クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

編集者と行く羽生城めぐりは?(17) ―木戸門―

2010年12月15日 | 羽生城跡・城下町巡り
かつて、羽生の町の出入り口には“木戸門”があった。

いまは歩きでも車でも、
何の障害もなく通過できる場所だが、
往古は門の前に橋が架かり、番兵がいたのだろう。
『新編武蔵風土記稿』は次のように伝える。

 (町場村は)羽生領の本郷にして、昔城下に属せし町の蹟なれば名となれり、
 町の入口に昔は木戸門ありて備とせし由、
 今はそこを番屋蹟と呼べり

「木戸門」や「番屋蹟」の文字が見える。
ちなみに、小字として出入り口を示す「戸張」という名も残っている。
城の遺構や雰囲気もすっかり消えてしまっているが、
文献資料に見える地名や文字が、
城を匂いを漂わす。

ところで、この木戸門はどうなってしまったのだろうか。
羽生城が廃城になったのは、慶長19年(1614)である。
このとき、門も取り壊されたのだろうか?

最後に木戸門が確認できるのは、天明6年(1786)である。
廃城後も百年以上存在していたことになる。

天明6年(1786)夏、折からの大雨で利根川は増水していた。
往古の川の堤防は低く、
カエルが小便をしただけで大水が起こると言われていた。

膨れ上がった利根川の水に、堤防は支えきれない。
亀裂が入り、しみ出すように水が流れ出したかと思うと、
たちまち堤防を押し流した。

場所は、本川俣の竜蔵河岸付近。
河岸はおろか、問屋を営んでいた家も押し流す。
同年7月17日、その水は羽生の町へ押し寄せた。
このとき門の向こうは、
羽生城を守っていた大沼の再現のごとく、
「大堀」ができたという。
『松村家日記』には、木戸門は「羽生町上ノ門」と記されている。

これ以後、門は消滅したのだろう。
人的なものだったのか、
それとも自然災害によって失われたのかはわからない。

現在は、門の名残すらない。
アスファルトに覆われ、車通りの激しい交差点になり、
羽生市最古の歩道橋が架かっている。

そこに立ち、「木戸門」を想像するのは難しい。
しかし、アスファルトに同化した「高橋」という名の橋が、
往時の情景をひっそりと伝えている。
コメント
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