クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

上杉憲政の死後に不思議なことが起こった?

2014年08月31日 | 戦国時代の部屋
上杉憲政は上杉謙信に関東管領職を譲り、
失地回復を夢見た人物だった。
永禄3年(1560)8月、謙信に奉じられて関東へ進攻。
相模の後北条氏を一気に叩くはずだった。

しかし、11万5千余騎の大軍をもってしても、
小田原城が落ちることはなかった。
城に籠もる北条氏康は智将と名高い人物。
憲政は、天文15年(1546)の河越合戦でこの氏康にこっぴどくやられている。

小田原包囲網を解いた謙信は、鶴岡八幡宮へ赴く。
そして、この地で関東管領就任式が執り行われた。
忍城主成田長泰が馬から下りず、これを打擲するという騒動があったが、
若い謙信にとって人生の腫れ舞台であり、
迅速に関東を経略し、幕府をも再興する夢と希望に満ちあふれていただろう。

しかし、物事はそう簡単には進まない。
古河公方足利藤氏と共に古河城に入った憲政だったが、
情勢はすぐに不安定になり、退去せざるを得なかった。
謙信の関東における勢力も年を追うごとに悪化していく。
永禄9年の臼井城攻めに失敗すると、
関東諸将はこぞって謙信から離反。

前年には将軍足利義輝が殺害され、
謙信が古河公方に擁立した足利藤氏もこの世を去っていた。
謙信の勢力挽回はもはや望めないほどの打撃を受けたのである。
武田信玄のひょんな盟約違反があって北条と手を結ぶことになったが、
「古河公方―関東管領」体制の論理は崩れ、
失地回復のため関東を経略するという大義名分はその意味を変えざるを得なかった。

上杉憲政は越後にあって、
そんな謙信をどのような想いで見つめていたのだろう。
人はやがて老いる。
軍神と呼ばれた謙信も年を重ね、49歳になっていた。
天正6年(1578)、謙信は春日山城内において倒れ、
そのまま帰らぬ人となった。
関東出陣の陣触れを出した矢先の死だった。

謙信の死後、後継者争い(御館の乱)が勃発したことはよく知られている。
その戦さの最中、上杉憲政は命を落としている。
景勝と景虎の仲介に春日山へ向かったところ、
殺されてしまう。

すると、不思議なことが起こったと古書は語る。
憲政が命を落としたところから霧が立ちこめ、
国中が闇になったという。
また、別の古書では、
たちこめた霧で朧月のようになったと伝えている。

この霧は、宿願を果たせなかった憲政の無念さそのものだったのだろうか。
憲政とて、このような最期を遂げるとは思っていなかっただろう。
あるいは、憲政の宿願が霧散したことを象徴していたのかもしれない。

御館の乱は景勝が勝利。
西国からは織田信長が急激に勢力を伸長している。
信長の目線の先にあるのは「天下」。
霧が流れ去ったあと、
時代は新しき世に向けて動き始めるのだった。
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昭和52年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年08月30日 | 子どもの部屋
昭和52年の羽生の主な出来事は以下の通り。

 2月、ムジナモの自生地「宝蔵寺沼」の底ざらいを実施
 3月、葛西用水路に架かる「あずま橋」が完成
 4月、羽生南小学校が開校
 7月、斎場、農村センターが完成

南小学校は羽生市南6丁目にある。
裏に宮田落としが流れ、周囲は住宅街となっている。
何かと賑やかな場所だが、かつては田畑が広がっていたらしい。
冬には富士山が望めたというのだから、
何もなかったのだろう。

「みなみちゃん」なるマスコットキャラクターも登場し、
その着ぐるみが募金で完成しているのは、時代を象徴しているかもしれない。
中学校にあがると、南小出身の同級生がたくさんいて、
一緒に校内へ遊びに行ったことも何度かある。
学校の近くには駄菓子屋さんがあって、
その同級生たちと買い食いをもした。

学校横の公園で遊んでいたら、
5、6台倒れているぼくらの自転車を不審に思って、
警官が職務質問をしてきたこともあった。
いま思えば人生初の職質だったと思う。
町の治安は守られている。
そこに学校があるから、地域の人たちも温かく見守っている。
一面の田園風景だった頃にはない空気に包まれているのだろう。

葛西用水路に架かる「あずま橋」は歩行者専用だ。
車は通ることができない。
場所は“旭橋”と“城橋”の間。
葛西用水路沿いの桜並木がちょうど途切れるところである。

何度この橋を渡ったかわからない。
用水路の土手で橋の両方が坂道になっているから、
ちょっと勢いをつけなければならない。
現在も多くの人たちに使われている橋だろう。

ちなみに、あずま橋の周辺も住宅街になっている。
この橋から北東の方角に羽生城が存在した。
郷土史家の冨田勝治氏は言う。
この橋の辺りが、本城と外曲輪を結ぶ連絡口だったのではないか、と。

葛西用水路の掘削は万治3年(1660)のこと。
羽生城があった時代には存在していないから、
もちろんあずま橋の「あ」の字もない。
住宅街も葛西用水路もなく、堀と曲輪で構成された羽生城があった時代は、
いまとは全く別の景観が広がっていたに違いない。
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雨の日に“地中からのメッセージ”を聞く? ―1人さんぽ―

2014年08月29日 | 歴史さんぽ部屋
8月31日(日)まで、埼玉県立さきたま史跡の博物館で、
「地中からのメッセージ」が開催されている。

これは、埼玉県から出土した最新の遺物を展示したもの。
栗橋宿本陣跡から出土した瓦や、
熊谷の前中西遺跡の礫床木棺墓から見付かった管玉などを見ることができる。

雨降る日に一人でさきたま史跡の博物館を訪れた。
遺物たちは物言わず、饒舌に語りかけてくる。
雨は静けさを深くするのに、同時に賑やかさも増す。
ぼくは決して遺物たちの声を多く聞き取ることはできないのだが、
物静かに対面するその時間は、何にも代えがたいものだったと思う。

開館時間は午前9時から午後5時まで。
入館は午後4時30分までとなっている。

ちなみに、展示室にはぼくより若い男子や女子が一人で遺物たちと対面していた。
見るからに“できる”人ぽい雰囲気である。
ぼくよりもずっと多くの声を聞き取っていたのだろう。
窓の外はそぼ降る雨。
展示室はいつしか静かな熱気に包まれていた。




雨に濡れるさきたま古墳群(埼玉県行田市)
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カブトムシ捕りに行かなくなるのはどの時期だったか? ―はにゅう詩情―

2014年08月28日 | 民俗の部屋
夏の思い出で、楽しかったものの一つに数えられるのはカブトムシ捕り。
近所の里山に入って、
クヌギにたかるカブトムシやクワガタを捕るのは楽しくて仕方がなかった。

夜に里山に入ったことはない。
カブトムシは夜行性と言うが、当時は昼間でもつかまえることができた。
もちろん、ほかの虫たちもたくさんいた。
カナブン、チョウ、ハチ、ケムシなどなど、
昆虫図鑑を持って行ったのならば、世界はもっと広がったに違いない。

里山に入ったのは、羽生の夏祭りが過ぎた頃だ。
露店で売られているカブトムシに刺激を受けて里山に入るのがいつものパターンだった。

では、逆に里山に行かなくなるのはいつだったか?
実はよく覚えていない。
どのくらいの時期からカブトムシが姿を見せなくなっていたのか、
とんと記憶にない。
夏休みが終わったと同時にオフだったのだろうか。

お盆を過ぎて里山へ行っても、
見掛けるカブトムシの数は少なくなった気がする。
やはり活動期間のピークは過ぎたのかもしれない。
それは地域によって差があるだろう。
9月になっても里山に入っていた感覚はない。

今度、地元の男子に聞いてみよう。
ちなみに、近所に広がっていた里山は姿を消し、
いまは全く別の景色が広がっている。
時代の流れによるものだが、
その景色を見るたび、心にそっと秋風が吹く。
聞こえ始めたツクツクホウシの声が、秋の到来を告げている。
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夜闇に包まれる“若王子古墳群”は?

2014年08月27日 | 考古の部屋
若王子古墳群は現在田畑になっている。
古墳はない。
知らなければ通り過ぎるだけである。

江戸時代に編まれた地誌『武蔵志』や
『新編武蔵風土記稿』には古墳にかかる記述がある。
編者たちは実際に目にしていたのだろう。
最終的には昭和9年の小針沼干拓用土として消滅したという。

上の写真は夜闇に包まれた若王子古墳群跡である。
ご覧のとおり真っ暗で何も見えない。
遠くの明かりは見えても、
田んぼは闇に包まれている。
ここに古墳があったことなど、見た目には何もわからない。

暗闇の方が、古墳の気配を感じる……という人にはオススメかもしれない。
子どもを連れてくれば怖がられるだけだと思う。

ただ、ここからさきたま古墳群とは目と鼻の先の距離だ。
どのような関連性があるのか注目される。
ここから西の方角を見ると、
稲荷山古墳や丸墓山古墳のシルエットが不気味に佇んでいた。
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昭和51年には羽生で何があった?―子ども学芸員―

2014年08月26日 | 子どもの部屋
昭和51年の羽生の主な出来事は以下の通り。

 3月、新田土地区画整理事業完了
 4月、埼玉県立羽生第一高等学校が開校

羽生第一高校は羽生市下岩瀬にある。
近くを国道122号線が通り、
南一帯には小松工業団地が広がっているが、
開校当時は田んぼの中に突如校舎が現れたような景観だった。

入学式当時はまだ体育館ができておらず、
羽生北小学校で式が執り行われた。
当時教員を務めていたT先生によると、
その入学式は校歌にあるとおり、
まさに「求めて強き風に立ち 築く未来の朝を呼ぶ」だったと語る。

ちなみに、校歌の制定は昭和52年のこと。
作詞は羽生出身の詩人“宮澤章二”が手がけている。
T先生は多くの学校に赴任したが、
羽生第一高校の入学式が最も印象深く記憶に残っているという。

それは第一期生の生徒たちも同様かもしれない。
先輩もいない学校で初めての生徒になるというのは、
どのような気分だったのだろう。
不安もあるが、自分たちで学校を作り上げていくという感覚だろうか。
第一期生になるには、その年にちょうど開校しなければならず、
1年でもずれたら叶わないわけだから、貴重な体験と言える。

ちなみに、昭和51年には秋本治氏の「こち亀」の連載が開始。
また、「徹子の部屋」も放送が開始されている。
「日清焼そばU.F.O.」や「白い恋人」、
「どん兵衛きつねうどん」や「チップスター」が発売されたのもこの年だ。
いわば、広義の意味で羽生第一高校と同級生と言える。
羽一の人なら親近感がわくかもしれない。
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“発掘された日本列島”が江戸東京博物館で見られる?

2014年08月25日 | 考古の部屋
江戸東京博物館で「発掘された日本列島2014 日本発掘」が開催されている。
今年で20周年を迎える企画展だ。
ぼくらが高校生のときに始まった企画展で、
その歴代ポスターも展示されている。

Sさんから長竹遺跡が展示されているとの情報をもらい、足を運んだ。
長竹遺跡は埼玉県加須市大越の遺跡で、
平成22年から発掘調査を実施している。
その年で調査は終わるはずだったのだろうが、
大量の遺物の出土や環状盛土の発見などがあり、現在も続いている。

展示室の一角に、長竹遺跡出土遺物が展示されていた。
土偶や土器、石棒などが展示ケースの中に並べられ、人目をさらっていく。
長竹遺跡というと、犬の形をした土製品が思い浮かぶのだが、
それもしっかり来館者に愛嬌を振りまいていた。
しかも、第2企画展示室の入り口で!

同じく埼玉県では、行田の鉄砲山古墳から出土した鉄砲玉が展示されている。
忍藩が砲術の練習として使用されたもので、
大小様々な砲弾が生々しさを伝えている。

そのほか、日本全国から出土した遺物たちが展示。
全国のものが一堂に会して見られるのも、この企画展の魅力だろう。
座って祈る土偶や、巫女・力士のハニワ、
人の顔が施された骨壺の土器や青銅鏡など、
時代の流れに沿って展示され、文化の営みが垣間見られる。

この企画展は9月15日(月)までの開催となっている。
このあと、大坂、長野、福岡に会場を移して展示される
長竹遺跡から出土した犬型土製品も全国を飛ぶというわけだ。

ちなみに、展示会場でM氏とばったり会う。
発掘を生業としている方で、仕事で来ていたらしい。
復元された縄文人の顔の近くでごあいさつ。
時代は流れても、こうした人の営みは変わらないのかもしれない。
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関宿城を攻略するために築かれた砦は? ―山王山砦―

2014年08月24日 | 城・館の部屋
北条氏康は何がなんでも関宿城を掌握したかった。
水運交通の要衝地に建ち、一国を得るに等しいと考えていた。

氏康が実際に関宿城を攻めたのは永禄8年のことである。
嫡子の氏政と共に出撃。
しかし、関宿城主簗田氏の巧妙な作戦や野伏たちによって翻弄されてしまう。
やむを得ず撤退を余儀なくされたが、
氏康は諦めることができなかった。

そこで関宿城を攻略すべく、氏康はいくつかの策を出す。
まず、三男の氏照を関宿城攻略の担当に任じた。
そして、その拠点として栗橋城に入城させる。
栗橋城は野田氏が本拠としていたが、
古河公方権力を利用し、明け渡させたのである。

また、攻撃のための砦を築いた。
その一つを山王山砦という。
まさに関宿城攻略のための砦である。
兵粮弾薬などが送り込まれ、
関宿城を攻め落とす足がかりとなったのだろう。
簗田氏は厳しい戦いを強いられたことになる。

ところが、異変が起きる。
後北条氏と同盟を組んでいた武田信玄が、
突如軍役違反を犯し関係を破棄してきたのだ。
それまでの流れを大きく変える事件だった。

氏康は秘策に打って出る。
激しく敵対していた上杉謙信と同盟を結んだのだ。
信玄の強さは、同盟者だっただけによく知っている。
信玄に本拠地を攻められるより、
多少の犠牲を払ってでも謙信の武に頼りたかったのだろう。

このとき、関宿城攻略のために築かれた山王山砦は破却されてしまう。
謙信と同盟を組んだことにより、
関宿城を落とす必要はなくなったからだ。
ただし、関宿城を攻めていた氏照は、
同盟が結ばれるぎりぎりまで砦を壊さず、攻撃を続けていた。
これは、氏康とは別の手筋で同盟を進めていた氏照の独自の政治的意図であったと、
儘田めぐみ氏は指摘している(※)。

かくして、山王山砦は短期間の内にこの世から姿を消した。
その後、攻略のための砦が築かれることはなく、
関宿城が開城となったのは天正2年(1574)のことだった。
氏康はすでにそのときこの世の人ではなく、
関宿城攻略をその目で見ることはなかった。

砦は破却されたが、その一部は残ったらしい。
茨城県五霞町の東昌寺の境内には、土塁と堀の一部が現存している。
かつてここに北条方の兵が詰め、
関宿城攻略に士気を高ぶらせていたのだろう。
北条氏照自身がその場に立ち、関宿城方面を眺めたことも想像に難くない。

砦跡に建つお寺は江戸時代に移ってきたという。
お寺の周囲は田畑が広がり、民家がポツリポツリ建っている。
田んぼでエサを探す白サギがのどかさを増す。

いま、山王山砦跡に立ち、関宿城方面を望んでみる。
しかし、川の高い土手が視界を遮り、
その手前の田んぼで作業をする老爺が見えるだけだった。


茨城県猿島郡五霞町







※儘田めぐみ「越相同盟交渉における北条氏照の役割の再検討―第二次関宿合戦との関係から―」(「戦国史研究」第65号、2013年)
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10年前から仕組まれていたうどんの味は?

2014年08月23日 | グルメ部屋
機会あって同期と食べた加須のうどん。
冷汁うどんセットである。
窓の向こうにはお寺が見える。
その昔、鬼島にいる白竜を退治したがゆえに創建されたとの伝説がある。

写真を撮るつもりはなかったが、
ついカメラを向けてパチリ。
約10年ぶりに食べるその店のうどんだ。
ちょっとだけ感慨深い。

透き通るような白いうどんの向こうに、
10年前がかすんで見える。
目を細めれば、これから先の10年が見えるだろうか。

過去と比べて環境が変わっているように、
10年後にはいまは知らない誰かがそばにいるのかもしれない。
月日の流れは年を追うごとに早くなっていく。
否応なく変わっていくのは、
何も環境だけではないだろう。

うどんはツルツル入って、のど越しがおいしい。
天ぷらもサクサクだ。
隣の男子はカレーうどんに唐辛子をかけていた。
なるほど、夏らしい。
今後はカレーうどんを食べてみようかな、と
お新香を頬張りながら思う。

店内は客で賑わっていた。
常連がほとんどかもしれない。
部活帰りとおぼしき高校生が入ってくる。
入れ違うようにぼくらは席を立つ。
テレビは甲子園の試合を映し出していた。

夏の終わり、同期、10年ぶりに食べるうどん、唐辛子、甲子園……。
何の脈絡もなく見えるパズルが組み合わさって1つの絵を描く。
この瞬間に組み合わさることは、
10年前から決まっていたのかもしれない。
推理小説に仕組まれた伏線が、やがて意味を持つように。

外へ出れば容赦ない日射しが照りつける。
道路向こうの境内を見ても、
かつて鬼島のあった頃の面影はない。
いま白竜が現れたら、
その目に夏空はどう映るのだろう。

誰かに呼ばれた気がして振り向く。
でも、そこには誰もいない。
セミの声が10年前と同じように響いていた。
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宵時に歩く“樋遣川古墳群”は? ―1さんぽ―

2014年08月22日 | 歴史さんぽ部屋
宵時に訪ねた樋遣川古墳群。
ある依頼を受けてから、改めて史跡を巡り歩いている。

ご神木に覆われ、薄暗い御室神社を参拝。
ヒグラシが鳴いていた。
小学生の頃ならば、きっと恐くて境内には入れなかっただろう。
大人になってからは、雰囲気あるものに惹かれる。

御室神社は小高い塚の上に鎮座している。
この塚は古墳だ。
樋遣川古墳群の1つで、この西には宮西塚という古墳が存在していたが、
いまはない。

御室塚から少し南へ行けば、稲荷塚や浅間塚がポツリポツリと建っている。
いずれも円墳だ。
大きくはない。
知らなければ、見過ごしてしまうのではないだろうか。

夜闇が迫ってくる中、樋遣川を歩く。
程良い暗さがあると、想いを馳せやすい。
逢魔時と呼ばれる境界の宵時は尚更かもしれない。
辺りは田んぼが広がっている。
心地よい風が吹き抜けていった。

※最初の写真は埼玉県加須市樋遣川の風景
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図書館で忘れられない夏を作る? ―はにゅう萌え―

2014年08月21日 | はにゅう萌え
夏になると羽生図書館の学習室は番号制になっている。
受付で席番を取ってから利用するというシステムだ。

羽生図書館の学習室は心地いい。
そうは思わない人もいるだろうが、
少なくともぼくはこの部屋で多くの時間を過ごした。

というのも、自宅での勉強がどうしても集中力に欠く性分だ。
そもそも机に向かうまでが長い。
まるで千里の道を行くようにだるくて仕方がなかった。

しかし、そんな悩みは図書館で一掃した。
周囲の人が集中しているのだから、
嫌でも勉強せざるを得ない。
静かなのに熱気の伴う緊張感が背中を押すのだろう。

自宅の机に向かうより図書館へ行く方がずっと遠い。
だるく感じられそうなものだが、
ちょっとした外出気分で自転車を走らせた。
体を動かすと、頭の中もすっきりする。
血液が循環して通りをよくするからだと思う。

もし自宅での勉強が億劫だったら、
試しに図書館の机の向かってみるといい。
びっくりするほど集中できる可能性がある。
周囲に何か気配があった方が集中できるタイプかもしれない。

羽生の図書館は郷土資料館が併設されている。
休憩時間に展示室へ足を運び、気分転換も可能だ。
平成26年の夏に開催している展示は「日光脇往還・新郷宿」。
江戸時代にタイプスリップできるだろう。

ちなみに、ぼくは羽生を舞台にした小説『田舎教師』を資料館で覚えた。
展示室ロビーにビデオが設けられていて、
友だちと話をしながらBGM代わりに流していたのだ。
とりわけ興味があったわけではないが、
自然と耳と目に入ってどういう作品なのかを知った。

羽生城を初めて知ったのも資料館の展示だったし、
学校の教科書には載っていないものとの出会いが何かと多かった。
それが後年の郷土史への興味に繋がるのだとしたら、
資料館で過ごした時間は、新しい世界を知る入り口だったのだろう。

それらは学校の勉強や受験とは無関係なものかもしれない。
でも、十代の多感な時期に出会った宝だったと思う。

図書館での勉強を知って以来、何かが変わった気がする。
何の予定もなかったら図書館へ行けばいいと思うようになった。
ちなみに、図書館の学習室を連れて行ってくれたのは中学の同級生だ。

彼と一緒に行ったのはそれが最初で最後だったが、
何かと面白い遊びや世界を教えてくれる同級生で、
図書館での勉強もその一つだったのかもしれない。
14歳の夏。
そういう縁はあるものだ。

お盆を終えて夏休みも終盤である。
出会いはあっただろうか。
思い出はたくさんできただろうか。
そんな出会いや思い出の中に、
「図書館」や「資料館」を一つ加えてみてはいかがだろう。
フィーリングが合えば、忘れられない夏になるかもしれない。
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海なし県で“古代の海”を見に行く? ―離山貝塚―

2014年08月20日 | 考古の部屋
そうだ、海を見に行こう。
と、思っても海なし県。
海を見に行くとすれば、決して短くはない時間をかけなければならない。

ならば、貝塚へ行って古代の海を見よう。
“離山貝塚”は群馬県板倉町にある。
藤岡台地の上に貝塚を示す標柱が建っている。

むろん、いまは海を見ることはできない。
ここから東京湾までは約70㎞の距離である。
しかし、貝塚がある。
縄文人が捨てた貝殻だ。

なぜこのようなところに貝塚があるのだろう。
縄文時代に気候が温暖化したことに原因がある。
氷が溶けて海水が上昇。
海水は陸地にどんどん入り込んでいく。
やがて、現在の板倉町にも海水がやってきたというわけだ。

縄文海進と呼ばれるこの現象。
東京湾が関東の奥へ入り込み(奥東京湾)、
その海岸線には貝塚が見付かっている。
離山貝塚もその一つで、こんな深くまで海が入り込んでいたことになる。

そう言われてもピンとこないだろう。
想像の世界である。
かつてこの場所から広がる海が見え、
さざ波が響いていた。

潮の香りもしていたのだろう。
人々はシジミやハイガイ、カキやサザエを食しては、
その貝殻を捨てた。
いつかその貝殻が貴重な「資料」になるとは、
想像だにしなかったに違いない。

いまは見ることのできない古代の海を思い浮かべる。
かつて響いていたであろうさざ波や潮の香りを想像する。
マニアックな海を見る旅である。
しかし、一度ツボに入ったら癖になる。
ちょっと趣向を変えて、
古代の海にたたずんでもいいかもしれない。
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塾の“夏期講習”は夏の風物詩? ―はにゅう詩情―

2014年08月19日 | 民俗の部屋
夏休みの過ごし方の一つとして「塾」があった。
受験生の頃、通っていた塾では夏期講習があって、
ぼくにとってはハードスケジュールだった記憶がある。
学校の授業よりも机に向かってなければならないのだ。
勉強というより、修行に近かった気がする。

夏期講習だけの参加の同級生がいた。
普段はその塾に通ってはおらず、夏期講習だけ申し込んだという。
同じクラスでも部活でもなく、
ほとんど接点のない同級生と言葉が交わせるようになったのは、
夏期講習ならではだったと言える。

自然、他校の同級生とも面識ができる。
塾が一緒でなければ、出会うことはなかったであろう人たちだ。
学校の勉強が好きでも得意でもなかったぼくは、
塾の効用はそんなところにあったと思う。

夏期講習は、朝早くから夕方までみっちりお勉強である。
実質10日間くらいのスケジュールだったろうか。
具体的な日数は覚えていないが、
感覚としてはまるまる夏休みに講習へ行っていた気がする。

ささやかな楽しみと言えば、
塾が終わったあとに同級生たちと買い食いをすることくらいだ。
当時は近くにコンビニがあって、
そこがたまり場のようになっていた。
フロート、ポテト、アイスなどと、疲れた頭に糖分を流し込んだものである。

夏期講習はいまや風物詩の一つに数えられるかもしれない。
全ての人に当てはまるわけではないが、
書店へ行くと夏期講習の案内が並んでいるのを見掛ける。
学校でも講習があって、全く勉強しなくて過ごせるわけではない。
完全に自由よりは、ある程度の縛りがあった方が
夏休みに張りがあったと思う。

受験生にとっては、張りも何もないだろう。
学生が終わっても、試験勉強に追われる大人はたくさんいる。

ぼくが行っていた塾はいまもあって、歴史を刻んでいる。
今年も夏期講習はあったのだろう。
塾との接点はとんとなく、
専任講師になったという先生はいまでもいるのだろうか。

不思議なもので、当時講師に来ていた大学生が職場の先輩になっていたりする。
顔を合わせる同級生もいる。
塾の延長線上につながる縁がある。
あの夏、塾の窓から見上げた入道雲は、
いまも消えずに空高く昇っているのかもしれない。
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深夜に参拝する鶴岡八幡宮は? ―1人さんぽ―

2014年08月18日 | 歴史さんぽ部屋
夜の湘南に行った帰りに立ち寄った鶴岡八幡宮。
9時で境内の立ち入りは禁止だから、
ちょっと離れたところで参拝する。

さすがに観光客の姿はない。
時計を見ると、針は深夜零時近くを指している。
この時間帯に団体客がぞろぞろ歩いていたらちょっと恐いかもしれない。
ナイトツアーもいいところだ。

しかし、人の姿が全くないというわけではない。
参拝している人を何人か見掛けた。
さすがは鎌倉幕府の守護神。
現代でも心から崇拝している人は多いだろう。

永禄4年(1561)に、上杉謙信の関東管領譲渡式が行われたのも鶴岡八幡宮だ。
上杉家の名跡も継ぎ、長尾景虎から上杉政虎に名を改めた。
ここから上杉謙信の新たな幕が開く。

ちなみに、鶴岡八幡宮において、
忍城主成田長泰が謙信から打擲された事件は広く知られている。
馬から下り、拝賀の礼を尽くす関東諸将の中で、長泰だけは馬上で謙信を迎える。
それが成田家の最高の礼としたのだが、謙信はこれを許さない。
長泰を馬から引きずり下ろし、打擲したと伝えられる。

後世の創作と言われるエピソードだが、長泰が鶴岡八幡宮にいたことは確かだろう。
羽生城主広田直繁や木戸忠朝の姿もあった。
関東諸将が見守る中、鶴岡八幡宮で謙信は関東管領となったのだ。

かつて羽生城主がこの場にいたかと思うと感慨深い。
4百年以上も前の時代に想いを馳せる。
深夜零時に、夜闇に包まれる鶴岡八幡宮で……。
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ナスやキュウリの馬に乗って夏が帰る? ―はにゅう詩情―

2014年08月17日 | 民俗の部屋
道ばたに立てられたナスやキュウリで作った馬を見ると、
お盆が終わったことを実感する。

お盆が過ぎれば、夏休みも後半。
全力で遊ぶか、宿題に追われるか、
それとも勉学と遊びをバランス良く過ごすかは、
その人の性格によるのだろう。

先祖や新仏の霊を迎えたのならば、また送り出さなければならない。
ずっとそのまま家にいるわけではない。
送り出すのは8月15日や16日が多いが、決まっているわけではない。
8月の終わり前後に送るところもあるが、
それは仕事の関係でもあるようだ。

ナスやキュウリで馬を作り、道ばたに置く。
先祖たちはそれに乗って帰るという。
家によっては、墓地へ持っていって埋めたり、川に流したりする。
盆棚に飾ったものを墓地で燃やす家もあるが、
これは時代と共に難しくなっているかもしれない。

先祖たちを送った翌日は休みとされ、ボンガラ、オサイニチなどと言った。
就いた仕事にもよるだろうが、
農業を営む家が多かった時代は、
この日は女性ものんびり休んでいたらしい。
とは言っても、落ち着かなかったかもしれないが……

お盆は一つの境界で、この期間を過ぎると秋の気配が強くなっていく気がする。
むろん、暑いは続いているのだが、
早いところだと稲刈りが始まっているし、
カブトムシの姿も見掛けなくなっていく。
ナスやキュウリの馬で去っていくのは先祖たちの霊だけでなく、
夏も一緒なのかもしれない。
コメント (1)
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