千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

博多五丁と五町組

先日、わが町の博多&山笠お宅のカズキからLINE。
カズキは以前、博物館の江戸時代から明治初期までの
山笠番順ば書き起こしたときにも手伝うてくれた若手です。
資料からひも解く昔のこと」参照
コロナ過で一番新しゅう入った八文字組員です。
来る当番町に向けておいしゃんが培った山台の術ばおそえろうて
誘うたばってんが惜しくも「八文字組」解散したですもん・・
志ある連中で「八文字組」ば継承させろうと有志が立ち上がってます。
来る当番町に向けて隠し手として鍛えろうかて思うとります。
山の実働部隊は赤手拭(おいしゃんの末っ子のR介も今年から役員げなです。)
山動かす前の山大工の補佐も当番町は揃えとかななりめえ・・

以前テレビで石村萬盛堂の倉庫から出てきた法被
「円形の五つの(T)に組」の法被。

なんに使われたも定かでないて言うことで
テレビ局が博物館まで巻き込んで調べたっちゃけどわからずじまい。
おいしゃんとこにも問い合わせの来ましたもん。
おいしゃんは「たぶんそうやないかいな?」て推測しとったっちゃけど
調べてもそん時はわからずじまいやったとです。
カズキから「例の博多五丁の法被の件、「博多山笠記録(昭和50年)」に記載がありました」
やっぱりおいしゃんの憶測通りやった・・・

灯台下暗し・・・・
おいしゃんももっとる昭和50年発行の「博多山笠記録」の
「町の章(しるし)」の章に載っとりますやん・・・
上中下対馬小路と妙楽寺前町・新町の「五丁(町)組」の町の法被です。
資料には「水はっぴ」として掲載されとりますばってんが
実際に山笠で使われたかは疑問です。
前述の山笠当番順見てもこの五町はそれぞれ独自で当番受けよりました。
おいしゃん推測するに・・・・・・
この五町に限らず流ば構成する町組はそれぞれ小さな町です。
そいけん近隣の数町が寄り合って消防団的な集団で
年行事にあたったっちゃないかいな?
そいけんその法被やったっちゃないかいな?て思うとです。
この五町はそれぞれ隣り合った町ですもんね。
この五町の下対馬小路以外は今の「古ノ一」に所属しとります。
面白かとぃ今の町名の「古門戸町」は入っとらんです。
古門戸町は掛町寄りやったとかいなね?
歴史的には藩政時代の藩(対馬藩)の由来の対馬小路より
妙楽寺・・その境内の古門戸の方が由緒あるって思います。
博多の町って戦国時代の秀吉以降の色合いが歴史に強く残りますもんね。
奴国時代と秀吉以降の文化が入り混じったとが博多部です。

話し戻して・・・・
現在の西鉄バスの「博多五丁(町)」のバス停は
旧古門戸町と昭和通り挟んで麹屋番、掛町の場所です。
※この「町」と「丁」の違いはそう問題では無かて思います。
 昔の文献では気分で使い分けよったのがあちこちで見られます。
 ばってんが「古門戸町(こもんどちょう)」「洲崎町(すさきまち)」
 のごと本来は読み方で使い分けよったとかもしれません。 
 そいけん単独の町でない「ごちょう」はどっちも用いたってしょう?

この「博多五丁」は比較的新しい呼称で「五町組」とは別物です。
今の大商圏の天神ですばってんが昔は博多が商店の家元です。
岩田屋も昔は「麹屋番」にありました。
官内(恵比須流)から掛町までの横筋が博多の商家ば代表する
「博多六町筋」として栄えました。
綱場町やら麹屋番・明治以降は博多大水道に蓋して新しゅう
出来上がった寿通(新道)が博多の大商店街でした。
ちなみに一番新しいとが「寿通商店街」です。
ここの大店が販路開発で天神に進出したとが今の天神の「新天町」
今はその原点の寿通は下川端新開発でリバレイン・博多座になり
町名もなくなっております。
戦後この六丁筋の商店街と組んで上下川端商店街が組んで
売り出したとが今のバス停に残る「博多五丁」です・・
上新川端・下新川端(東下新含む)・麹屋番・寿通・綱場町です。
川端町が入っとらんとがまた不思議なとこですね(^^♪
今は戦後昭和にできた「昭和通り」の丘側の商店街のネットワークの名残が
今もその北側の端に残る「博多五丁」のバス停です。
地元のこげな身近なお話もとっても面白いです。

この昭和通りは戦後にできたっっちゃけど昔からなしてか?
日本の「中央構造線」的な意味合い持っとるっちゃもんね~~
各流、この北と南で微妙に敵対?または文化のちがいますっちゃんね・・
大黒流しかり土居流しかり西町流しかり、東町流しかり・・
こげなせばい地域だっちゃぁこげな文化の仕来りの違うっちゃけん
ましてや世界の地域はまとまるはずがありませんやね・・・・
その昔はニッポン国内でちゃ農作物魚介類の地産の取り合いで
いがみ合ったほど・・・
ましてや世界に目ば向けたらそらさもありなんですやね・・・
それが世界の地域になったら宗教が絡んだらなお一層ややこらしかもんね・・

お話戻して灯台下暗し・・・・・
石城誌やら筑前続風土記やら紐解きよったばってんが
しっかり読んでなかった「博多山笠記録(昭和50年)」」ばしっかり
読んで行こうて思いよります。

今回一回目でシリーズ化して書いて行こうて思います。
ちなみに第一弾・・・・・

「博多でも(玉せせり)しよったらしい!」
やっぱ近年もむ大昔も歴史は面白かやね・・・
チャンチャン

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