埼玉県羽生市の西中学校から、
かつて遺跡が発掘されました。
通称「大道遺跡」(おおみちいせき)と呼ばれる遺跡です。
このブログでも何度か書きましたが、
遺跡が発見されたのはちょうどぼくが中学三年生のときで、
受験会場だった中学校の窓から、
発掘現場がよく見えたのを覚えています。
ミーハーだったぼくは、休憩時間ごとに窓辺へ行っては、
歴史好きな友人と遺跡を眺めていました。
中学生の目にはその光景は物珍しく、いまでも高校受験を思い返すとき、
発掘現場の光景が一緒になって浮かんできます。
あれから約12年の歳月が経ちますが、
実は大道遺跡の報告書はまだ発行されていません。
詳しい調査の内容は知ることが困難な状況です。
ただ、発掘の指揮をとった学芸員さんの話によると、
いろいろな時代のものが埋まっている集落跡とのことです。すなわち、
旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良平安時代、中世、近世の
遺物が出土したとのことでした。
『羽生市遺跡地名表』を見ると、
その出土物は「フレーク」「須恵器」「土師器」で、
立地条件は「台地」となっています。
また『埼玉県の地名』には、古墳時代前期の「竪穴住居跡十五」、
中世・近世の「井戸跡」「土壙」が発掘されたとあります。
ただ、どこに何が出土したかというデータは、
先に書いたとおり一般に公開されていません。
ぼく個人としては、前回紹介した「毘沙門山古墳」(※1)「保呂羽堂古墳」(※2)が、
大道遺跡の目と鼻の先にあることから、
何らかの繋がりがあったのではないかと考えていますが。
遺跡は両古墳よりも古い時代のものであり、
また詳細な資料もないため、下手な推測もできません。
ちなみに、『武蔵野郡村誌』によると、
この地域には「尾渕」という小字があります。
これは羽生城の東南北を囲んでいた大沼が、
大道遺跡の方まで伸びていたことを示すものと考えられます。
実際に地質調査をしたところ、
古墳や遺跡の周辺は沼・湿地帯だったことが判明したそうです。
また近くに住む人の話では、
地中には大量のマコモが埋まっているとのことでした。
現在は鉄筋コンクリートの校舎が建ち、
車通りの激しい道路が周辺を囲んでいますが、
かつてはマコモが生い茂る沼が広がっていたのでしょう。
大道遺跡の周辺には本光寺という廃寺跡と、
羽生城の支城が存在していたという伝説があるため、
地中にはまだ何か埋まっているかもしれません。
新しい史料やデータが入り次第、
追って報告したいと思います。
※1→2006.4.27「羽生市はなぜ「羽生」か -毘沙門山古墳-」参照
※2→2006.4.28「古墳上に祀られる武者は誰か -保呂羽堂古墳-」参照
参考文献
平凡社『埼玉県の地名』
埼玉県『武蔵国郡村誌』
「羽生市遺跡地名表」
(羽生市教育委員会『羽生市発掘調査報告書第1集 横塚遺跡』所収)
かつて遺跡が発掘されました。
通称「大道遺跡」(おおみちいせき)と呼ばれる遺跡です。
このブログでも何度か書きましたが、
遺跡が発見されたのはちょうどぼくが中学三年生のときで、
受験会場だった中学校の窓から、
発掘現場がよく見えたのを覚えています。
ミーハーだったぼくは、休憩時間ごとに窓辺へ行っては、
歴史好きな友人と遺跡を眺めていました。
中学生の目にはその光景は物珍しく、いまでも高校受験を思い返すとき、
発掘現場の光景が一緒になって浮かんできます。
あれから約12年の歳月が経ちますが、
実は大道遺跡の報告書はまだ発行されていません。
詳しい調査の内容は知ることが困難な状況です。
ただ、発掘の指揮をとった学芸員さんの話によると、
いろいろな時代のものが埋まっている集落跡とのことです。すなわち、
旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良平安時代、中世、近世の
遺物が出土したとのことでした。
『羽生市遺跡地名表』を見ると、
その出土物は「フレーク」「須恵器」「土師器」で、
立地条件は「台地」となっています。
また『埼玉県の地名』には、古墳時代前期の「竪穴住居跡十五」、
中世・近世の「井戸跡」「土壙」が発掘されたとあります。
ただ、どこに何が出土したかというデータは、
先に書いたとおり一般に公開されていません。
ぼく個人としては、前回紹介した「毘沙門山古墳」(※1)「保呂羽堂古墳」(※2)が、
大道遺跡の目と鼻の先にあることから、
何らかの繋がりがあったのではないかと考えていますが。
遺跡は両古墳よりも古い時代のものであり、
また詳細な資料もないため、下手な推測もできません。
ちなみに、『武蔵野郡村誌』によると、
この地域には「尾渕」という小字があります。
これは羽生城の東南北を囲んでいた大沼が、
大道遺跡の方まで伸びていたことを示すものと考えられます。
実際に地質調査をしたところ、
古墳や遺跡の周辺は沼・湿地帯だったことが判明したそうです。
また近くに住む人の話では、
地中には大量のマコモが埋まっているとのことでした。
現在は鉄筋コンクリートの校舎が建ち、
車通りの激しい道路が周辺を囲んでいますが、
かつてはマコモが生い茂る沼が広がっていたのでしょう。
大道遺跡の周辺には本光寺という廃寺跡と、
羽生城の支城が存在していたという伝説があるため、
地中にはまだ何か埋まっているかもしれません。
新しい史料やデータが入り次第、
追って報告したいと思います。
※1→2006.4.27「羽生市はなぜ「羽生」か -毘沙門山古墳-」参照
※2→2006.4.28「古墳上に祀られる武者は誰か -保呂羽堂古墳-」参照
参考文献
平凡社『埼玉県の地名』
埼玉県『武蔵国郡村誌』
「羽生市遺跡地名表」
(羽生市教育委員会『羽生市発掘調査報告書第1集 横塚遺跡』所収)