千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

新カテおいしゃんの青春時代・・

10数年もBLOG書き続けてきて愈々書くことも無うなったけん
新しいカテゴリー作ってみました。
それは「おいしゃんの青春時代編」
最初やけん長いよ・・読み応えありますバイ!
おいしゃんが死んだとき子供たちが親父もこげな若っかころのあったて
読んでくれたらって思うてですね・・

話違うばってんがこの「ですね・・」隠れ博多弁って知っとります?
地元のもんは気づかん福岡のもんの話すときの癖です。
↑クリックで参考に・・

さて最近おいしゃんYoutubeで昔の音楽聞きながら思い出にふけるとが
多くなりましたやね・・歳とったけんか?もうあの頃の元気は戻らんやねと・・

今回の青春時代第一弾はこの曲ですったい・・
麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」 5thシングル 1973年7月


おいしゃの高校受験はバレーボールの推薦受けての受験やったです。
当時は私立高校やらはスポーツ特待制度やらあって無試験で入学の
制度もありましたばってんがおいしゃんが受験したとは市立高校。
当時兄貴は文武両道でエリートコースの県立高校のラグビー部やった。
全国大会にも常連の高校やっておいしゃんも中学の頃から
親父に連れられて練習試合やら花園にも応援に連れて行かれよりました。
「お前は兄貴と違いスクラムハーフやね」やら言われても
おいしゃんはその気がなかった・・兄貴に引け目感じて次男の
卑屈な青春時代ば悶々と過ごしよった頃です。

当然山笠からは離れとった時期です。
ばってんが体育祭でおいしゃん山笠作って山舁きましたったぃ。
当時の数学の先生で女子バレー部の顧問やったJ先生が東流
後に彼は東流の総務ば務めます。


その頃、新任の中学の部活の先生が大学時代の同級やった高校のバレー部の監督やったけん
バレーボールで推薦してくれたとです(のちにこの先生はおいしゃんの仲人になります(^^♪)
「セッターがおらんていうけん推薦しといた・・」
「お前ならやれる・・」
当時おいしゃんの中学のバレー部出身者は県立F高校に進学しラグビー部にっていう
レールやったとばってんがおいしゃんの一つ上の先輩からはそのレールが外れ
一つ先輩はバレーボールで身をなして全国大会(H先輩)までいったんですね。
後にH先輩は高校の先生になり指導者になりました・・
ここでよく登場する観音様・弁天様の旦那はおいしゃんの一つ上の
これバレーボール部の先輩ですったぃ!
山笠の先輩でもある「けん坊」からおいしゃんセッターの心構え
おそえて貰いましたもん・・

一方、あとば受け継いだおいしゃんたちのメンバーは2流のチームで
やっとこさ県大会に出たくらいのチームです。
ばってんがそれはそれは厳しい練習させられたもんです・
今じゃ御法度のうさび飛びやら水飲むなの根性論の時代ですもんね・

受験日の昼休み高校の監督が「お~い博多二中の〇×おるか~」
「はい・・」
「試験はできたか?」
無事入学・・
「お~い〇×おるか?~」って先輩から呼び出されて入学直後から練習です。
後で聞いたばってんが監督は元全日本のメンバーで今は
国際審判員らしいですやん(>_<)

たかが市立高校の部活って甘うみとったおいしゃんはカルチャーショックですやん。
これくらいのレベルでもこげな練習せないかんと!?
即レギュラーのおいしゃんへの先輩からの風当たりも強く
日に4試合した後でちゃ「お前はレギュラーやけど一年生やけん・・」て言うて
つる足引きずりながら片付けしたもんです(>_<)

朝から晩まで練習に明け暮れて(時に夜が明けるまで先輩と練習試合)
「あんたたち仕事」あるっちゃろう?」って先輩たち恨んだことも・・

そげな合宿所でわずかな自由時間寝転んで聞いたとが
「私の彼は左利き」
この頃おいしゃんは恋が実らんって思うたっちゃアイドルに憧れたころです。
「麻丘めぐみ」が「麻丘目ばれ」て言われたっちゃおいしゃん好きやった・・・・
それと「ピンキー」も大好きややった・・・・・

そげなこげな昔の思い出や思うたことば
ちょくちょく書いてみろうかて思いますやね・・・・

おいしゃんな大概練習したばってんが両刀使いにはなれんかった
いつでもいつでもあたきは~~右利きです♪♬・・

チャンチャン

ランキングに参加中です。
見るたびにクリックしてつかあさい!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「おいしゃんの青春時代編」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事