クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生西中に眠る大道遺跡

2006年04月30日 | 考古の部屋
埼玉県羽生市の西中学校から、
かつて遺跡が発掘されました。
通称「大道遺跡」(おおみちいせき)と呼ばれる遺跡です。
このブログでも何度か書きましたが、
遺跡が発見されたのはちょうどぼくが中学三年生のときで、
受験会場だった中学校の窓から、
発掘現場がよく見えたのを覚えています。
ミーハーだったぼくは、休憩時間ごとに窓辺へ行っては、
歴史好きな友人と遺跡を眺めていました。
中学生の目にはその光景は物珍しく、いまでも高校受験を思い返すとき、
発掘現場の光景が一緒になって浮かんできます。

あれから約12年の歳月が経ちますが、
実は大道遺跡の報告書はまだ発行されていません。
詳しい調査の内容は知ることが困難な状況です。
ただ、発掘の指揮をとった学芸員さんの話によると、
いろいろな時代のものが埋まっている集落跡とのことです。すなわち、
旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良平安時代、中世、近世の
遺物が出土したとのことでした。
『羽生市遺跡地名表』を見ると、
その出土物は「フレーク」「須恵器」「土師器」で、
立地条件は「台地」となっています。
また『埼玉県の地名』には、古墳時代前期の「竪穴住居跡十五」、
中世・近世の「井戸跡」「土壙」が発掘されたとあります。
ただ、どこに何が出土したかというデータは、
先に書いたとおり一般に公開されていません。
ぼく個人としては、前回紹介した「毘沙門山古墳」(※1)「保呂羽堂古墳」(※2)が、
大道遺跡の目と鼻の先にあることから、
何らかの繋がりがあったのではないかと考えていますが。
遺跡は両古墳よりも古い時代のものであり、
また詳細な資料もないため、下手な推測もできません。

ちなみに、『武蔵野郡村誌』によると、
この地域には「尾渕」という小字があります。
これは羽生城の東南北を囲んでいた大沼が、
大道遺跡の方まで伸びていたことを示すものと考えられます。
実際に地質調査をしたところ、
古墳や遺跡の周辺は沼・湿地帯だったことが判明したそうです。
また近くに住む人の話では、
地中には大量のマコモが埋まっているとのことでした。
現在は鉄筋コンクリートの校舎が建ち、
車通りの激しい道路が周辺を囲んでいますが、
かつてはマコモが生い茂る沼が広がっていたのでしょう。
大道遺跡の周辺には本光寺という廃寺跡と、
羽生城の支城が存在していたという伝説があるため、
地中にはまだ何か埋まっているかもしれません。

新しい史料やデータが入り次第、
追って報告したいと思います。

※1→2006.4.27「羽生市はなぜ「羽生」か -毘沙門山古墳-」参照
※2→2006.4.28「古墳上に祀られる武者は誰か -保呂羽堂古墳-」参照

参考文献
平凡社『埼玉県の地名』
埼玉県『武蔵国郡村誌』
「羽生市遺跡地名表」
(羽生市教育委員会『羽生市発掘調査報告書第1集 横塚遺跡』所収)
コメント (4)
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羽生の中村さん -簑・笠展示のお知らせ-

2006年04月29日 | お知らせ・イベント部屋
画像の人物は中村貞夫さんです。
中村さんは知る人ぞ知る簑・笠のコレクターです。
つい先日(※)、羽生郷土資料館主催の
「簑・笠展示」について紹介しましたが、
実は展示物の約9割は中村さんの所蔵物です。
ポスターの副題に「中村これくしょん」とあるのはこのためです。
展示室では(毎日ではないものの)、
画像のような簑・笠姿の中村さんを見ることができますし、
体験学習用の簑を着ることもできます。
展示物を見るのもよし、コレクターの中村さんに会いに行くのもよし、
羽生へ来た際には、ぜひ羽生郷土資料館に足をお運び下さい。

ところで、中村さんはいつから簑と笠を集め出したのでしょう。
また、集め始めたきっかけはどのようなものだったでしょうか。
ぼくは好奇心の虫がザワザワと騒ぎだし、
中村さんに直接話を聞いてみました。

中村さんは昭和10年埼玉県羽生市生まれの、羽生育ちです。
現在も羽生市に在住しており、
近所では簑・笠のコレクターとして有名な人物です。
羽生の特産品と言えば、
小説『田舎教師』(田山花袋著)にも描かれてる青縞で、
簑と笠が特に有名な地域というわけではありません。
今回の展示物の中にも羽生の簑も飾られていますが、
あまり独創性はなく至ってシンプルです。
そんな羽生に生まれ育った中村さんが、簑にのめり込んだのは、
旅先で偶然出会った簑に、ひと目惚れしたからだそうです。
それは幾重もの編み込みのある簑だったといいます。
芸術的な網目の模様を目にした瞬間、
簑の魅力に一気に引き込まれたということです。
今回の展示物にもその簑はありますが、
日本人がいかに器用であるかを感じさせてくれます。
簑を指差す中村さんの頬が少し緩んで見えたのは、
ぼくの気のせいではなかったでしょう。
その簑に出会った中村さんは、
コレクターの道を歩むことになります。
ときに昭和30年代初頭、中村さんは20代前半の若さでした。

中村さんの話によると、いままでの歳月の中で、
簑・笠の制作者に会えることは滅多になかったそうです。
収集のほとんどは旅先で、たまたま訪れた金物屋や竹屋から、
制作者を紹介してもらうことはあったといいます。
しかし、制作者から直接買うのではなく、
旅先の骨董屋や日本民芸館の展示会などで仕入れるとのことでした。
そんな50年以上も収集してきた中村さんの足跡が、
いま羽生郷土資料館の展示室において結集しているわけです。
展示できなかった簑・笠もたくさんありますし、
そのひとつひとつに多くの情熱がこもっているのでしょう。
ひとりのコレクターの道をそこに重ねてみると、
展示物がひと味違って見えるかもしれません。

先に書きましたが、当たり日には、
羽生郷土資料館で中村さんに出会うことができます。
簑と笠を着ていますから、すぐにわかると思います。
遠目で見ることもできますが、
近くに来た際にはぜひお立ち寄り下さい。
話の最後に、ぼくが継続の秘訣をお尋ねしたところ、
中村さんは次のように語ってくれました。
「とにかく毎日続けること。1日15分でいいんです。
大切なのは1日も休まずわずかな時間でも続けることです」
物静かで腰の低い中村さんですが、
そのとき少し大きく見えました。

現在催されている「簑・笠展示」のご案内は次のとおりです。

開催期間:平成18年4月22日(土)~6月4日(日)
開館時間:午前9時~午後5時
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
入館は無料。
休館日は毎週火曜日・第4木曜日・祝日(5月5日は開館)

なお、簑と笠を実際に着用する体験学習
「みの・かさ つけて」も催されます。
日時は5月5日(金)・5月20日(土)10時~11時30分
場所は、上記と同じ郷土資料館展示室です。

羽生市立図書館・郷土資料館ホームページアドレス
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/index.html

※2006.4.24「火をまたぐ嫁とかさじぞう-簑・笠展示のお知らせ-」参照
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古墳上に祀られる武者は誰か -保呂羽堂古墳-

2006年04月28日 | 考古の部屋
埼玉県羽生市の毘沙門山古墳(※)から西方に約180m行くと、
保呂羽堂古墳というちょっと変わった名前の古墳があります。
径21m、高さ3mの円墳で、
築造年数は毘沙門山古墳と同様、6世紀後半代と考えられています。
市街地に位置し、北と東に道路が走り、すぐ近くには東武鉄道と秩父鉄道が
通っているので、やはりここも賑やかな古墳です。
住宅と会社の建物に挟まれるようにしてあるせいか、
つい見過ごされがちかもしれません。
主体部については不明で、
昭和35年(1960)頃に人物埴輪(男)の頭部が、
古墳の麓にある現在の駐車場から発見されたのみです。

ところで、この古墳の頂上には「保呂羽堂」という仏堂が建っています。
『羽生市史 上』所収の「柳八重君遺文集」「上羽生村記録」を見ると、
貞応2年(1222)4月、大将武者を弔いここに堂を建てたとあります。
この武者は和田合戦の落人大将という一説もあり、
ここで死去した御霊を祀ったとも言われてきました。
詳細なことは不明で、
保呂羽堂の裏には意味深な板碑が一基建っていますが、
もの静かに佇んでいるだけです。

このほか保呂羽堂には、「背丈ダンゴ」という風習がかつてありました。
それは子どもが百日咳などの病気を患った際に、
保呂羽堂に平癒祈願し、回復したあとにダンゴを供えるというものです。
「背丈ダンゴ」というのは、
その子どもの背丈ほどに作った竹串に、
ダンゴを上下に刺して奉納することから付けられた名前です。
保呂羽堂は「セキの神様」も言われ、
悪魔よけや子どもの成長の守護神として、
地域の人たちから厚く信仰されてきたようです。
墳上に建っている「保呂羽山蔵王大権現由耒略記」によると、
寛政8年(1796)に御神体を石碑に改め、お堂を改建とあります。
医学の発達していない往古の昔から、
人々の拠りどころとなっていたのでしょう。
ちなみに、保呂羽という名前は、
「母衣」(保呂)を「破」(羽)る大権現として祀られたことに由来しています。

現在、背丈ダンゴの風習はなくなりましたが、
例祭日の4月14日にはダンゴを配っています。
羽生駅に下りた際には、この例祭日を待たずとも、
自前のダンゴを片手に毘沙門古墳と保呂羽堂古墳を巡ってみるのも、
いい歴史散歩になるかもしれません。
(ちょっと賑やかですが……)

※2006.4.27参照

参考文献
羽生市史編集委員会『羽生市史 上』(羽生市史)
塩野博『埼玉の古墳』(さきたま出版会)
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保呂羽堂古墳の板碑(画像)

2006年04月28日 | 考古の部屋
画像は埼玉県羽生市所在の保呂羽堂古墳に建つ板碑です。
板碑は中世のいわば供養塔で、
この地で死んだと伝えられる武者と関係しているのか…
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保呂羽堂古墳(画像)

2006年04月28日 | 考古の部屋
道路のすぐわきに所在する保呂羽堂古墳(埼玉県羽生市)です。
近くには東武鉄道と秩父鉄道が通り、
その線路の向こう側には毘沙門山古墳があります。
羽生駅に最も近い古墳のひとつです。
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羽生市はなぜ「羽生」か -毘沙門山古墳-

2006年04月27日 | 考古の部屋
埼玉県羽生市の地名の由来は、「埴輪」からきています。
「はにゅう」の「ハニ」(埴)は、粘土・赤土を指し、
それがたくさん「ウ」(生)まれるということから付いた地名です。
すなわち、この地域は「埴輪の産地」という意味で、
実際に市内では土器や埴輪が多く発見されています。
特に、市内の発戸遺跡で発見された「土面」は、
関東地方で唯一のものと言われ、
まだ本格的な調査がされていない羽生市では、
眠れる遺跡がたくさん埋まっていることでしょう。

そんな地名の由来を彷彿とさせるものが、
市街地でも見付けることができます。
羽生駅東口を下りて北へ向かい、最初の踏切に差し掛かると、
右手に鎮座する「古江・宮田神社」が見えてきます。
社殿は小高い丘の上に建っていますが、
これこそ「毘沙門山古墳」と呼ばれる、羽生古墳群のひとつです。
この古墳から西の秩父鉄道踏切のすぐそばには、
「保呂羽堂古墳」(円墳)が住宅に埋もれるようにありますし、
毘沙門山古墳の南東方は「塚畑」(毘沙門塚古墳)と呼ばれ、
畑の中から円筒埴輪が出土しています。
また平成5年(1993)には、現在の羽生市立西中学校の敷地内から、
旧石器時代~近世までの遺物が出土し、
多くの話題を集めました。
(当時ぼくは中学三年生で、受験会場の西中の窓から、
その発掘現場である住居跡を目にしたのを覚えています)
駅に近いということもあり、
羽生市の住民にとって、一番身近な古墳かもしれません。
また毘沙門山古墳のすぐ西は東武伊勢崎線が通っているので、
電車の中から古墳を見ることができます。

『埼玉の古墳』によると、毘沙門山古墳の規模は次のとおりです。
「憤長六三メートル、前方部幅約四〇メートル、前方部高四・五メートル、
後円部径約三五メートル、後円部高四・五メートル、
前方部を西に向ける二段築成の前方後円憤」とあります。
また、築造年代は6世紀後半代と考えられています。
かつてはもう少し規模が大きかったようですが、
明治36年(1903)の東武鉄道の工事のために削り取られてしまいました。
また、古墳のまわりには堀が巡っていたといいます。
これも開発と共に埋め立てられ、
住宅がどんどん軒を連ねていきました。

この付近に住んでいる方の話によると、
いまでこそ電車が走り、周りは住宅街になっていますが、
少し前まではひどく寂しいところだったそうです。
東武鉄道の踏切の西側はほとんど民家はなく、
古墳には狐が棲みついていたといいます。
夜になるとその鳴き声がどこからともなく聞こえてきて、
それがひどく寂しかったということです。
羽生駅前の「建福寺」や、羽生市三丁目の「正覚院」には
狐にまつわる奇談が残っており、
毘沙門山古墳にも、消えてしまった狐の奇談があったかもしれません。

そんな時代の波に埋もれるようにして建つ古墳ですが、
現在のところ埴輪の欠片が出土しているのみです。
前方部に宮田・古江神社が鎮座し、
後円部には小さなブランコがあります。
ここは古墳というより、神社の境内という認識の方が強いかもしれません。
ここは「新婚宮参り」「初宮」の行事が盛んで、
ぼくも幼い頃、この神社で額に判子を押してもらいました。
しかし、古墳のすそに視線を移すと、大きな板碑が目に入ります。
これは「釈迦阿弥陀種子板石塔婆」(しゃかあみだしゅじいたいしとうば)と呼ばれ、
羽生市の文化財に指定されています。
高さ235㎝、幅108㎝の秩父青石からできた巨大な供養塔で、正面には、

釈迦(種子) 為釈智方禅慶
  建長八年丙辰二月十七日
弥陀(種子) 為西阿弥陀仏

とあることから、鎌倉時代に造られたものとわかります。
かつてこの板碑は後円部のすそにあったのですが、
のちに現在の位置に移したといいます。
すなわち、これは横穴式石室に使われていた天井石で、
再利用したものと考えられています。
(ちなみに板碑のすぐそばには、
羽生の先駆的教育者「森玉岡」の碑(2006.3.21参照)が建っています)

毘沙門山古墳を訪れると、近くの踏切で警報機がひっきりなしに鳴り、
電車が轟音を立てて通り過ぎていきます。
また、古墳の前の道路では何台もの車が行き交い、
羽生市内の中でも一番賑やかな史跡かもしれません。
かつて寂しい場所だったという面影は、どこにも感じられません。
また、小説『田舎教師』(田山花袋著)のゆかりの地「建福寺」に次いで、
羽生駅から最も近い史跡のひとつでしょう。
長く羽生に住んでいる者にとって、
毘沙門山古墳はあまりに自然に所在しているため、
普段目に留まることはあまりありません。
ぼくがそれを古墳だと知ったのは中学生のときでしたし、
羽生に古墳がないと思っている方もいます。
しかし、さきたま古墳群に並んで、羽生市にも古墳がたくさん存在しており、
大和政権にとって重要な土地だったことが想像されます。
群馬県の太田市には、東日本最大の前方後円墳(太田天神山古墳)があることから、
利根川を挟んで、戦いの最前線だったのかもしれません。

いまでこそ電車や車の音で賑わう場所にも、
そんな歴史が内包されているかと思うと、自ずと目に留まります。
普段は通り過ぎる場所にふと足を止めてみるのも、
意外な出会いがあるのではないでしょうか。
ちなみに、古墳の後円部に建つ「毘沙門堂」という仏堂は、
北条時頼の創建と伝えられ、ぼくがそれを知ったのは、
ちょうど大河ドラマの「北条時宗」が放送されている時期でした。
見慣れた町の一角でしかなかった毘沙門山古墳が、
急に色めき立ち始めたのを覚えています。
新しい世界の入口は、日常の何でもないところに、
ポッカリと開いているのかもしれませんね。

参考文献
塩野博著『埼玉の古墳』(さきたま出版会)
羽生市史編集委員会編『羽生市史 上』(羽生市)
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毘沙門山古墳(画像)

2006年04月27日 | 考古の部屋
埼玉県羽生市中央一丁目に所在する
毘沙門山古墳の上から下を見下ろした画像です。
古墳のすぐ西を東武鉄道の線路が通っています。
市内でも比較的賑やかな史跡のひとつでしょう。
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前浅間神社(画像)

2006年04月27日 | 考古の部屋
埼玉県羽生市上新郷の
前浅間塚古墳に建つ社殿です。
祭神は木花開耶姫命で、本殿は昭和35年に建てられたものです。
(2006.4.26「町外れの古墳2基」参照)
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町外れの古墳2基 ―川沿いの郷土史(13)―

2006年04月27日 | 利根川・荒川の部屋
埼玉県羽生市のはずれに鎮座する浅間神社(せんげんじんじゃ)は
小さな円墳の上に建っています。
広大な田んぼの中で離れ小島のように位置し、
周りは鬱蒼とした雑木林に囲まれています。
一見目立ちそうな印象も受けますが、
見過ごされることが多いようです。

これを「前浅間神社」(前浅間塚古墳)と呼び、
羽生市上新郷に鎮座する神社です。
このすぐ北側にあるのが「後浅間神社」(後浅間塚古墳)です。
同様に小さな円墳の上に浅間神社が祀られ、
遠くからでも古墳の形がはっきりと見えます。
ただし、二つの円墳の間にちょうど境界線が走っていて、
後浅間神社は行田市小須賀区域に鎮座する神社ということになります。

今回紹介するのは「前浅間神社」です。
祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、
明治の廃仏毀釈までは「泉蔵院」が別当となっていました。
ちなみに「後浅間神社」では発掘調査を試みようとしたところ、
祟りを恐れて中止されたと伝えられています。
最初に書いたように、周りは田んぼが広がっており、
ほかに古墳らしきものは見当たりません。

しかし、この地域には「百塚」や「横塚」という地名が残っており、
かつては多くの古墳が存在していたことが窺えます。
それらは削り取られたか、田んぼに埋没してしまったかのどちらかでしょう。
ぼく個人としては、広大な田んぼの地下に眠る遺跡をつい想像してしまいます。

前浅間神社は、安産の神様として信仰されています。
『埼玉の神社』によると、ここに木花開耶姫命を祀ると、
難産や死産する者が少なくなったそうです。
祭りは「元旦祭」と7月14日の「別火祭」がありますが、
ほかにも地域で行われている行事がいくつかあるようです。すわなち、
3月6日の「辻切り」→年番が悪魔を除けるために、隣村の境に笹に注連(しめ)を付けて立てる。
4月の「ボンゼン」→雷や雹を除け豊作を祈り、神社の高木の上に梵天を縛りつける。
7月14日~8月17日の「灯籠」→この期間中、年番宅の庭に石尊の灯籠を立て、毎夕火を灯す。
8月17日→年番が鉦・数珠を持って、「南無阿弥陀仏」を唱えながら各戸をまわると、護符のダンゴを配る。
8月24日の「お地蔵様」→子どもの無事の成長を祈り、夕方お地蔵の提灯を灯し、串に刺したダンゴを一串供えて子どもに配る。
と、同書には記しています。

ところで、『埼玉の古墳』を見ると、前浅間神社の古墳(前浅間塚古墳)は、
径20メートル、高さ3メートルで、「主体部および遺物については不明」とあります。
いわば謎に包まれた古墳で、出土物も特に見付かってないようです。
前浅間塚古墳は、羽生市の最も西に位置する古墳だと思います。
24歳の夏、個人的な考古学ブームが訪れていたぼくは、
何度もこの古墳に足を運んでいました。
決して近い距離ではなかったのですが、
よく遠回りをして「寄り道」していたのを覚えています。
さきたま古墳群をはじめ、羽生市内の古墳へ回っていた中でも、
南北に並ぶこの2つの円墳はどこか独特で、
ほかとは違う雰囲気を漂わせているように見えたのは、
後浅間塚古墳の「祟り」が意識下にあったからでしょうか。
夜にそこを通ると、ひどく不気味でしたし、
さすがに境内に入ろうとは思いませんでした。
(古代霊には気を付けろと、意味深に忠告する友人もいて……)
とはいえ、休日の夕方近くになると、
つい古墳へフラリと自転車を走らせ、古墳の上に上っていました。

その(個人的な)ブームが落ち着いた頃、
自転車で向かう先はいつのまにか城や館になっていました。
さきたま古墳群にはいまでもよく行きますが、
今回この記事を書く上で、浅間神社を祀る2つの古墳を訪れたのは、
とても久しぶりでした。
独特な雰囲気は相変わらずだったと思います。
両神社に参拝し、写真を撮りました。
よくここへ訪れていたときのことが懐かしく思い始めた頃、
風が吹きはじめ、空がぼんやり曇っていきました。
この地域では、富士山の方角に雨雲がたちこめると、
決まって大きな雷が轟くそうです。
そのとき雷雲は発生しませんでしたが、
前浅間神社を囲む雑木林がザワザワと鳴り、
地面に密生した草が揺れていました。
ぼくはサドルに跨ると、足早に退散しました。
もしここで雷に遭遇したら、
古墳の周りに何もないだけに、さぞかし生きた心地がしないと思います。
これからの季節、ここを訪れる際は
雷(=祟り?)に注意しなければならいませんね。

※画像は、手前が「前浅間塚古墳」で、奥に見える樹木の影が「後浅間塚古墳」です。

参考文献
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社』
塩野博著『埼玉の古墳』さきたま出版会

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予備

2006年04月26日 | ウラ部屋
予備
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羽生市大天白神社の謎 -ふじまつりのお知らせ-

2006年04月25日 | お知らせ・イベント部屋
藤の季節です。
埼玉県羽生市の大天白神社(だいてんばく)では、
4月25日~5月5日にかけて「ふじまつり」が開催されます。
4月29日(土)には、おはやし、民謡、フラダンス、歌謡ショー、大正琴などの
催し物があり、毎年多くの人で賑わっています。
この祭りは昭和30年頃から市の後援を得て盛り上がり始め、
ひとつの風物詩となっています。

ところで、羽生市の大天白神社は安産の神様です。
『埼玉の神社』によると、現在の主祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)ですが、
以前は宇賀魂尊(うかのみたまのみこと)だったとあります。
創建は弘治3年(1557)と伝えられています。
羽生城主木戸忠朝の夫人が安産祈願のために勧請し、
何度も兵火で焼失したものの、
地域の人々によって再建されてきたようです。
ちなみに、大天白神社のすぐ南にある「正光寺」は、
羽生城主の母(月清正光大姉)によって開基されたものです。
この地域は、羽生城主と密接に関係したところであり、
「竹の内」(「館の内」の訛り)の小字もあることから、
羽生城主が城を築く前に居住していた館があったことが窺えます。
(拙作『羽生城の築城をめぐる論考』参照)

実は、この大天白神社は多くの謎に包まれています。
まず、社名の由来です。
言い伝えによると、大天白神社は羽生市のほかに九州と長野にあるだけで、
大麻(神符)には「武州羽生領座 日本三社 大天白神社大麻」とあります。
『埼玉の神社』は、川に関係する神社ではないかと暗示してますし、
当社の眷属は「白狐」であるため、
犬を飼ってはいけない、煙草を吸ってはいけない
というタブーも伝えられていると記してあります。

羽生市の大天白神社は先に書いたように、
羽生城主の夫人が弘治3年に勧請したものと伝えられ、
以来、安産の神様として信仰されてきました。
弘治3年というと、羽生城は後北条氏の勢力下にあった時代です。
それ以前は古河公方足利晴氏の配下だったのですが、
天文15年(1546)の河越合戦により、古河公方・上杉連合軍が後北条氏に
惨敗したことは周知のとおりです。
これを機に、関東に勢力を伸ばす後北条氏に、
羽生城も無関係ではなかったはずです。
『小田原記』によると、このとき「羽生豊前守」という者が
入城していたことがわかります。
大天白神社が創建されたのはこの数年後です。
従来、河越合戦以降の木戸忠朝は、「羽生豊前守」に従ったか、
又はどこかに潜伏していたのではないかと考えられてきました。
しかし、大天白神社の観点から見ると、
潜伏していたにも関わらず、夫人が神社を勧請したことになります。
また同じ時期、木戸忠朝の父「範実」も歌集を著しており、
潜伏していたにしては、随分とのんびりしていた印象を拭えません。
一方、木戸氏が羽生豊前守の配下となっていたとしても、
神社の勧請ができるほどの力を持っていたのでしょうか。
ぼくは、弘治三年の大天白神社創建説には甚だ疑問を感じています。

これを解く鍵として、埼玉県熊谷に点在する「大電八公社」が挙げられます。
『新編武蔵風土記稿』の新島村項を見ると、「大電八公社」には、
「ダテンバク」のふりがながあり、「大天白」であることが窺えます。
またこのほか、上中条の浜島家を大天白と呼び、
拾六間村の「大電八公社」、上之の「大天魄の社地」、
箱田には大天白の小祠があることが、『新編熊谷風土記稿』で確認できます。
ここで詳述は避けますが、同書によると、関東では「大天獏・大電八公」、
東海道では「天白・天縛」、相模国では「天獏魔王」、遠江国では「天白天王」
尾張国では「手白」、志摩国では「天魄」、奥羽地方では「大天博・大天馬・大天場」
があると、記しています。

ここで注目したいのは、大天白信仰が盛んな熊谷市の北に位置する妻沼町です。
妻沼町には、かつて「玉井豊前」という武将が居住していたと言われています。
玉井豊前はほとんど解明されていない人物ですが、
羽生城の同心(同盟者)としてしばしばその名が出てきます。
すなわち、上杉謙信から羽生城主に宛てた書状の中で、
城主の木戸忠朝に並んで「玉井豊前」の名が書き連ねてあるのです。
天正2年(1574)6月23日の上杉謙信の書状には、
「越後の勢力が武州で保たれているのは玉井豊前のおかげである」とあり、
羽生城と連携して謙信に属していたことがわかります。
この玉井豊前と羽生城の関係がいつから成立したのか定かではありませんが、
おそらく天正元年(1573)以降だと推測されます。

実は、羽生市の大天白神社の創建は、
この玉井豊前が関係しているのではないか、とぼくは考えています。
先に書いたように、玉井豊前が居住していた地域では大天白信仰が盛んであり、
その名を多く見付けることができます。
すわなち、玉井豊前が羽生に大天白信仰をもたらしたとする説です。
羽生城が孤立無援に追い込まれていく天正年間に、
神社を建てたとは想像できませんが、
それ以前に玉井豊前との親交が確立されていたのだとしたら、
少なからず創建に携わっていたのではないでしょうか。
それは弘治3年ではなく、
羽生城が上杉謙信に属する永禄3年(1560)以降かもしれません。
永禄年間は、羽生城の情勢は安定していましたから、
創建は比較的たやすかったと思われます。
ただ、夫人が安産祈願のために勧請したとするならば、
どの子どもを身ごもっていたのかが疑問が残ります。
現在のところ、三人の子が確認されますが詳細は不明です。

このように、大天白神社には多くの謎に包まれています。
もしかすると、それを解明することは、
羽生城史の謎を解く鍵となるかもしれません。
ぼくは、上杉謙信に忠節を尽くさねばならなかった羽生城の動機が、
そこから解けるのではないかとも思っています。
この時期、藤の花に彩られる神社ですが、
深淵な歴史の謎を垣間見るような気がします。
大天白神社の「ふじまつり」に来た際には、
そんな謎に触れてみてはいかがでしょうか。
何か気付いた点があれば、ご教示頂けると幸いです。
なお、同社には「堀田相模神生祠」が建っているので、
ご覧になられることをオススメします。

羽生市ホームページ内、「ふじまつり」の案内
http://www.city.hanyu.lg.jp/kurashi/madoguchi/shokou/fuji2006/fuji_matsuri.html

参考文献
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社』
日下部朝一郎著『新編熊谷風土記稿』(国書刊行会)
川里村教育委員会編『川里村史 資料編1』(川里村)
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火をまたぐ嫁とかさじぞう -簑・笠展示のお知らせ-

2006年04月24日 | お知らせ・イベント部屋
現在、羽生郷土資料館で「簑・笠」の展示をしています。
開催期間:平成18年4月22日(土)~6月4日(日)
開館時間:午前9時~午後5時
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
入館は無料です。
休館日は毎週火曜日・第4木曜日・祝日(5月5日は開館)です

なお、簑と笠を実際に着用する体験学習
「みの・かさ つけて」も催されます。
日時は5月5日(金)・5月20日(土)10時~11時30分
場所は、上記と同じ郷土資料館展示室です。

展示されている簑と笠は、
市内に住むコレクターさんの所蔵のものがほとんどです。
ぼくも展示の準備を手伝ったのですが、
その数と種類の多さに目を丸くしました。
床一面に簑と笠が敷きつめられ、
実に様々なバリエーションがあることがわかります。
日本全国の簑・笠が一堂に集まり、
形も素材も地方によってそれぞれ異なっているのです。
雨雪を防ぎ、日を遮るものもあれば、
荷物の運搬時に背中に当てる「背簑」も、
また婚礼用という華やかな簑もあります。ほかには、
両肩から背中を覆う「肩簑」
両肩・背中・胴部を覆う「胴簑」
両肩から全身を覆う「丸簑」
頭部から背中を覆う「簑帽子」
胴・腰を覆う「腰簑」と、
ひと言では言い表せない深い伝統を感じさせてくれます。

ところで、ぼくは展示の手伝いをしながら、
「火をまたぐ嫁」という風習を思い出しました。
中島愈著『火をまたぐ嫁』に所収された話ですが、
かつて村の結婚式では、花嫁はすげ笠をかぶると、
婚家の入口に焚かれた火をまたいで、中に入ったそうです。
すげ笠をかぶるタイミングは、遠くの方からだったり、
家の入口の直前だったりと、家によって異なっていたようです。

著者はこのことを「通過儀礼」として捉えています。
すなわち、火は「浄化」の意味を持ち、それを通過することによって、
生命力や繁殖力を高めるという儀式です。
そのときかぶる笠は、いわば通過儀礼の衣裳のようなものです。
嫁は生家から嫁ぎ先へ入るという「変質」の通過と「再生」をします。
笠は「現実の自己を離れて何かに変質しようとする時とる服装」のひとつだと、
著者は言います。
嫁は「現実社会」から「別集団の社会」へ入るいわば異質な者であるため、
笠をかぶらなければならないのです。

古来日本では、簑や笠は雨風をしのぐものだけでなく、
ある種の非日常性を含んだものとして捉えられてきたようです。
ナマハゲは簑を着ていますし、来訪神を代表する「かさじぞう」も、
その名のとおり笠をかぶっています。
彼らは簑や笠を着用することによって、
常世の国からやってきた異郷の人(=神)となるわけです。
中島氏は「かさじぞう」について、こう述べています。
「(前略)笠をかぶったことによって地蔵はマレビトとなり、
正月(新年)に村人(正直なじいさん)に福を与える役めを担うことになる」
言うまでもなく、「かさじぞう」の舞台は大晦日です。
すなわち、物語は大晦日から新年を迎えるという「通過儀礼」の途上です。
「火をまたぐ嫁」のように、通過儀礼のために、
地蔵はどうしても笠をかぶる必要があったわけです。
この短い物語に内在される「変質」と「再生」のテーマは、
日本人の土俗的な信仰が見てとれる気がします。
一般的に「かさじぞう」は「正直者の報恩話」として捉えられていますが、
ここに登場してくる「物」や物語の背景は、
日本人に深く根付いた信仰を、静かに語っているのではないでしょうか。

とはいえ、なぜ日本人が簑と笠に非日常的なものとして捉えていたのか
詳しいことはわかりません。
ただ、個人的な感覚から察するに、
蓑と笠を着用すると、どことなく異様に見えるからだと思います。
展示の準備をしながら、「簑をかぶった人が、夜中に突然現れたら怖いでしょうね」
という冗談話が出ていましたが、
その恐れが「異郷の人」(=神)のイメージを作り上げたのかもしれません。
(あくまでも感覚的な推測であって、学術的な根拠はないですが……)

簑の中には昆布でできたものもあり、
遭難してもこれがあれば大丈夫という冗談もありました。
それだけ簑の種類が豊富ということでしょう。
その富んだバリエーションと、職人技である美しい編み込みを見るのも、
我々を楽しませてくれます。
また、民俗学的な観点で眺めると、
日本人に深く根付いている信仰や思想が、
垣間見えてくるかもしれません。
天狗の「隠れ簑」などを想定しても面白いかもしれませんね。
(ぼくは簑の前で、なぜか遺影でしか見たことのない先祖の顔が
思い浮かびました)
羽生にお越しの際は、
郷土資料館に寄り道していって下さい。
もしかすると、懐かしい人の顔が浮かぶかもしれないので……

羽生市立図書館・郷土資料館ホームページアドレス
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/index.html

参考資料
中島愈著『火をまたぐ嫁 -民俗学誌小品集-』(私家版)
大塚民俗学会『日本民俗事典』(弘文堂)
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さよならハカセ

2006年04月23日 | ウラ部屋
ハカセの訃報を聞きました。
羽生史談会という歴史団体の勉強会に参加したときのことです。
休憩時間に会員の一人がぼくのところにやってくると、
ハカセが亡くなったことを伝えました。
このブログで以前書いたハカセの記事を読んで、
教えて下さったとのことです。

ぼくは思いがけない話に、口が半開きになりました。
聞くと、ハカセは老衰で亡くなったそうです。
家族や親戚はなく、ずっと一人だったのですが、
市内の墓地に埋葬されたといいます。
亡くなったのは一ヶ月前くらいで、
「老衰」とはいうものの、詳しいことはわからないとのことでした。
ぼくはハカセの死を教えて下さった方にお礼を言いました。
いままで消息不明のハカセに嫌な予感を覚えていましたが、
結局それは的中してしまったことになります。
スポンジみたいに顔をくしゃくしゃにして笑うハカセの顔が、
浮かんでは消えていきました。
ぼくは両手の指を組んだり離したりしながら、
親指のささくれをぼんやり見つめていました。

静かにハカセの冥福を祈ろうと思う一方で、
実はまだハカセはどこかで生きている気がします。
つい数ヶ月前まで、「こんばんわぁ」と間延びした声で、
ぼくの前に現れていたハカセが亡くなったとは思えません。
ハカセは神出鬼没です。
図書館、駅前、スーパー、神社、寺、城跡と
いままで至るところで目撃してきました。
またどこかで現れるような気がします。
足音を立てず、ヒョコヒョコと歩いて……

ハカセは2006.4.5の記事に書いたように、異人です。
見た目は薄汚い恰好をした小柄な老人ですが、
自らを万能大学者と称し、内閣総理大臣とも面識があると豪語していました。
自宅の雑木林には「日本一」「世界一」と書かれた白いトレーが、
無数に枝にくくりつけられていましたし、
ひときわ大きなトレーには「○○城」と太字でありました。
羽生城のことを訊いたぼくに、
ハカセは「うちが城ですよ」と言ったのを覚えています。
確かにそこは、ハカセの城でした。
町中の一角に密生する雑木林に、
無数のトレーとそこに書かれた「世界一」の文字。
近寄り難く、それでいて目をひかれてしまう場所だったのです。
しかし、前に書いたように、ハカセの城はもうありません。
雑木林は切られ、思ったより小さな空き地が
ポツンと広がっているだけです。
あのたくさんのトレーも、雑木林の隅で寝ていたハカセの姿も、
どこにも見付けることはできません。
空き地には、いくつかの切り株が点々とあるのみです。

羽生史談会の休憩時間が終わって再び勉強会が始まっても、
ぼくはぼんやりとした気分が抜けませんでした。
今回のテーマは直江兼続の朝鮮出兵における行動で、
雑誌に掲載された論文のコピーをテキストに使っていました。
朝鮮出兵には羽生城主木戸忠朝の次男「木戸元斎」も参加しており、
いつもなら食いつくようにテキストに視線を走らせるのですが、
活字は一向に頭に入らず、終いにはうんざりしてしまいました。

そういえば、とぼくはふと思います。
ハカセと初めて出会ったのは図書館でした。
中学二年生の夏、宿題をしていたぼくの前に、
ハカセは突如現れたのです。
受験生の巣窟のような図書館二階の「学習室」で、
見た目も漂う匂いも異様だった彼が
読み始めた『百万回生きた猫』も
異様に見えたのを覚えています。
それから十三年が経ったいま、
ハカセの訃報を聞いたのが図書館だということは、
何かの因果でしょうか。
ぼくはテキストから目を離すと、
ぼんやり窓の外を眺めました。
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種まきの風物詩

2006年04月22日 | ウラ部屋
種まきの季節です。
母方の実家へ、稲の種まきの手伝いに行ってきました。
画像にあるように、播種覆土機を使ってどんどん種を蒔いていきます。
以前は、田んぼに直接蒔いていたそうですが(苗代)、
ぼくが物心がついた頃にはすでにこの機械を使っていました。
いわば流れ作業で、今回は播種覆土機の周りに五人が配置しました。
この機械はレバーを回すと苗箱が流れ、
上から種が落ちる仕組みになっています。
分担は、レバーを回す者、苗箱を流す者、苗箱の枠についた種を落とす者、
流れてきた苗箱を積んでいく者(二人)で、
四、五人いればスムーズに流れます。

まず苗箱に土を入れ、水に濡らします。
そのあと種を蒔き、再び播種覆土機を使って土をかぶせていきます。
人数がもっといれば、播種覆土機を二台使って「種まき」「覆土」が
一気にできるかもしれません。
聞いた話によると、その過程を一気にやってしまう全自動があるそうです。
画像の播種覆土機は二十年以上使っているもので、
年に一度しか使わないので、まだまだ現役のようです。

種まき、覆土を終えると今度は苗箱を近くの畑へトナーで運び、
小さなビニールハウスを作ります。
下にビニールシートを敷き、苗箱を二列に並べていきます。
今日は風が強く、ビニールが何度も捲り返りましたが、
そこは多勢の強みで、難なく作業は進みました。
苗箱を並び終えると、今度はその上に新聞紙を敷き、
水をかけていきました。
そしてビニールハウスを作り、「種まき」の過程は終了となります。
苗代と本田を分けるための土手を鍬で作っていきましたが、
これはおまけのような作業で、
城好きとしては、ついそれを土塁に見立ててしまいます。

母方の実家は埼玉県羽生市神戸です。
以前ぼくの家でも稲作をしていましたが、
種まきはいつも4月下旬から5月上旬にかけてでした。
地域によって時期は異なるのでしょうし、
丈夫な苗を育てるためには、種をまく見極めは重要なことだったと思います。
『日本民俗事典』を見ると、暦が普及する前から、
「動植物の気配」や「山の雪の残り具合」などで、
その時期を判断していたようです。
例えば、九州では「雲雀」が鳴き出すと種をまいたといいますし、
地方によって「鴬」「郭公」「筒鳥」が、
時期を知らせる鳥になっていたといいます。
また植物では、「コブシの花」の開花や
「ブナの若芽」が緑色になるのが判断基準で、
津々浦々さまざまな判断材料があることが窺えます。

面白いのは山の残雪で、駒ヶ岳(岩手、秋田の県境)では、
8合目に「1頭の白馬の形」が現れると、種をまき始めるそうです。
地方によっては、雪解けによってその形が異なるわけで、
馬のほかに「猿」「牛」「鴬」「爺」「坊主」があり、
「種蒔き猿」「種蒔き爺」という呼び名があるといいます。
動物の形は何となく想像できますが、
人間の形となると、どんなものなのでしょう。
特に「坊主」という形が気になりますし、
霊験あらたかな稲が育ちそうですね。

そんな判断材料ではないのですが、ぼくは稲の種まきというと、
ウズラの鳴き声を連想します。
かつて自宅で稲作をしていたとき、
種まきにはいつも近くの林でウズラが鳴いていました。
ぼくにはあの声が「ちょっと来い、ちょっと来い」と聞こえます。
つまり、ウズラが呼んでいるのです。
今回の種まきではウズラはいませんでしたが、
播種覆土機のカラカラという音と一緒に、
あの鳴き声が聞こえてくるようでした。

また余談ながら、種まきの季節の(個人的な)風物詩として、
葛西用水路があります。
満開の桜の花が散る頃になると、
枯れていた用水路に一気に水が流れ始めます。
現在、用水路は綺麗に整備されていますが、
以前は川幅が広く、堤防も苔むしていたので、
その流れは悠々と見えました。
葛西用水路は万治3年(1660)に伊奈忠克によって作られた
日本三大農業用水の一つです。(あとは「見沼代用水」「明治用水」)
東京都葛飾区まで続くこの用水路の水が、付近の田畑を潤し、
農作物を豊かに実らせます。
冬の間に枯れていた葛西用水路に勢いよく水が流れ始めると、
ぼくはひと足早い夏を感じます。

ところで、実家で種まきを終えたあと、
冷えたビールを御馳走になりました。
外はまだ明るかったですが、
労働のあとのビールは堂々と呑めますね。
母方の実家では、手伝いのあとは決まってヒレカツが出ます。
近所の店から出前を頼み、みんなでテーブルを囲みます。
このビールとヒレカツもまた、
種まきの季節の風物詩となっています。

参考文献
大塚民俗学会編『日本民俗事典』(弘文堂)
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砂丘に眠る棺 ―川沿いの郷土史(12)―

2006年04月21日 | 利根川・荒川の部屋
かつて埼玉県羽生市上新郷の愛宕神社のそばには、
「御墓山」と呼ばれる塚があったといいます。
「墓」の文字から窺えるように、
誰かを供養するために築いた塚(古墳)だったのでしょう。
昭和の終わり頃まで存在していたそうですが、
ぼくが郷土史を繙いたときには、すでになくなっていました。
御墓山の麓には、以前紹介した「血洗の池」(2006.3.25参照)があったといいます。
これは、戦国期に会の川を挟んで忍勢と羽生勢が激突したときに、
勝利をあげた羽生勢が、武器や服についた血を洗い落としたと伝えられる池です。
しかし、これも残念ながら開発と共に姿を消してしまいました。

「御墓山」の名前の由来は、『羽生昔がたり第3巻』によると、
新田義貞の時代に遡るそうです。
すなわち鎌倉時代末期、新田勢が鎌倉へ向かう途中、
武将の一人がこの地で死んでしまいました。
新田義貞はその武将を供養するために、
祠を建てたといいます。
それ以来、この塚を「御墓山」と呼ぶようになったと、
同書には記されています。

この伝承の真相はさておき、
御墓山(跡)のそばに鎮座する愛宕神社は、円墳の上に祀られていますし、
また近辺では、浅間塚古墳や横塚の古墳跡が確認されています。
利根川の洪水や関東造盆地運動で、
埋没してしまった古墳もまだ地中で眠っているとすれば、
この地域は、いわば古墳のメッカだったかもしれません。
御墓山もその一つだった可能性が高く、
消滅してしまったことはとても残念です。

ところで、この地域ではかつて河畔砂丘が発達していました。
河畔砂丘とは、強い季節風などによってできた内陸砂丘で、
温順な日本の気候では珍しいと言われています。
特に、利根川の旧流路である「会の川」沿いに発達し、
羽生、加須、鷲宮などで多く確認されています。
浅学のため断定は避けますが、その地域での河畔砂丘形成時期については、
七千年前とも平安末期~鎌倉中期にかけて作られたとも言われています。
『中川水系』によると、新郷地域の河畔砂丘は「湾曲状」の形をしており、
一番大きなもので、長さ1100m、幅125mとあります。
また、最高点の標高は26.0mとあり、
他地域の15箇所の河畔砂丘の中で、一番の高さです。
現在では一部分を除いてほとんど消滅していますが、
かつての発達した河畔砂丘の列は、美しいほどだったと聞いています。

棺が出てきたのは、その砂丘の中からだったそうです。
聞いた話では、業者が御墓山近くの河畔砂丘を崩したとき、
その下に棺が埋まっていたといいます。
古代の死者を弔ったものか、
もしくは伝承にある新田義貞の武将のものかはわかりません。
棺の中には何が入っていたのでしょう。
ぼくにその話をしてくれた郷土史家さんは首を傾げました。
「棺が見付かったことだけしか聞いてないよ」と言います。
その先のことは謎に包まれているとのことでした。
単にその人が聞きはぐっただけのことなのか、
それとも闇に葬らなければならない何かがあったのか、
なんともミステリアスに包まれた棺です。

いずれにしても、上に書いたように、
この地域では埋没古墳などの遺跡が数多く眠っている可能性があります。
先日の羽生市での試掘調査は十数年ぶりだったそうですから、
まだ眠れる土地と言えるでしょう。
普段の生活の中で、光り輝くものや、豪華絢爛なものに目を奪われがちですが、
地面に視線を下ろしてみるのも、
思わぬ宝に出会う鍵となるのではないでしょうか。
案外、宝の道標は「土」なのかもしれませんね。

参考文献
堀越美恵子 田村治子著『羽生昔がたり第三巻』
埼玉県『中川水系』
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