「大黒流総合サイト」に掲載しました。
この当番順は1780年から1899年までの120年間の記録です。
和暦で言うたら江戸時代の「安永9年」から明治時代の明治32年。
さすがに書いた人も大変やったろう
その時の気分?で町名に使う字が違うたりひらがなで書いてあったり
「濱と浜」「町と丁」「鰯町といわし町」等々。
上(かみ)中(なか)下(しも)の付け方の間違いやらあって
やおいかんかった。
※町名につく上・中・下やらは博多の場合太宰府に近いほうの町に
上がつきます。新川端上(現上新川端)新川端下(現下新川端)など。
例外は恵比須流の「中石堂」でこの「中」は方角の中や無うて
海の中ていう意味です。
石堂川のあたりがまだ入海やった頃、海の中に大きな石のお堂が
あったことからやそうです。
ていうことは昔は現大博通あたりも海やったことがわかります。
その東、海に突き出した場所が官内町、名のごとく探題のお屋敷があったところで
「濡れ衣」の語源の浜ですね。
これ全体図ばってんが見えんけん拡大します。
※総合サイトではPDFで掲載したけん拡大して見られます。
恵比須流は石堂流・福神流は魚町流で表記しとります。
洲崎流はわかりやすく大黒流の表記にしてます。
この流名は最初は「石堂・魚町・洲崎・東町・呉服町・西町・土居」です。
みてわかるごと現在まで名前がおんなじとは「土居流」だけです。
か~坊から聞くところによると・・・
松囃子に稚児に参加しよった時は「土居町流」やったらしいばってんが
山笠では一貫して「土居流」です。
呉服町は消滅、西と東はご存知の通り昭和41年の町界町名改正後。
さて恵比須・大黒・福神は松囃子ではおなじみです。
山笠に「福神流」は参加しとりませんが松囃子行事には現在も参加しとります。
恵比須、大黒の名の由来は本編「このいちへようこそ」にも書いとります。
ばってんがこれがいつ今の流名に変わったか?が定かでないとです。
あらゆる文献には「明治初期のころ」て書いあるばってんが
正確な年代は書いてありません。
そいけん書き起こしでも「石堂」「魚町」「大黒」で
表記したわけです。
どげんでちゃ良かこてばってんね
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