クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生イオン”のあとに羽生城へ行くと……

2007年10月31日 | お知らせ・イベント部屋
事件――である。
2007年10月30日にソフトオープンした羽生イオンこと“イオンモール羽生”。
現在のところ国内最大規模であり、
確実に羽生史に残る出来事でしょう。

ずっと先まで広がっていた田園風景にはイオンの建物がそびえ立ち、
周囲は5000台を収納する駐車場に変わりました。
実際に中に入ってみると、長年この町にいる人間ならば、
本当にここが羽生なのかと目を疑ってしまうほど明るくて賑やかです。
どこを歩いても店、店、店。
そして人、人、人……。
羽生が最も賑わう夏祭りでも、これほどの人はいないかもしれません。
いわば、夏祭りが毎日イオンで行われているようなもの。



数ある店舗の中で、おそらく関心が高かったのは映画館だったと思います。
かつて羽生市には映画館がありましたが、
平成に入ってからは初めての参入です。
3階の西に所在。
いまCMでしばしば流れている「バイオハザードⅢ」のポスターも貼られていました。
(かつて羽生にあった映画館は「羽生城を訪ねたら……(42)」2007.6.17参照)

ところで、羽生イオンに初めて足を運んで最も新鮮だったのは、
その人の多さと賑やかさではありません。
その逆の羽生の静けさです。
モールを出て少しそこから離れると、
見慣れた羽生の景色が広がります。
稲刈りが終わった田んぼがあり、
交通量のまばらな道が続き……。

――ああ、羽生ってこんなに静かだったんだ。
光が強いほど影が濃くなるように、
イオンの喧騒のあとではいつもの羽生がやけに静かに感じられました。
東京通いをしていたって、こんな静けさは実感しません。
そのギャップがおかしくて、イオンから“羽生城”(東5丁目)へ直行。
自転車でおよそ20分ほどの距離の羽生城跡は、
夜の静寂(しじま)に包まれていました。
いつもと変わらないのに何かが違う……。
そんな違和感さえ感じさせます。

羽生イオンのグランドオープンは11月2日(金)。
オープニングセレモニーには、
市の民俗無形文化財に指定されている獅子舞(下手子林)も出演する予定です。
羽生史に残る事件がいま市内川崎地区で起こっています。


羽生イオン正面の駐車場です。
かつての田園風景とは違い昼間のような明るさで……


羽生城の天神曲輪に鎮座する東谷天神社(東5丁目)です。
ここが本丸跡ではありませんが、羽生城址碑が建っています(遺構はなし)。
羽生市役所のすぐ近くであり、
興味のある方はイオンから北の地域へも足をお運び下さい。
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狭間の花崎城(15) ―子ども昔語り(95)―

2007年10月31日 | 子どもの部屋
干戈(かんか)を交える武田と北条。
永禄12年(1569)10月1日には、“武田信玄”は北条の本拠小田原城を直接攻めました。
この武田に対するため、北条は敵対していた“上杉謙信”と和睦し、
越相同盟を成立させます。
北条は謙信に何度も出陣要請を出しましたが、
その反応はいまいちよくありません。
両者は次第に不穏な空気に包まれていきました。

明けて永禄(元亀)13年2月、上杉謙信は羽生城主“広田直繁”に、
館林城(群馬県館林)の領地を与える宛行状(あてがいじょう)を発行します。
関東の諸将が従属と裏切りを繰り返す中で、
謙信に忠節を尽くし、先の佐野城攻めでも真っ先に駆けつけた直繁に、
館林城を与えようとしたものでした。

この直繁の移城によって、
新しく羽生城主に就いたのはその弟の“木戸忠朝(きどただとも)”です。
忠朝はそれまで皿尾城(埼玉県行田)にて長年忍城主成田氏を監視していたのですが、
越相同盟が成立したことによって、皿尾城を成田氏に返却したのです。
2人の兄弟は終始一貫して上杉方に属す武将であり、
謙信は皿尾―羽生体制から、館林―羽生体制として、
新たに彼らを組み込ませようとしたのでしょう。

そして、おそらくこのとき廃城同然だった“花崎城”に注目し、
のちにそこを羽生城の支城とします。
城を整備し、城兵を配置。
鷲宮社領は北条に属す岩付城主“太田氏資”が永禄9年(1566)に改めて安堵されており、
さらに足利義氏が古河公方として認められたため、
北条支配圏の強い土地となっていました。

むしろ、その頃になると鷲宮神社の管理は北条氏にその権限が移っているので、
実質的には北条の支配圏です。
古河公方はもはや完全に名だけであり、
神主もまた北条と対等の立場ではなくなっていました。

そんな北条支配圏を牽制するため、
越相同盟が決裂する頃に花崎城は上杉方として息を吹き返したのでしょう。
しかしそこは、上杉と北条の勢力がぶつかり合う狭間の城。
元亀元年(1570)11月、広田直繁が館林領内の善長寺にて謀殺されると、
羽生城の歯車は狂い始めます。
花崎城もその戦渦に否応なく巻き込まれていくのでした。
(「狭間の花崎城(16)」に続く)

※註 広田直繁が謀殺された年は元亀2年とする説もあります。
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「風林火山」。“女”たちの悲しみはどう違う?

2007年10月31日 | 戦国時代の部屋
一生わからぬ女の気持ち。
そんな言葉が言われるほど、
男にとって女は解けない謎のひとつかもしれません。
女の思う幸せと男の考える幸せが一致するとは限らず、
むしろすれ違いの方が多いのでしょう。

大河ドラマ「風林火山」に登場する女たち。
彼女たちの多くは影を抱えています。
中でも“由布姫”(柴本幸)は、
父親の敵(かたき)である“武田晴信”(市川亀治郎)の側室となり、
波乱で短い生涯を終えました。
晴信の正室“三条夫人”(池脇千鶴)は夫の心変わりに胸を痛め、
また政治のために幼い娘と別れなければなりませんでした。

“平蔵”(佐藤隆太)の妻“ヒサ”(水川あさみ)は、
夫と子どもと共に暮らせることが何よりも幸せだと言います。
ほかには何も望まぬと……。
そんな妻に対し、平蔵の心には思うものがあり、
それで良しとしません。
“山本勘助”(内野聖陽)のように軍師(軍配者)になるべく動き出します。
彼にとって妻や子と共に暮らすことに決して不満があるわけではありませんが、
男であるがゆえなのか、あるいは別の理由があるのか、
その複雑な心境は自分の娘に「ミツ」と名付けたことにも表れているでしょう。

ところで、「風林火山」に登場する女たちのほとんどは淑女として描かれていますが、
それは武家に限ったことです。
真田家に仕える“くのいち”は、
情報収集のために敵方の男と閨と共にします。
平民になると、性の自由はおろか権力を持ち、
好きなところへ出掛けることもできました。

このことは、宣教師“ルイス・フロイス”がよく伝えています。
すなわち、日本の女性は処女の純潔を少しも重んじず、
それを欠いても名誉は失わないし結婚もできる。
離別もまたしかりで、しばしば妻の方から離別する。
夫に知らせずとも、何日でも好きなところへ行く自由を持っている、などです。
間引きも珍しくなかったとか……。

時代劇などに描かれる女性像を見ていると、
道具のように扱われ、自由が全くなかったかのようなイメージになりがちですが、
平民の世界ではかなり自由だったようです。
すくなくとも、中世においては……。
この自由さは現代にも通じ、その上をいくものでしょう。
このことについて歴史家網野善彦氏は、人々の生活論理に影響を及ぼす宗教が、
当時弾圧をこうむって敗退したことを見逃してはならないと指摘しています。

かつて「風林火山」に登場し、
武田信虎に殺されてしまった“ミツ”(貫地谷かほり)は平民でした。
その死から長い月日が経っても、
勘助や平蔵の心にはまだ彼女が生きているようです。
しかし、前者は軍師となり、後者も武士として弓矢を手に取るようになりました。
平民の視点が誰もいません。
もしミツが平民のまま生き続けていたなら、
「風林火山」は別の奥行きが生まれたことでしょう。
武家の女が当時の女性像というわけではなく、
由布姫たちの悲しみは武家の悲しみと言えます。
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10月31日生まれの人物は?(ハロウィン・ガス記念日・日本茶の日)

2007年10月31日 | 誕生日部屋
10月31日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

ヨハネス・フェルメール (画家)
ジョン・キーツ (詩人)
ワイエルシュトラス (数学者)
アレクサンドル・ボロディン (作曲家)
シアヌーク (政治家・国王)
蒋介石 (政治家)
灰谷健次郎 (童話作家)
つげ義春 (漫画家)
ジョン・キャンディ (俳優)
岡部幸雄 (騎手)
藤田美保子 (俳優)
渡辺文雄 (俳優)
羽生さくる (エッセイスト)
ドゥンガ (サッカー)
山本耕史 (俳優・歌手)
斉藤瞳 (歌手)
飯島愛 (タレント)

この日起きた事件は以下のとおりです。

臨済宗の開祖・栄西が宋から帰国し、茶の種子と製法を持ち帰った(1192)
横浜でガス灯が点灯され、日本のガス事業の幕開け。以後この日は“ガス記念日”(1872)
秩父事件(1884)
初の外国野球チーム招待試合(1907)
ムッソリーニがファシスト政権設立(1922)
東京都に赤電話登場(1953)
初の「教育白書」発表(1959)
日本記者クラブ結成(1969)
昭和天皇在位50年で初の公式記者会見(1975)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“つねに油断のない人”とのことです。
誕生花は「カーネーション」(白花)、花言葉は「私の愛情は生きている」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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羽生の祭りに来ませんか? ―羽生市商工まつり―

2007年10月30日 | お知らせ・イベント部屋
秋の祭り「羽生市商工まつり」。
夏祭りと同様に羽生宿場町の主要道路が歩行者天国になり、
各イベントが開催されます。
夏と違うのは祭りの時間が昼間ということ。
秋空の下、羽生の商工まつりを楽しみませんか?
概要は次のとおりです。

<羽生市商工まつり>
日時:11月3日(土・文化の日)
   午前11時~午後4時(雨天決行)
会場:プラザ通り歩行者天国・市民プラザ内
主なイベント
 旭町・東大和町おはやし
 小中学生による演奏
 アパレルフェスティバル
 屋台村
 インターナショナルビアカフェ
 “ピンキッシュ”のライブショー
 etc

“ピンキッシュ”とは埼玉県大利根町出身のグループです。
童謡のアイドルユニットで、大利根町特産品イチゴの“ピンク”と、
“フレッシュ”なイメージを合わせて、
「ピンキッシュ」と名付けられたそうです。
この機会に羽生の祭りと、
ピンキッシュをはじめとする各イベントをお楽しみ下さい。

※羽生市ホームページ
 http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html

※画像はピンキッシュです(広報「はにゅう」No.648より)。
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狭間の花崎城(14) ―子ども昔語り(94)―

2007年10月30日 | 子どもの部屋
武田信玄が北条氏と手を切ったことで、
新たに結ばれた越相同盟(えっそうどうめい)。
すなわち、信玄の進撃に備えるべく、
北条は“上杉謙信”に和睦を持ちかけ同盟を成立させたのでした。

武田信玄は関東に侵攻。
かねてから反北条の姿勢を見せてきた佐竹・里見氏に信玄は歩み寄り、
関東に駒を進めます。
永禄12年(1569)には北条方の城である鉢形城、
滝山城(いずれも埼玉県)を攻め、荒らし回りました。
そして、北条の本拠“小田原城”(神奈川県小田原)へ押し寄せます。

これに対し、北条方は籠城の作戦にでました。
小田原城は永禄4年(1561)の上杉謙信の攻撃をもはねのけた城です。
近郷の農民や町人をも城へ入城させると、
武田勢が疲弊するまで城にこもって戦おうとします。

城攻めは多くの兵を使い、あまつさえ自軍の被害は避けられません。
力攻めは得策ではないと信玄は考えます。
そもそもこのときの出陣は小田原城を落とすことが目的ではなく、
北条を牽制するためでした。
城の“蓮池門”まで攻め、民家に火をつけた武田勢でしたが、
やがて兵を引き払うのです。

北条勢は城から出ると、この背後を突こうとします。
しかし、このことを予測できない信玄ではありません。
武田勢が三増峠にさしかかったとき、北条勢はこれを急襲。
敵の不意を突いたと思った北条勢でしたが、
そこに待ちかまえていたのは武田の伏兵でした。
ミイラ取りがミイラになるがごとく、
奇襲をかけたつもりが逆に奇襲されてしまったのです。

この伏兵隊により北条勢は瓦解(がかい)。
敗走を余儀なくされ、追ってくる武田勢にことごとく討ち取られていきました。
『関八州古戦録』という記録によると、
武田勢が討ち取った首の数は3769級。
「五分の勝ち」を最上と考える武田信玄はそれ以上の深追いは許さず、
早々にその場を立ち去ります。
ときに永禄12年10月6日のことでした。
(「狭間の花崎城(15)」に続く)
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「風林火山」。2度目の上洛で“長尾景虎”の前に現れたのは?

2007年10月30日 | 戦国時代の部屋
永禄2年(1559)、“上杉謙信”(長尾景虎。以下「景虎」で統一)は、
2度目の上洛を果たします。
大河ドラマ「風林火山」でもその様子が描かれていました。
しかし、“武田晴信”(市川亀治郎)や“山本勘助”(内野聖陽)を視点としているので、
参内する景虎(Gackt)がサラリと映っていただけです。

この上洛で将軍“足利義輝”に謁見。
さらには正親町天皇にも拝謁しています。
このとき将軍義輝は景虎に、

 関東上杉五郎(憲政)進退の事、向後の儀、
 景虎分別をもって意見せしめ、馳走簡要に候

という御内書を下しました。
すなわち、景虎の関東出陣が公に認められ、
“侵略”ではないとされたのです。
ドラマでも憲政から関東管領職を譲ると言われ、
それを認めてもらうべく上洛を果たしたという筋書きになっていました。

ところで、この上洛で注目されるのは、
関白“近衛前嗣”(のちの近衛前久)との接触です。
この前嗣(さきつぐ)との交渉は景虎にとっては予期せぬ出来事でした。
およそ4回、景虎と前嗣は面談。
前嗣の方が積極的に景虎に交流を求めてきます。

この頃、彼は乱れる京都の秩序を回復すべく、力のある者を求めていました。
そこへやってきたのが長尾景虎です。
彼はここぞとばかりに積極的な態度に出ました。
血書起請文を差し出し盟約を結ぶと、
秩序回復を遂げてくれるであろう景虎に、“下向”の意を示すのです。

ときの関白が地方へ下向するのは異例のことでしたが、
この男は実際にやってのけます。
永禄3年9月、越後へ下向。
景虎が初めて関東へ出陣し、
織田信長が桶狭間にて今川義元を討った年でもありました。

永禄4年に関東管領職に就いた景虎は、
北条氏康が擁立した古河公方“足利義氏”に対して“足利藤氏”を立て、
その掌握をめぐって北条と火花を散らします。
古河公方―関東管領体制の回復を目指した景虎は、
近衛前嗣を将軍の分身として関東に位置付けようとしたのかもしれません。
景虎が信仰する“毘沙門天”は北を守る神。
関東を平定し、朝廷―幕府体制を復活させると、
己は北(関東)の守護神として君臨しようとしたのでしょうか。

しかし、古河城(茨木県古河)に在城していた近衛前嗣は、治安悪化のため退去。
永禄5年には帰洛しました。
その後は織田信長の躍進のもと、
紆余曲折の日々を送ることになります。
波乱な生涯を歩み、一癖も二癖もある近衛前嗣。
そんな男が永禄3年4月、
2度目の上洛を果たした長尾景虎の前に現れるのです。
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10月30日生まれの人物は?(香りの記念日・初恋の日)

2007年10月30日 | 誕生日部屋
10月30日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

松平信綱 (江戸幕府老中・武蔵川越藩主)
ドストエフスキー (小説家)
シスレー (画家)
ポール・ヴァレリー (詩人)
クロード・ルルーシュ (映画監督)
ディエゴ・マラドーナ (サッカー)
上田敏 (評論家・詩人)
平野謙 (文藝評論家)
富士正晴 (小説家・詩人)
東海林さだお (漫画家・エッセイスト)
大橋マキ (アナウンサー)
伊藤智仁 (野球)
レッド吉田 (お笑い芸人(T.I.M.))
清春 (ミュージシャン(SADS))
真中瞳 (俳優・タレント)
アヤカ (歌手(ココナッツ娘。)
鬼束ちひろ (歌手)
仲間由紀恵 (俳優)

この日起きた事件は以下のとおりです。

教育勅語発布(1890)
島崎藤村が『こひぐさ』の一編として初恋の詩を発表。以後この日は“初恋の日”(1896)
尾崎紅葉死去(1903)
シュバイツァーにノーベル平和賞(1952)
モハメド・アリがボクシング世界ヘビー級王座再獲得(1974)
西武ライオンズ初の日本一(1982)
インディラ・ガンジー首相暗殺(1984)
貴花田(貴乃花)が史上最年少で関取に昇進(1989)
七尾市で第7回国民文化祭「世界香りのフェアIN能登」が開催された。以後この日は“香りの記念日”(1992)
シドニー五輪金メダリスト高橋尚子が国民栄誉賞受賞(2000)

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“海を越えてゆく監督”とのことです。
誕生花は「シーマンニア」、花言葉は「繁栄」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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「水戸黄門」の“うっかり八兵衛”はどんな話をする?

2007年10月29日 | お知らせ・イベント部屋
埼玉県羽生市にやって来た“うっかり八兵衛”こと高橋元太郎氏。
時代劇「水戸黄門」でおなじみの俳優です。
うっかり八兵衛がいない「水戸黄門」なんて、
「水戸黄門」ではないと言われるほどその存在感は強いものでした。

黄門様シリーズが長く続いたために、
八兵衛=高橋元太郎と思われがちですが、
かつてはスリーファンキーズのメンバーとして活躍した歌手です。
羽生市の産業文化ホールにやって来た元太郎氏は、
「水戸黄門」の主題歌やスリーファンキーズのヒット曲を披露。
団子や饅頭ではなくマイクを握った元太郎氏は、
「うっかり」した様子はありません。

2007年10月27日、羽生市で開催された「北埼玉郡ヒューマンフェスタ」。
第5回目を数え、人権尊重社会をめざす県民運動事業のひとつです。
午前10時から開会し、午前は河田晃明羽生市長をはじめ来賓の挨拶、
各団体の舞台演芸が披露され、
午後に高橋元太郎氏の講演がありました。
演題は「“あたりまえの心”が大切」。



人生は出会いに始まって出会いに終わる。
それは人との出会いだけでなく、たまたま町で見付けた広告や、
あるいは時代の流れもまた出会いである。
それをたたやり過ごすのではなく、考え方を変えて“縁”とすれば、
人生は自ずと明るくなる。
「ありがとう」という言葉も自然に出てくる。
昨今忘れがちな“あたりまえの心”を取り戻し、家族を大切にし、
ポジティブに出会いを大切にしていけば社会はきっと良くなる。
「人権」という言葉そのものが使われなくなる社会が訪れるのではないか、
という内容の講演でした。

ところで、この講演にはひとつサプライズがありました。
それは元太郎氏のカミングアウトです。
実は、高橋元太郎氏と羽生市とは、ある繋がりがあります。
氏はいままで口に出したことがなく、
10月27日に公の場で初めて明かしたということです。
長く秘密を守られてきたようなのでここに記すことはできませんが、
ご年輩の方なら知っているかもしれません。
本人自身が明かしたので、羽生との繋がりがあることは確かでしょう。

講演は3時に終了。
同時にヒューマンフェスタも閉幕となります。
この日は生憎の雨でしたが、多くの人で賑わっていました。
販売コーナーで売られていた行田名物“ゼリーフライ”に舌鼓を打ち、
会場を後にした次第です。


創作白山太鼓保存会(埼玉県羽生市)
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狭間の花崎城(13)―子ども昔語り(93)―

2007年10月29日 | 子どもの部屋
花崎城の発掘調査で新たにわかった永禄期の空白が、
そのまま廃城を意味しているのなら、
その後再び息を吹き返したことになります。
息を吹き込んだのは“上杉謙信”です。

そのきっかけとなったのは“越相(えっそう)同盟”でしょう。
松山城、岩付城の陥落と臼井城攻めの失敗によって謙信の敗北が濃厚になったとき、
“武田信玄”が北条との同盟を破るという不測の事態が起こりました。
北条は武田に対するため、
謙信に和睦を持ちかけます。
1度はこれを斥けた謙信でしたが、
劣勢に立たされていたためこの和睦に同意。
かくして、“越相同盟”が成立します。
ときに永禄12年(1569)のことでした。

越相同盟における両者の話し合いで、
上杉謙信は関東管領として改めて認められましたが、
古河公方は正式に“足利義氏”と決まりました。
すなわち、鷲宮領が間接的に北条支配圏になったことを意味しています。

越相同盟が成立したとはいえ領土問題は最後までこじれ、
月日を経るごとに両者の関係は不穏な空気に包まれていきました。
おそらく謙信は鷲宮領を牽制するために、花崎城に注目したのでしょう。
のちに越相同盟が決裂したとき、
花崎城を取り立てそこを羽生城の支城としたものと思われます。

ちなみに、越相同盟によって羽生城主には新たに“木戸忠朝”が就いていました。
忠朝の兄“広田直繁”は館林城主に就任。
彼らは領土拡大という野望は持っていません。
謙信の命により深谷城主“上杉憲盛”を謙信方に従属させる一方で、
古河公方足利義氏に太刀などを送り、
受領名や苗字の変更の許可を受けています。

越相同盟の成立で、上杉と北条の戦火がいったん落ち着いたことに、
彼らは安堵のため息をついたことでしょう。
しかし、その状態は長くは続かないのでした。
(「狭間の花崎城(14)」に続く)
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「風林火山」。“上杉謙信”の不犯には何が隠されている?

2007年10月29日 | 戦国時代の部屋
――不犯の将“上杉謙信”。
仏道に深く帰依する謙信は、
生涯妻も側室も持たず不犯であったと言われています。
自らを毘沙門天の化身と言い、義のために戦い続けたその生き様は、
ほかの戦国武将と一線を画す男です。
ゆえに謎が多く、この不犯が真実かどうかも定かではありません。

大河ドラマ「風林火山」では、
謙信(Gackt)の身の回りの世話をする“ナミ”という女が登場しました。
重臣“直江実綱”の娘で、ドラマでは謙信に気に入られるよう実綱が促していましたが、
結局失敗に終わってしまいます。

実際にこの娘は存在し、謙信のすぐそばに仕えていたようです。
したがって、謙信の周りに女っ気が全くなかったわけではありません。
ドラマの中の謙信は全くその気がない様子でしたが、
実際はどうだったのでしょう。
いまとなっては歴史の闇の中です。
永禄2年(1559)に謙信が2度目の上洛を果たしたとき、
彼女は出奔し尼僧になったと言われています。

様々な憶測が飛び交う上杉謙信の不犯。
男色家であったという説や、
病気を患っていたいう説などがまことしやかに考えられてきました。
実は女だったという説もあり、
この人物に対する人々の関心は尽きることがありません。
中でも明石散人氏は、謙信の“裏”の信仰を挙げ、
それを不犯の原因と指摘しています(『謎ジバング 誰も知らない日本史』講談社)。
もしかすると、この人物には知られざる裏の顔が潜んでいるのかもしれません。

そんな謙信の一方で、ドラマでは“武田晴信”(市川亀治郎)をはじめ、
“山本勘助”(内野聖陽)ら重臣たちが揃って出家。
山本家に養子に入った“リツ”(前田亜季)は、
坊主頭の勘助を不満そうに見つめます。
男たちの出家に対し、
ナミ、リツ、忍芽(清水美砂)、ヒサ(水川あさみ)、(由布姫)の女たちの存在感が、
登場率と共にひときわ目立っていました。
この時代の女たちの幸せとは一体何だったのでしょう。
春日山城をあとにするナミの瞳は、悲しく濡れていました。
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10月29日生まれの人物は?(ホームビデオの日・とらふぐの日)

2007年10月29日 | 誕生日部屋
10月29日生まれの人物には次の名前が挙げられます。

エドモンド・ハリー (天文学者・ハレー彗星の軌道を計算)
井伊直弼 (江戸幕府大老)
坂倉芳明 (三越社長)
高畑勲 (アニメ映画監督『火垂るの墓』)
加茂周 (サッカー)
小栗康平 (映画監督)
リチャード・ドレイファス (俳優)
ウィノナ・ライダー (俳優)
志穂美悦子 (俳優)
高嶋政宏 (俳優)
周防正行 (映画監督『Shall we ダンス?』)
谷村志穂 (ルポライター)
金城一紀 (小説家)
堀江貴文 (経営者)
長谷川純 (タレント)
小川麻琴 (歌手)
竹田侑美 (歌手(Buzy))
ロペス (サッカー)
前園真聖 (サッカー)
つんく (音楽プロデューサー・ミュージシャン)

この日起きた事件は以下のとおりです。

徳政令発布(1454)
自由党解党(1884)
早・慶・明3大学野球リーグ成立(1914)
アメリカ大リーグ選抜チーム来日(1931)
第1回宝くじ発売、1枚10円、1等賞金10万円(1945)
千葉県船橋市で日本初のオートレース開催(1950)
スエズ戦争勃発(1956)
家庭用VTR発売。以後この日は“ホームビデオの日”(1969)
人工甘味料チクロ使用禁止(1969)
酒田大火(1976)
日本シリーズで巨人が近鉄に3連敗の後4連勝し17回目の日本一に(1989)

※語呂合わせからこの日は“とらふぐの日”。

『誕生日事典』によると、この日生まれた人物は、
“新しいアイディアの考案者”とのことです。
誕生花は「風船唐綿」(ふうせんとうわた)、花言葉は「多忙」

参照文献
高木誠監修/夏梅陸夫写真『誕生花366の花言葉』大泉書店
主婦と生活社編『今日は誰の誕生日』主婦と生活社
ゲイリー・ゴールドシュナイダー ユースト・エルファーズ著/
『誕生日事典』角川書店
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羽生の社寺を訪ねてみませんか? ―ふるさと講座―

2007年10月28日 | お知らせ・イベント部屋
現在、羽生郷土資料館では「社寺宝物展Ⅲ」を開催しています。
それに伴い、秋のふるさと講座では
羽生市三田ヶ谷・弥勒地区の神社やお寺を巡る予定です。
小説『田舎教師』ゆかりのものからマニアックなところまで、
一日ゆっくりと社寺や羽生の文化財を訪ねてみませんか?
概要は以下の通りです。

<ふるさと講座「三田ヶ谷・弥勒路の文化財を訪ねる」>
日時:2007年11月17日(土)
   午前9時15~午後3時(小雨決行、“弁当”持参)
集合場所:さいたま水族館休憩所
見学場所:八幡神社(三田ヶ谷)、稲荷神社(与兵衛新田)、円照寺(弥勒)などなど。
定員:25名(先着順)
費用:300円(保険料・資料代等)
申し込み:11月1日(木)~10日(土)までに電話で図書館・郷土資料館へ。
問い合わせ:図書館・郷土資料館(5(561)8233)

この機会にぜひご参加下さい。


与兵衛新田の稲荷神社です。


三田ヶ谷の八幡神社です。


弥勒の円照寺境内にある「お種さんの資料館」です。
お種さんとは『田舎教師』に登場する人物モデルの一人です。


「お種さんの資料館」の展示室です。
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狭間の花崎城(12)―子ども昔語り(92)―

2007年10月28日 | 子どもの部屋
昭和55年に初めて花崎城(埼玉県加須)に入った発掘調査のメスで
北条氏方の城の特徴とも言うべき“障子堀”や“畝堀”が検出されます。
北条に属す鷲宮城からほど近い場所に建っているため、
花崎城も北条方の城だった結論付けたくなりますが、
歴史はそう簡単なものではありません。

永禄3年(1560)以降、関東は相模の北条氏と上杉謙信がぶつかり合う地と化し、
極めて不安定な状況でした。
そのときの情勢に応じて、
関東の諸将は従属と裏切りを繰り返します。
特に花崎城が属す鷲宮領は古河公方の祈願所“鷲宮神社”が鎮座しているので、
北条と上杉が激しくぶつかり合う土地でもありました。

両者共に異なった人物(藤氏・義氏)を古河公方に擁立させ、
その義を通して関東平定を目指します。
永禄3年から“足利藤氏”の死去まで、
あるいは謙信が“足利義氏”を古河公方として認めた同13年(元亀元年)までは、
古河公方の掌握をめぐる戦いと言えるでしょう。

そんな両者の戦いの最中、
花崎城もまたその戦渦に巻き込まれていたと考えるのが自然です。
しかし、このとき花崎城は城として機能していなかった可能性があります。
つまり昭和55年の発掘調査で新たにわかったもの。
それは出土した遺物にこの時期のものが空白になっているということです。
永禄年間以前(享禄~天文前半)と、
それ以後(元亀~天正)のものが多く出土しており、
なぜそのような空白期があるのかよくわかっていません。
空白期が城主の不在とすれば、
城の機能が一時停滞していたと考えられるでしょう。

『莿萱氏系図』に見られる永禄3年の上杉謙信の鷲宮・花崎両城の侵攻ののち、
北条は城兵を鷲宮城に集中させたのかもしれません。
あるいは、この侵攻の先陣を務めたと思われる羽生城主の持ち城になったとも考えられますが、
この頃忍城の動きを警戒し木戸忠朝は皿尾城に入っていたため、
花崎城は廃城同然になっていたのでしょうか。
いずれにせよこの時期の花崎城は謎のベールに包まれており、
我々に新たな疑問を投げかけたのです。
(「狭間の花崎城(13)」に続く)

※画像は花崎城跡を走る東武伊勢崎線の電車です。
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「美の巨人たち」。“狩野永徳”の絵に織田信長は何を見ていた?

2007年10月28日 | 戦国時代の部屋
――戦国時代の絵師“狩野永徳”。
10月27日の「美の巨人たち」で、この狩野永徳が取り上げられていました。
永徳は“織田信長”・“豊臣秀吉”に重用された絵師。
安土城、大坂城、聚楽第の障壁画を制作し、
その代表作には「唐獅子図屏風」「洛中洛外図屏風」があります。

番組では「唐獅子図屏風」を視点に狩野永徳の軌跡を描写。
時の権力者に重用されるという名誉の反面、
一般の生活を送る人々にはわからぬ苦しみや悩みを抱えていたのでしょう。
権力の移ろいによって、その作品は紅蓮の炎に包まれていきました。

ところで、織田信長の居城“安土城”には、
狩野永徳とその弟子たちによって描かれた絵が数多くあったと言います。
『信長公記』にも「西十二畳敷、墨絵に梅の御絵を狩野永徳に仰付けられ、かかせられ、何れも下より上迄、御座敷の内御絵所悉く金なり」などと記述。
中でも注目されるのは、天守閣の6重と7重目に描かれた障壁画でしょう。
これらの絵は、信長の政治理念や思想を説く鍵として注目されます。

『信長の夢「安土城」発掘』(NHK出版)によると、
6重目には“地獄絵図”と“龍・鯱”が飛翔する絵、
さらには“釈迦釈迦説法図”が描かれていました。
龍は中国の皇帝のモチーフ。
天下布武の印に龍が用いられていることから、
龍は日本の覇者信長の姿と言えます。
すなわち、地獄(戦国乱世)に龍(信長)が出現し天下を治めると、
極楽浄土に変わると……。
6重目の絵には、そんな意味がこめられているのかもしれません。

城の最上階である7重目に飾られているのは8枚の絵です。
老子や孔子など、名君・名政治家・思想家たちが描かれています。
これらの人物は信長の政治理念の範であり、
天下平定の暁には聖人たちにならった政治をするという意味が、
そこにはこめられていたのでしょうか。
同書は次のように記しています。

 信長は六重目で釈迦と会話を交わしたのと同様、ひとりこの最上階に籠もる時、
 古代以来の偉大な政治家たちと無言の会話を交わそうとしたのではないか。(中略)
 歴史上の偉人たちに囲まれて、ひとり静かに内省することによって、
 信長はこれから自分がとるべき道について、
 じっくり考えようとしたのではないだろうか。

天下布武の理念を掲げ躍進する織田信長。
破壊者であり創造者でもあった信長は、
その理念や観念が革新的であったがゆえに孤独だったと言われます。
己と対峙できるのは、すでにこの世を去った聖人たちや、
観念の世界だったのかもしれません。

そんな孤独に包まれた信長が内省するとき、
そこには狩野永徳の絵がありました。
彼の目に永徳の絵はどのように映ったのでしょう。
絵と対峙し、無言の会話がなされていたはずです。
しかし、夢半ばで信長は本能寺で死去。
それから程なくして安土城も炎に包まれました。
信長の夢と共に永徳の絵も灰燼に帰してしまいます。
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