クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

料理人が熱いと言っちゃダメ? ―コトノハ―

2014年05月31日 | コトノハ
 どんなに熱くても、料理人が「熱い」と言っちゃ駄目なんだよ。

群馬にあるラーメン屋さんで偶然耳にしたコトノハ。
カウンター席に座っていたとき、
厨房から聞こえてきた。

おそらく入って間もない新人だったのだろう。
料理か鍋に手が触れて、思わず「熱い」と口にしたらしい。
そのとき貫禄ある先輩が、
「料理人が『熱い』と言っちゃ駄目なんだよ」と諭したのだ。
最後に「わかった?」と添えた言葉も貫禄が滲み出ていた。

料理人としての誇り、仕事に対する姿勢のようなものが感じられるコトノハだったと思う。
きっと誠実な人なのだろう。
新人が、バイトか見習いなのかは不明だが、
人生の道しるべになるような箴言を日々先輩から貰っているに違いない。

その店のラーメンはいつもおいしい。
その日食べたラーメンは、格別おいしく感じられたのは、
コトノハのスパイスが効いていたからかもしれない。
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介入する織田信長の勢力に従属する? ―武州騎西城(24)―

2014年05月30日 | 城・館の部屋
天正10年(1582)に新たな勢力が関東に到来する。
それは、織田信長の勢力である。
同年3月に武田氏を滅亡させた信長は、
その領地を重臣と徳川家康に分け与えた。

上州へやってきたのは織田家重臣“滝川一益”である。
最初、箕輪城に入ったが、厩橋城に移り、そこを拠点とした。
関東における独立政権を目指す後北条氏にとって、
織田家の介入は喜ばしいものではなかったが、
ひとまず従順な態度に出る。

後北条氏に従属する国衆たちも同様だった。
『北条記』によると、国衆たちは人質を滝川一益に渡し、
二心なきことを示したという。
その中に、忍城主成田氏長の姿もあった。
織田勢力の介入も時代の流れであり、
氏長もそれに従ったのだろう。

ところが、同年6月2日に本能寺の変が起こる。
信長は明智光秀に攻め込まれ、野望半ばにして自刃を余儀なくされる。
この事件の知らせはすぐに関東にも届く。
それまで従属の意を示していた北条氏政だったが、
上州へと兵を進めた。
信長の死を機に織田勢力を排し、
独立政権の野望を再び燃え上がらせたのである。

6月18日、神流川にて北条勢と滝川勢は衝突。
成田氏長も軍勢を率いて参陣した。
その中に、騎西城主成田泰喬もいただろう。
泰喬は領民たちを引き連れて、兄氏長のもとへ加勢したに違いない。

18日の戦いは北条方の敗北で終わる。
織田勢の実力を示したが、これで戦いは終わらなかった。
翌19日も神流川で両勢は衝突し、
北条勢は巻き返しを図ったのである。

 太刀ノ鍔音、矢サケビノ声、鉄炮ノ音、天地ヲ響シ
 サシモニ広キ武蔵野ニアマル計ゾ聞エケル

と、『北条記』はその激戦ぶりを記している。
その中で、成田氏長や泰喬も奮戦したのだろう。
『成田記』には、「成田左衛門尉泰親」の名が見える。
武蔵武士の武を示したのかもしれない。

北条方の勢いに押され、滝川一益はついに退却を余儀なくされた。
これが世に言う“神流川の戦い”である。
一益の退去と共に、織田勢力も関東から去ることになる。
以後、織田政権が関東に介入することは二度となくなった。

滝川一益や北条氏政、国衆たちにとっても、
信長の死は晴天の霹靂だっただろう。
成田氏長と泰喬は、どのような気持ちで受け止めただろうか。
織田勢力の介入からまだ日が浅かったため、さほど実感は湧かなかったかもしれない。

しかし、信長の死によって、
戦乱の行方が不透明になったことは間違いない。
氏長や泰喬は生き残りをかけて、
情勢を冷静に見極める態度を崩すことはなかった。
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羽生の「火の道 陶心会創作展」を見に行きませんか?

2014年05月29日 | お知らせ・イベント部屋
現在、郷土資料館において「火の道 陶心会創作展」が開催中である。
陶芸作品を中心に、絵画や写真など約60点が展示されたもの。
力作揃いである。
作品一つ一つにぬくもりが感じられる。

6月1日(日)までの開催だ。
開館時間は午前9時~午後5時まで。
“陶心会”が主催で、
後援は羽生市美術連盟と羽生市教育委員会。
夏のはじめに、熱さ溢れる芸術作品に触れてみてはいかがだろうか。

※羽生市立図書館・郷土資料館HP
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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小田助三郎の死後、騎西城の新たな城主は? ―武州騎西城(23)―

2014年05月28日 | 城・館の部屋
天正2年(1574)閏11月に羽生城が自落し、
武蔵国は後北条氏によって平定された。
羽生領は忍城主成田氏に接収され、
利根川を挟んで上杉氏と後北条氏が激しく衝突することはなくなった。

羽生城が自落し、関宿城を開城させた後北条氏は北へ勢力を伸ばす。
北条氏政は祇園城を攻め、これを攻略。
忍城や騎西城は合戦の前線から離れられたが、
国衆たちは北条氏へ軍事的協力をすると共に、
戦いに必要な物資を送る役割を担っていたと思われる。

関東の支配体制は、
古河公方を筆頭に、関東管領がそれを補佐するという構造がある。
しかし、上杉謙信と後北条氏の戦いの中で、
その体制に矛盾が生じ始め、肩書きは名ばかりとなっていった。

越相同盟の成立により、関東管領は上杉謙信と正式に決められたはずだった。
しかし同盟は決裂し、謙信は天正6年に死去。
その後、誰も関東管領に就任していない。

古河公方足利義氏は謙信亡きあとも健在であり、古河御所に在住していた。
とはいえ、宿老であった簗田氏は関宿城を北条氏政に明け渡し、
水海城へ移っている。

その簗田氏に取って代わる存在が北条氏照だった。
氏政の弟であり、北条家きっての実力者である。
この氏照は、古河公方権力を包摂する。
公方を奉って関東支配を行うのではない。
建て前はそうでも、実質的には公方と同等、
あるいはそれ以上の力を持つようになっていた。
いわば、傀儡と言っていい。
後北条氏は、いつしか「古河公方-関東管領」の枠を越えた存在になっていたのだ。

それでも、足利義氏は「公方さま」である。
国衆たちは年が明けると、古河公方に献上する品物と共に参上し、
年頭のあいさつをした。
その国衆たちの中に、「小田大炊頭」の姿もあった。

小田大炊頭は、騎西城主小田助三郎と比定される。
天正5年(1577)、小田氏は「壱荷三種」を公方に進上。
ちなみに、本城にあたる忍城の成田氏は、
「御太刀一腰一荷五種」を進上している(「喜連川文書案」)。

小田大炊頭の名は天正8年(1580)まで確認できる。
この者が小田助三郎本人だとすれば、
天正8年まで騎西城主として在城していたことになるだろうか。

しかし、この辺りがはっきりしない。
小田助三郎の次に城主となるのは“成田泰喬(泰親)”である。
泰喬は天正4年に家臣の福田幸十郎に領地を宛っており、
助三郎がいつ没したのかも不明だ。

泰喬は成田氏長の弟ということになっている。
助三郎には子がいなかったのだろうか。
それとも、成田氏の政治的意図によるものだろうか。
泰喬が騎西城主となり、忍城の支城の一つとして機能していく。
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雪の日にカエルの声を聞く? ―はにゅう萌え―

2014年05月27日 | はにゅう萌え
いま住んでいる場所は住宅が密集しているのだが、
風の流れによってカエルの鳴き声が聞こえてくる。
気持ちがいい。
もっと聞いていたい。

気が付けば、もう冬の寒さはなくなっている。
この冬は、ヒーターを使わずに越してしまった。
暖房を付けたのも数えるほど。
よく冬が越せたと思う。
北埼玉は寒いと都内の人から言われるが、
さほど大したものではないのかもしれない。

夏を思わせる暑さの日、
あの雪は何だったのだろうと思う。
喉元過ぎれば熱さ忘れじなのか、
雪の日の寒さをもう忘れつつある。

雪化粧した町の写真を見ると、まるで別世界だ。
つい数ヶ月前に目にした光景なのに、
全く知らない町を見るかのような感覚を覚える。

ちなみに、上の写真は羽生郵便局近くの光景。
さすがに車通りは少なかったが、皆無ではなかったのを覚えている。

雪の日、逆にカエルやセミの声を聞くと、激しい違和感を覚えるのだろう。
それぞれの季節の風景、音、風の香り……。
環境の変化に伴い、自然界にも異変が起きているという。
そう遠くはない将来、
冬にカエルの声を聞く日が来るのだろうか……
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上杉謙信は2度騎西城を攻める? ―武州騎西城(22)―

2014年05月26日 | 城・館の部屋
天正2年(1574)冬、騎西城は再び上杉謙信の攻撃を受ける。
永禄6年以来の来襲である。

その年の春に羽生城救援に失敗し、
あまつさえ兵粮弾薬を北条方に奪われた謙信は、
再び兵を関東に向けた。
危機に瀕す羽生・関宿両城を救援するためだったが、
この頃謙信の胸中に「関東経略」の心はあっただろうか。

関東国衆たちの多くは、すでに謙信から心が離れている。
しかし、反北条の国衆からの出陣要請を完全に無視することもできない。
もはや、関東経略は難しい。
とはいえ、完全に頓挫したわけでもない。
関東管領としての政治的指針は微妙に揺れていたと思われる。

関東に入った謙信は、怒濤の如く北条方の城に攻め入る。
鉢形城、松山城、忍城、深谷城に攻め寄せ、
ことごとく城下まで焼き払う。
さらに、金山城、足利城、唐沢山城など城々へ進攻。
容赦なく火を放った。

まるで、これまでの恨みを晴らすがごとくの勢いである。
従属と離反を繰り返し、謙信を翻弄させた国衆たち。
謙信の出陣を望んだのは国衆でありながら、
拒んだのも国衆だった。
戦国大名同士の戦いに国衆が翻弄されたのではない。
国衆たちが戦国大名を右往左往させたと言える。

騎西城が上杉勢の攻撃を受けたのは、
謙信が怒濤の如く諸城を攻め寄せた流れの一つである。
小山で佐竹義重と会談し、
別々に行動をすることとなった謙信は、
古河城、栗橋城、館林城を押し通って、
再び利根川を渡河。
そして騎西城へ攻め寄せたのだ。

城兵をはじめ領民たちは、
否応なく永禄6年の上杉勢の猛攻を思い出しただろう。
史書によれば、騎西城に籠もる「男女三千余人」を撫で斬りにした上杉勢である。
泣く子も黙ったに違いない。

天正2年の謙信の攻撃がどのようなものだったのか、
詳細は知れない。
「悉武州敵地放火」と謙信自身が述べているように(「名将之消息録」)、
おそらく本格的な城攻めではなく、城下に火を放ったのだろう。
ほかの諸城も同様である。
「放火」「押通」とはあるが、落城はしていない。

しかも、城門は堅く閉まり、城兵が外に出てくることもない。
どこかで北条勢と出くわし、野戦になることもない。
隠れているわけでもあるまいに、と謙信は述べている(同書)。

再び上杉勢の来襲を受けた騎西城だったが、落城はしなかった。
永禄6年の合戦のごとく、城兵が撫で斬りになることもなかっただろう。
城に籠もり、ひたすら嵐が去るのを待っていたのである。
謙信も長く留まることはせず、
次の北条方の城へと陣を進めるのだった。

結局、謙信は戦果を上げることなく越後へ引き上げることになる。
いや、むしろ苦杯をなめさせられた気持ちだっただろう。
味方の佐竹義重が謙信から離反。
あまつさえ、関宿城を開城させてしまったのだ。
後北条氏が喉から手が出るほど欲していた城だ。
北条氏政は宿願を果たしたことになる。

また、同じ頃に羽生城が自落。
維持を望めないと判断した謙信が、城兵を引き取り、城の破却を命じたのだ。
これにより武州は平定した。

上杉謙信と後北条氏の対決は、
これによって一区切りがついたと言っていい。
謙信は天正5年(1577)に越山をするが、武州にまで進攻することはなかった。
そして、関東出陣の陣触れを出しながらも、
天正6年3月13日に息を引き取るのである。
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昭和45年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年05月25日 | 子どもの部屋
 5月、埼玉県羽生勤労婦人ホームが完成。市立養護老人ホーム「清和園」が完成
 6月、市観光協会が発足
 10月、国勢調査で羽生市の人口は4万5001人となる

日本万国博覧会が開幕したのは、昭和45年3月14日のことだ。
大阪で開幕されたこの万博には、6400万人以上もの人が殺到したという。
岡本太郎作の「太陽の塔」は、この万博を象徴するものだ。
まだこの年に生まれてなかったぼくらも、
太陽の塔を見ると万博のお祭り騒ぎを体感できる気がする。

ところで、明治時代に日本での万博開催を主張した“清水卯三郎”がいる。
羽生出身の商人だが、パリの万博で近代文明を目の当たりにした卯三郎は、
日本が外国に並ぶためには国民が多くの文化に触れなくてはいけないとし、
万博開幕の建白書を政府に提出したのだった。
しかし、この願いが叶うことはなく、ボツとなった。
卯三郎は明治43年に他界したが、昭和45年の万博を目の当たりにしたら、
どんな気持ちになっただろう…。
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騎西城周辺は再び戦場と化す? ―武州騎西城(21)―

2014年05月24日 | 城・館の部屋
越相同盟が決裂し、騎西城周辺も騒がしくなってきた。
武蔵国で上杉謙信に属すのは、深谷城と羽生城だけとなっていた。
そのため、北条氏照は深谷城や羽生城を攻める。
一方で、成田氏長は羽生勢と一戦交えた。

氏長は羽生勢を討ち散らしたらしい。
その知らせを聞いた氏照は、「可為喜悦候」と述べている(「吉羽文書」)。
この戦いの詳細は不明だが、
騎西城主小田氏も参陣していたかもしれない。

北条氏政も自ら出陣し、忍と羽生の間に位置する「小松」に着陣。
天文5年(1536)に羽生城主が奉納した三宝荒神御正体を、
戦利品として奪取した。

なお、岩付城代となった北条氏繁も羽生城攻めを開始。
「赤木」まで進軍し、翌日は羽生城を打ち散ずつもりだから、
案内者を寄越すと共に、羽生領の境目を教えて欲しいと、
鷲宮神社の神主に書き送っている(「結城寺文書」)
かつて、「木戸宮内少輔」に攻め落とされた粟原城(鷲宮城)だったが、
この頃はすでに北条方となっていたらしい。

こうした北条勢の動きの中で、深谷城は謙信から離反した。
上杉方では耐えきることができないと判断してのことだろう。
そもそも城主上杉憲盛は、
越相同盟のときに羽生城主から説得されて謙信に付いた国衆だ。
北条方に付くのはこれが初めてというわけではない。

深谷城の上杉離反により、後北条氏の武蔵平定は王手をかけた。
残すところは羽生城のみである。
天正2年(1574)の春、謙信は羽生城を救援すべく春日山城を出立。
関東に入った。

ところが、雪解け水で増水した利根川が、上杉勢の行く手を阻む。
謙信は大輪に陣を敷き、しばらく様子を見たが水が引く気配はない。
そこで、せめて兵粮弾薬だけでも羽生城に運び込もうとする。
しかし、北条方に見付かり、これをまんまと奪われてしまうのである。

騎西城主小田氏も、このような上杉勢の動きに一喜一憂していたのではないか。
利根川の対岸で上杉勢を監視する北条方の中に、
小田氏もその場にいたかもしれない。

結局、上杉勢は羽生城救援に失敗したまま撤退。
帰国を余儀なくされた。
なお、このとき北条氏繁が羽生城へ進軍したところ、
花崎城は自落している。
粟原城が北条方となっても、
花崎城は羽生支城の一つとして機能していたことが窺える。

上杉謙信という嵐は一旦去ったかのように思われた。
しかし、同じ年の秋に再び到来する。
まるで春の鬱憤を晴らすがごとくに……。

※最初の写真は羽生城址(埼玉県羽生市)
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よく行く店にはどんな音楽が流れている? ―ラーメン部―

2014年05月23日 | グルメ部屋
よく行く店に音楽は流れているだろうか。
テレビやラジオが音楽代わりにかかっている店もある。

かつてぼくがバイトしていた店では、
常に有線が流れていた。
歌謡曲がほとんどだったが、
ときどき演歌も流れていた気がする。
もっとも、裏方だったから聞く機会は少なかったが……

よく行くラーメン屋さんは、いつもサンバの曲が流れている。
店主の好みなのだろうか。
それとも楽しくラーメンを食べてくださいという意図なのだろうか。
理由はわからないが、サンバではない曲が流れていることは一度もない。

そのせいだろうか。
店の外でサンバの曲を聞くと、そのラーメン屋さんが思い浮かぶようになった。
サンバのその店が直結しているのだ。
そして、店へ行きたくなる。
その店のラーメンを食べたくなる。
まるでパブロフの犬である。
もしかすると、それが店の狙いでもあるのだろうか。

ちなみに、よく行くパスタ屋さんも、イタリア風の音楽が流れている。
いつも同じ音楽なのだが、味と同じで不思議と飽きが来ない。
そんなBGMを選んでいるのかもしれない。

ところが、あるとき日本バンドの曲がずっと流れていたことがあった。
歌詞の付いた歌が流れている。
かなり人気のあるバンドでぼく自身嫌いではないのだが、
そのときだけは違和感を覚えざるを得なかった。
違和感すぎて耳障りですらあった。

店は独自の雰囲気を持っている。
それがそのバンドの曲ですっかり払拭されていた。
全く知らない店のような気がしたし、
味もいつもと違って感じられたくらいだ。

聴覚も大事である。
食事は味覚と同時に聴覚でも味わっているのだろう。
いつもテレビを見ながら食事している人は、
試しに消してみると、雰囲気や味が違って感じられるはずだ。
たぶん、落ち着かない。

無論、音楽をかけない店もある。
それは店の一つの演出でもあるのだろう。
ぼくはどちらでも構わない。
外食はある意味刹那的だ。

一方、家庭の食事は「刹那的」とは言えない。
食事中にどうしてもテレビや音楽を流したい人は、
その価値観に似た相手を選んだ方が無難だろう。
ぼくは「どちらでも」派なのだが、
あるジャンルの番組が流れると生理的に消してしまう。
よく行く店にそのジャンルのテレビやラジオがつき始めたら、
次第に足が遠ざかるのかもしれない……
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越相同盟の成立と破綻に振り回される? ―武州騎西城(20)―

2014年05月22日 | 城・館の部屋
武田信玄の駿河進攻により、
武田氏、後北条氏、今川氏の間で結ばれていた三国同盟は決裂した。
信玄の対応に迫られた北条氏康は、
これまで敵対していた上杉謙信と同盟を結ぶ動きに出る。

最初はその気を見せなかった謙信だったが、
関東の情勢が決定的に不利だったせいもあり、
結局は氏康と同盟を結ぶことになる。
「越相一和」こと“越相同盟”である。

この同盟によって、これまで対立していた事項が協議され、
一定の方針が定められた。
すなわち、古河公方を足利義氏とすること、
関東管領を謙信とすること、
最後に領地問題である。

謙信としては、初めて関東にやってきた当時の勢力を取り戻したかったらしい。
氏康にとってそれは受け入れがたいものだったが、
信玄の脅威が迫っていたためしぶしぶ承諾する。
その中に、忍領も含まれていた。
岩付、松山、深谷、羽生、関宿など、
領土割譲を認め、氏康はだいぶ譲歩したことになる。

この同盟により、忍城主成田氏は自ずと上杉方の国衆となった。
騎西城主小田氏も同じく上杉氏に従属。
激しく敵対していた謙信と氏康が手を結ぶなど、
それまで想像したことがあっただろうか。

しかし、領土割譲はあくまでも戦国大名同士の取り決めである。
国衆たちが皆同意したわけではない。
だから、その方針に従う姿勢を見せながらも、
心が全く離れていたとしてもおかしくはなかった。
それに、今回の同盟に反対する国衆は当然のごとくいたわけであり、
その不満を利用して武田信玄が己に属すよう働きかけてもいた。

成田氏長の態度は曖昧だったらしい。
あからさまに謙信に反抗するわけではないが、
素直に従順する様子でもなかった。

氏長は時勢を見つめ、この同盟が長く続かないことを感じていたのかもしれない。
あるいは、支城の騎西城に猛攻をかけ、
「男女三千」を撫で斬りにした謙信に心を寄せることなどできなかったのだろうか。

謙信も氏長を警戒していた。
信玄への内通を阻止するべく、
成田氏と上田氏から人質を取るべきであると述べている(「上杉家文書」)。

上杉氏と後北条氏は同盟者同士となったが、
謙信は氏康の出陣要請に応えようとしなかった。
武田信玄は武蔵国に進攻。
諸城を攻撃し、後北条氏の本拠小田原城にも迫る。

後北条氏が本拠地の進攻を許すのはこれで二度目である。
氏康は上杉家の軍事力を期待して同盟を結んだわけだが、
易々と小田原城を攻め込まれ、これでは何のための同盟か。
小田原城が落城することはなかった。
しかし、出陣要請に応えようとしない謙信に疑念を抱いただろう。

結局、越相同盟はすぐに破綻することとなる。
永禄12年(1569)に成立したこの同盟は、
氏康の遺言により元亀2年(1571)に破綻。
氏康は死の間際、謙信を切って再び信玄と手を結ぶよう氏政に述べたという。

越相同盟の決裂により、領土割譲の取り決めは白紙に戻った。
国衆のほとんどは後北条氏に従属。
「関東管領」とはいえ、それはただの肩書きでしかなかった。
成田氏と小田氏も、当然のごとく謙信から離れるのだった。

※写真は小田原城址(神奈川県小田原市)
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羽生の新郷に“デイダラボッチ”がやってきた?

2014年05月21日 | 奇談・昔語りの部屋
羽生市上新郷に「五十ケ谷戸」と名の付く橋が架かっている。
これで“いかがやと”と読む。
これと同じ地名があり、橋の名前もそれにちなんだのだろう。

実は、五十ケ谷戸にはデイダラボッチ(巨人)伝説がある。
新郷が伝えるデイダラボッチは天狗らしい。
あるとき、デイダラボッチは板倉までやってきて、
利根川をひと跨ぎして羽生の地に足をつける。
その場所が五十ケ谷戸だった。

もう片方の足を上げたとき、一本歯の下駄に泥が付いてしまう。
そこでデイダラボッチは指で泥をつまんでひょいと投げる。
その泥が、行田の浅間さまの山になったという。

浅間さまの山とは古墳のことだろう。
さきたま古墳群内のものか、
それとも羽生・行田市域の境にある古墳なのかは定かではない。
まさかデイダラボッチが造った山だったとは……
と、純粋に信じてみたい。
さらに空想を膨らませるなら、
そのとき飛び跳ねた土が新郷の「百塚」を造り上げたのではないか、と……

ちなみに、五十ケ谷戸はデイダラボッチの足跡が残り、
そこには池ができたという。
その池をみんな「デイダラボッチ」と呼んだとか。
果たしてデイダラボッチはどこへ行ったのか?
その行き先は誰も知らない。


埼玉県羽生市上新郷


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忍城内でクーデターが起こった? ―武州騎西城(19)―

2014年05月20日 | 城・館の部屋
永禄9年(1566)、忍城内で事件が起こった。
成田長泰の追放である。

『成田記』や『鎌倉九代後記』によると、
長泰が城外で「遊興」に耽っているとき、
嫡男の氏長が城門を閉め、そのまま追放してしまったという。
突然のクーデターである。

忍城からの退去という意味では同じ内容だが、
『武家事紀』には、長泰の武勇ぶりが描かれている。
追放されたと知った長泰が、城を奪い返しに来るのだ。

槍を口にくわえ、馬で駆ける長泰。
その勢いで城内に入ると、
城を守る剛の者を追い返した。
氏長を亡き者にしようとしたが、ふと思い直す。
ここで嫡男を殺せば、
忍領は後北条氏に何かと理由を付けられて奪われてしまうだろう。
どうせ奪われるならば、成田家の血の流れる氏長の方がいい。
かくして長泰は剃髪し、家督を氏長に譲った、という内容である。

なお、『武家事紀』には、「小田伊賀守」の名が登場する。
小田氏は氏長側に付き、長泰追放に加担したというのだ。
小田伊賀守は小田助三郎と比定できるが、
『武家事紀』の記述をどこまで信用していていいのか慎重にならざるを得ない。

上記の史書は、いずれも長泰を追放したことで、
家督を氏長に譲ったと述べている。
つまり、氏長のクーデターは、跡目相続が起因しているのだ。
しかし、実際に家督が氏長に譲られたのは、もっと早い時期だったのかもしれない。
だとするならば、長泰を追放したのは別の理由ということになる。

これは憶測ではあるが、
政治的意見の対立によるものと推測できる。
上杉氏に付くか、それとも後北条氏に従属するか?
今後の進退を巡って、親子で火花を散らすようになったのだろうか。

いずれにせよ、忍城内で「騒動」はあったらしい。
子が父を追放するなど、戦国乱世では珍しくない。
近くでは、太田資正が子の氏資に追放されたばかりである。
資正は岩付城奪還に残りの生涯を費やすことになるが、
成田家では親子は和解に至る。

長泰は剃髪し、「蘆伯斎」と名を改めた。
そして、忍城を出て龍淵寺に閑居し、
禅法を修行したと『成田記』は伝えている。
なお、同寺で亡くなり、葬儀もそこで営まれたのか、
境内には長泰の墓碑が建っている。
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埼玉で戦国時代の文書が展示されている?

2014年05月19日 | お知らせ・イベント部屋
埼玉県立文書館で、「中世文書の世界Ⅱ ―戦国時代の文書―」が開催されている。
中世の北武蔵における古文書が展示されており、
この時代や史料に関心のある人には胸アツな内容だろう。
展示構成は以下のとおり。

Ⅰ 関東管領上杉氏
Ⅱ 安保文書の世界
Ⅲ 埼玉で活躍した戦国武将たち
Ⅳ 書写された古文書

展示室はさほど広くはないから、
もしぶらっと見るだけなら10分もかからないと思う。
しかし、じっくり見入ったら10分どころではない。
ぼく個人としては、1度展示を廻り、
別の場所で頭を冷やしてもう一度じっくり見たい。

この展示は6月1日(日)まで開催している。
ただし、特別整理期間の5月12日~19日は閉館。
詳しくは、埼玉県立文書館のホームーページに掲載されている。
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南方用水路沿いの道を上る? ―1人さんぽ―

2014年05月18日 | 歴史さんぽ部屋
「子ども学芸員(23)」にも書いたが、
郷土史に興味を持った頃、
町を散策することは冒険に似ていた。
どこに何があり、どんなものに遭遇するのかワクワクしてならなかった。

人知れずたたずむ石仏やお堂。
鬱蒼とした樹木に覆われた館跡や古墳など、
偶然出会うものもあれば、本で知って足を運ぶこともあった。

新しい知見を得られれば、すぐにその場所へ飛んでいく。
行けば、大なり小なり別の発見があるものだ。
それをきっかけに、さらに新しい知見を得る。

その繰り返しは刺激的で、興奮の何ものでもなかった。
「そんなの勉強して何になるの?」と言われることもあったし、
自分自身、暗中模索していた頃に全く思わないわけではなかったが、
結局のところすっかりはまりこんでしまった。

「冒険」の一つに、川・用水路沿いを行くコースがある。
身近な用水路でもよし。
前から気になっている川でもよし。
その川に沿ってどんどん走っていくのだ。

上るか下るかはその目的にもよるだろう。
羽生の用水路の場合、北に利根川が流れているため、
上るコースは短い傾向にある。
逆に下りは長い。
だから、ちょっとしたミニ散策の場合は、
上りのコースがちょうどいいと思う。

南方用水路を上ったときもそうだった。
日曜の夕方にぶらりと自転車で出掛け、
取水口に着いたのは日が暮れる前だった。

南方用水路は幼い頃から親しんでいた用水路で、
どこから流れ、どこに行き着くのかかねてから興味を抱いていた。
出掛けたとき、携帯したのは財布と小さな地図くらいで、
ほとんど手ぶらと言っていい。
気分としても、近所のコンビニへ行くような感覚だった。

しかし、これが思いのほか楽しかったのを覚えている。
用水路沿いに位置していたのは、
健福寺の霊園や鳥居がたくさん並ぶ堂城稲荷神社。
鬱蒼とした樹木を背負う御霊神社や医王寺、
少し遠くに見えた小松神社など、宗教施設が点在していた。

南方用水路は、子どもでも飛び越えるのが容易なほどの小さな川だ。
何か目を見張るほどの特色があるわけではない。
現在は整備され、川沿いに柵が建っているし、
その脇の道もおおよそが舗装されている(通れない箇所もある)。

しかし、その周囲には初めて目にするものが多かった。
霊園などは、そこが墓地だとは知らずに入り、ぎょっとしたものだ。
プラスチック工場があったり、偶然馬を見ることができたりと、
住み慣れた町なのに、知らない場所に来たような感覚がした。

ワクワクしながら自転車を走らせ、途中目にしたところへ寄り道をする。
距離にすれば大したものではなく、
道沿いを走っていることよりも、寄り道時間の方が長かったかもしれない。

だから、取水口に付いたときは、
冒険が終わってしまった気がして少し寂しかった。
もっと辿ろうとすれば、利根川の上流へ向かうことになる。
大水上山へ行くとなると、自転車でぶらりというわけにはいかない。

ただ、そのとき出会ったものを後日調べてみると、
実は興味深い逸話が伝わっていたり、偉人が眠っていたりと、
思いのほか広がりを見せていた。
その後は用水路沿いの散策ではなく、
ピンポイントで足を運んだことは言うまでもない。
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騎西城の軍事力は忍城に組み込まれている? ―武州騎西城(18)―

2014年05月17日 | 城・館の部屋
永禄9年(1566)、謙信は関東国衆に軍役を定めた。
騎西城近隣だと、以下の通りである。

 佐野代官       二百騎
 横瀬         三百キ
 長尾但馬守      百キ
 成田         二百キ
 広田         五十キ
 木戸         五十キ
 梁田         百キ
 富岡主税助      三十キ

騎西城にとって本城にあたる忍城は、2百騎の軍役が定められている。
金山城主横瀬氏(由良氏)に次いでかなり大きな数である。
羽生城と皿尾城は50騎ずつ、
関宿城は100騎であり、小泉城は30騎という数になっている。
当時の各国衆の軍事力を見る上で参考になる資料である。

しかし、騎西城の小田氏は記されていない。
おそらくこれは、「成田 二百キ」の中に組み込まれているからだろう。
だとしても、「二百キ」の内、小田氏がその何割を占めているのかは不明である。

永禄9年は、謙信にとって転機となった年と言える。
臼井城攻略に失敗すると、関東国衆は一気に離れていくからだ。
その中に、成田氏の姿もあった。
永禄6年に上杉氏へ従属した成田氏だったが、
これを機に離反。
再び北条方に付いた。
(永禄9年)閏8月25日付で、北条氏照は正木時忠に宛てて次のように報告する。

 一東口之事、始宇都宮・両皆川・新田、当方江申寄、就中、成田事、我々刷ヲ以、
 時宜落着、今明之内以代官、可申由候、可御心安候
 (「早稲田大学図書館所蔵文書」) 

騎西城主小田氏も同様に上杉氏から離反。
「成田 二百キ」は、そのまま後北条氏の軍事力へ移ったことになる。
北武蔵で独自の勢力を形成する成田氏の離反は、
謙信にとっても痛手だった。

さらに、追い打ちをかける出来事が起こる。
上杉氏の関東経略の拠点となっていた厩橋城主北条高広が謙信から離反するのである。
これは、謙信にとって精神的ダメージを伴っただろう。

あまつさえ、武田信玄が長野氏の箕輪城を攻略。
箕輪城は西上州の拠点だった城である。
この城の陥落により、信玄による西上州経略は果たされ、
謙信の関東経略は完全に頓挫したと言っていい。

このまま上杉氏が関東から完全に撤退すれば、
騎西城は再び進攻を受けずに済んだだろう。
単純に考えれば、忍城は北条方に従属しながらも政治的自立権を保ち、
天正18年に豊臣秀吉が小田原征伐へ出陣するまで、
着々と領地経営に勤しんでいたかもしれない。
無論、戦さがなくなるわけではないが、
領民たちは謙信という嵐に怯えずに済んだかもしれない。

しかし、時代の流れはそう単純ではなかった。
歴史は偶然の連続のようで、必然だ。

北条氏と同盟を組んでいた武田信玄が、突如これを破棄してしまう。
駿河へ進攻し、独自の動きを見せるようになったのである。
追い込まれた北条氏康は、
敵対していた謙信と同盟を組むという離れ技をやってのける。
領民にとって吹いていた風が百八十度変わった瞬間だった。

まさかの武田信玄の同盟決裂(三国同盟決裂)。
そして、まさかの上杉氏と北条氏の同盟成立(越相同盟の成立)。
「まさかの」とはいえ、その裏には多くの政治的意図があったはずである。
歴史の表面には出てこない思惑や構想が渦巻いている。
それゆえ、意外に見える信玄や氏康の行動も、
「必然」と言えるだろう。

※写真は臼井城址(千葉県佐倉市)
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