クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

高鳥天満宮のそばに佇む板倉の古墳は? ―稲荷神社古墳-

2018年09月30日 | 考古の部屋
肘曲池からほど近いところにある稲荷神社古墳(群馬県板倉町)。
稲荷神社が鎮座しているからその名が付いたのだろう。

昭和62年の調査によって円墳であることが確認されたという。
石室の床面に使用されていたのは、榛名山二ツ岳の安山岩(河原石)。

筑波山神社古墳や渕ノ上古墳などの谷田川沿いで使用されている。
稲荷神社古墳から北に歩けばすぐに谷田川にぶつかる。
ちなみに、河原石は板倉町文化財資料館で目にすることができる。

築造年代は6世紀後半頃と推定される稲荷神社古墳。
東に行けば高鳥天満宮が鎮座し、
南に行けば大塚山古墳がある。
住宅に囲まれているから見付けにくいかもしれない。

古墳も姿をだいぶ変えている。
標柱と文化財説明板が建っていなければ、古墳とは気付かないかもしれない。

墳丘に鎮座する稲荷神社は、
本堂は小さいが一の鳥居がやけに立派。
朱塗りされ、ひときわ存在感を際立たせている。

境内にいるとき車が一台通り過ぎた。
運転席に座っていたのは、しばらく会っていない知人に見えたのだが、
気のせいだろうか。

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9月28日付の「東京新聞」にて

2018年09月28日 | クニ部屋の本棚
9月28日付の「東京新聞」に、
拙著『古利根川奇譚』出版のことが掲載されました。
取材を受けたのは少し前のことで全く予想しておらず、
意表を突かれました。

記事を書いたのは中西公一記者。
今年の夏、羽生市の住民が
食虫植物ムジナモの種子発芽に成功したことを大きく取り上げていただいた記者です。
貴重な紙面を割いていただき、ありがとうございます。

郷土史に興味を持ったのは古利根川がきっかけです。
いつか利根川に関する本を書きたいと思っていました。

そんな想いがずっと胸の中にあったので、
「古利根川」と「高鳥邦仁」の文字が紙面に一緒に載っているのは、
とても嬉しく、面映ゆくもあります。

「郷土史なんて調べて何になるの?」とか、
「郷土の歴史なんて、地味で古くて年寄じみている。文章を書くのにそんなものを題材にしなくてもいいんじゃない?」などと、
20歳過ぎのときに言われたものです。

そうなのかも……と、同意する気持ちがあったことも確かです。
しかし、それを上回る好奇心が「諦め」を遠くに押し流しました。

好きな気持ちは止められません。
もし、20歳過ぎの自分にこの紙面を見せたら自信が持てるかな……と思います。
当時、自信など全くなかったので……。

新聞の記事を読んで、拙著に興味を持ってもらえればとても嬉しいです。
さらに、知られざる郷土の歴史に目を向けるきっかけとなれば幸甚です。

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彼岸花に彩られる日高市にて ―巾着田の曼珠沙華の里―

2018年09月25日 | 歴史さんぽ部屋
埼玉県日高市の彼岸花が見頃を迎えている。
赤いじゅうたんを敷き詰めたような無数の彼岸花が目を楽しませてくれる。

「じゅうたん」と言うにはやや背が高い。
幼子よりも少し高いだろうか。

彼岸花はどうしてこのようなデザインになったのだろう。
なぜ色が赤になったのか。
もしも真っ黒な花だったならば、
多くの観光客を集めることはなかったのかも……。

曼珠沙華こと彼岸花は、
その名前と色のせいで不吉に感じる人もいる。
好み云々ではなく、喚起されるイメージで遠ざけるのだ。

でも、逆に言うと神秘性を感じる花でもある。
彼岸花に彩られた墓地の光景など、
僕はかえって物語の一幕にありそうな気がして心惹かれる。
そう、花に罪はない。

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秋の羽生にて ―早生田堀の彼岸花―

2018年09月23日 | はにゅう萌え
岩瀬公民館の前、
あるいは羽生市立岩瀬小学校の裏と言えばいいのでしょうか。
小さな排水路が流れています。

戦中、早稲田大学の学生がその堀を掘ったので、
早生田堀(早稲田堀/わせだぼり)と呼ばれています。

食糧増産のため、政府が奨励した土地改良工事の一環で、
昭和19年に早稲田大学の学生100名が来羽。
大雪が降る中で作業し、学生たちは8日かけて堀を掘削したそうです。

その堀はいまも岩瀬を流れています。
2018年秋、堀沿いに咲く彼岸花を見付けました。

彼岸花を花言葉は「情熱」や「あきらめ」、
「再会」「転生」や「思うはあなた一人」などがあります。

現在、岩瀬地区は開発が目覚ましく、
早生田堀のそばには新しく羽生病院が建ちました。
国道沿いにはお店が次々にでき、
田んぼの中を道が一本通っていた景観は新興住宅に変わっています。

そんな時代の移り変わりは、
戦中の記憶をどんどん遠ざけているかのようです。
やがて早生田堀も、新しい時代の中に埋もれてしまうのかもしれません。

平成最後の秋。
水が静かに流れる早生田堀は、
もの言わぬ彼岸花に彩られています。

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本庄の定期演奏会にて

2018年09月20日 | ウラ部屋
9月17日、“早稲田大学本庄高等学院”の定期演奏会が
埼玉県本庄市において開催されました。

会場は本庄市民文化会館。
この施設は女堀川沿いに建ち、
本庄駅から歩いて15分程度といったところでしょうか。

22年前、この文化会館を訪れたのも演奏会がきっかけです。
高校とは関係ありません。
ある吹奏楽団に所属する同級生の恩師が出演するというので、
一緒に出掛けたのです。

羽生駅から秩父線に乗り、熊谷駅で高崎線に乗り換え。
本庄駅から文化会館まで歩いていきました。

22年前の秋のことですが、
この日のことは不思議と印象深く覚えています。
と言っても、何か事件があったわけではなく、
電車に乗って吹奏楽団の演奏会を聴きに行った、というだけのことです。

その日のことが記憶に残っているのは、
色々なものが壊れそうだったからかもしれません。

いま目にしている風景がもうすぐ終わってしまう。
隣を歩いている同級生も、多分あと少しでいなくなってしまう。
僕自身もどこか別のところへ行かざるを得ない。
そんな終わりの予感に似た胸騒ぎと不安を抱えての本庄でした。

駅から文化会館までの道のりが少し遠くに感じられたのは、
同級生の口数が少なかったからかもしれません。
駅から続く1本道を歩き、「るーぱん」の前を通り過ぎます。

やがてぶつかるのは女堀川。
川幅は狭く、流れも速くはありませんが、川面までが深い川です。
橋を渡り、舗装されていない川沿いの道を歩きました。

22年前の記憶で最も残っているのは、この川沿いの道です。
駅前の開発された土地を歩いてきた目に、
女堀川とその土手上の道は、世界が変わったように見えたからでしょう。
川から文化会館まではほんのわずかな距離ですが、
その道を通ったことだけはよく覚えています。

ところで、同級生にとっては「恩師」でも、僕には「他者」でしかありません。
その日の演奏も、同級生と僕とは違って聴こえたと思います。
その視線も恩師にあったでしょうか。

コトバに対して人一倍感受性が強かった同級生。
いつも丁寧語で話し、映像が浮かぶ歌詞の曲が好きと言ったことがあります。
吹奏楽団の演奏には「歌詞」がありません。
でも、同級生には演奏がコトバとして聞こえ、
物語のような映像を思い浮かべている気がしました。

演奏会が終わったのは5時か6時頃だったでしょうか。
川沿いの道を再び歩き、「るーぱん」に寄り道。
隣を歩いても、「るーぱん」でテーブルを挟んでも、
同級生がどこか遠くに見えたのを記憶しています。
そして店を出て本庄駅まで歩くと、
高崎線の上り電車に乗り、本庄をあとにしたのです。

いま、22年の歳月を経て文化会館を目にしても、
とりわけ懐かしさがこみ上げてくることはありません。
1980年に開館したという文化会館。
銅鏡やハニワが施されたロビー壁面のレリーフは当時のままのはずです。
でも、それらも初めて目にするかのよう………。

「るーぱん」も変わらず建っていました。
22年ぶりに来店。
しかし、特に懐かしさはありませんでした。
22年前、どこの席に座ったのか記憶になく、
むろん店員さんも変わっているでしょう。

本庄駅、女堀川、川沿いの道……。
記憶に残る風景とあまり変わらないように感じますが、
感傷じみた想いに駆られないのは、
開発の波が町の空気を変えたからでしょうか。
それとも、何かが壊れそうな予感に駆られていたあの頃の感受性が、
すでに失われているからなのかもしれません。

22年ぶりに文化会館の椅子に座り、高校生たちの演奏を聴きます。
当時はまだ生まれてもいなかった子たちです。
同級生と来たのがついこの間のようなのに、
1人の人間が成人するだけの歳月が流れたことに、ぼんやりとした痛みを感じます。

演奏会には卒業生もたくさん聴きに来ていたようです。
かつての部活仲間とおぼしきグループをいくつか見かけました。

僕もそんな風に、誰かと一緒に来ることがあったかもしれない。
そんなふうに思うことがあります。
実は、ほんの少しだけ吹奏楽部に籍を置いたことがあったからです。

担当していたのはチューバ。
もしあのままチューバを吹き続けていたら、
いまでも連絡を取り合う吹奏楽部員がいたかもしれない。
たまに音を出すこともあったかも。
ちょうど吹奏楽部員だった妻が、そんな「その後」を送っているように。

もう一つの生き方を想像しても、後悔するわけではありません。
部活を辞めようと続けようと、おそらく結末は似たものでしょう。
演奏を聴きに同級生と本庄へ足を運んだでしょうし、
色々なものが壊れては、
また新しいものが創られていくという歳月を送ったはずです。

2018年9月17日に開かれた早稲田大学本庄高等学院の定期演奏会。
平成最後の秋は、
顧問の先生の最後の定期演奏会でもあったそうです。
30年以上指揮を執ってきたということですから、
僕らが高校生だった頃も指導をしていたことになります。
会場には1997年卒の同窓生もいたでしょうか。

始まりがあれば終わりがある。
終わりがあれば何かが始まる。
その繰り返しです。
22年前も、いま現在も。
改めてそう感じます。

戦国時代に存在した本庄城よりも、
22年前の方が遠くに感じるのはなぜでしょう。
終わりと始まり。
わかっているつもりでも、
そこに伴う寂しさは未だ慣れることがありません。
たぶん、これからも。





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2人の住職と……

2018年09月17日 | クニ部屋の本棚
2人の住職に会いました。
拙著『古利根川奇譚』のお祝い会ということで、
駅近くのイタリアンなお店でグラスを重ねました。

「住職」と言っても、昔ばなしに出てくるようなおじいちゃんではありません。
僕のひと回り上と、いくつか年下の住職です。
寺院名を出したいところですが、
許可をもらっていないので自粛。

ちょっとしたきっかけで出会った縁でした。
羽生城がつなげてくれた縁と言ってもいいかもしれません。
お付き合いをしてまだ10年も経っていませんが、
古くから知っているような感覚がします。

お店ではおいしい料理がテーブルを彩り、
ほかに置いてあることの少ない飲み物で乾杯。
ファンが多いお店です。
僕たち以外の客で店内は賑わっていました。

実を言うと、ここ最近心が情緒不安定になっていました。
ちょっとしたことが心に引っかかり、
普段ならば右から左へ受け流すのが、そうできなくなっていました。

ナイーブなときは、否定的な気持ちになってしまうものです。
他者や周囲を否定するのではなく、対象は自分自身。
元々ない自信がさらに失われ、切ない気持ちになることが多くありました。
忘れかけていた記憶なんかも蘇ってきて……。

そんなときに顔を合わせた2人の住職でした。
前向きな気持ちになれた気がします。
そんなことを気にしなくてもいい、と言ってくれたようにも感じます。

人との縁とはそういうものなのかもしれません。
心あたたかいお祝い会を開いて下さったお2人のご住職に感謝します。

なお、店内で拙著にサインを書きました。
ある書店にも僕のサインが飾られているのですが、
小学生のときに真面目に習字を習っておけばよかったと、
いまさらながら後悔しています。
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ちょっと変わった形の古墳は? ―宮塚古墳―

2018年09月13日 | 考古の部屋
熊谷市にちょっと変わった形をした古墳がある。
それは“宮塚古墳”。

古墳というと、「前方後円墳」や「円墳」などの用語が出てくる。
でも、宮塚古墳の形状は「上円下方墳」と表記される。

それはどんな形なのか?
文字の通り、上が円形で下が方形というもの。
すなわち、方形に盛られた土の上に、円形の墳丘が築造されているのだ。

全体の高さは4.15メートル。
「上円」は東西10メートル、南北8.5メートルと楕円形となっている。

円形の墳丘の上には小さな石祠が祀られている。
ゆえに破壊を免れたのだろう。
この円形部に積み上げられた河原石がいまも目にすることができる。
これは、後世に積み上げられた可能性があるという。

現在、宮塚古墳は国指定の史跡。
指定されたのは昭和31年5月15日のこと。
ちなみに、宮塚古墳は7世紀以降の築造と考えられている。

この宮塚古墳を含む一帯の古墳群は「広瀬古墳群」と呼ばれ、
周辺に現存する円墳に気付く。
中には、削り取られたとおぼしき古墳もある。

往古はもっとたくさん古墳があったらしい。
熊谷商業高校の校庭内で石室が発見され、
蕨手刀が出土したという。

宮塚古墳のすぐ北側には上越新幹線が通っている。
南側には国道140号。
新幹線や車が通り過ぎる場所となっており、
古墳周辺に広がる田畑ののどかさを深める。

ちなみに、地元では宮塚古墳を“お供え塚”と呼んできたという。
ほかにも、山王塚や山王宮塚、天道塚の呼称があり、
この場所が聖域として親しまれてきたことをうかがわせる。




周辺の古墳


周辺の古墳


削り取られたとおぼしき古墳
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9月8日の埼玉新聞にて

2018年09月08日 | クニ部屋の本棚
9月8日付の「埼玉新聞」で、
『古利根川奇譚』(まつやま書房)が紹介されました。

記事を書いたのは、江利川義雄記者。
「埼玉新聞」は過去に少し携わったことがあり、愛着のある新聞です。
貴重な紙面を割いていただき、ありがとうございます。

自分の顔が初めて新聞に掲載されたのも、
10年前の「埼玉新聞」でした。
今回も、大変恐縮ながら39歳の自分を掲載してもらったわけですが、
10年前に比べるとその歳月が流れているのを感じます。

29歳と39歳。
毎日自分の顔を鏡で見ていても、変化はわからないものです。
久しぶりに29歳のときに掲載してもらった自分を見たくなりました。
が、懐かしく思うか、がっかりするかはわかりませんね。
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書店の平台にて

2018年09月07日 | クニ部屋の本棚
拙著『古利根川奇譚』(まつやま書房)が、
書店の平台に並んでいるのを目にしました。

羽生のショッピングセンター内にある書店。
元上司から情報を得てその書店に足へ運んだら、
想像した以上のスペースをとってもらっていました。

平台は激戦区です。
かつて書店営業をしていた頃、
それは身に染みて感じたことでした。
平台はその書店の個性が現れる場所でもあります。
だから、平台に置いてもらえるありがたさはよくわかっているつもりです。
多謝です。

18歳のとき、自分の本が平台に積まれている光景を夢見たのを覚えています。
それを手にする人の姿も……。
いま思えば、十代のかわいい夢の一つだった気がします。

20代の頃、自分が手がけた本(参考書)が平台に並んだことがあります。
自分が編集に携わった本が、
ワゴンに積まれて売られているのを目にしたこともありました。

そのときどきに嬉しかったのですが、
自著となると感じ方が違いますね。
嬉しさと、気恥ずかしさと、緊張が入り交ざります。
自分の子どもがピアノ発表会や学芸会に出演する姿を見るときも、
これに似た感情になるのでしょうか。

前著『歴史周訪ヒストリア』のときもそうでした。
平台は一つのステージのようです。
ゆえに、交代も激しいもの。
長期間、平台に置かれるわけではないでしょう。
だから、平台の光景は目に焼き付けておきたいものですね。
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鉢巻きをしたハニワが出土した? ―大越古墳群―

2018年09月03日 | 考古の部屋
何気なく佇んでいる古墳。
加須市大越にも古墳が存在している。

県道60号線から目にすることができる“八幡塚古墳”や“稲荷塚古墳”。
いずれも円墳で、徳性寺や大越小学校の近くに佇んでいる。

大越古墳群の詳細は不明だが、
人物埴輪や円筒埴輪が出土している。
人物埴輪は、鉢巻きや丸玉の首飾りをしたもの。
鉢巻きをした埴輪は丸顔で表情は読み取れないが、
首飾りの方は目がややつり上がっている。

地中にはまだ眠っている埴輪があるかもしれない。
それとも開発で切り崩されたとき、
古墳と共に消え去っただろうか。

すぐ北を利根川が流れているから、
埋没している古墳があったとしてもおかしくない。
実際、稲荷塚古墳の南方の畑で、
地下1メートルのところから円筒埴輪が出土したという。

なお、県道60号線からは見られないが、
上記2基の古墳から少し離れたところに“浅間塚古墳”がある。
整備され、一見古墳とはわからないかもしれないが、
大越古墳群の1つに数えられている。

かつてどこに、どのような古墳が存在していたのだろう。
いまよりも、もっと多くの古墳がポコポコ建っていたとしてもおかしくはない。
田山花袋の小説『田舎教師』の主人公(林清三)は大越を通っているが、
その目には古墳も映っていただろうか。

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羽生市下新郷に“古墳”があった?

2018年09月01日 | 考古の部屋
名前もない古墳がある。
「古墳」と言っても姿形はない。
埋没古墳というわけではなく、
かつて古墳があったところと言う方が適切だろう。

羽生の以西にそんな古墳がある。
場所は羽生市下新郷。
現在は田んぼになっており、
近くに漆原医院が建っている。
この医院は、「はしか門」があることでよく知られている。

下新郷の田んぼから出土したという埴輪。
規模は不明だが、形は円墳と推測されている。
詳しいことは全くわからず、出土した埴輪がどんなもので、
それが古墳に立てられたものなのか、
それとも大水か何かでたまたま流れ着いたものなのかも不明。

その場所は、だだっ広い田んぼがずっと向こうまで続いている。
冬になると富士山がよく見える。
そこから目にする富士山が好きだ。
惹かれるのは、夕焼けの中に佇む富士山。

ところで、古墳は単独で造られない。
複数存在するのが一般的だ。
だから、そこには消滅してしまった古墳群の記憶が眠っているのかもしれない。
埴輪や石室の一部など、まだ眠っている遺物もあるだろうか。

あまりにもマニアックで、
「古墳」と言うには気が引ける羽生市下新郷の古墳。
何もないから面白い。
何もない場所に突如現れるから心を鷲掴みにされる。
羽生の古墳はお隣の行田に比べて知名度は下がるかもしれないが、
その魅力は引けを取っていない。
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