くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

平成26年を迎えて: 自分の余命を知って、

2014年01月02日 | Weblog
平成26年。個人的には正月は旧正月で祝うべきだと思うので、正直中国、台湾なんかがうらやましいです。

陽暦で「正月」を祝っても、意味ないんですから。

それはさておき、昨年はいろいろありました。仕事では嵌められて、でもこちらは”動かぬ証拠”を複数握っていたので、騒動は立ち消えに。私を陥れようとした
上の者は自分の過失を知っている自分が邪魔だったんでしょうけど、残念ながら以前から「おかしい?」と感づいていた私は、物証になるものを可能な限りキープしおいたんです。同時に情報共有者も作っておいたんです。でも、共有者も100%は信用できないですから、部分的にしか共有しない。しかも後から「自分は知らない」と逃げることもできないようにしておく。出るところに出て、「知っていましたよね?」と問われて「はい」という以外ないように。更に別の上の者、しかも一方に敵対、ライバル関係にある方の”庇護”を得るという幸運にも見舞われ。結果、うやむやに。自分もあえてそれ以上追及しませんでした。そのかわり、今年はその見返りをいただかないと。いや、必ず”首をつないでやった”見返りが来ることになっています。

昨年はついに病も得てしまいました。医者から余命を告げられました。医者からはずいぶん前から兆候が出ていたはずだといわれましたが、本人的には何もありませんでした。でも、よほどのことがない限り、今すぐとかと数年ということはないですし、子供が成人するまではなんとかなりそうです。でもある年数以上生きることは、今の医学ではできません。それを医者に告げられたとき、実は、それほどショックはありませんでした。
ネットであれこれ調べ、可能性無きにしみあらずと思っていたこともありますが、自分でもなぜ精神的に落ち込まなかったのか、よくわかりません。

何で自分が?って思ったこともありますが、それで何かがかわるわけでもありません。

現実は受け入れるしかなんですから。

考えようによっては、自分のタイムリミットがある程度大雑把ながらもわかるということは、良いことだなあとも思います。限られた時間のうちに何をしたいか、何をしなければならないか、取捨選択ができますから。

別に強がっていうわけでもありません。確かに、自分の弱さを認めたくないっていう気持ちもないわけではないですが、それだけじゃないです。これが余命数か月とかだったら、そりゃこんな流暢なこと言ってられないんでしょうけど、まだ医者の言うこと聞いて生活すれば10年くらいはなんとかなりそうなので、そういう時間的余裕が精神的余裕につながっているのでしょう。

人生いろいろ。私が今回得た「生」は、そういうシナリオだということだそうです。
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