。
今年もあと数ヶ月後には満開の桜が見られることでしょう。
この桜の下には羽生旭町の歴史が眠っています。

※画像はファミリーブック羽生店のわきに咲く桜です。

参考文献
羽生旭町誌編集委員会編『羽生旭町誌』
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「あるある大事典」がついたウソは“うまい”か? ―ミニ「どろろ」―

2007年01月30日 | レビュー部屋
2007年1月に公開された映画「どろろ」。
主演“妻夫木聡”と“柴咲コウ”で、
手塚治虫の同名漫画を原作としています。
数年前から日本テレビでは「ブラック・ジャック」も放送され、
手塚漫画の映像化が再び注目を集めています。
それに便乗するかのように、
手塚治虫全集が手の平サイズになってセガトイズから発売されたと、
ヤフーニュースで報じられました。
かなり小さいようです。
文庫本よりもひとまわり小さいので、余裕でポケットに入るでしょう。
(授業や会議中にこっそり読めるかもしれません)

この手の平サイズ版の発売ニュースを見たとき、
かつて角川書店でも同様の試みをしたのを思い出しました。
1996年、「角川mini文庫」が創刊されたのです。
当時、テレビCMでもこのmini文庫が紹介されていたと思います。
角川書店社長の角川歴彦氏は、創刊にあたって次のように述べています。

 ミニ文庫は、文庫の宝石とも云うべき存在をめざしてうまれた。
 この文庫は出版の大変化をより自らのものとするとともに、
 来るべき21世紀を予感させる出版形態となるかもしれない(一九九六年十月)

この文庫形態の珍しさのあまり、ぼくは数冊買いました。
埼玉県羽生市の書店「サンブック」で。
値段は1冊200円。
『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)『女怪』(横溝正史)
『生きるヒント』(五木寛)『香水物語』(森瑤子)などが発売され、
ぼくはその内の1冊『うまいウソ』(銀色夏生)を買いました。
おなじみ詩人銀色夏生(ぎんいろなつお)さんの詩集です。
この表題にもなっている詩をここに載せてみたいと思います。

 「うまいウソ」
 うまいウソをついたね
 僕はそこにグッときたよ
 なんて頭がいいんだ君は
 ずっとついていってもいいかな

たった4行の短い詩ですが、
ピュアな少年少女の気配を(ぼくは)感じます。
しかし、時勢のためか「うまいウソ」というタイトルを見たとき、
いま問題になっている「発掘!あるある大事典Ⅱ」を連想してしまうのを禁じ得ません。
納豆ダイエットのほか、新たにみそ汁、レモン、
ワサビも捏造の可能性もあるそうです。
この騒動により、関西テレビに及ぶ影響は数十億円にも上るとのこと。
まだ掘れば捏造は「あるある」かもしれません。
彼らがついたウソは「うまく」なかったわけで、
多くの人たちに迷惑をかけるものです。
今後さらなる影響が懸念されます。

ところで、角川mini文庫はいまやすっかりその姿を見せなくなりました。
1996年以降どのような展開を辿ったのかも不明です。
翌年5月に発売された『堕落論』(坂口安吾)を買って以来、
新たにmini文庫がぼくの書棚に加わることはありませんでした。
このたび刊行された『手塚治虫全集』が、新たに仲間入りするかはわかりません。
ちなみにセガトイズでは、
今後さらに別のコミックを手の平サイズ版で刊行するそうです。
サイズ自体はすでに角川書店の先例があるので新しくはありませんが、
面白い企画として注目されます。
近い日に、電車の中でこのサイズを読んでいる人を見掛けるようになるかもしれません。
最後に『うまいウソ』に収録された「明るい明日」という詩を載せて、
この記事を締めたいと思います。

 「明るい明日」
 明るい明日のために
 何かしよう
 まず
 ごはんだ

引用文献・参考web
銀色夏生著『うまいウソ』角川mini文庫
YAHOO!JAPAN(http://www.yahoo.co.jp/)

※画像は『うまいウソ』の表紙です。
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天神の森(7) ―創作―

2007年01月30日 | ブンガク部屋
「千佳ちゃんのことはもういいんかい?」と、僕は言った。
千佳とは、40年前に天神様の森で行方不明になった子どもの名前だ。
乙次郎さんの3番目の子で、当時まだ8歳だったという。
乙次郎さんは項垂れるように肩を落とし、深いため息をついた。
「あの子はおそらく……もうここにはおらんだろうで」
茶色い鼈甲メガネを外し、指先で両目をこすった。
「あの子は天神様に連れ去られてしまったのかもしれん」
乙次郎さんはメガネを掛け直し、静かに僕を見つめた。
暗闇のせいか、乙次郎さんの表情が泣いているようにも見えた。
僕は口を開いたが、何も言葉が出てこなかった。

四十年前、乙次郎さんがまだ矢継ぎ早に論文を発表していた頃、
子どもとよく史跡巡りをしていたという。
好奇心旺盛な子で、小さな赤い鞄を肩から掛け、父親の後をついて歩いていったらしい。
史跡巡りは近隣の市町村や、遠出をすることもあったが、
頻繁に足を運んだのは天神様だったそうだ。
簑沢城にまつわる伝説が多く残されているのと、
何かが埋まっている可能性が高かったからだと、乙次郎さんは話していた。

子どもが失踪したのは、天神様へいつものように足を運んだときだったという。
当時から乙次郎さんは龍神伝説を調べていて、
子どもと一緒に何度も森の中に入っていたそうだ。
森はいまより鬱蒼としていたとはいえ、1度も迷ったことはなかったし、
子どもがひとりで出られないような深さではなかった。
そんな通い慣れた場所ということに、魔が差したのかもしれない。
龍神の池へ向かう道の途中で、乙次郎さんがふと後ろを振り向いたとき、
子どもの姿はすでになかった。
辺りを見回してみても影一つなく、何の物音も聞こえなかったという。
何度も名前を呼んだが、森の中にただ自分の声が響くだけだったと、
乙次郎さんは眉間に皺を寄せて話した。
最後に子どもを見たのはつい数分前で、はぐれたとは思えなかった。
何か珍しいものを見付けて立ち止まっているのかもしれない。
乙次郎さんは来た道を引き返し、子どもの名前を呼びながら歩いた。
しかし返事はなく、子どもを見付けられないまま出口に辿り着いてしまった。
「実は、この森には子どもを喰う大蛇が住むという伝説があるんだ」
乙次郎さんはつぶらな瞳を細めると、静かにそう言った。
僕が天神様の森にまつわるもうひとつの伝承を聞いたのは、そのときが初めてだった。

「簑沢城が落城して百年経ったのちの話でな、城跡にはいつしか木々が生い茂り、鬱蒼とした森に変わった。
次第にそこに色んな獣が住みつき始めたんだ。
いまより森はもっと深くて、近くに民家もなかったから、昼間でも薄暗くて寂しい場所だったんだろう。
ワシの子どもの時分にも、大人たちは滅多に森には近付かなかったもんだ。
森の中には人を喰う大蛇が住んでおると言うんだよ。
なんでも迷い込んだ人間を、頭から丸呑みにしてしまうとな。
天神様の森に近付いてはいけないと、よく言われていたもんだ」

乙次郎さんは一旦言葉を区切ると、短く息を吐いた。
「大蛇が本当にいたのかはわからん。実際にいたかもしれんが、
誰かが呑み込まれたという話は一度も聞いたことがない。見たと言う者はおったがの。
まあ、大蛇というのは後付けの話なんだろうで。
というのはな、この村には神隠しの話が多く伝わっておるんさ。
それも子どもばかりが消えたそうだ。人さらいがおったのかもしれんが、天神様の仕業だとも言われておった」
乙次郎さんは笑みを浮かべ、
森に住む大蛇は天神様に子どもを近付かせないための作り話だろうと言った。
神隠しの話は、僕も幼い頃に聞いたことがある。
どんな内容かほとんど忘れてしまったが、放課後学校の校庭で遊んでいると、
いつの間にかひとりいなくなっていたとか、
街外れの潰れ屋敷に行った4人の子どもが誰も戻ってこなかったとか、
学校の怪談話のような内容だったと思う。
「ワシの爺さんは、神隠しがあるのは元々2つあった天神様の御神体がバラバラになったせいだと言っておった。神の怒りを鎮めるためには、2つの御神体を同じ場所に戻さなければならんとな」
天神様の森に入るのは、失われたもう1体の御神体を探すためでもあると、
乙次郎さんは本気か冗談かわからない口調で言った。

子どもが失踪して以来、乙次郎さんは簑沢城から一切手を引いたそうだ。
蔵書を売り払い、書きかけの原稿を燃やしたという。
市町村史の編纂依頼を断り、所属していた歴史研究グループからも離れた。
以来、日ごと天神社に足を運んでは
行方知れずになった子どもを探しに行くようになった。
論文を書き続けていた頃その名は広く知られていたが、
それもだんだん忘れ去られていったみたいだ。
いまでは通りすがりのおばさんに、訝し気な視線を向けられる。
僕は龍神の池の畔に佇む乙次郎さんの背中を見つめる。
神隠しの話は兄も聞いたに違いない。
そのとき兄はどんな表情で耳を傾けていたのだろう。
兄の目に乙次郎さんがどのように映っていたのか、僕には想像ができない。

乙次郎さんから目をそらし、俯いた。
足元には骨のような細い枝が落ちている。
言葉は何も見付からず、僕たちの間を沈黙が通り過ぎていった。
「そろそろ戻るべ」
先に沈黙を破ったのは乙次郎さんだった。
振り向くと思い出したようにそう言った。
その声は朗らかだったが、少し掠れていた。
僕は何も答えなかった。
口を結び、乙次郎さんの肩越しの龍神の池を見た。
そこはただ月の光りに照らされ、ぽっかりとした窪みが広がっているだけだった。
(「天神の森(8)」に続く)
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マリー・アントワネットの処刑はまだマシだった?―織田信長暗殺―

2007年01月30日 | レビュー部屋
織田信長を自害させた本当の黒幕は誰なのか?
1月29日に放送された「バチカンに眠る織田信長の夢」(TBS)で、“加藤雅也”をナビゲーターとして検証していました。
ゲストに『逆説の日本史』の著者でも知られる“井沢元彦”氏が登場したので、にわかに期待が高まったのですが、
結論はさほど大騒ぎする内容ではなかったと思います。

黒幕を「近衛前久」とし、その裏のさらなる陰謀として、
イエズス会の影をちらつかせていました。
2時間番組の内8割を信長の軌跡に当て、
最後の30分程度で検証を試みるという番組構成は、
結局「<安土城屏風絵>がバチカンに眠っているかもしれない」ということを、
1番言いたかったのでしょう。
いわば近衛前久は噛ませ犬。
本当の黒幕にイエズス会が絡んでいる可能性を匂わせてはいるものの、
断言は避けていました。

ところで、同番組内で井沢元彦氏が、
「信長は日本で最初にスナイパーに狙われた男」と言っていました。
このスナイパーとは杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)。
鉄砲の名手と言われた人物です。
元亀元年(1970)5月、浅井長政の裏切りによって金ヶ崎撤退後、
京から岐阜へ向かう途中で信長はこのスナイパーに命を狙われました。
撃った玉は2発。『信長公記』には、

 情けなく十二・三日(ママ)隔て信長公を差付、二ツ玉にて打ち申候。
 されども天道昭覧にて御身に少づゝ打ちかすり、鰐口御遁れ候て、
 目出度五月廿一日濃州岐阜御帰陣

と記しています。
すなわち、鉄砲玉2発はいずれも信長の体をかすめ、
危うく難を逃れたということです。

しかし、織田信長は蛇のように執念深い男。
決してこの暗殺未遂事件を忘れることはありませんでした。
元亀4年(1573)、逃亡生活を送っていた杉谷善住坊をついに捕らえます。
厳しい尋問後、信長が下した裁きは「鋸挽き」という極刑でした。
それは罪人の体を地中に埋め、首を鋸でひかせて殺すというものです。
すぐに死ぬことはありませんから、
死刑の中でも最も重い刑と言われています。
『信長公記』にはその具体的な模様は具体的に記されていませんが、
「日比の御憤を散ぜられ、上下一同の満足これに過ぐべからず」とし、
信長の鬱憤が晴れたことを伝えているのです。

現在話題になっているマリー・アントワネットの処刑とはだいぶ違います。
彼女は断頭台によってその首を切られました。
痛みはほんの一瞬だったでしょう。
それに比べて「鋸挽き」の苦痛は想像するに余りあります。
徳川家光の時代に行われたこの刑では、
7日かかってようやく挽き殺したそうです。
その後は晒刑の要素が強くなり、実際に鋸を挽くことはなくなりましたが、
中世においてはこの残酷な刑が執行されていました。
罪人が犯した罪のほとんどは“主殺し”です。
信長の場合は鬱憤晴らしのほかに、見せつけの意味もあったのでしょう。
自分に歯向かう者はこのような痛い目にあうと……。

こうした罰に対する恐怖を民衆に植え付けることは、
社会秩序のために必要なことだったと思われます。
悪いことをしたら罰を受ける。
連日ニュースで報じられる殺人事件を見ていると、
この当たり前の認識が希薄な気がします。
昨年の交通事故が減ったのは、違反への罰が重くなり、
そのことが広く一般に認識されたからでしょう。
被害に遭われた遺族への同情だけで違反は減少しないだろうし、
人間の“良心”はおおよそ自分にはねかえってくる罰を認識したときに働きます。
もし鋸挽き刑を復活させたら犯罪は減るでしょうか?
相手の気持ちを想像できなくなっている現代において、
痛み=罰への認識が必要なのかもしれません。

引用文献
奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』角川ソフィア文庫
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1月30日生まれの人物は?(3分間電話の日)

2007年01月30日 | 誕生日部屋
1月30日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

勝海舟 (江戸幕府若年寄)
鳥井信治郎 (経営者・サントリー創業)
ルーズベルト (32代大統領)
川上源一 (経営者・ヤマハ発動機設立)
長谷川町子 (漫画家『サザエさん』)
ジーン・ハックマン (俳優『フレンチコネクション』)
横山ノック (元大阪府知事・タレント)
常田富士男 (俳優・声優『日本昔ばなし』)
みつはしちかこ (漫画家『小さな恋のものがたり』)
北原照久 (おもちゃコレクター)
柳ジョージ (歌手)
土屋圭市 (レーサー)
ぜんじろう (タレント)
松本典子 (タレント・歌手)
小林梓 (歌手(カントリー娘))
徳山秀典 (俳優)
加藤紀子 (歌手・俳優)
吉村由美 (歌手(PUFFY))
石川さゆり (歌手)

ちなみに、この日起きた事件は以下のとおりです。

将軍足利義昭が織田信長討伐の為に挙兵(1573)
チャールズ1世が清教徒革命で処刑(1649)
ドイツ首相にヒトラー就任(1933)
オービル・ライト (飛行機発明・ライト兄弟の弟)死去(1948 )
ガンジー射殺される(1948)
フェルディナント・ポルシェ (自動車設計者) 死去(1951)
電話の通話料金が3分で10円になった(1970)
宮本常一 (民俗学者『忘れられた日本人』)死去(1981)
漫画家コンビ・藤子不ニ雄がコンビ解消を発表(1988)
服部良一 (作曲家『青い山脈』) 死去(1993)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“頼もしいリーダー”とのことです。
誕生花は「プリムラ・ジュリアン」、花言葉は「青春の喜びと悲しみ」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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カッパは羽生にいつ来たのか? ―羽生旭町―

2007年01月29日 | 羽生城跡・城下町巡り
スーパー「マルエツ」と「ファミリーブック」が埼玉県羽生市中央5丁目にオープンしたのは平成7年(1995)のこと。
当時はまだ「ベルク」も「ヤオコー」もなく、
市内で1番大きな書店と言えば「サンブック」で、
「マルエツ」「ファミリーブック」の開店は
ちょっとした事件だったと思います。
当時の「マルエツ」にはパン屋さんが入っていましたし、
「ファミリーブック」のコミック本にはビニールで包装されておらず、
堂々と立ち読みもできました。
高校時代の真っ只中に新しく開店した店とあって、足繁く利用したものです。
プリクラを初めて使ったのも「ファミリーブック」で、
ここで激写した人も多いのではないでしょうか。

さて、両店がオープンした平成7年において、
羽生市で起こった主な出来事は次のものが挙げられます。

1月、羽生平和公園が完成。
4月、市内循環無料バスの運行始まる。
 羽生バルーンフェスティバルを初めて開催。
5月、ベルギーのデュルビュイ市と姉妹都市提携。
 地域おこし事業「羽生版ふるさと創生事業資金」を交付。
9月、第一回「ふるさとの詩」を募集。

羽生市を分断するように流れる葛西用水路の改修工事も、
この平成7年からの開始だったと思います。
水の枯れた葛西用水路を、友人と一緒に自転車で2人乗りしたのもこの年でした。
「マルエツ」の開店、葛西用水路の改修工事と、
それまでの見慣れた羽生の景色が変わりつつあった時期ですが、
過去においてどのような変遷の過程があったのでしょうか。
「マルエツ」(現サンドラッグ)「ファミリーブック」の周辺を見てみたと思います。

昭和45年、北埼信用組合(羽生支店)開業
 同  埼玉県立羽生勤労婦人ホーム完成
昭和46年、旭町公園完成
昭和48年、市営住宅旭町団地完成
昭和50年、大沢証券(羽生支店)開業
昭和52年、羽生市立南小学校開校
昭和58年、労働金庫(羽生支店)開業
昭和60年、カッパ寿司開店
昭和63年、大沢証券同市に移転
平成元年、武井マンション完成
平成2年、メゾンオーラ完成
 同  明治生命(羽生支店)開業
平成7年、マルエツ(羽生店)開店

昭和60年にオープンした「カッパ寿司」は現在レオパレスが建ち、
「マルエツ」も「サンドラッグ」に変わりました。
カッパ寿司に至っては、営業最後の日に行ったのを覚えています。
友人が短期間そこでバイトをしていたので食べに行ったのです。
閉店後はうどん屋ができると小耳に挟みましたが、
フタを開けてみればレオパレスでした。

カッパの隣にあった室内釣り堀屋も「ワークマン」になり、
道を挟んであった小さな古本屋は現在がらんどうです。
そこに広がっていた田畑を見た方にとっては、
現在の景色はえらい変わり様なのだと思います。
今後も少しずつ町の風景は変わっていくのでしょう。
何がどう変化するのはわかりませんが、
葛西用水路沿いに並ぶ桜は春に花を咲かせ、
変わらず人々に愛されています。

※画像はファミリーブック羽生店です。

参考文献
羽生旭町誌編集委員会編『羽生旭町誌』
コメント (9)
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「華麗なる一族」、婚前交渉はスキャンダルか? ―性観念―

2007年01月29日 | 恋部屋
週を追うごとドラマ「華麗なる一族」の注目は高まっているようです。
主演の木村拓哉効果ということもありますが、
ドラマそれ自体もなかなか見せられます。

さて、ここでは「婚前交渉」について触れてみたいと思います。
ドラマの中で“万俵銀平”(山本耕史)と“安田万樹子”(山田優)の
婚前交渉シーンがありました。
現在において婚前交渉はもはや一般的ですが、
ドラマの舞台となっている1960年代はまだそうではなかったのでしょう。
しかし、さらに古い時代においては婚前交渉など日常茶飯事でした。
妻の貞淑という概念はあくまでも武士の世界であり、
農村などでは男女の交歓はモラルがないほど盛んだったのです。
記事「“一青窈”と“小林武史”のスキャンダルは?」(07.1.26)でも引用しましたが、
ここも京極夏彦氏の言葉を借りたいと思います。

 ムラの女達は積極的に夜這いをした。娘組の者だけでなく、後家や出戻りにも夜這い
 はかかる。夜這いは自由恋愛に近いものだったのです。
 ムラには百人斬りを自慢する親父も居れば百人抜きを自慢する人妻も居た。
 若者は筆下ろしと称して後家や親戚の人妻に手解きを受け、
 娘は初潮があれば娘宿に通わせて男遊びをさせた。
 こと程日本とはそう云う国だったのです。(京極夏彦著『絡新婦の理』より)

このような男女交歓の自由な日本においては、
婚前交渉があったからと言って罰せられるわけではありません。
もしそれを罪としたら、罪人が溢れ返っていたことでしょう。
しかし、中世のドイツにおいては婚前交渉を立派な犯罪としていました。
神に背く行為とし、発覚した場合には牢獄行きです。
拷問や死刑になることはありませんでしたが、
不名誉な罰を受けなければなりませんでした。

『図説拷問全書』によると、婚前交渉のタブーを犯した女性は、
結婚式のときにギンバイカの冠ではなく、
ワラで編んだ冠をかぶらなければならなかったそうです。
これは“ふしだら”を象徴する冠であり、
女性にとっては極めて不名誉なものだったでしょう。
またすでに子どもがいた場合には、
式の間中ずっと子を抱いていなければなりませんでした。

さらに、女性が複数の男性と関係を持っていた場合、
婚礼は売春宿か牢獄で行わなければならなかったとのこと。
教会で式を挙げることも許されましたが、そのときはワラの冠と同様に、
2本のわらのお下げのついた冠をかぶらなければならなかったのです。
また教会の正規入口から入ることを許されず、
入室は脇の黒い入口からでした。
いずれも裁かれているのは女性で、
いかに男根主義的な社会であったかが窺えます。
国が国なら婚前交渉を持った「華麗なる一族」の“安田万樹子”は、
発覚した場合はワラの冠をかぶらなければならなかったわけです。

しかし、往古日本は男女交歓の自由な国。
夜這いや歌垣・かがいなど日本の文化とされています。
現在の恋愛は自由に見えても、モラルはきちんと介在しているかもしれません。
(個人差はあるでしょうが……)
日本人の性観念の変遷はなかなか面白いものです。

引用・参考文献
京極夏彦著『絡新婦の理』講談社文庫
秋山裕美著『図説 拷問全書』ちくま文庫

コメント (2)
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天神の森(6) ―創作―

2007年01月29日 | ブンガク部屋
     4

龍神の池までは一本の獣道が続いている。
落ち葉が積もり、僕にはほとんど見分けがつかないが、乙次郎さんの足に迷いはなかった。そのあとを僕はただ黙ってついていく。
お囃子の音も背後でだんだん小さくなっていった。
樹木の枝の間から月の光りが射し、辺りを薄く照らしている。
日中に雨が降ったせいか、湿った匂いが森の中に満ちていた。
辺りは僕たち以外に何の気配もない。
うしろを振り向いても、酉の市の明かりは木々に遮られて見えなかった。

乙次郎さんの足取りはいつもより速かった。
それは、数日前に近所の畑から水が涌き出たという事件があったせいかもしれない。
水は地面の数ヶ所から涌き、小さな溜まりを作ったという。
夏に降った大雨の影響だとか、
近くを流れる川と関係しているなどと色々な要因が挙がっていたが、
詳しいことはわからなかった。

龍神の池に行くには、途中の2つに割れた枯木を通らなければならない。
それはかつて森の中で一番大きな木だったのだが、
何年か前に落雷にあって枯れてしまったそうだ。
以来、そのままの姿で立ち続けているという。
乙次郎さんはそれを「二俣の木」と呼んで目印にしていた。
しばらく歩くと、僕たちはその二俣の木に辿り着いた。
闇の中でも真上から2つに割れているのがわかる。
根元には小さな石碑が横たわり、かつては神木として祀られていたことが窺える。
僕たちは無言のまま木の横を通り過ぎた。
ここから龍神の池までは近い。
お囃子の音はだいぶ遠くなり、ときどき頭上で何かが羽ばたく音がしたが、
枝に覆われて何も見えなかった。

さらに奥へ進むと、やがて森が拓けた。
乙次郎さんはそこで立ち止まる。
「やはり水は現れておらんか」
辿り着いた龍神の池の前で、乙次郎さんは呟くように言った。
僕はその横に立つ。拓けた森の切れ目から緩やかな窪みが広がり、
枝の隙間から月の光りが落ちている。
雨の湿った匂いはするが、水はどこにも見当たらなかった。
僕はため息をつくのと同時に、体の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
乙次郎さんはゆっくり龍神の池に近付く。
白い息の塊が浮かび、肩は少し下がっていた。
僕は立ち止まったまま乙次郎さんの背中を見つめた。
「もし君の兄さんが水の満ちた龍神の池を見たんなら、最後に目にしたかったの」
乙次郎さんの声は暗闇の中に溶けて消えていく。
「また来ればいいじゃん」
僕はポケットに手を突っ込んで答える。
振り向いた乙次郎さんの顔には笑みが浮かんでいたが、ひどく弱々しかった。
「ここに来ることはもうなかんべ」
来月の中旬、乙次郎さんは老人ホームに入ることになっている。
手続きは済ませていて、あとはその日が来るのを待つだけだという。
それを初めて聞いたのはつい最近のことだ。
天神様の境内で、乙次郎さんは思い出したように話したのだ。

乙次郎さんが老人ホームに入ることは、僕には何の関係もないはずだった。
兄の日記に頻繁に登場する老人で、
日ごと天神様にいる少し変わった人にすぎない。
兄が死ぬ数ヶ月前になぜ乙次郎さんと関わっていたのか、
その好奇心だけが僕を天神様に向かわせていただけだ。
しかし胸の内でざわめく感情は、なかなかおさまらなかった。
(「天神の森(7)」に続く)
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“山本勘助13位”は何のランキング? ―風林火山―

2007年01月29日 | レビュー部屋
数日前、ポータルサイト「goo」で
“好きな武将ランキング”を発表していました。
ベスト10をここに載せてみたいと思います。

1位 織田信長
2位 真田幸村(真田信繁)
3位 伊達政宗
4位 豊臣秀吉
5位 徳川家康
6位 武田信玄
7位 上杉謙信
8位 竹中半兵衛
9位 前田利家
10位 毛利元就

やはり織田信長は強い。
“戦国武将”ではなく“好きな日本人”でも必ず上位に食い込んできます。
(むしろ堂々の1位)
ちなみに、2007年の大河ドラマ「風林火山」の主人公“山本勘助”は13位でした。
昨年の主役“山内一豊”は11位。
両者の名がベスト20内に入っているのは、大河ドラマ効果だと思います。

戦国時代の代名詞「下克上」の草分け的存在である“北条早雲”は、21位でした。
「風林火山」に登場する“北条氏康”は30位内には入っていませんでした。
当然のごとくというか、羽生城主広田直繁・木戸忠朝ははるか圏外の彼方でしょう。
しかし、“武蔵国内で好きな武将ランキング”と範囲を狭めれば、
もしかすると木戸忠朝(きどただとも)の名が出てくるかもしれません。
近年の著作物にちょくちょくその名が出てきますから……。

ちなみに、1月29日21時に「バチカンに眠る織田信長の夢」(TBS)が放送されるようです。
本能寺の黒幕を新たに指摘するみたいですが、
おそらくあの宗教団体を指摘する気がします。
(記事「“明智光秀”の裏に潜む真の黒幕は誰か?」(07.1.4)参照)
上のランキングで“明智光秀”は12位という結果です。
人気トップの織田信長を討った男ですが、
嫌われ者ではありませんね。

参考web
goo(http://www.goo.ne.jp/)
コメント (4)
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1月29日生まれの人物は?(昭和基地開設記念日)

2007年01月29日 | 誕生日部屋
1月29日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

藤原忠通 (摂政・関白)
北畠親房 (武将・歌人)
アントン・チェーホフ (小説家・劇作家『桜の園』)
ロマン・ロラン (小説家・劇作家『ジャン=クリストフ』)
深沢七郎 (小説家『楢山節考』『風流夢譚』)
大賀典雄 (ソニー会長・オペラ歌手)
ちばあきお (漫画家『キャプテン』)
毛利衛 (宇宙飛行士)
テレサ・テン(歌手)
YUU (ミュージシャン(子供バンド))
黒田あゆみ (アナウンサー)
岡村孝子 (歌手(あみん)
望月峯太郎 (漫画家『バタアシ金魚』)
小野正利 (歌手)
栄喜(HIDEKI) (ミュージシャン(SIAM SHADE))
伊東浩司 (陸上)
大東めぐみ (タレント・歌手)
河合美佳(矢部美佳) (俳優・タレント)
キャサリン・ロス (俳優)
濱口優 (お笑い芸人(よゐこ))
呂比須ワグナー (サッカー)

ちなみに、この日起きた事件は以下のとおりです。

藤原道長が摂政に就任(1016)
初の全国戸籍調査。総人口3311万人(1872)
南極予備観測隊が南極上陸に成功。昭和基地と設営(1957)
東大医学部自治会が医師法改正に反対して無期限スト開始。東大紛争の発端(1968)
フランスのシラク大統領が核実験終結を発表(1996)
ブッシュ大統領がで北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸」と発言(2002)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“情け深い戦士”とのことです。
誕生花は「ボローニア」、花言葉は「的確」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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