羽生市広報4月号(2019)には、
昭和30年に撮影された羽生市役所庁舎が掲載されています。
この庁舎は、現在の中央公民館の場所に建っていたものです。
町中に突き出るように建っていたことになります。
庁舎が完成したのは昭和30年のこと。
市制施行が昭和29年ですから、
その直後に「市役所」は登場したわけです。
そして、同35年に増築。
やや形を変えて、町中に建っていました。
現在の庁舎が建設されたのは昭和49年のことです。
町中ではなく、かつて羽生城の守りを固めていた沼跡に建設されました。
換言すれば、往古の行政機関の中心に移ったということでしょう。
駐車場スペースは少なく、何かと手狭になったため、
沼跡であり田んぼが広がっていた場所が選ばれたのでしょう。
そこには上杉謙信の旗かけの松と呼ばれる一本松が立ち、とても寂しい場所でした。
新庁舎の場所については色々な議論があったようです。
昭和54年生まれの僕は、旧庁舎に入ったこともなければ見たこともありません。
議場と執務室の映像をチラリと目にしたことがあるくらいです。
ワープロではなく手書きで公用文を作成し、
自席で煙草も吸っていたであろうこの時代、
庁内はどんな雰囲気だったのでしょう。
どんな人が働いていたのでしょうか。
羽生に新しく越してくる人、転出する人、
結婚する人、出生届を出す人など、多くの人が出入りしていたはずです。
僕の両親や祖父母も一度は行ったことがあるはず。
町中にあったため、庁舎は市民には身近な存在だったのかもしれません。
出入りせずとも、毎日目にしていた人は多かったでしょう。
一部火事に見舞われたこともあった旧庁舎でしたが、
市として船出したばかりの羽生の行政を支えていました。
昭和30年に撮影された羽生市役所庁舎が掲載されています。
この庁舎は、現在の中央公民館の場所に建っていたものです。
町中に突き出るように建っていたことになります。
庁舎が完成したのは昭和30年のこと。
市制施行が昭和29年ですから、
その直後に「市役所」は登場したわけです。
そして、同35年に増築。
やや形を変えて、町中に建っていました。
現在の庁舎が建設されたのは昭和49年のことです。
町中ではなく、かつて羽生城の守りを固めていた沼跡に建設されました。
換言すれば、往古の行政機関の中心に移ったということでしょう。
駐車場スペースは少なく、何かと手狭になったため、
沼跡であり田んぼが広がっていた場所が選ばれたのでしょう。
そこには上杉謙信の旗かけの松と呼ばれる一本松が立ち、とても寂しい場所でした。
新庁舎の場所については色々な議論があったようです。
昭和54年生まれの僕は、旧庁舎に入ったこともなければ見たこともありません。
議場と執務室の映像をチラリと目にしたことがあるくらいです。
ワープロではなく手書きで公用文を作成し、
自席で煙草も吸っていたであろうこの時代、
庁内はどんな雰囲気だったのでしょう。
どんな人が働いていたのでしょうか。
羽生に新しく越してくる人、転出する人、
結婚する人、出生届を出す人など、多くの人が出入りしていたはずです。
僕の両親や祖父母も一度は行ったことがあるはず。
町中にあったため、庁舎は市民には身近な存在だったのかもしれません。
出入りせずとも、毎日目にしていた人は多かったでしょう。
一部火事に見舞われたこともあった旧庁舎でしたが、
市として船出したばかりの羽生の行政を支えていました。