くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

中国の時代劇はおもしろい!

2012年02月22日 | Weblog
と以前から思っている。

ちなみに中国とは「大陸」のことで、香港、そしてもちろん!台湾は含まない。

三国志を扱ったものは「演義」の影響を強く受けてしまっていて講談中でフィクション性が過ぎるしておもしろくない。同じことは、TVドラマだけではなく映画にも言えると思う。映画「レッドクリフ」がおもしろくなかったのは、金城武はじめ出演者の力量不足だけではなく(金城がダメ俳優だとは思っていないが)、演出的に大味過ぎた野に加えて、そもそもが旧時代的な「臭い」ドラマを下敷きにしているのがいけなかった。

「水滸伝」関連も同様の理由でおもしろくない。

香港をなぜ含まないかというと、ワイヤーアクションが過ぎるからだ。大陸ドラマに大いに共通する後述の理由でドラマ的には日本のものより面白い。だが、なんでもかんでもワイヤアクションが絡むとウンザリしてしまう。

大陸のそれは、DVDにもなったTV版「三国志」が典型のように、相変わらず演出が古い。せりふ回しも、日本で言うならば新歌舞伎か昭和30年代ごろまでの時代劇映画を見ているようである。市川右太衛門がそこにいても全然浮かないくらい「古色蒼然」たるものがある。ちなみに、私は右太衛門をくさしているのではなく、ここでの以前のものを読んでもらえばわかるように、むしろ「ファン」である。「古臭さ」という点でいえば、もうどうしようもなくなってしまった大河を含めここ20年ほどの日本の時代劇は、その「古臭さ」というか「時代味」が失せてしまっていることに、一つの大問題があるが、「時代味」の欠如は歌舞伎役者にもしばしば見られる現象であることは、当代幸四郎や海老蔵、中村獅童の芝居にも見られることである、残念ながら。その時代劇にはやはり必要である「古臭さ」いや「時代味」が勝ち過ぎているのが中国の時代劇で、上述「三国志」はもうずいぶん前のものだが、近年も相変わらずな演技が繰り広げられている。それが日本との対比でうらやましくもあり、「もういい加減にせい」とも思う。

だが、やはり総じて面白い。

特に宮廷ものは韓国のそれよりも面白い。韓国の宮廷激ドラマは、若い層を意識してかここ数年で随分「堕落」したと思う。むかしは今ほど歴史考証を無視したというか冒とくしたような虚構性や荒唐無稽さはなかった。李朝以前の歴史的記憶がほぼ消去されてしまっているあの国が、古代を題材に取り出し、しかも平然とウソを並べ立てる所業にはもうあきれ返ってしうが、まあよくよく考えてみれば大韓民国のもとでいわれる「日帝36年」も実は南の政権をそもそも作った連中が仕組んだ多分に虚構的な部分があるだけに、そうした虚構に根差した民族意識が虚構だらけの古代史ドラマを作りだしたとしても驚くことではないのかもしれない。それでも、やはりいまだ宮廷劇を描かせると日本の同類のものに比べたらはるかにストーリーに手が込んでいて面白い。中国のそれは韓国のさらに上を言って面白い。

なぜなのか。

そこに政治が描かれているからである。まごうことなき政治の一部分であるいや政治そのものともいうべき権力闘争をはじめさまざまな人間関係が重層的に描かれているのである。政治、権力に絡む人間の心情の機微を描くのが実にうまい。その一例が「無字碑歌」。もうこれも5,6年前のドラマだが。この主演女優。まあ世界的に知る人ぞ知る斯琴高娃。名前からわかるように漢族ではない。蒙古族であるが、彼女の演じる則天武后の貫録たるや! 武妃を漢族ではない役者が演じるという点に面白さを感じるのが、そもそも武妃が嫁いだ唐室が漢族ではないからであるが、彼女の演技、モンゴル族特有の顔のかたちから生まれながらの美貌を誇ったという武妃としてはいささか難がなくはないが、演技は実に堂にいったものである。が、実に古めかしい。それが彼女の演技力の限界というのではなく、そういう演出なのだろうが、間の取り方、せりふ回し、共演者ともども実に・・である。特に主演女優のそれは際立っている。

が、ドラマとしては王朝成立以来ドロドロの内紛劇を繰り返してきた唐・武周王朝の宮廷のさまを実にうまく描いているのだ。

日本の時代劇にはなかなかここまで政治劇を描いたものはない。

もっとも、日本で同じような調子で奈良・平安の宮廷劇や大奥ものをやったなら、視聴率は期待できまい。政治を描いたものは日本の視聴者、特に女性陣には受けないのだ。それが証拠に政治的変転のめまぐるしい幕末維新ものは大河では昔から視聴率を取れないのだ。ここ20年ほどでは「徳川慶喜」なんぞは、司馬遼太郎の慶喜についての解釈には大いに異論があるところだが、原作のしっかりさも手伝ってかよく描けていたと思うが、確かその次の年の視聴率的には傲慢不遜な歴史解釈で荒稼ぎする堺屋太一の「秀吉」にははるかに及ばなかったはずである。最近の「大奥」があのようなお子ちゃまドラマ化したのは、一面日本人の劣化を示唆するものだと思うが、同時にやはり政治劇ではダメなのだ、日本人には。

そして、そこに日本人が政治的に外交的にしてやられてしまう原因があるのかもしれない。政治というものをその苛酷さを身をもって体験してきたかまたは体験中である国や地域の人々に比べ、狭いながらも少なくとも近代まで「ぬるま湯」で生きてきた日本人には、政治というものが自らの生活、人生の一部であることをなかなか実感できぬし、だからこそ政治ドラマ的なものは受けないし生まれないのかもしれない。

その点でいえば、政治をわが身の一部と実感できる人々の方が、民主政治には向いているのかもしれない。が、同時に政治権力の有無、あるいはそれとの距離が自らの生存に重大にかかわることを知っているからこそ、政治権力を私せずにはいられない政治体制がつづ行くのかもしれない。いったん民主化の道筋がつけばという以前に、だからこそなかなかにあの大陸では民主化は進まないと思うのである。

台湾の経験は大陸にとっての前例とはならない。なぜなら・・・。まあ、これについては別の機会にでも。











































コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 習近平訪米: オバマ政権は... | トップ | 中国、香港、台湾へグルメ旅... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事