★2022年11月16日(水曜日)
門跡寺院の曼殊院、神社のようなお寺・赤山禅院を訪ねる。
曼殊院(まんしゅいん)
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圓光寺を出て、曼殊院へ向かう。一本道ではないが、要所には道案内が置かれ迷うことはない。30分ほどかかります。
樹木に覆われた参道を進むと、正面に勅使門が現れます。階段上に西向に建ち、これが曼殊院の本来の表入口となるのでしょうか。
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勅使門の両側には、寺院の格式の高さを表す五筋塀がのびる。勅使門前のこの辺りが曼殊院で一番の紅葉スポットになる。弁天池周辺を除いて、他に紅葉の見所はありません。
■曼殊院の歴史
「曼殊院は、もと伝教大師最澄の草創に始まり(八世紀)、比叡山西塔北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。天暦元年(947)、当時の住持・是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した「(受付パンフより)。
天仁年間(1108~9、平安後期)忠尋座主が当院の住持だったとき、北野天満宮管理のため近くの北山に別院を設け「曼殊院」と称した。この別院が次第に本院となっていきます。応永4年(1397)、足利義満は荒廃していた西園寺家の北山の土地を譲り受け、ここを改修し自らの住居として「北山殿」(金閣寺)を創建。その影響で曼殊院も移転を余儀なくされ、京都御所の北側に移る。文明年間(1469~87)、後土御門天皇の猶子であった慈運法親王が26代として入寺して以後、曼殊院は門跡寺院となります。青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台宗五門跡の一つとなっている。
明暦2年(1656)、29代門主を継いだ良尚法親王は御所の北から修学院離宮に近い現在地の一乗寺に移し大書院(本堂)、小書院、庫裡などの堂宇を建立した。これが現在の曼殊院です。良尚法親王の父は桂離宮造営を始め、兄が完成させた。そのため曼殊院造営にも桂離宮の影響が色濃く反映されている。江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深く「小さな桂離宮」ともいわれています。
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勅使門の前を左に(北側に)進むと、北通用門があり、拝観受付となっている。
拝観時間 9:00~17:00(16:30受付終了)
拝観料 一般600円 高校500円 中小学生 400円
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庫裏(重要文化財)から履物を脱ぎ、建物内に入って行く。入口の大妻屋根に「媚竈(びそう)」と書かれた扁額が掲げられている。曼殊院をこの地に造営した良尚法親王の筆によるもので、論語の「その奥に媚びんよりは、むしろ竈(かまど)に媚びよ」(奥にいる権力者に媚びるのではなく、生きていくのに大切な竈(かまど)やそこで働く人々に媚びよ)を引用したもの。
庫裏とは食事を作る台所のことで、屋根の上に煙だしだ見える。。玄関となっている庫裏は「下之台所」として使われ、一般僧侶の食事を作る所だった。庫裏の東隣にさらに大きな台所があります。「上之台所」と呼ばれ、高貴な人や住職などの食事を作っていた。竈が並び、棚にいろいろな食器が並べられている。一見の価値ある台所で、曼殊院で一番印象に残った所です。写真に撮れないのが残念。
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大書院(重要文化財)・小書院(重要文化財)や、狩野永徳や狩野探幽の襖絵のある部屋などあるが、写真に撮れないので紹介できません。室外だけ撮ることにしました。
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国の名勝指定されている庭園は小書院、大書院の南側に広がる。白砂に松や刈込みを配した島を置いた枯山水式庭園。白砂で表された水は、小書院前から流れ出て川となり、大書院の前で海となり、やがて宸殿前の大海原へと流れてゆく。「この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある」(受付パンツより)
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左の建物は小書院。縁の欄干は屋形船のように見せているという。室内の天井の一部も屋形船の様に造られているとか。此岸から彼岸へ向かう舟の意味でしょうか。
屋根が二重になっている。「新たに葺き替えた小書院の屋根は、桂離宮と同様雁が重なって飛んでいく姿を表わしているといわれます」(公式サイトより)
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小書院前に置かれた手水鉢(直径80cm)。下の台石は亀で、手前の丸い部分が頭です。横の組石は鶴を表す。鉢の周りには梟(ふくろう)が刻まれていることから「梟の手水鉢」と飛ばれている。手水鉢は建物側へわずかに傾けられており、部屋内から水に写した月見の趣向があったという。
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これは大書院前の庭園。鶴島、亀島、樹齢400年の五葉松、キリシタン灯篭・・・どれだろう??。
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ネットの境内図を見ると、大書院の西側には梅林と護摩堂がのっている。護摩堂(左のお堂)はそのままだが、梅林の場所には新しいお堂が造られている。これは最近完成した宸殿です。宸殿は門跡寺院の中心となる建物だが、元あった宸殿は明治政府から供出要請があり献納した。政府はこれを元手に病院を建てたという(現在の京都府立医科大学の前身)。宸殿復活は曼殊院の長年の念願だった。ようやく150年ぶりに再建されたのです。阿弥陀如来座像(重文、平安時代)と慈恵大師良源元三大師像(重文)が祀られている、と案内されていました。
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宸殿前庭には、一面に白砂が広がり、大海を表している。「盲亀浮木之庭」と張り紙され、庭の名前の由来が書かれている(写真)。左上の黒い岩が流木だろうか。亀はどこだ?。
右近の橘と左近の桜がみえる。これは現在の上皇(平成天皇)と上皇后が行幸された折に植えられたもの。右に半分見えるのが唐門で、その奥に勅使門があるはずです。
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曼殊院に接して西隣に、弁天池があり、弁天島が浮かぶ。ここには弁才天を祀る弁天堂(左)と菅原道真公を祀る天満宮(右)が置かれています。神仏習合の名残で、お寺の中に神社があるのです。この天満宮は室町時代の建物で、曼殊院で一番古い建物。北野天満宮と深い結びつきがあったことから、近くの山中にあったものをここへ移したという。
弁天池周辺も紅葉の綺麗な所。曼殊院内では紅葉らしきものは見られなかったので、弁天島にきて慰められました。
鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)
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曼殊院を下り、修学院道を北へ歩き赤山禅院を目指す。その途中に鷺森神社があります。ネットに、”紅葉の隠れスポット”とか”紅葉のトンネル”などとあったので寄ってみることにした。
鳥居の扁額「鬚咫天王」(しゅだてんのう)とは主祭神・素盞嗚尊(スサノオノミコト)のことです。
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300mほどの参道が続きカエデが色づいていました。”紅葉のトンネル”というには未完の部分が多く、スポットになるにはまだほど遠いようです。
■歴史
鷺森神社の歴史について、境内に由緒板が掲げられている。「当神社創建は貞観年間(859年 - 877年)にして今より壱千百年余り前に比叡山麓の赤山明神の辺に祀られてあったが応仁の乱の兵火に罹り社殿焼失し今の修学院離宮の山中に移し祀られてあった。後水尾上皇この地に離宮を造営されるにあたり此の鷺森に社地を賜わり元禄二年(西暦一六八九年)遷座相成り修学院山端地区の氏神神社として現在に至っている。」
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境内中央に拝殿があり、その奥に本殿がひかえる。拝殿では舞楽の奉納が行われるようです。
手前の橋が「御幸橋」で、説明書きに「その昔、修学院離宮正面入口の音羽川に架設され後水尾上皇、霊元法皇も行幸のみぎりに通られた名橋です。昭和42年当社本殿改築の際、請願により下賜され、社宝として宮川に架設しております」とあります。
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一間社流造りの本殿で、素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀る。かっては牛頭天王(ごずてんのう)、または鬚咫天王とも呼ばれていた。本殿、拝殿とも安永4年(1775)の造営になる。
幕には「鷺」の絵が、また絵馬でなく絵鷺に願がかけられている。社名にもなった「鷺(さぎ)」は、かってこの辺りに鷺の群れが住みついていたことから神の使いとされたようです。
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境内の右隅に、しめ縄のはられた石が置かれている。「縁結びの石 八重垣」と書かれている。この石に触れて祈ると悪縁を絶ち、思う人との良縁が得られ、夫婦和合・円満や家内安全が授かるそうです。「八重垣」とは、稲田姫命と結ばれた素盞嗚尊が詠った和歌よりくるようです。素盞嗚尊が和歌を詠むとは・・・。
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鷺森神社をでて北へ少し歩くと音羽川に出会う。音羽川に沿って山へ向かっていくと、比叡山の代表的な登山ルートの一つ「雲母坂(きららざか)」がある。かって法然、親鸞らの名僧や弁慶が延暦寺と洛中を行き来した道、私も10年前に(ココ参照)
赤山禅院(せきざんぜんいん)
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音羽川を渡り修学院道を進むと、写真の三叉路に出会う。真っすぐ進めばすぐ修学院離宮の入口です。左に曲がれば赤山禅院へ向かう。右に入れば「鷺森神社御旅所」と案内されていました。
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鳥居が見えてきました。天台宗のお寺のはずだが・・・。「赤山大明神」の額は、江戸時代の初め後水尾上皇の修学院離宮御幸の時に賜ったもの。
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鳥居を抜けると山門が現れる。山門に「天台宗修験道総本山菅領所」の表札が掛かっていました。現在、赤山禅院は天台宗延暦寺別院(塔頭)になっているようです。修験道というのは千日回峰行のことだろうか?。比叡山延暦寺には7年かけて比叡山の峰々を巡る「千日回峰行」と呼ばれる荒修行があります。その最後に、ここ赤山大明神に下って花を添え、再び雲母坂を登って帰る「赤山苦行」と呼ばれる荒行があります。
この辺りから紅葉を楽しむことができます。
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参道脇に「我邦尚歯発祥之地」の碑が置かれています。「歯」は年齢を、「尚」は尊ぶの意味で、敬老を意味している。唐の白楽天(772-846)が老人を招き「七叟尚歯会」を催したのに倣い、平安時代の初め(877年)この地で、日本で初めて「尚歯会」が開かれたのを記念したものです。貴族、公家、学者などの年寄りが集まり詩歌管弦を楽しむ敬老会だ。
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紅葉の美しい参道が続くが、トンネルとなるにはまだ少し早いようです。
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階段を登ると拝観受付のような建物がある。「いくらですか?」と聞くと、「いりません」と。通常、お寺は拝観料をとり、神社は無料となっている。赤山禅院はお寺のはずだが、拝観料に関しては神社格だ。維持費はどうしているんだろうか・・・と余計な心配までしてしまう。
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赤山禅院の歴史は「開創は、仁和4年(888年)。「赤山」の名は、入唐僧円仁に由来する。円仁は、登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したが、果たせないままに没した。その遺言により天台座主の安慧(あんね)が、唐の赤山にあった道教の神・泰山府君(赤山大明神)を勧請して建立したのが赤山社(後に赤山禅院に改称)である。しかし、安慧は貞観10年(868年)に没しており、仁和4年(888年)の創建には疑問が残る。
比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。当寺は明治時代の神仏分離令の後も神仏習合の形を残したまま現在に至っている。」(Wikipediaより)
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階段を登ると拝殿があり、その奥に本殿がある。ここは神社か?、と錯覚してしまう。神仏習合の名残りですね。
拝殿の瓦葺屋根上に猿がいる。平安時代には鬼門信仰があり、赤山禅院の位置は御所の北東にあたり、鬼門の方角とされてきた。そのため皇城の表鬼門の鎮守として、左手に邪気を祓う神楽鈴を、右手に神の依り代になる御幣を持った陶製の猿を置き、御所をを向いて見守っていのです。
何故、猿なのでしょうか?。平安京の北東に位置する比叡山延暦寺を守るのが日吉大社です。その日吉大社では、大山咋神が猿の姿で天から降りてきたとされ、猿が神のお使いとして祀られている。それと関係あるのでしょう。かって猿が夜な夜な抜け出し、悪さをしたので金網に閉じ込めているそうだ。
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拝殿奥の本殿です。「皇城表鬼門」の看板が架けられている。
祭神(本尊)は赤山大明神。中国の五霊山のひとつ東岳泰山の神である「泰山府君(たいざんふくん)」のことで、陰陽道の祖神、道教の神、閻魔大王の側近で閻魔帳をもつ、本地仏が地蔵菩薩だとか云われ、なんかよくわからない。まアいいか、お参りに来たのじゃなく、紅葉を見に来たんだから。
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本殿左側にある地蔵堂。赤山大明神の本地仏である地蔵菩薩を祀る。本地堂とも呼ばれる。
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福禄寿堂。赤山大明神は七福神の一つ福禄寿(ふくろくじゅ)ともされる。幸福・高禄・長寿の三徳をもつ福禄寿神仙が祀られ、「都七福神めぐり」の一つになっている。
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境内右側にある雲母(きらら)不動堂。明治18年(1885)、雲母坂にあった雲母寺(うんもじ)が廃寺になり、そこにあったの本堂と本尊・不動明王が移されたもの。
堂内奥の左右に、大きな数珠の輪が吊り下げられている。これが「正念珠(しょうねんじゅ)」「還念珠(かんねんじゅ)」です。元来、拝観順路の入口に正念珠が、出口に還念珠が設置され、願いごとを唱えながら輪を潜ると願いが叶うとされた。お寺の方に聞くと、珠が傷んだので取り外し、不動堂に飾っているそうです。
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絵馬にはお猿と赤山明神(?)が描かれている。
「五十払い(ごとばらい)」「五十日(ごとび)」という言葉があります。毎月5日、10日、15日、20日、25日、月末はいわゆる決済・集金の日とする商慣習がある。給料日は25日とされることが多い。
この慣習の起こりが赤山禅院にあるといわれる。赤山禅院では一年のうちに巡ってくる「申(猿)の日」の五日に五日講が行われており、この日にお詣りし、掛け取りに回ると集金がよくできると評判になり、江戸時代から「五十払い」の風習ができたと伝えられています。私にとって待ち遠しい年金支給日は隔月15日・・・。
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