山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

古市古墳群みてやろう 3

2018年10月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
今回は、前の山古墳(日本武尊白鳥陵)から岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)まで。

 前の山古墳(日本武尊白鳥陵)  



高屋八幡山古墳から国道170号線を古市駅ほ方向へ進む。すぐ左手に前の山古墳が見えているのだが、間に近鉄長野線の軌道が縦断しており横へ渡ることができない。
駅手前100mほどの所に左手にカラー舗装の遊歩道が見える。入口に「日本武尊御陵表参道」の石柱が建てられています。このよく整備された遊歩道も竹内街道の一部になっているので、すでに歩いた道です。路面には「ウォーキング・トレイル」と彫り込まれています。

やがて鉄柵と満々と水を貯えた濠が現れ,陵墓の厳かな森が姿を見せました。墳丘の形といい濠の美しさといい、そしてカラー舗装の遊歩道といい、ここまで見てきた古市古墳群の中では最も感動的な古墳です。別名「白鳥陵古墳」ともいわれ、名称まで美しく響きます。鉄柵にまで白鳥が羽ばたいている。

美しいカラー舗装の道を前方部の北角まで行く。右岸の住宅の中ほどに拝所の鳥居が見えます。竹内街道となっているこの北側だけが前の山古墳(日本武尊白鳥陵)を鑑賞できる場所です。前方部だけでなく、南側の側面から後円部にかけても建物に占められ近づくことはできません。

前方部の北角から撮った側面。真ん中あたりに造出しのふくらみが見られる。
前の山古墳は「軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)」、「日本武尊白鳥陵古墳(やまとたけるのみことはくちょうりょうこふん)」などと呼ばれている。墳丘長190m、後円部の径106m、前方部の幅165mの前方後円墳で、幅40~80mの周濠に囲まれている。古市古墳群では7番目の大きさ。古墳時代の後期にあたる5世紀末から6世紀初頭に築造されたものと推測されてる。

拝所のある前方部は西側ですが、前方部には濠に沿ったような道はない。濠傍まで住宅が密集しているのです。しかしどこかに拝所への入口があるはず。住宅街の中の車道を進むと、空き地に「←白鳥陵 20m」の小さな目印がありました。矢印に従い入っていくとすぐ拝所です。

住宅に囲まれ窮屈そうな拝所となっている。宮内庁は、記紀に記された日本武尊白鳥伝説にもとづき第12代景行天皇皇子の陵墓に治定し、「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのしらとりのみささぎ)」として管理している。
よく知られているように日本武尊の陵墓は三ケ所あります。伊勢の国の能褒野(のぼの、亀山市)で病に倒れその地に埋葬された。そこから一羽の白鳥が空へ舞い上がり大和の琴弾原(ことひきのはら,御所市)に舞い降りた。ここが二つ目の陵墓です。さらにそこから舞い上がり河内の旧市邑(ふるいちのむら)に飛来したといわれています。それがこの前の山古墳(日本武尊白鳥陵)です。さらに羽を曳きながら野を越え西の方へ飛んで行ったという。「羽曳野市」の名称の由来です。日本武尊の三つの墓は「白鳥三陵」と呼ばれ、宮内庁が厳重に管理している。「白鳥伝説」と云われているのですが・・・(実際には、能褒野墓が日本武尊の墓で、琴弾原とここの白鳥陵はそれの付属物というのが宮内庁の見解のようだ)。この伝説の陵墓も世界遺産を目指しています。この墳丘と濠を「白鳥公園」として市民に開放したらどんなに素晴らしいことか。

琴弾原の陵墓は訪ねたことがある(ここを参照

 白髪山古墳(しらがやま、清寧天皇陵)  



前の山古墳から住宅の中を西側に出ると、外環状線の広い車道越しに白髪山古墳(しらがやま、清寧天皇陵)が現れる。こちらは後円部で、前方部は西側を向く。二段築成の前方後円墳で、墳丘長115m、後円部(直径63m、高さ10.5m)、前方部(幅128m、高さ11m)。前方部の幅が後円部の2倍あるのが特徴。埋葬施設や副葬品は不明だが、埴輪の年代から6世紀前半の築造と推定されている。

横断歩道を渡ると後円部で、ここからは古墳の全景がよく見える。広い濠をもち、水を貯めています。

西側の車道に出て南へ進むと、車道脇に拝所が現れる。第22代・清寧(せいねい)天皇「河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)」に治定されている。雄略天皇の皇子だった清寧天皇は生まれつき白毛だったことから「白髪皇子」とも呼ばれた。古墳名もこれからくる。


白髪山古墳(清寧天皇陵)には傍を歩けるような道は設けられていない。建物と建物の間に入り込み覗き見するしかない。今度は、前方部の南角から覗いて見る。前方部の脇に渡り土堤が見られる。これは江戸時代に墳丘を田畑などに使うため渡した堤と思われる。
おお、白鳥がいてるゾ!



 峯ケ塚古墳(みねがづか)  



白髪山古墳(清寧天皇陵)の拝所前の車道を北上します。400mほどで府道31号線に突き当たるので左折するとすぐ峰塚公園。公園前の道は「白鳥通り」となっている。峰塚公園も竹内街道を歩いた時に立ち寄っているので二度目です。竹内街道は公園前を北へ進み、野中寺前から左へ歩くコースとなっている。
公園入口に綺麗なトイレがあります。

公園に入ると目の前に峯ケ塚古墳(みねがづか)が横たわっている。写真の左(東方向)が後円部、右(西方向)が前方部。二段築成の前方後円墳で、墳丘長96m、後円部(直径56m、高さ8m)、前方部(幅75m、高さ10.5m)。西向きの前方部のほうが高い。

前方部の写真。墳丘には埴輪列と葺石が見つかり、5世紀末から6世紀初頭の築造と推定されている。昭和62年からの復元整備に伴う発掘調査により、二重の濠をもっていることが分かりました。前方部と南側の側面だけ濠が残され水が溜まっている。

説明板によれば、平成3年の発掘調査で、後円部中央に石室が見つかった。その中に、1.2mの大刀が15本も入っていた。さらに三千点を超える副葬品(武器、武具、馬具、金銀ガラス玉などの装飾品)が見つかり、大王クラスの古墳であったことが想定されている。国の史跡に指定され、世界文化遺産候補に含まれています。

峯ケ塚古墳を含む峰塚公園はかなり広く、よく整備されている。公園の西に小高い丘が見える。この上に小口山古墳があります。
階段があるので登ってみました。休息所、展望所となっており、古墳らしさはない。説明板が置かれているので小口山古墳のものか、と思ったら峯ケ塚古墳のものでした。小口山古墳については痕跡も説明もありません。

ここからの眺望はすばらしい。白鳥陵古墳、二上山が一望できる。丘上の展望所から眺めた峰塚公園と峯ケ塚古墳。右遠方には前の山古墳(日本武尊白鳥陵)が見え、その遠方に二上山が。左端は誉田山古墳(応神天皇陵)と思われます。

 塚穴古墳(来目皇子墓)  



次は塚穴古墳(来目皇子墓)です。小口山古墳のある丘から西側に降り、住宅街を抜ければすぐなのですが、自転車を置いたままなので公園入口に引き返す。そこから「白鳥通り」を西へ行き、最初の信号を左折し200mほど行った所にある。「縄文の杜 ふれあい館」が目印です。
塚穴古墳(つかあな)は一辺48mの方墳で、空堀が周っている。7世紀前半の築造と推定されている。

細路を入るとすぐ南向きの拝所だ。塚穴古墳は宮内庁により「「来目皇子埴生崗上墓」(くるめみこはにゅうのおかのうえのはか)」に治定されている。皇子なので「陵」でなく「墓」です。日本武尊は皇子だったが「白鳥陵」とされたのは異例です。
来目皇子は第31代用明天皇の第二皇子で、聖徳太子の弟にあたる。日本書紀によれば、新羅攻め将軍に任命されたが、推古11年(603)筑紫で病のため死去する。周芳(すおう、山口県)でモガリをし、その後河内埴生(はにゅう)山岡上に葬られたとされる。埴生とはこの辺りをさす。
明治に入って陵墓指定をうけ修陵が行われ、現在の形になったが、それまでは横穴式石室と思われる穴が開いていた小山だった。そこから「塚穴」という名称が。

 ボケ山古墳(仁賢天皇陵)(にんけん)  



[A]は野々上埴輪窯跡、[B]は野々上古墳

峰塚公園から北へ300mほどでボケ山古墳(仁賢天皇陵)が見えてきます。見えているのは南西向きの前方部。地名をつけて「野中ボケ山古墳」と呼ばれことも多い。拝所が見えているので行ってみます。


車道右側に拝所への入口が見え、「仁賢天皇埴生坂本陵」の石柱が建っています。ゆるい坂道の参道を下ればすぐだ。第24代・仁賢天皇「埴生坂本陵」(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されている。鳥居はコンクリ製。

どのような理由でこの古墳が仁賢天皇陵とされたのだろうか?。ネットで調べたがよく判らない。江戸時代中頃の河内の学僧・覚峰が、ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の訛ったものと考証し、仁賢天皇陵だとした。仁賢天皇は「億計王」と呼ばれていたのです。それが幕末の天皇陵治定作業で採用され、樹木を植え替え、周濠を整え、拝所構えが造られた。ということくらいしか載っていない。
「ボケ山」と呼ばれる山があった。訛りを理由に「ボケ」を「オケ」に読み替え、「オケ」王の墓だ、なんて牽強付会もいいところではないでしょうか。考古学的な検証など何一つ行われていないのです。そして現在においても科学的な考証を行おうとしない、それどころか拒否しているのです。
近づくと大きな池に遮られる。上田池(かみのたいけ)だ。池の北側の道から土手に上るとまた大きな池がある。下田池(しものたいけ)だ。これらの池は、昔よりため池として水田の灌漑用水として利用されてきた。また池の一部は、古代に造られていた運河の「古市大溝」の一部分でもあった。
二つの大きな池の周囲は整備された遊歩道が設けられている。この遊歩道からは、少し遠くにボケ山古墳を眺めることができます。

後円部から南側の側面を撮る。中ほどに造出しと思われるふくらみが見られます。それほど幅広ではないが周濠がめぐり水を貯えている。
二段築成の前方後円墳で、墳丘長122m、後円部(直径65m、高さ11.5m)、前方部(幅107m、高さ13m)。前方部が後円部と比べて高く、かなり広いのが特徴。埋葬施設や副葬品は不明だが、出土した円筒埴輪などの特徴から6世紀前半の築造と推定されています。

おお、ここにも白鳥がいるゾ!。

こちらは後円部から北側の側面を撮ったもの。南側に比べ濠は少し狭まっている。
なお、近づいて濠を見れる場所はこの後円部の所しかありません。なお、説明板がどこかに立てられているはずだが、見つけられなかった。

 野々上埴輪窯跡・野々上古墳・青山古墳  



ボケ山古墳の前方部北西角の石垣の前に「野々上埴輪窯跡」(ののうえはにわかまあと)の説明板が設置されている。この辺りから埴輪を焼いた窯跡が見つかっている。説明板のみで跡地は残されていない。埋没保存されたのでしょう。

埴輪窯跡の説明板から北西50m位の所に野々上古墳(ののうえ)がある。小さなハゲ盛りで、宮内庁により仁賢天皇陵の陪塚に指定されているのでフェンスで防御されています。
一辺20m、高さ2mの方墳で、付近から採集された埴輪によると4世紀後半の築造と推定される。ならば6世紀前半の築造とされる仁賢天皇陵の陪塚というのは不合理なのだが・・・。



ボケ山古墳(仁賢天皇陵)の東に外環状線を挟んで青山古墳(あおやまこふん)がある。青山病院の裏手だ。ただし病院側からは入れないのでスーパー・イズミヤの方から大回りして行く。
南側に藤井寺市立青山児童公園があり、そこに案内板が置かれていた。南側の濠は埋められた状態に。




濠をめぐらしているが、写真の西側だけに水が溜まっていました。二段築成の円墳で、墳丘長72m、直径62m、高さ10m。墳丘の南西部分には、低く短い方形の造出しと呼ばれる、幅25m、長さ17mの方形の突出をもっています。濠の調査で円筒埴輪のほか、家・きぬがさ・盾・ゆぎ・馬・人物形などの形象埴輪が出土。埴輪から5世紀中頃の築造と推定されている。
国の史跡であり、世界文化遺産候補に入っている古墳でもあります。

 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)  



ここからは二日目(9月11日火曜日)です。
ボケ山古墳(仁賢天皇陵)から北へ700mほどの位置に岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)があります。古墳名の「岡」は地名で、「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛したもの。
南側の東角に到着する。古墳の前方部東角にあたり、ここは古墳周回路の東の入口で、案内板が設置されています。写真で、右の細路に入れば墳丘東側を望め、左の道を進めば前方部の拝所に行ける。

まず、右側の道に入ってみる。高く、ぶ厚いコンクリの柵に阻まれ写真撮るのも容易でない。狭い隙間にレンズを差込み撮るしかない。
これは前方部で、対岸に拝所が見えます。濠水の水面は穏やかで、墳丘を美しく写している。
墳丘の東側面を撮りたかったのだが、頑丈な柵が高く、カメラを掲げ上げても撮れない。道がぬかるみ歩きにくいので引き返す。

入口に戻り、前方部の道に入る。前方部は東側と違い非常に防御が甘い。一応ロープが張られているが、低く簡単に跨げる。どこの天皇陵にも掲げられている「釣りをするな!、魚を獲るな!」などの高圧的な警告も見られない。宮内庁は、ここ仲哀天皇陵に限ってはたいへん国民に寛容で優しいようです。世界遺産を目指すならこれくらいでなくてはならないと思う。堤上の植松も美しく、天皇陵らしい景観を見せてくれている。

失礼ながら堤に入らせていただきました。宮内庁様、ゴメンナサイ。ここからは墳丘の東側面が撮れます。濠が広く、美しい。
(案内板より)三段築成の前方後円墳で、墳丘長245m、後円部(直径150m、高さ20m)、前方部(幅180m、高さ16m)、古市古墳群では3番目、全国では16番目の規模をもつ古墳。周囲に最長幅50mの広い盾形の濠をもつ。堤の盛り土が高いのは昔、城として利用された際に盛り土されたからだという。東側に造出しがある。埋葬施設・副葬品は不明だが、円筒埴輪、形象埴輪が出土しており、それから5世紀後半の築造と推定される。

おお、ここにも白鳥が飛んでいるゾ!。

松並木の参道を西に進めば拝所です。拝所前は住宅が迫り、非常に窮屈そうだ。拝所の鳥居はコンクリ製のようです。

第14代・仲哀天皇(ちゅうあい)「惠我長野西陵」(えがのながののにしのみささぎ)に治定されている。仲哀天皇は、父が日本武尊で神功皇后を妻とする。そして応神天皇は子にあたる。この三人の名はよく知られているが、仲哀天皇は影が薄い。
知名度は低いながらこれだけ立派な前方後円墳が割り当てられているのは、知名度の高い父・皇后・子のおかげだろうか。しかし岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵とするのに疑問が多い。考古学的に岡ミサンザイ古墳は5世紀後半の築造とされ、子の応神天皇陵(誉田山古墳)が5世紀前半の築造と推定されている。子の墓より新しいとは・・・。そこから489年に亡くなった第21代雄略天皇とする説が有力。

拝所からさらに西側に、前方部西角まで道は続いている。ここが前方部西角で西からの入口になる。この角からさらに墳丘の西側面に回る道が設けられ、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)は濠に沿ってほぼ一周できるようだ。他の天皇陵と違い、下々に優しいようで、”仲哀”でなく”仲愛”と変えてやりたいくらいです。

平成8年の宮内庁による発掘調査で、墳丘は戦国期に三好方が織田信長に対抗する城郭として利用され、後円部に本丸、前方部に櫓台、裾部から墳丘部に向けて竪堀等が掘り込まれ、古墳全域が城郭化されていた。そのため大規模な改変を受けており、古墳本来の姿を大きく失っているそうです。

 鉢塚古墳・アイセルシュラホール(藤井寺市立生涯学習センター)  



鉢塚古墳(はちづか)は岡ミサンザイ古墳後円部の北100m位にある。やや見つけにくいが、市立藤井寺西幼稚園の裏なので、幼稚園を目印に探せばよい。古墳へ入れる入口は南側で、ここだけが古墳の全景を見通せます。西に前方部を向けた前方後円墳です。柵で囲まれているが宮内庁管理でありません。柵の一部が開けられ入れる。説明板が立っている。
墳丘上まで土嚢が並べられている。遠くから見ると古墳の葺石のように見えます。二列に並べられ階段の役目をしているのです。これが踏み心地が良く大変登りやすい。費用がかからず、土砂流出も防げる。良いアイデアなので他の古墳でも取り入れてもらいたい。
墳丘周囲には周濠が認められたが、住宅や幼稚園などが建ち埋没してしまっている。いや”埋没保存”です。



墳丘上の前方部から後円部を撮る。墳丘長60m、後円部(直径38m、高さ6.5m)、前方部(幅40m、高さ4m)の前方後円墳。築造年代は5世紀後半と推定されている。






古墳の北側に回ると市立藤井寺西幼稚園だ。このご時世、頑丈な柵扉が閉じられ、「警察官パトロール拠点」「防犯カメラ設置園」「知らない人に声をかけられたら?、ワァ~ 大きな声を」のプレートが。おじさんがウロウロするのも気がひけるので、写真を撮って素早く立ち去る。この古墳も世界遺産登録候補の一つです。

ボケ山古墳(仁賢天皇陵)の後円部の東側に「アイセルシュラホール」という奇妙で巨大な建物がある。正式名は「藤井寺市立生涯学習センター」。周辺は住宅、学校が建ち、田圃が広がる地帯。周辺環境に不似合いな建造物だ。あの広い峰塚公園のほうが似合いそうだが。

4階まであるが、この最上階がすごい。一面に人工芝を敷きつめたゲートボール場となっており、雨天でも利用できるよう電動開閉式ドームになっているそうです。
この奇妙な外観は、近くの岡古墳(消滅)から見つかった巨大な船形埴輪と、三ツ塚古墳で出土した修羅(巨石運搬用ソリ)をモチーフに設計されているという。「アイセルシュラ」の「シュラ」は修羅だが、「アイセル」とは?。和英辞典などみるが???。パンフに「愛せる」の文字が・・・これかな?。

二階が歴史展示ゾーンで、藤井寺市内の遺跡で見つかった旧石器時代から奈良時代までの遺物を展示している。感心したのは、映像鑑賞できる個室が4つも設置されていたことです。


津堂城山古墳から出土した水鳥形埴輪三体、実物で、重要文化財となっています。




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