クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

川への道は遠くゆるやかに? ―葛西用水路元圦Ⅰ―

2010年12月16日 | 利根川・荒川の部屋
毎年冬になると、本川俣の葛西用水路沿いは、
イルミネーションに彩られる。
数年前から有志者により始められ、
期間限定の幻のイルミネーションと言える。

葛西用水路は万治3年(1660)に開削された用水路で、
利根川から直接取水するものだった。
坂東太郎の異名を持つ大河から直接取水することは容易ではなく、
かなりの技術を要求された。

天保12年(1841)には上川俣から取水口を設け、
葛西用水路に合流される。
「葛西用水路」という呼び名は実はこのときから始まった。

羽生の町を分断するように流れ、
かつては泳げるほど水は澄んでいたという。
現在の葛西用水路は埼玉用水路から取水している。
元圦は締め切られ、親水公園という名の公園に変わった。

言い方を変えると、用水路を上っていけば利根川にぶつかるということだ。
用水路沿いの道を歩いて、利根川に行く人も多い。
ぼくも利根川へ行くときは、用水路沿いの道を使う。

1994年の冬、同級生のNが部活帰りに告白をした日も、
葛西用水路を伝って利根川へ行った。
彼は同じ学校の女の子に恋をして、
悩んだ末に思い切ってその想いを伝えた。

こう書くと、とてもウブで恋に不慣れな男のようだが、
実は彼にはたくさんの女ともだちがいて、
会えばいつも違う女の子と一緒にいた。

チャラ男でも目立つタイプでもないのに、
他校の女の子とやたら仲がいい。
なぜ他校に女の子の知り合いが多いのかよくわからなかったけれど、
ぼくもときどき誘われて、
お好み焼きを食べに行ったり、遊びに出掛けたりした。

そんな彼が一途に恋をして、初めて告白をしたのが、
ぼくらは同じ学校の女の子だった。
小柄で幼な顔の彼女は、ほかの男子からも人気があった。

「彼女、オレのことどう思っているのかなぁ」と、Nは言う。
「嫌ってはなさそうだね」
「好きなのかなぁ」
「さあ、どうだんべ……」

二人の関係は会えばあいさつをする程度。
夏に花火や祭りに誘ったのだけど、
先約を理由に断られていた。

彼女の気持ちは見えない。
好きな人がいるのかどうかもわからない。
そんな微妙な距離感の中、
彼は意を決して告白をした。
部活帰りの彼女を待ち伏せして、呼び止めて……。

Nの気持ちを知った彼女の返事は、
「考えさせて」というどっちつかずのものだった。
ふられてもいなし、成就したわけでもない。
「まあ、黒板は寝て待てって言うじゃん?」と、
ぼくの言葉も微妙になる。

そんな宙ぶらりんのぼくらが向かったのが利根川だった。
(続く)



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編集者と行く羽生城めぐりは?(17) ―木戸門―

2010年12月15日 | 羽生城跡・城下町巡り
かつて、羽生の町の出入り口には“木戸門”があった。

いまは歩きでも車でも、
何の障害もなく通過できる場所だが、
往古は門の前に橋が架かり、番兵がいたのだろう。
『新編武蔵風土記稿』は次のように伝える。

 (町場村は)羽生領の本郷にして、昔城下に属せし町の蹟なれば名となれり、
 町の入口に昔は木戸門ありて備とせし由、
 今はそこを番屋蹟と呼べり

「木戸門」や「番屋蹟」の文字が見える。
ちなみに、小字として出入り口を示す「戸張」という名も残っている。
城の遺構や雰囲気もすっかり消えてしまっているが、
文献資料に見える地名や文字が、
城を匂いを漂わす。

ところで、この木戸門はどうなってしまったのだろうか。
羽生城が廃城になったのは、慶長19年(1614)である。
このとき、門も取り壊されたのだろうか?

最後に木戸門が確認できるのは、天明6年(1786)である。
廃城後も百年以上存在していたことになる。

天明6年(1786)夏、折からの大雨で利根川は増水していた。
往古の川の堤防は低く、
カエルが小便をしただけで大水が起こると言われていた。

膨れ上がった利根川の水に、堤防は支えきれない。
亀裂が入り、しみ出すように水が流れ出したかと思うと、
たちまち堤防を押し流した。

場所は、本川俣の竜蔵河岸付近。
河岸はおろか、問屋を営んでいた家も押し流す。
同年7月17日、その水は羽生の町へ押し寄せた。
このとき門の向こうは、
羽生城を守っていた大沼の再現のごとく、
「大堀」ができたという。
『松村家日記』には、木戸門は「羽生町上ノ門」と記されている。

これ以後、門は消滅したのだろう。
人的なものだったのか、
それとも自然災害によって失われたのかはわからない。

現在は、門の名残すらない。
アスファルトに覆われ、車通りの激しい交差点になり、
羽生市最古の歩道橋が架かっている。

そこに立ち、「木戸門」を想像するのは難しい。
しかし、アスファルトに同化した「高橋」という名の橋が、
往時の情景をひっそりと伝えている。
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“フランツ・カフカ”が小説を書いた道具とは? ―作家の秘密道具(4)―

2010年12月14日 | ブンガク部屋
執筆という行為を「文字を引っかく」と表現したのは、
“フランツ・カフカ”だったと思う。
『変身』や『城』、『判決』の代表作で知られ、
ドイツ文学史に燦然とその名を刻んでいる。
(認められたのは死後だったが……)

カフカは何に文字を引っかいていたのだろう。
日本人作家は原稿用紙、
外国人作家はタイプライターのイメージを持つ人もいると思う。

カフカはタイプライターが嫌いだった。
ペン好きで、万年筆を愛用した。
そんな彼が用いたのは“ノート”である。
長編は「八つ折判のノート」、
短篇は「四つ折判のノート」を使って書いていた。

その直筆原稿を見ると、かなり流麗である。
言葉は澱むことなく湧き出てきて、
それをそのまま書いているといった感じだ。

ただ、ノートが終わりに近付くと、
その流麗な原稿は突如乱れ始めたらしい。
ノートの終焉は、世界の断絶を意味していたのかもしれない。

カフカが作品を書くとき、
部屋にはどんな音がしていたのだろう。
ノートの上に流れるように走る万年筆。
発表のあてもないまま引っかかれた文字だったが、
いまや世界中で読まれている。
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北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(19) ―北野天満宮―

2010年12月13日 | パワースポット部屋
受験シーズンには天神さま。
“北野天満宮”は菅原道真を祀っていることから、
いつしか学問の神様として信仰を集めている。

全国の天神社も、学問の神様として信仰が厚い。
試験を受けるのは受験生ただ一人だが、
受験に効くとあれば、
やはり験を担いでおきたいと思うが人情だろう。

ところで、なぜ菅原道真が祀られているのだろうか。
よく知られているように、“御霊信仰”によるものだ。
道真は藤原時平の陰謀により太宰府に左遷され、同地で没した。

そのあと、藤原時平は若くして没。
道真の祟りによるものとされた。
そして、都では落雷などの天災が起こり、
人々は道真の怨霊の祟りと恐れた。
このままでは災いが起こり続ける。
なんとしても道真の怒りを鎮めなければならなかった。

そこで、道真を神として祀ったのである。
天暦元年(947)、北野天満宮を創建。
もともとあった天神と道真が習合し、天神信仰が興る。
以来、天皇家や藤原氏に崇拝され、
脈々と信仰は続いた。

元は祟りを鎮めるために祀られたものだったが、
学問に優れた道真にあやかろうという気運が現れる。
そして、学芸の神として信仰されるようになったのである。

参拝するのは「受験生」だけに限らない。
学びは一生続くもの。
学校を卒業したからと言って、勉強が終わるわけではない。
学び続けることこそ、人生なのかもしれない。

北野天満宮には多くの参拝者が訪れている。
願うものは一人一人違うのだろう。
向学心と国の発展は深く繋がっているのかもしれない。
天神さまは今日も訪れる人たちを、
優しく見守っている。



北野天満宮(京都府京都市)












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編集者と行く羽生城めぐりは?(16) ―三次会は古城天満宮―

2010年12月12日 | 羽生城跡・城下町巡り
夢うつつで訪れた城跡には何が見えるだろうか。
時は午前3時。
草木は眠り、丑の刻参りをした人も
そろそろお帰りになる頃である。

ぼくらは古城天満宮にお参りした。
ここは「天神曲輪」と称され、
かつて存在した羽生城の一郭である。

城が落城するとき、お姫さまが天神社の御神体を一体抱えて、
天神曲輪から舟を使って落ち延びたという伝説がある。
どこにでもある神社だが、
ここはあまり知られていない歴史が眠っている。

二次会からの帰り道で立ち寄った古城天満宮。
女の子を送っていく帰り道でもある。
TさんとSさんとぼくの3人。
午前3時のぼくらは妖しい。
カラオケで唄ったエヴァンゲリヲンのエンディング曲や、
「天城越え」の余韻が残っている。

古城天満宮は闇と静けさに包まれていた。
ぼくら以外に誰もいない。
あるいは、どこか闇の中からぼくらを見つめる目があっただろうか……

3人仲良く並んで参拝。
彼らが願ったのは何だったのだろう。
不思議な縁で出会ったぼくらが深夜の天神さまで、
並んで手を合わせていることがくすぐったかった。

天神曲輪は城の北東に位置している。
つまり、鬼門に建つ神社である。
したがって、本丸はもっと西の方角。
忍城勢に攻められ、城主木戸忠朝は自害。
城は炎上し、黒煙に包まれたという伝説もある。

 町場口より火を懸ける折節、
 南風はげ敷吹懸け、城中不残火煙の黒煙り立上りければ、
 運命是迄と観念して主人忠朝を初家臣従卒百余人
 一騎も不残相果けり
 (「簑沢一城根元亡落記」より)

夢、幻の羽生城。
つはものどもたちの夢が眠っている。
空はちりばめたように光る星々。
ふと西を見れば、ほら、
肩の向こうにお城が燃える……
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“直木三十五”の原稿はなぜ字が小さいのか?―作家の秘密道具(3)―

2010年12月11日 | ブンガク部屋
字は人なり。
書く字には、その人のなりや状態、
性格などが反映されているらしい。

振り返って自分の字を見ると、
自信がなく鬱々としていた頃の字はやけに小さい。
自信のなさがそのまま字に現れている。
シャープペンで書いているのだが、
なんだか色も薄いし、字そのものがクヨクヨしている。

手書きで日記を書いている人は、
文字そのものを見てみるといいかもしれない。
そのときの心の状態が、
字に反映されてはいないだろうか?

ところ、とても小さな字を書く作家がいた。
その名は“直木三十五”。
手日でも大きく取り上げられる芥川賞・直木賞の名前の由来になっている人物である。

本を読まない人でもよく知られた賞だが、
直木の作品を読んでいる人は少ない。
寡作な作家だったわけではない。
逆に多作だった。
しかも速筆。
膨大な量の注文を、ペースが落ちることなく書きまくった。

そんな直木の直筆原稿を見ると、
かなり字が小さい。
原稿用紙の升目の右に、チョロチョロと書いたような字である。

これは彼が自信がなかったわけではない。
むしろ、直木は自信家だっただろう。
書く字が小さいのは、多くの注文をこなさなければならなかったのと、
速筆のためだ。
直木は個性的な作家だったらしいが、
その直筆原稿もその特色を表していると思う。

普通、作家は机に向かって作品を書くが、
直木は机を使わない。
布団である。
布団に伏して書くのだ。

直木が使っていたのは二百字詰原稿用紙とGペン。
彼は速筆を誇りにしており、
その速度を愛人に測らせては楽しんでいたという。

しかも、推敲はしない。
書いた原稿は書きっぱなしだった。
だから誤字脱字も多い。
もし、直木がきちんと推敲していれば、
いまでも読まれる作家になっただろうと言う人もいる。

直木三十五は、昭和9年2月24日にこの世を去る。
享年43歳だった。
当時、直木は人気作家だったが、
前述したようにいまも読み継がれているとは言えない。

「直木賞」と聞いて、
それが「直木三十五」の名から生まれた賞と言える人はどのくらいいるだろう。
その速筆で書かれた字のごとく、
輝かしくも波乱の人生を駆け抜けた作家だった。
流れるような小さな文字だから、
目に留まりにくいのだけど……
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編集者と行く羽生城めぐりは?(15) ―みんなと一緒に城巡り―

2010年12月10日 | 羽生城跡・城下町巡り
編集者ではなく、
公募で集まった人と一緒に“羽生城”を巡る。

出発する前に、1時間くらい「お勉強」をした。
なぜなら、羽生城とひと言で言っても、
その歴史や関係人物がよく知られていないからだ。

「羽生にもこんな歴史があったのか」
「いままで何もない町だと思っていたけど、
こんなに深い町なんだよって友だちに話したくなった」

そんな声を聞くととても嬉しい。
ぼくはふるさと自慢をしたいわけではない。
どんな町にもいろいろな歴史があって、
視点を変えるだけで、
気付かないものがたくさんあるということを伝えたいだけだ。

それを面白いと感じるかどうかはその人次第。
「つまらない」と思ってもいい。
ただ、そういう歴史があるということを知識として知ることが大切だ。

知らなければ何も生まれない。
しかし、知れば“きっかけ”が生まれる。
郷土の誇りもそこから生まれるものだ。
自慢はしない。
ただ、ふるさとの誇りは持つべきである。

「何もない」「つまらない」と、自虐的であってはならない。
「あれもいいよね」「こんなところが好きだよね」と言い合える町になれば、
地域は明るくなる。
そんな地域が増えれば、
日本全体が明るくなるのではないだろうか。

後ろを向いていては進まない。
前を向いて物事は生まれていく。
歴史は過去を振り返っているに見えても、
学ぶその行為そのものが、前向きに生きることである。
過去を知り、己を知る。
そして、未来を切り拓いていく。

一日に積み重ねられるものなど、微々たるものにすぎないかもしれない。
しかし、信じて積み重ねていけば、
やがて揺るがぬ山となる。
ぼくの話していることなど、つまらないものかもしれないが、
誰の心にも残る何かになることを信じて、
いつもメッセージを発している。

ところで、羽生城跡を巡ると言っても、
実態が不明確な城なので歩きづらい。
本で紹介される羽生城は、「羽生城跡碑」の建つ古城天満宮が写真に掲載されるが、
ここが本丸というわけではない。
城の遺構はないし、復元されたものもない。

いい加減なことも言えないから、
現状を説明した上で参考文献として『羽生城と木戸氏』を挙げ、
「~と伝えられること」「~と考えられること」として町の中を巡る。

ちなみに、「羽生城」以外の視点で町を見ても、
別の雰囲気を漂わす。
最初にできた“学校”や、
自由民権運動が盛んだった時代に、
北武蔵に政治の嵐を巻き起こした“通見社”や、
羽生の町を描写した『田舎教師』。

その『田舎教師』を訪ねた川端康成ら文豪3人の旅や、
幕末から明治にかけて、
国際的な視点で日本に文化を輸入した“清水卯三郎”など、
知られざる歴史や縁が眠っている。

数時間の羽生城巡りだった。
コースとしては短い。
しかし、立ち止まって見るところが多かったせいか、
時間が足りないくらいだった。

古城天満宮の前で解散となる。
この城跡巡りに参加した人の胸に、
どんなものが残っただろうか。

家に帰って、誰かに話してほしい。
もし子どもか孫に話し、
それが次世代に伝わっていつかぼくの耳に入ることがあれば、
こんなに嬉しいことはない。



羽生学校跡(埼玉県羽生市)



通見社跡



清水卯三郎の胸像



清水卯三郎の生家跡



川端康成らが宿泊した羽生館



田舎教師終焉の地



恋する地蔵



曼陀羅堀



羽生陣屋の堀跡



羽生城跡碑の建つ古城天満宮
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ラーメンの“替え玉”の食べ方は? ―ラーメン部(8)―

2010年12月09日 | グルメ部屋
初めて食べたラーメンの“替え玉”は、
麺を全部片付けてからでなければ
注文してはいけないというルールだった。
以来、替え玉とはそういうものと思い込み、
いまでもその原則が生きている節がある。

替え玉は難しい。
スープと具をどこまで残しておけばいいのか、
そのさじ加減がいまいちわからない。
全部食べてしまってもかまわないのだろうが、
マイベスト替え玉ラーメンが未だに確立されていない。

池袋で入ったラーメン屋は、
替え玉が可能な店だった。
カウンター席しかない小さな店で、
ぼくがこの街に通っていた頃にはなかったはずだ。

来店した男性客のほとんどは替え玉を注文している。
ぼくもそれにつられるように、
替え玉を想定してラーメンを注文。
田舎にはなかなかないお洒落な味がした。

食べていると、ムクムクと頭をもたげてくる前述のルール。
ほかの男性客は、
麺が残っていても替え玉を注文しているようだった。
ぼくもそれに乗じようとしたのだけど、
なかなか店員に声を掛けられない。

気が付けば、結局麺を全部平らげてしまった。
何となく、失敗した気持ちで替え玉を注文。
思ったより量が多かった。
もう成長期ではないのだから、
「満腹」まで食べることもないのに……

替え玉の本場のところでは、
いろいろなパターンがあるのだろう。
いまだ替え玉初心者のぼくは、
この世界の奥行きを知らない。
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北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(18) ―タンポポ―

2010年12月08日 | パワースポット部屋
高校1年のとき、よく通ったお好み焼き屋がある。
その名は「タンポポ」。
隠れ家的な店で目立たなかったが、
そんなところが好きだった。

男同士で集まったり、
女の子と映画を観に行った帰りに寄ったりと、
行き場所のないぼくらに「場」を提供してくれたと思う。
レジの横にはクラシックギターがあって、
マスターが気まぐれに弾いていた。

十代の季節は移ろいやすい。
いつも一緒にいた人とつまらないことで別れたり、
ひょんなきっかけで仲良くなる人がいたりと、
曖昧かつ不安定だった。

だけどもし、「タンポポ」が営業していたら、
変わらず通っていたと思う。
例え一緒に行く人が変わっても、
ぼくはきっとその場所が好きなままだった。

店の外に目を向けると、神社仏閣が所在する。
音無神社、富徳寺、豊武神社、観音堂、福生院……

古いものが好きだったぼくは、
ときどき神社へ出掛けた。
豊武神社へ行ったとき、
一緒にいた泣き黒子のある人は戸惑い気味だったが、
ぼくのテンションは高かったと思う。

富徳寺は、羽生城代“不得道可”の開基と伝えられる。
『新編武蔵風土記稿』によると、不得道可は“木戸忠朝”の家臣で、
江戸時代に入ってからは“大久保忠隣”に仕えた。
そして、羽生城代として、羽生領の政治を行った。

何気なく建っている社寺も、
実はあまり知られていない歴史が眠っている。
境内に行くと、そんな気配を感じた。
十代のとき、隠れた歴史を教えてくれる人がそばにいたら、
どんなふうになっていただろうと、ときどき思う。

「タンポポ」でお好み焼きを焼き、
マスターがギターを爪弾く。
そんな季節が流れていた。

しかし、店は気まぐれに閉店してしまう。
マスターが弾くギターのように。
ぼくらが高校2年になった春のことだった。
親しかった同級生が転校してしまうように、
ひどく寂しかったのを覚えている。

それから十年以上が経つが、
店舗は取り壊されずに残っている。
看板は外され、ドアはかたく閉まったままだ。
中に明かりが灯ることはない。

しかし、過ぎた季節の置き手紙のように、
建物だけが残っている。
かつてぼくらが使っていた居場所。
それは、幼い頃に作った「秘密基地」に似ている。
いつもの顔ぶれ、いつもの場所、いつもの味……

失われた場所は元には戻らないが、
あの頃のわけのわからない勢いや、
言いようのない苛立ちや寂しさが、
まだそこには仄かに残っている気がする。
そして、それが心を強くもし、
弱くもさせる……



「タンポポ」跡近くに建つ板碑
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『ノルウェイの森』の“生原稿”はどんな感じ?―作家の秘密道具(2)―

2010年12月07日 | ブンガク部屋
村上春樹の『ノルウェイの森』が映画化された。
この作品のファンとしては複雑な気持ちである。
好きな作品の映像化にともなう期待と不安は誰にでもあるだろう。

近年集英社から、作家の生原稿の写真をそのまま本にしたものが話題になった。
夏目漱石の『坊っちゃん』と太宰治の『人間失格』である。

このシリーズで、読みたいと思うのは『ノルウェイの森』だ。
この作品は実は手書きで書かれている。

いまでこそキーボードで書くのが主流だが、
村上氏がデビューした1979年当時は、
まだ手書き原稿が多かった。

春の昼下がり、神宮球場の土手式の外野席に寝ころんでいたら、
ふと小説を書こうと思ったという。
そして、新宿の紀伊国屋で買ったのは“万年筆”と“原稿用紙”。
夜中にビールを飲みながら、
台所のテーブルで書き綴ったのが『風の歌を聴け』だった。
以後、氏の作家生活が始まる。

『ノルウェイの森』を書いた当時、氏は専業作家になっていたが、
手書きスタイルは変わらなかった。
何年か前、氏の生原稿をネット上で見たことがある。
半ペラに万年筆とおぼしき筆記用具で書かれた原稿だった。
その文字の色は黒だったと思う。

『ノルウェイの森』の第一稿は原稿用紙とは限らず、
ノートやレターペーパーに書かれたらしい。
しかも、当時氏が住んでいたのは日本ではない。
外国でこの小説は書かれている。

第二稿はボールペンで書き直される。
「四百字詰めにして九百枚ぶんの原稿をボールペンですっかり書き直すというのは、
自慢するわけではないけれど、体力がないととてもできない作業だ」
と、氏は回想している(『遠い太鼓』)
「ノルウェイの森」というタイトルが付いたのは、
原稿がすっかり完成したあとだった。

一体どんな文字で、どんな軌跡でこの作品は書かれたのだろう。
『ノルウェイの森』を読み返すたびにそう思う。
ぼくは活字になったものより、生原稿を見るのが好きだ。
というのも、作家の息吹そのものを感じるから。
作品の血流に触れる思いがする。

「村上春樹の生原稿」がもし売り出されたら、
三島由紀夫並みに高額なのだろう。
むろんぼくは、生原稿をコレクションしたいわけではない。
職人の作業工程を見るように、
作家の生の仕事を目にしたいだけである。

『ノルウェイの森』の生原稿は、
いま一体どうなっているのだろう。
いつか公になることはあるのだろうか。
作品の映像化もさることながら、
生原稿の公開も期待したいところである。
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“ムジナもん”と遊びませんか?(64)―ムジナもん自動販売機―

2010年12月06日 | ムジナもんの部屋
羽生駅前に“ムジナもん”がいる。
それは自動販売機である。

お金を入れるとムジナもんが出てくるわけではない。
ジュースが出てくる。
ただ、販売機そのものがムジナもん仕様である。

子どもが喜びそうな、
テンションの高い自動販売機だ。
道行く人を優しく見守っている。


ムジナもん自動販売機(埼玉県羽生市)
羽生駅東口前にて


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もしも太宰治が“ブルーインク”で小説を書いていたら ―作家の秘密道具(1)―

2010年12月05日 | ブンガク部屋
銀杏が黄色く色付く頃になると、
西南の方角に富士山が見え始めて、
今年も冬がやってきたことを感じる。

冬の到来とともに、毎年恒例のように読みたくなるものがある。
それは太宰治の「富岳百景」。
小説家の中期の代表作である。
「富士には、月見草がよく似合う」のフレーズで有名だ。

太宰治というと、気弱でウジウジして、
いつも「苦悩」しているイメージを持つ人もいるだろうが、
中期の作品は比較的明るい。
「富岳百景」に描かれるエピソードの一つ一つがくすぐったい。

ところで、ぼくは作家の手書き原稿を見るのが好きだ。
数年前に太宰の『人間失格』の肉筆原稿がそのまま出版されて、
いささか興奮した。

太宰は、半ペラ(二百詰原稿用紙)に万年筆を使って書いていた。
太宰治の妻美知子の証言によると、
半ペラを使うようになったのは、昭和13年からだという。
「富岳百景」が発表されたのは昭和14年。
つまり、同作は半ペラで書かれたことになるだろうか。

太宰は妻の万年筆を使って書いていた。
もとより文房具に凝らない性質だったらしく、
万年筆へのこだわりも特別なかったのだろう。
妻は次のように回想する。

 太宰が使っているうちに軸の工合がわるくなったが、
 いちいちインクをつけて書いていた。ペン先を取り替える手間だけは省けたわけである。
 「エヴァーシャープ」という商標であるが、
 十年、これ一本で書き続けることが出来たのは
 太宰が軽く字を書くからであったろう。
(津島美知子著『回想の太宰治』より)

ちなみに、太宰が使っていたインクの色は黒である。
ぼくはこのインクの色と、
新潮文庫版の背表紙の黒がリンクしているように感じる。

太宰を毛嫌いしていた三島由紀夫は、
ブルーのインクを使って原稿を書いている。
三島の原稿は美しい。
人に見られることを意識して書かれた字だと思う。
ブルーのインクを使って書かれた文字を見ると、
ぼくは決まって三島を思い出す。

もし、太宰がブルーのインクを使って小説を書いたら、
何か影響はあっただろうか。
たかがインクだが、
色が人の心理にもたらす影響を考えると、
作家の人生に全くの無関係ではないように思う。

女性と玉川上水に心中した太宰と、
市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした三島。
三島もまた黒のインクを使っていたら、
作風や生き方が多少違っていただろうか。

ちなみに、ぼくはパーカーの万年筆を愛用している。
使っているインクはブルーブラック。
原稿送信はパソコンで入力したデータだが、
やはり手書きは好きだ。
池波正太郎が万年筆を「刀」に喩えたように、
1本でもこだわりの筆記用具を持つと、
その人を象徴する武器になると思う。

太宰は、女性をきっかけにして、
安定した生活から破綻へと突き進んでいった。
富士はそのときも、ドデンと逞しくそびえ立っていたのだろう。

ただ、太宰の心に富士はもう響かない。
「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい」と書いているように、
彼の瞳に映る富士は、次第に曇っていった。



太宰治の墓碑にて(東京都三鷹)
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“ムジナもん”と遊びませんか?(63)―ムジナもん弁当―

2010年12月04日 | ムジナもんの部屋
ゆるキャラさみっとin羽生では、
“愛情(藍城)弁当”が販売されていた。
この弁当にはいろいろと感慨深い。

“ムジナもん弁当”を購入。
その名の通り、ムジナもんがご飯に乗っている。

だからと言って、(残念ながら)ムジナもんの味がするわけではない。
油揚げでできたムジナもんである。
味がしみて美味だった。

ムジナもんも、いじればいじるほど味の出る生き物なのだろう。
卵のそぼろに、カレー味のご飯の組み合わせが舌に優しい。
家庭的な味だ。

子どもも喜ぶ弁当だ。
学校に持っていったら、
たちまち注目を集めるかもしれない。
ヤンキーが教室で食べたっていい。

ムジナもん弁当は「ゆるキャラさみっと」でデビューしたが、
一般的に市販されているわけではない。
これから市場に出回るか不明だ。
近い将来、スーパーかコンビニで、
この不思議な生き物のいるムジナもん弁当が並んでいるかもしれない。


ムジナもん
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武蔵から旅した古人が目にした“平城京”は?

2010年12月03日 | 歴史さんぽ部屋
平城京跡に“大極殿”が復元されているが、
武蔵から税を運んできた人に、
都はどんなふうに目に映っただろう。

運脚夫は東山道を使って都へ向かう。
往路29日、復路15日。
いまなら新幹線で数時間だが、
往時はかなりの長旅である。

そして、ようやく辿り着いた都にそびえ立つ大極殿。
まるで異世界のような空間が広がっていただろうか。
とりまく雰囲気や言葉の訛りも違う。
都までの税の運搬は厳しい仕事だったが、
楽しみにしていた者も中にはいたかもしれない。

都で出会った人と恋に落ち、
帰ってこなくなった人もいたかもしれないし、
都で遊びを覚えて、素寒貧になった人もいただろう。
日々は草深き田舎よりも華やかで、
ドラマチックだったように思う。

むろん、田舎だってドラマチックだったろうが、
都には田舎にはないものがたくさんあったに違いない。
流行や文化、あるいは国の舵取りの最先端だった。

いまだって復元された大極殿をポカンと見上げてしまう。
まるで異世界に紛れ込んだかのよう……
古に作られた建造物やその土地の歴史は、
未だその輝きを失っていない。
往古、旅した人の目にも、
都はまばゆく映っていたのかもしれない。



大極殿(奈良県奈良市)



平城京跡



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編集者と行く羽生城めぐりは?(14) ―池袋で羽生城―

2010年12月02日 | 羽生城跡・城下町巡り
池袋にある大手書店で、“羽生城”を見掛けた。
新刊本コーナーに『羽生城と木戸氏』が並んでいる。
旧版の『羽生城―上杉謙信の属城―』は私家版だったから、
池袋の書店に並ぶことはなかった。

羽生入城前にぼくは織田信長にはまっていて、
その書店で『信長公記』を買ったことがあるだけに、
なんとなく感慨深い。
この街に毎日通っていた頃が、
天正2年の羽生城自落のごとく遠い。

あるコーナーへ行くと、
ある人の親族が書いたという本が並んでいた。
本を捲ると、かなり専門的な内容である。
むせかえるような“知”の匂いがしてくる。

ぼくはおおよそ本の香りとは無関係な環境に育ってきたせいか、
知的なものに対する憧れが強い。
自分が知的な人間ではないという反動もある。

できる人は、生まれながらにして優秀な血を継いでいるのだろうか。
むろん、本の有無で優秀さを測ることはできない。
ただ、本を書く人の遺伝子は受け継がれているわけである。
何の書物も残っていない家系を鑑みると、
やや暗い気持ちになった。

生まれながらにして持つものは、誰にでもあるかもしれない。
幼少期に人格が形成されるというが、
血だけは自分で選ぶことができない。
ただ、物忘れのひどさや、うっかりした性格を血のせいにしたら、
先祖に怒られるだろう。
人間、いつだって他人や先祖のせいにしてはいけない。



池袋駅前
コメント (2)
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