くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

仙台女性(新妻)殺人事件に思うこと

2007年08月26日 | Weblog
死者を冒瀆するつもりもなければ、殺人犯を擁護するつもりもないが、この事件、どうもしっくりいかない部分がある。

ゴシップ的な、のぞき見的な悪趣味だと言われてしまえばそれまでだが、事件の因果関係というもつまびらかにしたいと気持ちには抗し難いものがあるし、その因果関係を明らかにするうえにおいて避けては通れぬ部分でもあると思う。

まず、容疑者の女と被害者の夫とは昨年秋頃まで付き合い同居(同棲?)していた。被害者と夫は昨年12月に職場に結婚を報告したとんことだが、ここから以下のような疑問が生じる。

1.昨年秋まで容疑者と付き合い、その後12月に被害者と結婚宣言というのは、常識的に考えてあまりにも期間が短すぎ、したがって、以下のような疑念(疑惑)が湧いてこないか?
2.被害者と夫が付き合いはじめたとき、容疑者と夫の関係は既に両者の合意のもとに清算されていたのか。
3.そうでない場合、被害者は、夫と容疑者の関係を知っていながら夫と付き合いだしたのか。またそれは何時のことか。
4.3の場合、容疑者と夫の関係の破綻は、被害者の存在が原因ということか?

以上の疑問に関する真実いかんによっては、夫、あるいは夫、被害者ともに、人としての倫(みち)を踏み外した行為をしていたことになる。その場合、法律的にというのではなく、モラル的にみて、容疑者こそ被害者というこになる。もっとも、繰り返しになるが、それによって決して殺人が肯定されてはならないのだが。

男性に同居(同棲)する女性がいると知りながら男性と付き合い、二人の関係を破綻させたとすれば、これは世に言う略奪愛だ。

被害者の女性が二人の関係を知らずにいたとすれば、とんだ食わせ者の男と一緒になったばかりに招いた不運という言葉ではいい尽くせぬ悲劇に見舞われたことになる。夫は被害者の家族や社会によって糾弾されても仕方がないし、そうあるべきだ。

あるいは、昨年秋までに容疑者と夫の関係は清算されたのかもしれない。そしてその後夫と被害者が知り合い、短期間のうちに結婚を決意するにいたったのかもしれない。それはありえることだ。一旦は男と別れたものの、相手がその直後に新たな相手をみつけ、しかもあっというまに結婚にまで漕ぎ着けたことに、容疑者が嫉妬に駆られ凶行に走った可能性も十分にありえる。この場合、容疑者に弁護の余地などいささかもない。

ただ、もし夫と被害者に倫ならぬ行為があったとしたら・・・。因果応報ということになる。被害者にもその家族にもあまりにも酷いかたちではあるが。

実は私にも苦い経験があるのだ。血は見なかったが、もしかしたら人に煮え湯を飲ませていたのかもしれないのだ。

以前付き合っていた女性。私と付き合う前に数年間つきあっていた男性がいた。しかし、二人は別れ、その数か月後に私と彼女は付き合い始めた。ところが、それからしばらくして思わぬ話が私の耳に。彼女と元彼が分かれた原因は、私の存在だったと。彼女が私に心を移し、その結果一方的に別れを切り出したというのだ。私と彼女が付き合い始めたとき、私は過去のことはすっかり清算されていると思っていたが、それは彼女の勝手な言い分で、相手はそうは思っていないと。どうやら、私との関係が始まったのを前後して数か月、ゴタゴタが続いていたらしい。ところが、当時私と彼女はある種の遠距離だったために、私はそのことをまったく知らなかったのだ。付き合ってからまもなく複数の知人からの「ご注進」を得たが、私は彼女を信じようとしたし、信じながら数年間付き合った。しかし、「疑念」と「後ろめたさ」、そして「不安」から逃れることはできなかった。「疑念」とは彼女から聞いて信じていた話は本当に真実なのかということ。「後ろめたさ」とは、私は図らずも彼女の元彼から彼女を略奪したという恥ずべきことをしてしまったのではないかという思い。そして、自分も元カレと同じ目にあわされるのではないかという思い。結果、彼女を愛しつつも、彼女を無条件に信ずることができなかった。そして数年後、彼女は再びある日突如一方的に別れを切り出し、私のもとを去っていった。いまだに理由は知らない。知ることが怖かったし、いまだに知りたいとも思わないが、おそらくは、「不安」が現実のものになったということなのであろう・・。

しばからくは彼女をひどく恨んだが、思えば、かつて自分も人から、元彼からひどく恨まれていたに違いない。いや、いまだに恨まれているのかもしれない。もし、私が彼女を彼から奪ったのであれば、私が彼女を失ったのも、因果応報ということなのだ、と今になって思う。

漏れ聞くところでは、今の彼女は決して幸せではないという。私のもとを去った後も倫ならぬことを繰り返し、他人に涙を流させ、辛酸をなめさせた挙句、自分自身も幸福を得ることはできず、孤独なまに三十路も半ばを過ぎたという。後に結婚し、子供を得たそうだが、例によって例の如く、ある日突然家庭も、夫も、そして子供も捨てることを選択したというのだ。

こうなると、ある種病的としか思えない・・。

私の愛読書「鬼平犯科帳」の主人公長谷川平蔵のセリフに「女という生き物は・・」というのがある。件の元カノは、これをひどく嫌ったものだ。彼女に限らず多くの女性諸氏は憤るのかもしれないが、私は播磨屋の声色を思い浮かべながらそれを心のなかで繰り返し、つくづく頷いてしまう。すべての女性がというほど女を知っているわけではないが、女という生き物は後先を考えずに生きてしまう、いや、生きることができる、ある意味うらやましいほどに奔放な本能をもった生き物ではないのだろうか。少なくとも、元カノは病的なほどにそうであった。

図らずも倫ならぬ行為により人を不幸にし、また自身も因果応報の苦しみ、悲しみを被ったがゆえに、私は婚姻の有無にかかわらず「略奪愛」というものを深く忌み嫌うのだ。倫ならぬ道に、幸せは待ってはいない。経験者は語るだから、間違いない!
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 朝青龍問題: 療養のための帰... | トップ | 安部改造内閣への採点、50点 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事