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(ひじりづか こうのみちのぶふんぼ 岩手県北上市稲瀬町水越 県指定史跡)
北上川から幾つかの丘陵を越えると、やがて松林のなかに盛り土が見えてくる。これが河野四郎通信の墳墓である。
河野通信は、保元元年(1156)伊予権介河野通清の子として伊予高縄山で生まれた。壇ノ浦の戦いでは源氏側につき、伊予水軍を率いる将として活躍した。また、北条政子の妹を室とし、鎌倉幕府の御家人となった。文治五年(1189)の奥州合戦や梶原景時の変にも参加し、陸奥国にも領地を得ている。然し、承久の乱で後鳥羽上皇についたため、朝廷側が敗北した折りに捕虜となってこの地に流罪となり、翌年の貞応元年(1222)同地門岡の国見山極楽寺で最期を迎えた。
弘安三年(1280)孫の河野通秀(一遍智真)は通信の墳墓を訪れ、供養の様子を「一遍上人絵伝」が伝えている。
二段築成の葺石
周溝
城郭造りのような背後の崖
一遍供養の図
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