goo blog サービス終了のお知らせ 

クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の“城沼落とし”の桜並木にて

2025年04月07日 | 歴史さんぽ部屋
今年も春が来て、“城沼落とし”は桜の花に彩られていた。
城沼落としとは、羽生城址(埼玉県羽生市)の北側を流れる排水路のこと。

この排水路も城址と言えるかもしれない。
が、「武陽羽生古城之図」や「浅野文庫蔵諸国古城之図」所収の絵図を見ると、
城の北側は沼に覆われているから、天然の沼が堀替わりになっていたことになる。

桜並木の南側に建つのは曙ブレーキ工業の工場である。
井泉に住む同級生の家へ遊びに行くとき、横目に移る工場は城のように見えたのを覚えている。

城沼落とし沿いには、かつて「くるみ」というお好み焼き屋があった。
1994年の春、そこで中学の部活の同窓会が開かれたことがある。
誰が主催したのか聞いてみると、無関係な部活の同級生が1人で企画したという。
しかも、当人は不参加。
なぜ彼が主催したのか、30年が経ったいまも謎である。

4月6日の城の日に法要が行われていた伝堀越館跡。
井泉の同級生が教えてくれた「かつみ」というラーメン店。
城沼落とし沿いには炉端焼きを売りにする居酒屋があって、
彼はそこへバイトを申し込んだ。
が、断られて店を出てきたのは、高校生ではハードルが高かったらしい。
「くるみ」近くには服屋があったらしいが、私は行く機会を失ってしまった。

その土地に眠る記憶が浮かび上がっては、桜の花びらのように散っていく。
羽生城史の記憶はない。
現存する史料の断片から歴史の流れを読み解き、知識として知っているだけ。
懐かしさもないし、夢枕に羽生城主である広田直繁や木戸忠朝が立ったこともない。
むろん、羽生城将も……。

羽生城が軍事施設として機能していた頃、領内にはどのくらいの桜があったのだろう。
当時を生きる人々の目に、その桜はどのように映ったのか。
環境も価値観もまるで異なるとすれば、同じ桜でも見え方は別ものに違いない。
ただ、春を迎える想いは同じだったろうか。

見る景色も生き方も全く違う。
でも、何かがつながっている。
歴史は断絶するものではない。
例え、か細くてもつながる糸がある。
記憶と歴史。
いまを生きる我々が紡いでいる糸は、
どのような未來へつながっていくのだろう。

行き詰ったら場所を変える? ―群馬県立図書館―

2024年12月12日 | 歴史さんぽ部屋
どう手をつけていいのかわからない仕事があった。
期限は目前に迫っている。

材料はそろっていた。
形はぼんやり見えている。
が、まとまらない。
切り口がわからない。

こういうときは場所を変えてみる。
気分転換をかねて。
ということで、足を運んだ群馬県立図書館。
群馬県前橋市にある。

2階の机を使った。
最初はペンを執り、鈍ったらノートパソコンを開いた。
しばらくすると、切り口が見えてきた。
観点が定まれば材料は揃っている。
なんとかなりそうだ。
ほっと息をついた。

テーブル机では、古そうな資料を広げて書き物をしている年輩者がいた。
テーマで探している本を司書に相談している人もいた。
利用者なのか職員なのかわからない女性。
すらりと背の高い大学生風のイケメン。
無精ひげを生やした自分は、他者の目にどう映ったかな。

県立図書館から前橋城は近い。
関東静謐を図る上杉謙信が拠点としていた城である。
しばらく訪れていない。
帰りに寄ってみようか、そう思っていた。
が、閉館時間近くまで居座り、窓の外はすっかり暗くなっていた。

夜の城跡もいい。
ただ、気怠い疲労感を感じた。
城跡へ向かう気力はわかず、そのまま帰路へ。

上杉謙信は何度も関東に出陣し、相模の北条氏と火花を散らした。
謙信が出陣すると、地域的領主は北条氏から離反して上杉氏に従属した。
が、関東から去ると北条氏に帰属。
イタチごっこだった。

関東静謐の拠点だった厩橋城(前橋城)の北条(きたじょう)高広も、謙信を見限ったことがある。
関東進攻後、厩橋から越後へ帰路に就く謙信の心情はどうだっただろう。
疲労感はあっても、確かな手ごたえがあったかどうか……。
そんな関東管領としての謙信の蹉跌を思いながら、武蔵国へ車を走らせた。

毛呂山町の“鎌倉街道上道”を歩くは鎌ぶらか?

2024年06月29日 | 歴史さんぽ部屋
毛呂山町に残る鎌倉街道上道を歩く(鎌倉街道B遺跡)。
掘割の遺構が残り、里山が周囲の風景を隠してくれるから、
鎌倉時代へ想いを馳せやすい。

里山の中、ポコポコと盛り上がる土山は川角古墳群。
苦林宿の可能性が高い“堂山下遺跡”は、現在大類グランドとなっているが、
室町時代の集落跡の記憶が眠っている。
石で組まれた井戸跡などが検出され、職人がいたことを示唆する遺物も出土したという。

蔵骨器や板碑が出土した崇徳寺跡や、
高さ約3mの延慶3年(1310)の銘を持つ板碑。
越辺川に面した交通の要衝地として栄えた往古の賑わいを感じさせてくれる。

この毛呂山町の鎌倉街道上道は、令和4年度に国の史跡に指定された。
多くの関係者が尽力したのだろう。
毛呂山町歴史民俗資料館も街道に近接して建っているから、
親子で訪ねる人も少なくないに違いない。

平日休み、一人で歩く鎌倉街道上道。
大幅に略せば「鎌ぶら」か。
この頃は穏やかな気持ちで史跡巡りができる。

ところで、休日の多くは銀座へ行くという人と知り合った。
「銀ぶら」である。
歴史に無関心というその人は、間違っても「鎌ぶら」はしないのだろう。

とはいえ、往時における堂山下遺跡は、銀座のような賑わいだったかもしれない。
おいしいグルメや買い物、居心地のいい空間でおしゃべり……。
とすれば、毛呂山町の鎌倉街道の遺構を歩くのも、
「銀ぶら」のようなものかもしれない。


埼玉県毛呂山町


堂山下遺跡


延慶板碑


崇徳寺跡

8月2日の藤

2024年06月21日 | 歴史さんぽ部屋
加須市内で記念樹を見かけた。
1996年8月2日、加須ロータリークラブが創立25周年として、
公園内に藤の木を植えたらしい。
ちょうど春の季節で、藤の花が満開に咲いていた。

2024年は1996年と同じ暦という。
今年の8月2日は金曜日だから、
1996年も週末に位置していたことになる。

その年は高校生最後の夏休みだった。
だから家と図書館を行き来していたわけだが、
ときどき閉館後に利根川へ足を延ばした。
図書館には知っている同級生の顔が何人かあって、机に向かっていた。

過ぎていく日々の中、言葉を交わしたいのに話しかけられない人がいた。
どんな日常を過ごし、卒業後はどんな未来を思い描いているのか。
ついこの間まで、何の気兼ねもなく言葉を交わしていたのに。
あの日を境とするまで、いろんなことを話していたのに、近くて一番遠い人がいた。
人と人とのつながりの曖昧さと不安定さ、どうにもならない現実の苦しさを感じた。

一方で、思いも寄らないきっかけで出会う人もいた。
全く知らなかった世界がそこから広がった。
すぐ横にある苦しさの一方で、日々のテンションは高かった。
朝は「ひらけ!ポンキッキ」でコニーちゃんとジャンケンをして、
日曜の夜には大河ドラマ「秀吉」にワクワクした。
渇くような読書熱にうなされて、書店で何冊もの本を買い込んだ。

眩しい太陽と土砂降りの雨がいつも同居しているようなもので、
心の中はモヤモヤしていた。
何かを伝えたいのにそれを表現できず、息苦しさにあえいだ。

自然とペンを執った。
ときどきギターも弾いたが、文章を書くことの方が性に合っていた。
伝えたいこと、語りたいことがあった。
もし、拭えない苦しさがなければ、文章を書くことなどなかったと思う。

本に居場所を求めていたら、自分が居場所になればいいのではないか。
そう思ったのはいつだっただろう。
不安定な人と人とのつながりに傷つくくらいなら、本のような立ち位置でありたいと。
必要なときに手に取り、役目を終えればまた離れていく。
壊れていったものたちを思うと、そんな立ち位置が一番受け入れられる気がした。

満開に咲く藤を見上げながら、1996年の夏を思った。
金曜日だった8月2日、自分がどう過ごしていたのか、むろん覚えているはずもない。
いつも通り図書館へ行って、帰りに利根川へ足を延ばしたのか。
特別でもない代わり、ありふれた数字というわけでもなかった。
見上げた夏空に、見付けられない言葉を探したのかもしれない。

小耳に挟んだところによると、8月2日の藤は曖昧な位置にいるという。
存続が危ぶまれているのだとか。
不安定で未來が定まらない。
望んでも壊れてしまう居場所がある。
1996年と同じ暦の中、8月2日の藤は今年も夏至を迎えた。

5月26日、羽生でタイムスリップが起こる?

2024年05月22日 | 歴史さんぽ部屋
気が付けば1週間を切ってしまった。
5月26日(日)に「第5回羽生タイムスリップ まち歩き」が開催される。
主催は羽生市観光協会。

同会に声をかけられて、今回も講師を務めることになりました。
参加される方々、よろしくお願いします。

今回のテーマは利根川沿いの歴史散歩だ。
文禄3年(1594)に会の川が締め切られてから430周年を記念して、
締切址及びその周辺を散策する。
地域としては、上新郷、小須賀、上川俣、本川俣になる。

羽生市観光協会のS局長とMさんと何度も打ち合わせをした。
距離がいささかあるように思われたのだが、
お二人がGOサインを出したので大丈夫だろう。

開催に先立ち、参加募集ポスターが公共施設を中心に張り出された。
まさか自分の顔が出るとは思わなかった。
Mさんには何度も言ったのだが、結局掲載されてしまった。
そのせいで、ポスター配布以来、色々な人から声をかけられた。
お恥ずかしい限りで、こんなときイケメンの人がつくづく羨ましい。

神社仏閣をはじめ、羽生城の支城比定地、旧川俣駅やお化けトンネルを訪ねる予定である。
中でも上川俣の「寄居」は、山形県酒田市で目にした史料を元に論文に書いてまだ間もなく(「埼玉史談」第68巻第1号)、
このタイミングで皆さんを案内するとは思わなかった。
友人を何度か(無理矢理)連れて行ったが、集団で歩くのは初めてかもしれない。

地域史に初めて興味を持ったのは、「会の川締切址碑」を偶然目にしたのがきっかけだった。
当時「羽生道の駅」は影すらなく、石碑は土手の麓に隠れるように建っていた。
大宮の人が見付けて草をかき分けて足を運ばなかったら、
この世界の扉を開くのはもっと後になっていたかもしれない。

別に、やり過ごそうと思えばそれまでだった。
そこに碑があろうとなかろうと、僕の生活には何ら関係なかったはず。
それなのに、知らない道を辿り、わざわざ土手下まで降りて見に行ったのは何故だったのだろう。
運命的な出会いは、日常の何気ないところに転がっているらしい。

そこに石碑があるから見に行く。
そこに埋もれた歴史があるから調べる。
それまで目に留まらなかった本や史料と出会う。
思わぬ発見がさらなる発見につながる。

生活に直結するわけではない。
モテるわけでも、高価なものが買えるわけでもない。
地味で、年寄りじみていると異口同音に言われた。
でも、突如現れた石碑を見に行き、そこに刻まれた歴史にワクワクしたその感性は、
誰に何を言われようと宝物であり、年を重ねても持ち続けていたい。

そのような想いのもと、430年分の歴史を含めてご案内できればと思っています。
自分の未熟さとつたなさはご容赦ください。
当日、お会いできるのを楽しみにしています。



羽生市観光協会HP
https://hanyu-kanko.jp/

羽生の歴史でこんな変貌はあったか? ―下岩瀬にて―

2024年04月25日 | 歴史さんぽ部屋
迷った末、栗原眼科病院(羽生市下岩瀬)へ足を運んだ。
眼圧を下げる目薬が残りわずかになったからで、数か月後に1度の割合で足を運ぶのがルーティンになっている。

診療時間開始前に行ったにも関わらず、病院はひどく混んでいた。
待合室は広いのに、ベンチに座れない。
混雑は覚悟の上だったから、持参した数冊の本を併読しながら、名前が呼ばれるのを待っていた。

目薬を貰うだけのつもりだった。
が、なぜか定期検査となる。
何枚か写真を撮られるだけだったのに、気が付けばひどく肩がこっていた。

医師の診察を受け、病院を出るときにはぐったりしていた。
激しい運動を強制されたわけではない。
それなのに、疲労感を覚えるのは精神から来るものなのだろうか。
気が付けば、立ったまま順番を待っている来院者はさらに増えていた。
病院内の独特な空気に慣れるには、数日か数週間を要するに違いない。

外に出ると、移転した羽生病院の大きな建物が目に飛び込んできた。
南を向けば、住宅街とカインズホームをはじめとする各店舗が林立している。
隔世の感を覚えずにはいられない。
羽生第一高校の校舎が、新しい時代のうねりに飲み込まれるように見えた。

約30年前、校舎は周囲の田園を見下ろすようにそびえたっていた。
わきの道は車1台がやっと通れるほどの幅しかなく、しかもガタガタ道だった。
夏になればカエルの鳴き声が響き、護岸されていない水路には、ザリガニやドジョウの姿がたくさん見えた。

それなのに、いまや新しい住宅が軒を連ね、スタバはあるしニトリもある。
栗原眼科の前にも、西松屋やセカンドストリートなどの店舗が建ち並び、
国道122号を渡る十字路には、幸楽苑やかつや、ケバブを売る店があるのだから、変われば変わるものである。

令和6年は羽生市制施行70周年にあたる。
羽生の歴史を振り返っても、これほど短期間で急激に町が変化したことはなかったのではないか。
戦後の変貌を上回る勢いで、町は変化している気がしてならない。
時代の流れであるにせよ、その波に乗るだけの行政トップと執行部、その他関係者の決断力と行動力がなければ、栗原眼科の周囲にはまだ多くの田んぼが残っていたかもしれない。

いま、自分が目にしているこの時代は、のちに何と呼ばれるのだろう。
いま、我々はどんな歴史の転換期を目撃しているのか。
栗原眼科から処方された目薬を携えながら、ゆっくり周囲を眺めた。
この時代の流れを叙述するならば、何が書かれるだろう。
眼圧の安定した目で、しっかり見定めたいものである。

※最初の画像は、開発前の羽生第一高校周辺

代休の午後、足利市立図書館へ

2024年01月27日 | 歴史さんぽ部屋
1月某日。
半日代休をとって、足利へ足を延ばした。
ふと足利が思い浮かんだのは、気まぐれと思い付き。

午後の休みに史跡を訪れるのが好きだ。
半日だから、それほど遠くは行けない。
でも、定時よりは時間があるし、体力も残っている。

その町の図書館を訪れるのも好きなことの一つ。
足利は史跡が多い。
そのせいか図書館が死角になっていたことに気付く。

鑁阿寺や織姫神社には目もくれず、まっすぐ足利市立図書館へ行く。
同館の開館は昭和55年ということから、自分と同年代ということになる。
レンガ調の建物で、足利市らしい歴史的雰囲気の佇まいである。

その図書館のカラーを見るのに、自分は参考調査室・郷土資料室を基準にしている。
その館でしか出会えない資料がある。
地元の人が調べてまとめたものや、ガリ版刷りの報告書などがそれにあたる。
一方で、流通はしているが、一般書架にはあまり置かれない事典類や史料集、市町村史の充実度によって、その町の利用者や職員の顔が見えてくる(ような気がする)。

図書館2階は、学習室と参考調査室が併設されていた。
後者はカバンの持ち込みは不可で、筆記用具を持って入室する。
居心地のいい空間だった。
平日の午後というせいか、人もまばら。
個人机も設けられており、カウンターに申請すれば利用できる。

西奥の書架の一角は『大日本史料』で埋まっていた。
『平安遺文』『鎌倉遺文』も並んでおり、『戦国遺文』は後北条氏編が揃っている。
『栃木県史』はさることながら、県内の市町村史も書架に並んでいた。
『史籍集覧』『史料綜覧』『大日本古文書』『大日本古記録』の姿もあり、さすがは足利市。

気になる論文を見付けたので複写の申請をする。
対応してくれた職員も親切だった。
丁寧で説明もわかりやすい。
館もまた人である。
人の印象がいいと、また足を運ぼうという気持ちになる。

二階で書き物をして、外へ出たときは薄暗くなっていた。
足利から来ている同僚から、郷土資料館の話を聞いた。
今度は資料館へ足を運んでみよう。

西新田から熊谷へ、のち雪

2024年01月13日 | 歴史さんぽ部屋
羽生市内の西新田集会所で学級が開かれ、依頼を受けて講師を務める。
テーマは新郷地区の歴史と文化財。

少し早めに家を出て、羽生市上新郷に鎮座する白山神社を訪れた。
空は青く、午後から雪が降る予報が嘘のように晴れ渡っていた。

利根川の拡幅工事がすぐそこまで迫っている。
社殿はすでに南へ移動済。
土台だけを残す旧社殿は、いずれも土手下に埋もれてしまうのだろう。

ここに来るたび、あの年の秋を思い出す。
当時、境内には木々が鬱蒼と生い茂っていた。
高木が数本立ち、隠れ家的な雰囲気に包まれていた。
ここに加藤清正にまつわる伝説が眠っていることなど、当時は知る由もない。
明治43年の大水では、現在の白山神社から東手で堤防が切れたという。

中学生の頃や1994年の冬、土手中腹のサイクリングロードを使って利根大堰へ向かった。
そこを通るたび、意味深に視界に入ったのが白山神社だった。
あの頃の感受性をもって同社を見ることはできない。
そのサイクリングロードも間もなく姿を消す。

すぐに忘れられるだろうと思っていたものは、大人になったいまも記憶に残っている。
何気ないとき、ふとしたときにそれを思い出す。

忘れられるはずがない。
忘れることは、記憶が消えることと同義ではないからだ。
デティールは別にしても、記憶として残り続ける。
忘れるものがあるとすれば、当時の感性や感情、想いの方なのだろう。
だから痛みや苦しみは時間と共に和らいでいく。
流れる血は、少しずつ少なくなっていく。
あの頃のことをそのまま書こうとしても、リアリティが薄れるのはそのためだ。

残り続ける記憶はいまの自分を照射し、行動や心理に影響を及ぼしている。
なぜ、あのとき自分はそこにいたのか。
なぜ、あのようなことが起こったのか。
数百年、数千年前の歴史を読み解くより、時に自分の軌跡において起こったことの方が、解けぬ謎かもしれない。

土手上でそんな想いに耽ったあと、西新田集会所へ行く。
旧石器時代から現代まで、地域における歴史の流れを追う。
近現代に入ると、参加者が自分の体験したことを教えてくださった。
本には載っていない貴重な話ばかりである。
なお、参加者の一人に父をよく知っている方がいた。
年齢が父の一つ下だという。
あとで父に話してみよう。

終わったあと、上新郷の「いせや」へ行くのがお決まりのパターンだった。
町中の「伊勢屋」とは味が違う。
だから選べる楽しさがあったのだが、上新郷の「いせや」は閉店してしまった。
少し隙間風を感じつつ集会所を出た。

その後、埼玉県立熊谷図書館へ流れ着く。
机に座って書き物をする。
短編というか随筆というか、亡き考古学者に想いを馳せたもの。

県立熊谷図書館が取り扱うジャンルの一つは「歴史」だ。
書架の間に立つだけで論考の雨に打たれる思いがする。
さまざまな人がそれぞれの観点で論述している。

史料集もある。
特に、『大日本史料』で埋まった書架は圧を感じる。
確かではないが、映画「シン・ウルトラマン」で主人公が図書室とおぼしき場所ページを捲っているシーンがあったが、その背後の書架に埋まっていたのは『大日本史料』ではなかったか。
(ネットで検索したら、ロケ地は千葉県立図書館だったらしい)


さほど長居はせず、帰宅する。
夕方から急激に気温が冷え込み、窓の外を見ると雪が降っていた。
息子の提案で、「スーパーマリオブラザーズ」の映画を観る。
マリオ世代としては、結構面白く観ることができたと思う。
展開もスピーディで、畳みかけてくる。
ただ、クッパの魂の歌声を聴いてしまうと、なかなか耳から離れない。

子をつれて“カスリーン公園”へ

2024年01月08日 | 歴史さんぽ部屋
冬休み最終日。
西風が吹き荒れる中、西へ向かう。
旧川里町(現鴻巣市)と行田。

書き物をする。
ペンをあれこれ変えず、万年筆一本でいく。
記憶の断片を切り取った文章を綴る。
エッセイというより散文詩か。

なぜか英文を読みたくなって、カーペンターズの「Rainy Days And Mondays」の詞を書き写した。
英文の詞を書写するなど初めて。
西風の影響か。

万年筆は書き心地がいいし、疲れない。
インクの色も綺麗だ。
なので、職場で書類を発送するときは、封書と一筆箋はなるべく万年筆を使っている。
鮮やかなインクの色とは違い、自分の字は綺麗ではないのが難点だが。

生活用品を買うのに、ベルク行田長野店へ立ち寄った。
店に入りかけた途端、同店で高校の同級生がバイトしていたかもしれないことを突如思い出す。
いや、気のせいか。
熊谷の結婚式場でもバイトしていた(と聞いた)のはぼんやり覚えている。
いかんせん二十歳過ぎのことで、実際に店舗で顔を合わせたことはなかったから、記憶は曖昧である。

「そういえばバイトしてなかったっけ?」と、さくく訊ければいいのだが、手繰り寄せる糸を自分は持っていない。
西に住む人だった。
同級生の中でも結婚したのは早かった気がする。
気軽に交わす会話が楽しかったのに、糸が切れた風船のようにどんどん遠ざかり、やがて見えなくなった。
泡沫に過ぎていく3年の月日は、例え風が吹かずとも、いずれ遠く離れるものなのかもしれない。

子をつれて北へ向かう。
旧大利根町(現加須市)の“カスリーン公園”は西風が吹き荒れていた。
冬休みの宿題に縄跳びと駆け足が残っているという。
わざわざ利根川の土手上へ足を運んだのは、父の気まぐれにすぎない。

土手下を流れる利根川は、冷たそうな色をしていた。
西には浅間山、北には男体山、東には筑波山、南には富士山がそびえたっていた。
風を遮るものがなく、かなり過酷な環境である。

が、息子は筑波山に向かって縄跳びをした。
鮮やかな空の下、小さな背中と筑波山の対比が絵になっている。
思わずカメラを向けてしまう。
息子は足が縄に引っかかりもせず、案外長い間跳んでいた。

よくわからない記憶として残るかもしれない。
娘は土手上の柵のところまでダッシュ。
寒いと言いつつ、笑いながら走っていた。
少なくとも、大人よりは寒そうではない。

大利根図書館を経由して帰路に就く。
心和む図書館である。
今年もよろしくお願いします。

図書館から西へ向かうと、新しい道路が開通していた。
アクセスがだいぶいい。
『古利根川奇譚』(まつやま書房)を書いていた頃に比べると、町がだいぶ変わってきていることを感じる。

子をつれて“新田義貞供養塔”と“金山城主墓碑”へ

2024年01月06日 | 歴史さんぽ部屋
冬休みも残りわずか。
今時の小学生は、タブレットを使っての宿題がある。
しかもタイピング練習。
自分が小学生のときは「タ」の字もなかった。
時代に合わせた教育が考えられているわけで、先生たちも大変だなと思う。

子の宿題に付き添いながら原稿を書く。
脳におけるゴールデンタイムは午前中にある。
宿題も午前にあてた方が能率はいいかもしれない。

妻が娘を習い事へ連れて行ったので、息子と出掛ける。
羽生の「伊勢屋」で昼食をとる。
今年初のラーメン。
店内には、明日の「二十歳の集い」に出席するため帰省中とおぼしき若者が多かったような……。

その後、群馬県太田市へ足を運ぶ。
金龍寺で新田義貞の供養塔と、金山城主由良氏(横瀬氏)の墓碑を詣でる。
お寺やお墓へ足を運んだ際は、本殿と墓碑にそれぞれ手を合わせるようにしている。
親子並んで合掌した。

息子が墓碑を指差したので、それは失礼にあたることを伝える。
人を指差すことと同義である(と思っている)。
マナーにもいろいろあるが、相手を敬う心は持っていたい。
ということが、息子に伝わったかな。

金龍寺から“史跡金山城跡ガイダンス施設”は近い。
金山城の発掘調査を基にした展示構成となっている。
文献だけではこの施設はできなかっただろう。

コントローラーを持ち、画面上で金山城を自由自在に散策する「城ナビ」がある。
これが息子の心をくすぐったらしい。
飽きずにしばらく金山城散策を満喫していた。

ふと、岐阜城下の資料館だったか、同じようにコントローラーで操作しながらCG散策したのを思い出す。
コントローラーはなかったが、七尾城の資料館ではCGで再現された同城が映し出されていたのが印象的だった。
今時の展示方法だろう。
博物館学における展示論も、時代に合わせて変わっていくに違いない。

ガイダンス施設を出たのは五時近かった。
展望台にも本丸にも足を運ばなかった。
そのまま帰路に就く。

金山城に関する参考文献は多い。
帰宅後は、とりあえず『群馬県史』の横瀬氏や由良氏の項を再読する。
いずれ、どの県史や市町村史も気軽にデジタルで読める時代が来るのだろう。
(国会図書館ではそのサービスを始めている)
文庫化したら面白いのだが……

子をつれて逆井城

2024年01月02日 | 歴史さんぽ部屋
午前中はどうしても動けなかった。
クスリが効きすぎたか。

妻が職場へ行く用事があり、家に籠っていると気持ちが塞ぎそうだったから、子をつれて出掛ける。
会心の一撃は狙わず、何とはなしに逆井城(茨城県坂東市)へ足を延ばした。
この城跡は、二重櫓や物見櫓が再現されているほか、堀や土塁も現存している。
平城でここまで現存・整備されているということは、地元の人たちが尽力したからなのだろう。

城跡へ足を運ぶときは歴史と対話し、静かに内省したい。
が、子ども2人をつれてはなかなか難しい。
息子が歴史好きと言っても、織田信長や徳川家康といった歴史的有名人が出てこない城にはピンとこないらしい。

ひと通り城跡を歩いたが、ずっとお囃子を聞いているようなものだった。
携えてきた『猿島町史 資料編』と『関八州古戦録』はチラリと見た程度。
車に戻った途端「喉が渇いた」と異口同音に言うので、すぐに本を閉じて出発した。

下妻城や古河城を射程に入れつつ、関宿城(同県野田市)の見える公園へ行く。
子どもの目にも関宿閘門は迫力があったらしい。
城跡よりもテンションが上がっていたかもしれない。
栗橋城(同県五霞町)は断念。
帰路に就く。

帰宅後、逆井城址で見た“鐘堀池”を機に、久しぶりに『日本伝奇伝説大事典』(角川書店)を開く。
境界と異界を強く意識する。
逆井城へ向かう途中、利根川を目にしたせいもあるかもしれない。
ついでダンテの『神曲 地獄篇』(平川祐弘訳、河出文庫)を読み返す。
春の足音がかすかに聞こえた気がした。

インターネットで痛ましい事故のニュースに触れた。
昨日の地震といい、暗澹とした気持ちになる。
能登半島地震関連のニュースと映像は、地震の凄まじさを伝えている。
亡くなられた方たちのご冥福をお祈りします。

休むにも“技術”がいる? ―西伊豆松崎町―

2023年06月18日 | 歴史さんぽ部屋
tさんに連れられて、船から釣り糸を垂らした。
教わるままに小エビを針に刺し、西伊豆の海の数メートルの深さまで落とす。

釣り糸の動きから魚が食いついたかどうかがわかるという。
なるほど、怪しい動きに気付いて糸を上げてみるとアジがかかっていた。
ヘラ釣りの感触とは違う。
その気になれば船上でアジを捌き、食べることもできただろう。

異なるのは棹の感触のみならず、自分の体が揺れていること。
酔い止めのクスリをもらったのに、見事なまでに船酔いに襲われる。
下を向くと一気に酔いが来る。
気持ち悪くて仕方がない。
なるべく顔を下に向けないようにしても、
エサの仕掛けでどうしても船酔いコースを辿ってしまう。

結局、アジ2匹とコサジ1匹を釣り上げ、陸に戻ることにした。
tさんも僕と同じ釣果に加え、サバを釣り上げていた。
僕の船酔いのためtさんの釣果を邪魔してしまい、申し訳ないことをした。

tさんは気が向くと西伊豆へ出掛けるという。
映画「世界の中心で愛を叫ぶ」が好きで、以来松崎町を訪れるようになったらしい。
子どもはすでに大きくなったから、一人出掛けて気ままに釣り糸を垂らすのだとか……。

大人の休日である。
贅沢な過ごし方かもしれない。

休むにも技術がいる。
心身に支障をきたして以来、そう考えるようになった。

休み方にも「静」と「動」がある。
何もせずのんびり過ごすのが前者ならば、
tさんの西伊豆での過ごし方は後者だろう。

「静」と「動」をバランスよく組み合わせるのが、大人の上手な過ごし方という(西多昌規著『休む技術』だいわ文庫)。
ただ、心を壊した場合は「静」が重視されるから、
その組み合わせのバランスはその時々によって異なるかもしれない。

実は、少し前から休日の過ごし方に悩んでいた。
これまでの過ごし方がしっくりこない。
脳内からドーパミンが出ない。
なんか不安。
心配事が頭から離れない。

心が倦んでいく。
休んだ気になれず、実際に勤務をされている方には申し訳ないが、何十連勤もしているような感覚に見舞われる。
版元から次の一手がなく、辛抱強く待つことにいささか疲れてしまったせいもあるかもしれない。

そんなとき、海釣りに誘ってくれたのがtさんだった。
渡りに船で、これまで自分にはなかった世界の風に吹かれたかった。
何かきっかけが欲しかった。

tさんも、僕と息子が釣りへ出掛けるきっかけになってくれればと言ってくれた。
確かに、一度経験してしまえば選択肢に組み込まれる。
tさんの世界にお邪魔する形でその船に乗ったようなものだった。

確かに、そこは普段自分が目にすることのない世界が広がっていた。
休み方も迎える転機があるらしい。
いや、物理的ではなく感覚的な節目が存在するのかもしれない。
コロナウイルスによる自粛ムードも影響しているように思う。
一度トンネルに入った心身は、そこから抜け出たときに相応のエネルギーを要する。
つまり、負担が大きい。
「別に変わらないよ」と言う人も多いが、僕はまだ軌道に乗れずにいる。

会心の一撃を求めず、徐々に自分のペースを掴んでいくしかない。
書を捨て町へ出ようと言ったのは寺山修司だった。
書を捨てることはできそうもないが、
これまでの凝り固まった世界から距離を置くことは可能だろう。
異なる世界を前にしても、「たたくより、たたえ合」いたい(ACジャパン)

ところで、船酔いの克服の仕方はあるのだろうか。
いつか船釣りをリベンジしたいものだ。
海なし県に住んでいるから、船に乗る機会はそうはない。
インターネットで検索したら、ブランコやシーソーなどで訓練する方法もあるらしい。
息子も乗り物酔いしやすい体質だから、
船の前に、とりあえず近所の遊具から乗るところからかな……。

羽生タイムスリップまち歩き、利根川を挟んで上杉謙信と北条氏政が火花を散らした?

2023年05月28日 | 歴史さんぽ部屋
令和5年5月28日に開催される「羽生タイムスリップまち歩き」に参加される皆様、
また残念ながら抽選から漏れてしまった皆様、
このたびはご応募ありがとうございました。
僭越ながら、当日は私髙鳥が講師を務めさせていただきます。

一昨年、昨年に引き続くもので、
羽生市観光協会による企画です。
定員を大きく超える応募があったと聞いています。
これも、羽生市観光協会の巧みな周知と、
羽生在住・在勤の方々の意識が高いからかと思います。

5月28日は、旧古利根川である会の川沿いに眠る歴史を探訪します。
会の川は往古の境界線であり、
戦国時代には羽生領と忍領を分ける境目でした。
そのため、川に関する歴史や史跡が多い傾向があります。

特に、上杉謙信が羽生城救援に駆け付けた逸話は、
関東戦国史の中では比較的よく知られています。
赤岩の渡しから武蔵国に入るはずだった謙信は、急遽川俣の渡しへ陣を進めました。
ここで利根川を渡り、武蔵国内で小田原の北条氏に属す城へ進攻するつもりでした。

ところが、雪解け水で増水した利根川に行く手を阻まれます。
毘沙門天の化身と言われた謙信でも、さすがに自然が相手ではなす術がなかったようです。
浅瀬を探しますが、融水が全て消し去っています。
大輪(群馬県明和町)の陣でしばらく様子を見、
せめて兵糧弾薬でも羽生城へ運び込もうとしたところ、
対岸で待ち構えていた北条勢によって強奪されてしまいます。

結局謙信は羽生城救援に向かうことができず、
北条勢が本田(埼玉県深谷市)へ移ったとの情報を聞き、大輪の陣を解くのです。
天正2年(1574)比定4月13日付で羽生城へ送った書状に、謙信は次のように記します。

 如啓先書、幾日大輪之陣ニ有之も、大河与云、水増与云、為如何も其地江助成之儀、
依不成之(後略)(「志賀槇太郎氏所蔵文書」)

数日大輪に布陣したものの、利根川は大河であり増水しているため、どうしても羽生城への救援が叶わずと伝え、やや己を正当化するように次のように続けます。

 既ニ前後左右及百里、味方之地一城も無之所江、不痛凶事打下候儀、忠信之不感歟(同)

上杉勢撤退の情報を受けた羽生城勢は落胆の色を隠せなかったでしょう。
周囲の城は北条氏に属しており、風前の灯火と言っても過言ではありませんでした。
一方、北条方は利根川の増水により上杉勢の進軍を食い止めることに成功したものの、
一戦を遂げられず残念であると述べています。

 (前略)指向所雪水満水人馬之渡依無之、川上へ押廻、無二可遂一戦由被存候処、
 越国境号沼田地へ引籠候者、此度不被遂一戦儀、無念之由被存候(後略)(「並木淳氏所蔵文書」)

5月4日付で北条氏繁が小峰城主白川義親へ送った書状の一文です。
上杉勢と北条勢が直接干戈を交えることはありませんでしたが、
天正2年の春の羽生領において、一発触発の状況にあったことは間違いありません。

もし利根川が増水をしていなければ、利根川を舞台に激戦が繰り広げられたでしょうか。
あるいは、増水がなければ北条勢は対岸で対陣することはなかったかもしれず、
融水で膨れ上がった川がキーポイントとなっています。
ちなみに、この対陣で血が一滴も流れなかったわけではなく、
忍城主成田氏長が羽生における合戦で戦功を挙げたとして、
感状を発給している点は見逃せません(「知新帖」)。

5月28日当日は、以上のような上杉氏や北条氏に想いを馳せつつ、
近世に設けられた上新郷の本陣、会の川沿いに連なる内陸砂丘の河畔砂丘、
切り崩された古墳やデイダラボッチ伝説などを訪れ、
埋もれつつある地域の歴史に光を当てていきたいと思います。

令和5年度は、まち歩きツアーを2回予定しています。
秋口には羽生城下町を巡るコースを考案中です。
なので、今回抽選に漏れてしまった方は、
秋口のツアーへの応募をご検討いただければ幸いです。
それでは羽生でお会いしましょう。

羽生市観光協会内
https://hanyu-kanko.jp/info3.html

星川沿いの関根伏越は何を語る? ―ひとり散歩―

2021年01月17日 | 歴史さんぽ部屋
藤間橋から少し下ると行田市関根に入ります。
大曲橋の少し先に調節堰があり、土手下には関根神社が鎮座しています。
旧関根村の村社であり、藤間神社から下って1つ目の神社です。
大曲橋は、昭和32年の架橋。
以前は、その名が示す通り大きく蛇行して流れていました。

関根神社からもう少し下ると、関根伏越が存在します。
星川の下を、関根落という排水路が潜って流れているわけです。
目立つものではなく、規模としても小さいため、
自転車や車では見落としてしまうかもしれません。

かつて、関根落は星川に注ぎ込んでいました。
しかし星川が増水すればうまく注ぎ込めず、下流域ではしばしば冠水したそうです。
当然、農作物に影響が及びます。
その影響は小さなものではありません。
下流域の人々にとって、関根落の冠水は悩みの種であり、
藤間村と真名板村(いずれも現行田市)は、上流域を相手に訴訟を起こしたこともありました(『行田市史』)。

星川が大きく蛇行するほどの低地です。
常に排水の問題があったのでしょう。
地域の中央では田んぼも深く、水をかいてもきりがなかったのだとか(同)。

現在のように、星川の下に落とし堀を潜らせる伏越にしたのは昭和9年のことです。
悲願叶って、関根伏越が完成。
ところが、飲み口が浅かったため、増水時には再び冠水に見舞われます。
そこで、人々の尽力によって再び改修工事が実施されることになりました。
現在の形となるには、昭和60年を待たなければなりません。
何気なく土手下に存在するものですが、長年にわたる人々の苦労と努力があるわけです。

関根に実家を持つ後輩がいます。
家は農業を営んでおり、後輩は専業農家ではありませんが、
夏や秋になると農業の手伝いをしているそうです。
そのお宅が先祖代々農家だったならば、関根落の冠水と向き合ってきた一人になります。
のどかな田園風景の広がる関根ですが、
水と共存、あるいは戦い、湿地を生かした知恵をもって生活を営んできた歴史が眠っていると言えます。


90年代の羽生焼き鳥巡りにて ―ひとり散歩―

2021年01月06日 | 歴史さんぽ部屋
1度だけ、同級生のS君と羽生市内の焼き鳥巡りをしたことがあります。
居酒屋ではありません。
スーパーの出入口のところに、
移動式の焼き鳥店が出店していることがあります。
買い物前に注文し、終わったあとに焼き鳥を受け取るシステムです。

1997年の1月か2月だったか、
当時は2、3軒の焼き鳥店が出店していた気がします。
特に計画していたわけではありません。
遅い放課後、小腹が空いた僕たちはスーパーの敷地内で焼き鳥を食べ、
じゃあ他の店にも行ってみようかという話になり、
自転車で市内各所を巡ることになったのです。

思い付きと行動。
17、8歳の僕たちは好奇心も相まって、
わけのわからないものに登ったり、飛び込んだりしたものです。
そんな行動に笑い転げ、大人に見つかれば絶対に叱られるものでも、
あるいは学校に通報される類のものであっても、
思い付きと行動を止めることはできなかったのです。

自転車での焼き鳥巡りは無茶な部類ではありませんが、
突然そんな展開になり、したり顔で味の批評をしていることに、クスクス笑いがこみ上げてきました。
一方で、卒業を目前に控えた僕たちは、
そんな時間が間もなく終わってしまう予感も感じていました。

イタロ・カルヴィーノの小説に『木のぼり男爵』という作品があります。
S君と無茶して遊んだ頃のことを思うと、時々この小説が脳裡をよぎります。
12歳の男爵長子が、嫌いな料理を拒否して木に登ったまま、
大人になっても下りてこないというイタリア文学です。

あの頃、わけのわからないものに登ったせいかもしれません。
僕たちは思春期と呼ばれる頃、一度は木に登って過ごしているのだと思います。
そこから世界を眺め、ときには苛立ち、笑い、抵抗し、自嘲する。
押し付けられる価値観と、うまくいかない歯がゆさ。
あるいは樹上にしかない楽しさと新鮮さ。

しかし、大人になれば自然と木から下りる。
熱から冷めるように樹上の時間は終わりを告げ、地に足をつけて生きていく。
あらかじめそれは意識していたことかもしれません。

再び木に登りたいと思っても、それがなかなか叶わずにいる。
あるいは樹上の時間に未練はなく、見向きもしない。
地に足をつけたあと、樹上の日々に対する感覚は人それぞれでしょう。
いずれにせよ、木の高さや時間の長短は別にしても、
人は樹上から世界を眺めて過ごす時間が一度はあるのだと思います。

でも、ときどき感じます。
本当に木から下りたのだろうか、と。
もし地に足をつけたなら、文章など書いていないのではないだろうか、と。
かつてS君と一緒に登ったものを見上げます。

小説『木のぼり男爵』では素敵な結末を迎えます。
それは一つの幸せの形なのかもしれません。
いや、いまこの小説を読んだら、別の感想を持つでしょうか。

90年代にS君と自転車を走らせた焼き鳥巡りは1度きりです。
そのあとだったか、井泉のお好み焼き店がどうしても見付からずに自転車を走らせたことがありましたが、
焼き鳥を目指したのはその日だけでした。

ときおり、S君と焼き鳥を食べることがあります。
とはいえ、お店の椅子に座ってお酒を挟んでのことです(むろんコロナ禍前のことですが)。
自転車で巡ることはありません。
お互いそれを欲しているわけでもないでしょう。
笑い転げるとすれば、おそらく別のもののはずです。
大人になった僕たちの背中は、
いつもの止まり木で羽を休める男2人に違いありません。