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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

板倉沼が消滅してちょっと寂しそう? ―沼除堤―

2019年03月05日 | ふるさと歴史探訪の部屋
かつて広大な面積を有していた板倉沼。
37haあり、藺草(いぐさ)が生い茂っていたらしく、
その情景が『万葉集』に詠まれている。

現在は完全に消滅した沼だが、
往古は人々の暮らしと密接していたのだろう。
恵みをもたらす沼である一方、
水の脅威も隣合わせだった。

それを示すように、「沼除堤」が現存している。
これは冠水した板倉沼の水を避けるために築かれたもの。
標高は18、1mを測り、
これは元あった自然堤防を利用したのではないだろうか。

いつ築かれたのかは不明。
定期的に修築もされていたと思われる。
すぐ近くを谷田川が流れ、
水場ののどかな景色が見られる。

昭和54年生まれの僕は、板倉沼を一度も目にしたことがない。
生まれたちょうどその頃に、沼は埋め立ての真っ最中だったことになる。

沼がなくなったいま、沼除堤は不要になったのだろうか。
堤はいささか寂しそうに見える。
相棒を失い、ケチョンとなっているような……。

いや、沼除堤は板倉町の歴史を語る証言者。
沼は消えても歴史がなくなったわけではない。
水場の町・板倉を語る者として、
沼除堤は今日も訪問者に語りかけている。


沼除堤

年末年始は本を片手に史跡めぐり? ―資料展示「越後の龍 上杉謙信」―

2018年12月30日 | ふるさと歴史探訪の部屋
12月30日現在、年末年始で休館ですが、
埼玉県立熊谷図書館において「越後の龍 上杉謙信」と題して、
上杉氏や謙信、またゆかりの人物や城に関する資料(蔵書)を集めた展示を開催中です。

これは、埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催中の企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の諸城―」に関連しての展示なのでしょう。

展示資料リストを見ると、熱い本たちが一堂に会しています。
80年以上、羽生城研究に命を燃やした冨田勝治先生の『羽生城―上杉謙信の属城―』もピックアップされていました。
そしてガラスケースに展示。
20代の頃、心躍った本もたくさん展示されており、
研究者たちの息吹が伝わってくるようです。

ところで、年末年始は読書と史跡巡りが比較的可能な時期です。
振り返っても、忘れられない史跡との出会いや、
後年とても影響を受けた本を読んでいたのも年末年始だった気がします。

1年の中でも、世界中がお祝いムードに包まれる時期です。
どちらかと言えば、僕は内省的に過ごしたい方で、
親戚挨拶や初詣、人と会う時間以外は史跡巡りや読書、
もしくは執筆などで世界を深めたいと思って過ごしてきました。

言っても、20代の頃は時間がありました。
自転車を走らせて神社参詣のハシゴをしたり、
コタツに入って1冊の本を書き写したりと、
お酒は飲まなくても本と史跡があれば十分酔えたものです。
その酔いはいまも続いていて、二日酔いどころではありません。
二十年酔いはしているでしょうか。

歳月は流れ、まつやま書房さんから声がかかって2冊の本を上梓しました。
ふと思いました。
自分が本と過ごした年末年始のように、
楽しい思い出として残っているように、
自分の出した本が誰かのそばにいられればいいな、と。
そして、それをもとに埋もれた歴史や史跡に会いにいくきっかけになれれば、
これ以上の喜びはありません。

『歴史周訪ヒストリア』は、羽生・加須・行田の“城”や“古墳”、“神社仏閣”、
『古利根川奇譚』は、羽生から杉戸町にかけて残る“伝説”や“河畔砂丘”について取り上げました。
自分で書いたものだからというわけではありませんが、
もしも受け手だったならば、本を片手に史跡巡りをしたくなる気がします。
(そもそも、自分自身が巡って楽しいから本に書いたのですね)

2018年の暮れは寒波が到来しています。
年末年始はどうお過ごしでしょうか。
実家に帰る人、旅行に行く人、家で過ごす人、勤務する人などさまざまだと思います。
暮れにどんな本を読み、
新年とともにどのような本を手に取るでしょう。

「心に残る本」リストに挙がり、
ガラスケースに展示をしたくなるような本と出会いたいですね。

“羽生の魅力体験ツアー”でお待ちしています

2018年10月11日 | ふるさと歴史探訪の部屋
10月28日(日)に、
羽生市内において「羽生の魅力体験ツアー」が開催されます。

何をするかと言うと、藍染体験、まち歩き、冷汁作りなど、
羽生にゆかりの深いものを体験したり感じたり、味わったりする内容です。
「羽生」を満喫する1日と言ってもいいでしょう。

実は、「まち歩き」では私高鳥が担当させていただきます。
昨年度も「はにゅはにゅ日和」というタイトルで同様の企画を実施しましたが、
今回は町から川俣方面へ歩いていく予定です。

昨年度の様子は、平成30年10月号の市広報に参考資料として写真掲載されています。
私もちょこっと写っていますが、おわかりになりますでしょうか(計2枚)。
この体験ツアーの概要は以下のとおりです。

<羽生の魅力体験ツアー>
日時:10月28日(日)8時30分~16時(予定)※少雨決行
集合場所:羽生市民プラザ(羽生市中央3丁目7-5) 1階ロビー
内容
 ①藍染体験
 ②まち歩き(歴史散策 距離は約7km、約2時間)
 ③冷汁作り体験
定員:30名(先着順)
費用:1000円(当日集金)
持ち物:エプロン(汚れてもよい服、歩きやすいクツ)
申込:10月22日(月)までにキャラクター推進室まで(048-560-3119)

羽生市ホームページ内をご参照ください。
http://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2017092600016/

まち歩きをするのは、10時半くらいからでしょうか。
口下手を自覚しながらも、
昨年度は羽生のおもしろいところをたくさん紹介させていただきました。
今回も、「羽生の魅力」として参加者の心に少しでも残るものがあればと思います。
ご参加される方、お会いできるのを楽しみにしています。

※最初の写真は川俣地区を流れる利根川と東武鉄道の鉄橋

旧騎西町の“鷹橋”の名前の由来は?

2017年12月21日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧騎西町内(現加須市)を流れる備前堀川には、
鷹橋と呼ばれる橋が架かっている。
高橋ではなく鷹橋。
その字のごとく、“鷹”に由来している。

徳川家康が各地で鷹狩を催していた頃の話。
家康はこの付近で鷹狩を行った。
すると、ハヤブサが現れて、家康の放った鷹と上空でもみ合いになってしまう。

家康をはじめ、地上にいる人々はどうすることもできない。
ただ空を見上げているばかり。

やがて、二羽はもみ合ったまま地上に降りてきたのだろうか。
村人の内藤玄蕃という者が颯爽と駆けだす。
そして、堀にハシゴを架け、向こう岸に渡った。
ハヤブサを追い返す玄蕃。
家康の鷹を助け出し、事なきを得た。

一部始終を見ていた家康は内藤氏に感服する。
鷹を救ったこともさることながら、その機転と行動力に感銘したのだろう。
家康は内藤氏に陣羽織と玉銀を与えたのだった。

その後、堀に橋が架けられた。
誰ともなく、その橋を「鷹橋」とか「たかな橋」と呼ぶようになったという。

現在の鷹橋はコンクリート製のもの。
備前堀川も整備されており、
橋の上を何台もの車が行き来している。
周囲は田畑が広がり、見晴らしがいい。

鷹橋の傍らには説明板が建っており、
徳川家康の鷹狩にまつわるエピソードが伝えられている。
何気ない場所に潜む歴史的エピソード。
陣羽織はのちに旧川里町(現鴻巣市)のお寺に納められ、現存しているという。

屈巣にはどんな記憶が掘り上げられる? ―屈巣沼―

2017年10月26日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧川里町(現鴻巣市)にある“屈巣”(くす)。
ここには公園やゴルフ場があって、
休日になると親子連れやゴルファーたちで賑わう場所だが、
かつて“屈巣沼”という沼が広がっていた。

低地における新田開発として、
“掘上田”(ほりあげた)がよく知られる。
ジメジメした場所を掘り上げて、土を盛って田んぼにした。
土を掘った場所は自ずと水がたまって池沼となる。

掘上田は江戸時代に盛んに行われた。
屈巣沼は、江戸中期にあたる享保年間に水田として開発されたという。

土を掘ってかさ上げし、掘(ホッツケ)に水が溜まる掘上田。
これを上空から見ると、ちょうど櫛のような形をしているところが多い。
戦後になっても掘上田では稲作が行われていた。
その頃の景色を懐かしく思い出す年輩者は少なくないだろう。

現在、この掘上田が見られる地域は少ない。
屈巣沼周辺にも多くあったが、時代の流れとともに消滅した。
屈巣沼もその例外ではなく、
前述したように公園やゴルフ場と化している。

と言っても、最初からその計画が持ち上がっていたわけではない。
屈巣沼では、かつて櫛状の掘割を利用して漁業が行われていたらしい。
戦後には、コイ・フナ・ウナギなどの養殖事業を実施。
これも時代の流れとともに方向転換がなされることになる。
そして、昭和51年にゴルフ場と公園が開業したのだった。

掘上田はいまとなっては遠い昔。
先人たちが新田開発に汗水を流したことは忘れられつつあるかもしれない。
沼に生えたマコモ、底を掻きあげるサデカキ、
かつて行われたという魚捕りや釣りの大会。
現代とは違った記憶がそこには多く眠っているのだろう。

沼の名残をとどめるように、公園の一角に広がっている弁天沼。
釣り人たちが釣り糸を垂らし、
傍らには厳島神社が鎮座している。

幼な子と行く幸手の“権現堂堤”は?

2017年03月29日 | ふるさと歴史探訪の部屋
冬に息子と行った権現堂堤。
埼玉県幸手市にある。
桜の名所としてよく知られており、
毎年ここに足を運んでいる人は多いだろう。

権現堂堤は戦国時代終わりの天正4年に築かれたと伝わる。
確証はない。
ただ、この時期の築堤だとすれば後北条氏の存在が浮かび上がってくる。

なお、ここは巡礼母娘が人柱になったとも言われている。
大水で堤が切れたとき、巡礼母娘が自ら入水して水神の怒りを解いたという。
が、伝播された話の可能性が高い。
権現堂の人柱伝説は有名とはいえ、
似た伝説は各地にあるのだから。

冬枯れした桜並木の下を息子と歩いた。
さすがに人はまばらで、
息子は堤の上を全力疾走した。
桜が満開に咲く頃になればそうはいかない。
多くの観光客で賑わい、全力疾走すればたちまち人にぶつかるだろう。

僕は権現堂の桜並木は好きだが、
いわゆる「観光地」が苦手だ。
人混みが多いとどうしても躊躇してしまう。
よく知られた場所よりも、
自分だけの秘密基地を見付けたい感じ。

息子はどうだろうか。
父親にマニアックな場所ばかりに連れ出されているから、
その反動として「観光地」が好きになるかもしれない。

1994年、町にコンビニは一軒しかなかった?

2017年02月24日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧大利根町にはコンビニが一軒しかない。
クラスメイトからそう聞いたことがある。
1994年のことだ。

僕はそれまで自らの意志で大利根町へ行ったことがなかった。
その町が具体的にどこにあるのかさえわかっていなかったし、
クラスメイトがどのような経路で通学しているのかも謎だった。

田舎町らしい。
コンビニが一軒だけあって、
夜になると暴走族の爆音が響き渡る。
外灯も少なく、あるのは田んぼばかり。
クラスメイトから聞く「地元」の話はそのようなものだった。

1994年の秋、僕は大利根町まで自転車を走らせた。
何の宛ても目的もなかった。
クラスメイトが住む町を
一度目にしたいというのが動機だったかもしれない。
だからどこにもゴールがなかった。

初めて目にする大利根町は僕の住む「地元」とさほど変わらないように見えた。
低地に広がる田んぼ、
何本も流れる用排水路、
まばらに通り過ぎる人と車。

自転車を走らせながら、
クラスメイトとばったり会う期待感がなかったと言えば嘘になる。
どうせ行くなら会う約束をすればよかった。
声をかければよかった。
そう思った。
しかし、僕はクラスメイトが町のどこに住んでいるのか知らなかったし、
ばったり会うにはあまりに闇雲すぎた。

確かにコンビニはどこにもなかった。
日中のせいか、暴走族の爆音は聞こえてこない。
大利根の道をどこまで走っても、
コンビニの看板は見当たらなかった。

どのくらい過ごしただろう。
帰路に就いたそのときだった。
目に突然飛び込んできたものがある。
デイリーヤマザキ。
緩やかにカーブする道の脇にそれは建っていた。

見付けた! と内心思った。
が、すぐにこうも思った。
コンビニなのか?

デイリーヤマザキの前を通り過ぎた。
店内に人影が見えた気がする。
もちろんそれはクラスメイトではなかった。
記憶はそこで途切れている。
デイリーヤマザキからどのような道を辿ったのか。
川沿いか、それとも国道沿いか……。
綺麗に欠落している。

翌日、クラスメイトに大利根町へ行ったことを話したのだと思う。
しかし記憶がないということは、
デイリーヤマザキが一軒のみ存在するコンビニではなかったということだろう。

では、そのコンビニはどこにあったのか?
それはいまだに謎となっている。
聞けば教えてくれるかもしれない。

僕が目にしたデイリーヤマザキはいまでも存在している。
向かいには郵便局があり、近くに中川が流れている。
店も周囲も記憶と変わらないように思える。
が、細部はだいぶ違っているのだろう。

現在の大利根にはコンビニを多く見かける。
利根川に架かる橋の麓には道の駅もある。
クラスメイトが言った「たった一軒のコンビニ」はいまでも存在しているのだろうか。

小さな謎のようで不思議と心に残り続ける。
事件性は何もないようで妙に心を惹きつける。
手を伸ばしても届かない。
戻りたくても戻れない。
この20年間、大利根のたった一軒のコンビニは、
僕にとってフランツ・カフカの『城』のように、
辿り着くことのできない場所として存在し続けている。

旧栗橋町の高柳には高貴な人が住んでいた?

2016年10月13日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧栗橋町(現久喜市)の高柳に、
かつて古河公方“足利晴氏”が住んでいたことがある。
御所の古河から高柳に移ったのだ。

年は未詳だが、天文年間の後半と考えられる。
理由も不明。
後北条氏の圧力による影響もあったかもしれない。

高柳は水運の要衝地だった。
会の川、浅間川、渡良瀬川がそれぞれ合流しており、
晴氏が高柳を選んだのもそこに着目したからではなかったか。

ちなみに、足利義明も高柳に在住していたことがある。
足利高基の弟で、晴氏から見れば叔父である。
のちに小弓城(千葉県千葉市)に移って小弓公方と呼ばれる人物だが、
その前に高柳に御所を構えていた時期があった。
ゆえに、義明は「高柳殿」とも呼ばれた。
その御所は宝聚寺の付近にあったと言われるが、その遺構は見当たらない。

ちなみに、「高柳」の名の付く場所は近隣にいくつかある。
児玉、熊谷、騎西だ。
いずれも興味深くはあるが、
有力視されるのは旧栗橋町の高柳だ。
足利義明や足利晴氏が在住していた頃は、
多くの者から注目される地域だったに違いない。

孔雀の間には月下の棋士がよく似合う? ―起雲閣―

2016年09月25日 | ふるさと歴史探訪の部屋
高校生のとき、『月下の棋士』に夢中になったことがある。
いまはない羽生市内の古本屋でたまたま立ち読みし、
迷わず即買した放課後。
以来、再読を含めて愛読している。

その題名の通り、棋士をモチーフにした漫画だ。
作者は能篠純一。
小学館から全32巻単行本が発行され、
のちにドラマ化もされた。

あらすじ紹介は避けるが、
最後は主人公「氷室」と「滝川」が宿命の対決をする。
その対決の舞台となった「初きよ」。
物語では、近代ビルが建ちあまり知られていないように設定されているが、
起雲閣がモデルになっている。

実際、著名な棋士が起雲閣で対決している。
それは誰か?
“谷川浩司”と“羽生善治”だ。

第5期竜王戦で激しく火花を散らした舞台としても知られる。
対決部屋は孔雀の間。
1992年の12月のことだった。

『月下の棋士』の愛読者としては、谷川・羽生両棋士の対決よりも、
その部屋がどの場面で登場したかに想いを馳せてしまう。
実際に『月下の棋士』を持って起雲閣へ行けば、親近感は倍増だろう。

ちなみに、孔雀の間は作家舟橋聖一にこよなく愛されたという。
彼が特注した満寿屋の原稿用紙を持って、この部屋でペンを走らせたのだろうか。
作家・武田泰淳もこの部屋で執筆したらしい。

それぞれの歴史がこの部屋には刻まれている。
起雲閣へ行き、『月下の棋士』を読み返したくなる人は多いに違いない。


孔雀の間(静岡県熱海市)





栗橋の八坂神社は“コイ”が神使?

2016年07月10日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧栗橋町(現久喜市)の夏祭りは“八坂神社”の祭りだ。
天王さまとも呼ぶ。
八坂神社は利根川に架かる利根大橋のそばに鎮座している。

この神社に足を運び、まず目に付くのは神使だ。
神社というと、本殿前の“狛犬”が参拝者を出迎えるのが多い。
が、八坂神社の場合は“コイ”になっている。

魚のコイだ。
それが2体、本殿前におわしている。

狛犬のようないかめしさはない。
このコイは霊験あらたかなもので、無病息災に効くという。
コイに触れ、自分の体をなでるよい。
そのほかに家内安全、商売繁盛、縁結び、
学業成就といった幸も運んでくれるそうだ。

なぜ、神使がコイなのだろうか。
これは八坂神社の創建に由来する。
旧栗橋町は利根川沿いに位置し、しばしば大水に襲われていた。
近くに横たわる宝治戸池は、
大水によって決壊したおっぽり(落堀)と言われる。

慶長年中のことだ。
降り続いた雨によって利根川は満水状態となり、
村人は堤が決壊しないようその補強工事に追われていた。

するとそのときだった。
神輿とおぼしきものが悠々と流れてくることに気付く。
村人たちは覚えず目を見張った。
神輿の周囲を泳ぐコイとカメに視線を釘づけにされた。

1匹や2匹どころではない。
あまたのコイとカメが神輿を囲むように泳いでいたという。
これは霊験あらたかな神輿に違いない。

村人たちは神輿を引き上げ神として祀る。
これが八坂神社の興りとなった。
元は牛頭天王社と名乗ったが、明治期となって現在名に変わった。
ゆえに、八坂神社の神使はコイというわけだ。

利根川沿いの地域ならではの逸話と言える。
漂着したものを祀り、神社となるパターンは多い。
現在は色々な幸をもたらしてくれる八坂神社だが、
以前は疫病退散に最も効いていたのかもしれない。

コイは貴重なたんぱく源でもある。
釣り上げたコイはキャッチアンドリリースはせず、
おいしくいただいていた。

しかし、八坂神社の氏子にとってコイは尊い神使。
食することには抵抗があったのだろう。
とはいえ、貴重なたんぱく源。
そのため八坂神社の祭り月にコイを食すのを避けた。
以前は6月が祭り月だったため、
年齢性別を問わず、氏子たちは誰もコイを食さなかったという。


八坂神社(埼玉県久喜市)

村君の“古藤”は歴史ロマンの香りがする?

2016年05月01日 | ふるさと歴史探訪の部屋
羽生の村君には“古藤”がある。
鷲宮神社の境内の一角にそれはある。
境内には弁才天も祀られているのだが、
古藤はその創建のときに植えられたという。

目印は村君公民館。
古藤は公民館の隣に立っていると言っても過言ではない。
ベンチも設けられていて、
憩いの場となっている。

ちなみに、鷲宮神社が祀られているところは“古墳”と言われる。
近くには“御廟塚古墳”と“永明寺古墳”がある。

後者は羽生市で最大の前方後円墳で、
県指定の文化財になったばかりだ。
興味のある方は、
拙著『羽生行田加須 歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)を参照にされたい。

なお、鷲宮神社ではかつて「おかえり」という神事が執り行われていた。
加須の樋遣川古墳群の一つ“御室神社”まで里帰りをするという行事だ。
伝説の真偽は定かではないが、
古墳に眠る者たちのネットワークをうかがわせる。

古墳も合わせて目にしておきたい。
そうすれば、花咲く古藤から歴史ロマンの香りがするだろう。


宵に浮かぶ藤の花(埼玉県羽生市)

班渓寺にある小さな“五輪塔”は誰のお墓? ―山吹姫―

2015年09月10日 | ふるさと歴史探訪の部屋
班渓寺(埼玉県嵐山町)の墓地内には、小さな五輪塔がある。
これは“山吹姫”の墓と伝わるものだ。

山吹姫は、源義仲(木曽義仲)の側室と言われる人。
班渓寺は、頼朝によって討たれた子源義高の菩提を弔うために、
山吹姫が創建したという。

お寺の前には、「木曽義仲公誕生之地」と刻された碑が建っている。
お寺の裏は“伝木曽殿館跡”と言われる。
義仲の父・源義賢と秩父重隆が、
源義平によって討たれた大蔵合戦が久寿2年(1155)8月に起こっているが、
舞台はこの伝木曽殿館跡とも囁かれる。

班渓寺の近くに鎮座するのは鎌形八幡神社だ。
義仲の産湯として使われたという清水が湧き出ている。
何かと伝説が多い。

班渓寺には、鎌形八幡神社から歩いていった。
車では通れない細い道を歩く。
畑仕事をしている人の姿を何人か見かけた。

やや広い通りに出ると、車が何台か通り過ぎる。
それ以外はとても静かな集落で、
ゆっくり歴史に想いを馳せることができるだろう。

前述のとおり、山吹姫の墓と伝わる五輪塔はとても小さい。
高さは60センチほど。
歴代住職墓碑の一角に建っている。
訪ねるときは、山吹姫の五輪塔もさることながら、
歴代住職の墓碑にも一礼したい。


クスリをのんで行く“鎌倉街道上道”は?

2015年09月08日 | ふるさと歴史探訪の部屋
鎌倉街道上道沿いには城館や古戦場跡が残っている。
それらを見学する講師依頼があって、
日曜日に下見に出かけた。

同行したのは事務局の方3名。
上道と言っても、鎌倉まで行くわけではない。
埼玉県内の笛吹峠までが今回のコース。

ぼくは病み上がりで、正直不安だった。
途中でふらつくかもしれない。
途中で離脱もあるかもしれない。
そんな不安を抱えての下見だったが、
行ってみれば案外そんな暇はなかった。

とりあえず、群馬県立歴史博物館から各現場までナビ。
到着と出発時間の記録。
城跡ではどのコースを辿るかを検討。
時間に余裕があれば巡る場所を増やしてもいいし、
その逆ならば減らさなければならない。

昼頃に体調が怪しくなったから、
昼食後にクスリを服用。
真夏の日差しを浴びた史跡はどこも熱気に溢れていた。
城跡とはいえ観光客は少なく、
チラホラ見える程度。
そんな史跡とは逆に、
橋から覗いた荒川では水着姿の観光客でごった返していた。

下見は午前9時から夕方の5時近くまで。
昼にのんだクスリのせいもあって、途中離脱には至らなかった。
ただ、最後の畠山重忠生誕の地では、
体がだいぶ重くなっていた。

体力が基本。
健康が資本。
史跡で見かける元気なおじちゃん、おばちゃんは、
どんな健康法を採っているのだろう。

群馬県立歴史博物館はリニューアル工事の真っ最中で入館できない。
せっかく来たこともあって、
下見が終了したあとは“群馬の森”を歩く。
風邪がぶり返しそうだったが、森を歩かなくては悔いが残る。

できれば文書館にも足を運びたかった。
でも、タイムオーバー。
落語CDを聴きながら帰路に就く。

急激な眠気に襲われて、
岡部の道の駅で仮眠。
少し元気になる。

夜の高速道路を飛ばして鎌倉まで行ってしまおうか。
ふとそう思い付いた。
が、思い直して家路に就いた。

宵時の“杉山城”をひとりで攻める? ―ひとり散歩―

2015年08月31日 | ふるさと歴史探訪の部屋
杉山城は埼玉県嵐山町にある。
よく知られているように、山城の模範と言われる。

これだけ完全な形で残っているのは珍しい。
後北条氏による築城と考えられてきたが、
現在は山内上杉氏の手によるものとの可能性が高い。
国指定の史跡。

杉山城に辿り着いたのは夕方だった。
日は暮れかけ、城跡にはぼく以外に誰もいない。

かねてよりこの城とはじっくり語り合いたいと思っていた。
最後に足を運んだのはすでに数年前になる。
記憶もややぼやけている。

夕方とはいえ、誰もいないのは好都合。
人目を気にせず城と向き合える。

持ってきた見取り図を片手に城を攻める。
大手口をそのまま突き進むのではなく、南に折れて馬出廓から入城する。

“南三の廓”から食い違い虎口を通って“南二の廓”に行き、“井戸廓”に進む。
虎口に設けられているのは横矢掛かり。
突き出た土塁が廓の出入り口の防御を固めているわけだ。
すなわち、横から矢を放って敵を倒すという仕組み。

井戸廓からは本郭には進めない。
本郭の南虎口にあたる。
かつてここには木橋が架かっていた。

本郭では、ちょうどここに礫が発掘されている。
井戸廓に侵入した敵を撃退させるための武器だろう。

石という原始的な武器だが、
これがかなり効いたらしい。
いまでも石に当たれば痛い。
石の方が「痛い」と言うのは、よほど融通の利かない堅物くらいだ。

再び“南二の廓”に戻って、東側を通って“本廓”に入る。
本廓の東虎口では、ハの字形に広がる石積が発掘調査で見つかったという。
本郭から“北二の廓”に行く虎口は、
強力な横矢掛かりが設けられている。

そのまま“北三の廓”に足を運ぶ。
ここは木が生い茂っていて、かなり薄暗い。
日はどんどん翳り、逢魔の刻と言われる宵時となる。

再び本郭に戻り、“東二の郭”と“東三の郭”へ足を運ぶ。
ここはだだっ広く、杉山城の雄姿を望むことができる。
東の空には月が浮かんでいた。

南二の廓には戻らず、横堀に沿うように歩き、折れを見る。
再び馬出廓と南三の郭に戻り、
南二の郭には戻らず“井戸跡”に足を運んだ。

ここも樹木が多い。
木の陰から何かが覗いていたとしてもおかしくはない雰囲気である。
それはホラーではファンタジーだと思う。
不気味と言えば不気味。
でも、そこを気にしても城とは語り合えない。

竪堀を眺めながら井戸跡に辿り着く。
そこには深い穴があるわけではない。
井戸跡には大きな石でふさがれている。
杉山城で唯一見つかっている井戸だという。

そして、大手口から退城。
以上が今回進んだルートになるが、
再び引き戻って城に入る。

復習。
そう、ひとり散歩だと復習ができるのだ。
誰かと一緒だと、よほどの城好きでなければ遠慮してしまう。
妻でさえ遠慮が生じる。

しかも、自分のペースで好きなコースを辿れる。
多少端折って杉山城に再び入城した。
今度は駆け足で廓を巡った。

36歳の男が薄暗い城跡を走っている姿は、
ファンタジーではなくホラーかもしれない。
城の麓から犬の鳴き声が聞こえたのは、
ぼくに警戒してのことだったか。

大手口に戻ったときは、月光もだいぶ明るくなっていた。
城を眺めると、廓の輪郭が見えないほど闇の中に溶け込んでいる。
それでも3度目の復習に行く人はいるだろうか。

さすがに疲れた。
10代か20代だったら逆回りで攻めに行ったかもしれないが……。
ペットボトルの水を飲み干して杉山城をあとにした。

ちなみに、夏の杉山城はやぶ蚊が多い。
城跡見学の基本だが、
暑くても長そで・ズボンで行くことを薦める。



鎌倉街道を歩いて“大蔵宿”に行く? ―ひとり散歩―

2015年08月17日 | ふるさと歴史探訪の部屋
大蔵宿は、都幾川を南に渡ってすぐの集落だ。
鎌倉街道上道沿いに発達した集落と言われる。
鎌倉時代の僧・明空が手がけた『宴曲抄』にも、

 げに大蔵に槻河の流もはやく比企野が原

と、「大蔵」の地名が見える。

大蔵宿につながる橋付近が、
鎌倉街道上道が通っていたと言われる。
ただ、菅谷館の南西に位置する二瀬橋もまた上道と考えられるので、
一概にどちらとも言えないし、
あるいは両方だったのかもしれない。

なお、学校橋の麓はバーベキューができるようになっている。
夏に通れば、河原で遊んでいる人たちの姿を目にすることができるだろう。

大蔵宿の近くには大蔵神社が鎮座している。
これは大蔵館跡であり、土塁が現存。
木曽義仲の父“源義賢”が、
秩父重隆と共に源義平によって討たれた場所と伝わる。
かの源頼朝も、大蔵宿を訪ねたことがあったという。

大蔵宿は、鎌倉時代当時の集落が復原されているわけではない。
ごく一般的な町の一角だ。
道もアスファルトで整備されているし、
車で通りやすい。
ただ、少しだけ歴史的な視点で眺めたとき、
中世の息吹が感じられる。
何気ないところに歴史は眠っている。