実際に訪れたことはないのど、どうなっているのか現状は知らないが、おそらく、東北などでも、まだまだ復興は遅れていることだろう。福島の原発も、どうなっているやら。数年経過とともに、もちろん、あれだけのことが起こったわけだから、記憶には残っているが、いま九州に注いでいる熱い思いは、薄れていることの証しだ。内容はわからないが、何か、復興の対策にあたっても、形式的なこと、官僚主義的な、縦割り行政や、建前行政のために、とんちんかんな対応、対策で遅れている気がしてならない。
原発についても、あと何十年もかかるという事実の見通しがあれば、それをはっきりと口に出すことで、対応が変わるだろうし、半永久的に戻れないなら、それを踏まえた対応、対策になろうし。
津波を防ぐ防波堤など、何メートルあればなんて、自然の前には無意味だから、そもそもそんなに高いものでなくてもいいはず。それより、津波が発生した時に、いかに早く退散するかが問題であって、土地のかさ上げがどうとかこうとか、それゆえに、元のところの区画整理や、聖地がどうのこうのより、また、高台が安全だとかどうとかよりも、別に土地の標高が低かろうが、発生した時に、すばやく非難すれば難から逃れられるということを大原則に対応するほうが、もっと早く対応が取れていたのじゃないかなと思ってしまう。
どこか、日本人の、建前主義というか、当事者意識が欠如した、的外れのことがたくさん起こっているのではないかと思ってしまうが。
佐村河内守を描いた映画、フェイクが、6月に公開予定だが、ラストの15分の内容も相まって、非常に考えさせられる内容だとか。今は、見に行こうと思っている。
耳が聞こえない、作曲ができる。この矛盾する二つの大きな課題を越えた何かがあるようだ。
佐村河内、新垣、小保方、ベッキー、清原、乙武、世間の身勝手な人々が本当に怒っていないから、いつまでも許さないとか。要は、他人事の出来事を弄んでいるいるに過ぎず、それに乗っかているマスコミの姿勢、ネットが加わり、大袈裟なことになっているだけのことだ。
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