松嶋屋というのは、本当に歳を感じさせない。特に白塗りになると、相変わらずの艶のある二枚目ぶりである。見目良し、台詞良し。こういう役者は実に得難い。
海老蔵も早く台詞を何とかしてほしいものだと思う。
愛之助も台詞が良い。華もあり、将来を期待させる逸材。
橋之助は肉がついて、立役の貫禄が出てきた。20代の頃、歌舞伎座で下帯一丁の立ち回りを演じた際にその体の細さに客席から失笑ともとれる笑いが漏れたときが懐かしい。顔立ちは、時代物役者にうってつけだ。時代味は天賦のものだ。ただ、定九郎の「五十両」は、いささか悪味に欠ける。ところで、定九郎といえば、昭和61年11月、国立劇場での先代辰之助のそれを思い出す。亡くなる二月ほど前のこと。翌12月には歌舞伎座で「お祭り」を舞い、「待っていたとは・・」の次の月に亡くなったと記憶する。復帰はしたものの、既に見た目に具合のよからぬは明白であった。それを知ってか知らぬか、「笑っていいとも」出演時に、タモリが顔色のことを「黒い、黒い」と言いはやすのには、眉をしかめた。肝臓がすっかりやられていたのだ、顔色の良かろうはずもなかったのに・・。そうした病状も”手伝って”か、あの時の定九郎には凄味があった。が、後になって、勘平の玉に打たれて血を吐くシーンは、洒落にならないと思った。あのときの凄味は死相ゆえだったのかもしれない。そういえば、父親の先代松緑も当時具合がよくなく、翌12月の九段目は休演、数年後に息子の後を追う。それゆえにこそ、当代松緑を見るにつけ、応援したくなる。声が先代松緑も羨んだという父親のそれに似てきたのは、うれしい限りである。
秀太郎のお才も良し。我童亡き後、上方歌舞伎の女形の味わいを伝える貴重な存在である。生涯「秀太郎」で行くのだろうか。我童の襲名はないのだろうか。
時蔵、私は昔からこの人の雰囲気が好きである。品の良さがある。比べて福助にはそれが乏しい。あの鼻にかかった声色は三代目譲りだ。もっとも、見た目については子の梅枝の方が似ているが。
ただ、この芝居、私としては最後まで見るのが辛い。長すぎるとかそういう理由ではなく、何度もみてきた芝居ゆえに、その筋立てを知っているがゆえにこそ、勘平の悲劇を最後まで見届けるのが辛いのだ。松嶋屋の寛平は当代一であれば、その演技ゆえに見る側には主人公の死にざまが痛ましくてならない。
追記
ついでに、「対面」だが、勘九郎の芸質は亡父のものとは明らかに異なることを再確認した。まだまだ若さだけの五郎だ。今後に期待したい。むしろ腕を上げつつあると感じたのは弟七之助。橋之助の朝比奈はニンではない。声質が朝比奈ではない。この役は、故富十郎だとか、今なら又五郎の声質が合う。抜けなきゃダメなのだ。そして、再度仁左衛門。立派な工藤である。言うことなし。歳とともに普段のしゃべり口調にも先代の面影をたたえるようになってきたと感じていたが、この工藤も先代最後の工藤にそこはかとなく重なるものがあり、芝居の面白さは血縁で代を重ねるということによるところもあると改めて感じた。世襲批判は結構だ。また、世襲を無条件に肯定するつもりもないが、芝居から世襲がなくなれば、それはそれで大変なことになるとも危惧する。
海老蔵も早く台詞を何とかしてほしいものだと思う。
愛之助も台詞が良い。華もあり、将来を期待させる逸材。
橋之助は肉がついて、立役の貫禄が出てきた。20代の頃、歌舞伎座で下帯一丁の立ち回りを演じた際にその体の細さに客席から失笑ともとれる笑いが漏れたときが懐かしい。顔立ちは、時代物役者にうってつけだ。時代味は天賦のものだ。ただ、定九郎の「五十両」は、いささか悪味に欠ける。ところで、定九郎といえば、昭和61年11月、国立劇場での先代辰之助のそれを思い出す。亡くなる二月ほど前のこと。翌12月には歌舞伎座で「お祭り」を舞い、「待っていたとは・・」の次の月に亡くなったと記憶する。復帰はしたものの、既に見た目に具合のよからぬは明白であった。それを知ってか知らぬか、「笑っていいとも」出演時に、タモリが顔色のことを「黒い、黒い」と言いはやすのには、眉をしかめた。肝臓がすっかりやられていたのだ、顔色の良かろうはずもなかったのに・・。そうした病状も”手伝って”か、あの時の定九郎には凄味があった。が、後になって、勘平の玉に打たれて血を吐くシーンは、洒落にならないと思った。あのときの凄味は死相ゆえだったのかもしれない。そういえば、父親の先代松緑も当時具合がよくなく、翌12月の九段目は休演、数年後に息子の後を追う。それゆえにこそ、当代松緑を見るにつけ、応援したくなる。声が先代松緑も羨んだという父親のそれに似てきたのは、うれしい限りである。
秀太郎のお才も良し。我童亡き後、上方歌舞伎の女形の味わいを伝える貴重な存在である。生涯「秀太郎」で行くのだろうか。我童の襲名はないのだろうか。
時蔵、私は昔からこの人の雰囲気が好きである。品の良さがある。比べて福助にはそれが乏しい。あの鼻にかかった声色は三代目譲りだ。もっとも、見た目については子の梅枝の方が似ているが。
ただ、この芝居、私としては最後まで見るのが辛い。長すぎるとかそういう理由ではなく、何度もみてきた芝居ゆえに、その筋立てを知っているがゆえにこそ、勘平の悲劇を最後まで見届けるのが辛いのだ。松嶋屋の寛平は当代一であれば、その演技ゆえに見る側には主人公の死にざまが痛ましくてならない。
追記
ついでに、「対面」だが、勘九郎の芸質は亡父のものとは明らかに異なることを再確認した。まだまだ若さだけの五郎だ。今後に期待したい。むしろ腕を上げつつあると感じたのは弟七之助。橋之助の朝比奈はニンではない。声質が朝比奈ではない。この役は、故富十郎だとか、今なら又五郎の声質が合う。抜けなきゃダメなのだ。そして、再度仁左衛門。立派な工藤である。言うことなし。歳とともに普段のしゃべり口調にも先代の面影をたたえるようになってきたと感じていたが、この工藤も先代最後の工藤にそこはかとなく重なるものがあり、芝居の面白さは血縁で代を重ねるということによるところもあると改めて感じた。世襲批判は結構だ。また、世襲を無条件に肯定するつもりもないが、芝居から世襲がなくなれば、それはそれで大変なことになるとも危惧する。