山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紅葉の高雄・三尾めぐり 2

2016年12月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 清滝橋から高雄橋へ  


清滝橋上で上流を見ればダムのようなものが見える。これが”危い”と注意書きにあったダムなのうだろうか。
清滝橋を渡り、神護寺の正面に行く途中。神護寺の手前でこの絶景です。11月中旬だがもう満開、いや見頃となっている。神護寺の紅葉は京都で最も早く見頃を向かえ、京都の紅葉シーズンの始まりを示すという。
川向の「もみじ屋」別館へ渡るつり橋。「もみじばし」とあり、「ゆすったりしないで下さい」と書かれている。歩くだけで微かに揺れ、少々気持ち悪い。「もみじ屋」だけあって、絵になるもみじ風景です。この別館は「川の庵」と呼ばれ、本館は裏山の上にある。即ち高雄バス停の横。山上の本館からの眺めも素晴らしいようです。
この辺は神護寺の正面からは反対側になるので、訪れる人は少ない。皆さん、こんなに素晴らしい景観があるのをご存知ないのでしょう。高雄観光ホテル先に紅い「高雄橋」が見えてきた。ホテル横の川沿いには川床小屋が並んでいる。
高雄観光ホテルのすぐ先に、紅い欄干の高雄橋が現れる。右山上に高雄バス停や駐車場があり、坂道を下りてくればすぐ高雄橋です。だからこの高雄橋が実質上、神護寺の入口になり、この辺りから人が多くなってきます。

 参道の階段  


山岳寺院である神護寺の境内もかなり高い所にあり、階段はつきもの。階段は長いが、それほど傾斜がきつくないので苦無く登れます。なによりズッーと紅葉に覆われているので、”綺麗ネ!、ワァー絶景!”と楽しみながら登っていける。途中にお茶屋さんもあるので、休憩もできる。
お茶屋さんはお茶だけでなく、うどん、そば、おでん等のお食事もできます。名物「もみじまんじゅう」も。
参道の丁度中ほどに「硯石」(すずりいし)がある。案内板には次のように書かれている。
「空海弘法大師が神護寺に在山の時、勅願の依頼を受けられたが、急な五月雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げられたところ、見事に「金剛定寺」の四文字を書かれたという。但しこの寺は現存していない」
弘法大師のこういう話は、どこにいっても尽きないネ。それだけ弘法大師が崇拝されていたということでしょうが。
「硯石」の傍には茶屋「硯石亭」があります。ここの名物は「もみじ餅」。他にもぜんざいや湯豆腐セットなども。しかし何と言っても一番は紅葉の美しさ。庭に入って眺めるのは自由ですが、座ってはいけません。座りたかったらぜんざいを。

 神護寺の楼門が見えてきた
  



楼門が目の前に見えてきた。階段は辛い、という人のために滑らかな坂道も用意されている。階段中央のテスリも高齢者には優しいですネ。両側の緑と紅色のグラデーションが冴えます。長い階段の参道でしたが、しんどくありませんでした。
階段途中で、硯石亭のお庭を見下ろす
登りつめると拝観受付所のある正門にあたる楼門です。鬼瓦に寛永6年(1629)の刻銘があるので、その頃の建立とされる。両脇には持国天、増長天が睨んでいます。
ここで拝観料 500円払って門を潜る。拝観時間 朝9時~夕4時,無休(ただし、紅葉の時期は朝8時から拝観できるようです)


楼門から階段を見下ろします。この時期紅葉に彩られ美しい。春の新緑も冴えそうです。

ここまで400段余りの階段があるという。しかし単調な階段でなく、折れ曲がったり、紅葉を楽しんだり、またお茶屋で一服しながら登ってきたので、あっという間でした。



 神護寺の歴史  


★ 始まり ★
奈良時代末期、桓武天皇から新都建設の最高責任者(造宮大夫)を命じられ、平安京造営に力を尽くした和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)は、天応元年(781)国家安泰を祈願し河内国(現在の大阪府)に神願寺(しんがんじ)を建立した。またほぼ同じ時期に、山城に愛宕五坊(白雲寺・月輪寺・日輪寺・伝法寺・高雄山寺)の一つ「高雄山寺」を建立した。
高雄山寺(現在の神護寺)は和気氏の氏寺としての性格が強く、延暦18年(799)清麻呂没後、高雄山寺にその墓所が造られ、和気氏の菩提寺としての性格を強める。

★ 最澄、空海の時代 ★
清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄(767~822、伝教大師)、空海(くうかい、774-835、弘法大師)を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込む。

延暦21年(802)、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)の要請により、比叡山中にこもって修行を続けていた天台宗開祖・最澄が、高雄山寺で法華経の講説を行う。
延暦23年(804)最澄と空海は遣唐使として唐へ。
延暦24年(805)唐より帰朝した最澄は、桓武天皇の要請で高雄山寺にてわが国最初の灌頂壇を開く。
大同元年(806)空海、唐より帰朝。最澄は、帰国後1か月にもならない空海のもとに弟子・経珍をやり、空海が唐から持ち帰った経籍12部を借覧し、その後も借り続けた。
大同4年(809)空海は高雄山寺の初代の住持に迎えられ入寺する。以来14年間住み活動の拠点とし、高雄道場と呼んで真言宗を開くための基礎を築いた。
弘仁元年(810)、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を行う。
弘仁3年(812)最澄は弟子と共に高雄山寺に赴き、空海から灌頂(密教の重要な儀式)を受ける。この時、灌頂を受けた僧俗名を列記した空海自筆の「灌頂歴名」が現存し、国宝になっている。
この間数年間にわたり、高雄山寺を中心に最澄、空海の親交が続けられてきた。

ところがWikipediaには以下の記述がある。
「813年1月、最澄は泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。
813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。」
その後、最澄は空海と決別したという。

弘仁七年(816)、空海は高野山を修禅観法の道場としてその開創に着手。
弘仁13年(823)、最澄、比叡山の中道院で没、享年56歳。
弘仁14年(823)、空海は東寺を賜って住み、鎮護国家の道場としてその造営を任されている。

天長元年(824)清麻呂の子・真綱は、河内の神願寺が低湿の砂地にあり、汚れた地で密教壇場にふさわしくないという理由で高雄山寺と合併し、高雄山寺を定額寺として「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」(略して神護寺)と改称した。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味。合併の際に多くの霊宝が移された。現在、神護寺の本尊として金堂に安置される薬師如来立像(国宝)もその一つ。
承和2年(835)空海の死(62歳)。

★ 文覚上人による神護寺の再興 ★
神護寺は空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、正暦5年(994)と久安5年(1149)年の二度の焼失で堂塔のほとんどを失なう。その後、神護寺は衰退、荒廃していく。
平安末期の仁安3年(1168)、文覚上人(もんがく、1139-1205)が神護寺に参詣すると、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒廃していることを嘆き、再興を始めた。早速草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置した。しかし復興が思うにまかせぬため、承安3年(1173)意を決した文覚は後白河法皇を訪ね、千石の収入のある荘園の寄進を強要した。そのため、法皇の逆鱗にふれ、伊豆に配流されてしまう。その伊豆で、同じ運命の源頼朝と親しくなり、平家打倒の挙兵を促したと伝えられている。
治承2年(1178)文覚は配流を許され寺に戻る。
寿永3年(1184)年、文覚上人が後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあ って寺の再興は進んだ。文覚自身は罪を得て対馬に流され、1205年配流先で生涯を終えた。遺骨は弟子・上覚により持ち帰られ、当寺に埋葬されたという。神護寺の再興は弟子の上覚と明恵によって続けられた。

★ 室町時代~江戸時代 ★
室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で再び兵火をうけ大師堂をのこして焼失しまう。
元和9年(1623)年、京都所司代・板倉勝重が奉行になり、細川忠興の帰依も得て、金堂(毘沙門堂)、五大堂(講堂)、明王堂、楼門などの伽藍の建て直しが行われた。江戸時代中期には堂宇七、支院九、僧坊十五を数えるまでに再興された。

★ 近代 ★
神護寺も例に漏れず、明治の神仏分離令(1868)による廃仏毀釈の弾圧を受ける。公式サイトには「ところが、明治維新後の廃仏毀釈によって愛宕山白雲寺は消滅、当寺も開創以来維持されてきた寺域はことごとく分割のうえ解体され、支院九と十五坊はたちまち焼失、別院二ヶ寺と末寺のすべては他寺に移された。」とあります。
少しでも残されただけでも幸いです。奈良県「山の辺の道」石上神宮近くの大寺院・内山永久寺は、全域果樹園に成り果てている。ただ一つ境内池が残され、松尾芭蕉がこの寺を訪れた時に読んだ句碑だけが寂しそうに立っています。

昭和10年(1935)、京都の豪商・山口玄洞の寄進により、金堂、多宝塔、清麻呂廟、唐門などの伽藍の再建、修復が行われた。
戦後の昭和27年(1952)、寺領の一部を境内地として政府より返還され今日に至っている。



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