山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

初瀬街道から長谷寺へ (その1)

2015年05月09日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)  


桜井駅の南出口から、寂れた商店街を抜け東へ歩くと「跡見橋」が見えてきた。神武天皇が東征の折に、ここで後ろを見返したからという。「跡見橋」の手前で右手に入っていく細道がある。小川と民家の間の細い路地を通り、左側に曲がってゆくと正面に雑木林の小山が見える。これが茶臼山。
この地域の地名は「外山(とび)」、そこから「外山茶臼山古墳(とびちゃうすやまこふん)」とも呼ばれる。
鳥見山の北側にのびる丘陵尾根の先端を成形して墳丘を築いたものと想定される。墳丘の規模は、全長約207m・後円部径約110m・同高さ19m・前方部幅約61m・高さ11mの三段築成の前方後円墳で大きさは我が国三十一番目の規模をもつ。築造時期は古墳時代前期前半(4世紀初頭)で、箸墓古墳に続く初期の古墳とされている。ここ後円部の墳上からは、東西約9.8m・南北約12.3mの方形壇があり、その周囲を丸太で囲んだ「丸太垣 」跡が見つかっている。方形壇の約0.8m下には、南北6.8m・幅約1.1m・高さ約1.6mの竪穴式石室が南北方向に築かれていた。天井は12枚の巨石で塞がれ、石室内の石材は全て水銀朱で塗られていた。その石室の中央には木棺が納められていたが、現存していたのは高野槇で造られた長さ5.2m・幅70cmの底の部分と側面の一部だけという。その後の再発掘で、石室から国内最多の13種、81面の銅鏡が見つかった。古墳時代前期の古墳で、箸墓古墳に次ぐ時期の大王級の墓と考えら、初期ヤマト王権を考える上で重要な古墳と思われる。その割には、ただの丘陵のようにひっそりと佇んでいる。1973(昭和48)年国の指定史跡に。

古墳の西側から北側にかけ山裾は刈り込まれ道が通っている。しかし途中で行き止まりになっていて、一周はできない。墳頂への登り道を探すがはっきりしない。それ程高くないので、登れそうな所を雑草を掻き分けながら登ってみる。墳頂は雑草ボウボウで何にもありませんでした。古墳を示す形跡は何一つ見当たりません。雑木林に覆われて見晴らしもきかない。下の民家の方とお話しすると、2009年発掘調査当時は見学者の行列ができていたそうですが、現在は埋め戻されてしまい訪れる人もほとんどいないとか。



ここからは桜井市の民家越しに三輪山がくっきりと見える。三輪山の手前には初瀬川が流れ、それに沿う形で
初瀬・伊勢街道が東へ向かっている。ここは東方から大和に入る重要な場所でもある。




 宗像神社(むなかたじんじゃ)  


茶臼山古墳を後にし、南側の国道165号線を少し東へ歩くと宗像神社が見えてきた。

鳥居を潜ると正面に拝殿があり、その背後に社殿が鎮座する。社殿は塀で囲われているため、紅い屋根が少し見えるだけ。三棟からなり、中央が本殿で、右が春日社で左が春日若宮社。もともと宗像三神を祀っていたが南北朝時代に兵火で焼失し山麓に小祠だけとなる。明治に復活するまで 神域は奈良興福寺の支配下にあり、春日社だったようです。「神社は荒廃の一途を辿りましたが、幕末の国学者、鈴木重胤が嘉永七年(1854)当地を訪れた際、宗像三神の荒廃を嘆き、村民と相談の上、安政六年(1859)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎え再興し、翌年社殿が完成した。その後明治八年(1875)春日神社の社号を廃して宗像神社とした。明治21年社殿を更に改築して、初めて現在のごとく宗像の神を中央の位置とした」(宗像神社のホームページより)
境内の入口近く左側に「能楽宝生流発祥之地」と刻された石碑が建っている。伊賀国にいた世阿弥の弟蓮阿弥が大和へ来て、ここ外山の地で興こしたのが外山座(とびざ)で、後の宝生流となる。

 朝倉駅手前の天誅組烈士之墓  


宗像神社から国道165号線沿いを東へ進むと広い交差点にでる。この辺りは「宇陀が辻」と呼ばれ、桜井の伊勢街道(初瀬街道)から宇陀方面へ入る起点になっている。「忍坂」と書かれた標識の道を入っていくと宇陀へ続いている。真っ直ぐ行けば朝倉から長谷寺方面への伊勢街道(初瀬街道)です。長谷寺まで6キロの道路標識が見えます。


国道165号線から少し右脇に入り進むと、近鉄朝倉駅の手前の線路脇に「天誅組烈士之墓」の石碑が建つ。側面には「大正七年五月日 建之」「慈恩寺 有志者」と刻まれている。

文久3年(1863)、高取城攻略に失敗し幕府方に追われ、東吉野を経て散り散りになった天誅組。関為之助と前田繁馬の若き二人は、初瀬村まで逃れたが見つかり、全身に銃弾を受けて戦死した。
この石碑から上り、近鉄の踏み切りを渡った山裾に慈恩寺共同墓地がある。その中に若い命を散らした関為之助と前田繁馬の墓がある。

 欽明天皇・磯城嶋金刺宮跡(きんめいてんのう・しきしまのかなさしのみやあと)  


国道165号線に戻り少し進むと、前方が開け、紅葉に囲まれた三輪山と大和川の広い河川敷が現れた。かって市場が栄え、宮殿があった場所なのです。中国・隋の使者がここで船から降りたという。いくら想像たくましくしても、古代ヤマトのイメージが浮かんでこない。
大和川に架かる「真佐野渡橋(しんさのとはし)」の手前を左に入り、河川敷沿いに歩いて磯城嶋公園へ向かいます。


この周辺は真っ白なコンクリートの固まり「中和幹線道路」が築かれ、景観が全く一変してしまい”いにしえ”の雰囲気は全く無い。
高架の下を潜り北側に出ると川沿いに小さな公園が見える。巨大な高架道路と大和川に挟まれ、窮屈そうな磯城嶋公園です。


この磯城嶋公園の東端に、四つの石碑が建つ。右から『磯城邑傳稱地』『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』『仏教公伝』『柿本人麻呂の歌碑』の碑が並ぶ。いかにも急場しのぎでまとめて置かれたといった風に見えます。『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』碑は、今まで中和幹線道路の南側の桜井市水道局前庭に置かれていたが、何らかの事情でここに移されたようだ。

『日本書紀』や『古事記』によれば、欽明天皇は即位した翌年の7月、磯城郡の磯城嶋(しきしま)に金刺宮(かなさしのみや)を営んだと記す。第29代欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女(たしらか)との間に生まれ、異母兄・宣化天皇の後を継いで32年間(539 - 571)在位した。そして敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の四天皇の親であり、聖徳太子の祖父に当たる。

ここから1キロほど北西には「崇神天皇磯城端離宮跡(しきのみずがきのみや)」がある。三輪山の南西麓で、大和川沿いのこの地域は、古くは「磯城(しき)」と呼ばれていたようです。飛鳥(明日香)に都が置かれる以前の時代です。現在、飛鳥は注目されているが、その前の大和王朝の礎を創った「磯城・磐余」(桜井市)の地がもっと注目されてよいと思うのですが・・・。仏教が最初に持ち込まれた場所でもあり、聖徳太子が青春時代を送った所でもあるんです。
現在の地名は「外山区城島町」となっており、「磯城嶋」の名残を残す。「磯城嶋(敷島、しきしま)」は日本の古名「大和」にかかる枕詞であり、日本の原点とされるべき地域なのです。

『仏教公伝』の碑には、郷土の文芸評論家・保田與重郎(やすだよじゅうろう)氏の著作から引用し、
"初瀬川の南に、磯城金刺宮がある。佛教が正式に渡来したのはこの都である。日本佛教発祥の地である" と刻まれている。

 玉列(たまつら)神社  



公園を後にし、慈恩寺集落へ入っていく。初瀬川右岸沿いに走る県道199号線(慈恩寺三輪線)の北側、三輪山の山裾の住宅道(東海道自然歩道?)を歩いていると玉列神社の標識に出会う。坂道を山側に上って行くと、階段と鳥居が見える。

階段の上り口で、右側を見ると鮮やかな紅葉と朽ちかけた巨樹が目に付く。つっかい棒で支えられ辛うじて倒れないでいる様子。傍には奈良県保護樹木の標識が建てられ「樹齢800年といわれ、「阿弥陀寺のケヤキ」「雷の落ちた木」と言って地域住民の人々に親しまれている」と書かれている。欅(ケヤキ)の大木で、落雷に遭いこのような姿になってしまったようだ。幹の中央に空洞がポッカリ空いている。それでも生きている証に、色ついた葉枝を精一杯広げているのが痛々しい。欅の周りには、付近の街道沿いから拾い集められた小石仏や道標が並べられている。
鳥居を潜って薄暗い参道を進むと、正面階段上に拝殿(割拝殿)が見え、その奥に石垣上に瑞垣に囲まれて本殿(春日造・桧皮葺)が建つ。祭神は大物主(大神神社の祭神)の御子神である玉列王子(たまつらのみこ)神とされる。しかし記紀などにはみえず、確たる出自・神格などは不詳だそうです。本殿右下に三つの境内社が並ぶ。右から”金の神様”金山彦社、”道と教えの神様”猿田彦社、”火(かまど)の神様”愛宕社。

玉列神社は古くは「玉椿(たまつばき)大明神」と呼ばれ、椿の神社として有名。後ろの山には椿の大木が多く茂り、また境内には早咲き、遅咲きなど200種500本あり、その時期になると境内は椿の花で埋め尽くされ彩られるという。参道脇には椿の苗木が多数植えられ、奉納者の名前や、「京錦、若武者、らんまん、薩摩、さかさ富士・・・」などの名札が添えられている。

毎年椿が見頃な3月の最終日曜日には椿まつりも開催され、神事・浦安の舞・御神酒の振る舞い・椿にゅう麺(三輪そうめん?)の振る舞い・椿の展示・販売・椿饅頭(150円)の販売が行われるという。
境内の広場には「奉納演芸場」が設けられている。椿まつりでは、この舞台で髪に椿の花を付けた巫女による神楽「浦安の舞」の奉奏が行われるそうです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿