山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2016年初詣 熊野街道で住吉大社へ (その 3)

2016年02月08日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 四天王寺(してんのうじ)  


大江神社から谷町筋を東に越えると、そこは四天王寺さんです。人通りも多くなって、やっと正月の賑わいを感じることができました。
国の重要文化財に指定されている石鳥居を潜って境内に入ります。お寺に鳥居とは珍しい組み合わせだが、これも神仏習合の名残だろうか?。その先に、「極楽浄土への入口」と信じられてきた西大門(極楽門)が見えます。
四天王寺の正式な正門は南大門ですが、交通の便などから西側の鳥居を潜り西大門(極楽門)からお参りするのが普通になっている。

甲子園球場の三倍もある広大な四天王寺さんは説明しきれないので、今回は五重塔の歴史についてだけ紹介します。
現在、五重塔は耐震改修工事中のため覆いが被され、その姿を見ることができない。その代わり、五重塔の歴史を説明したパネルが掲示されています。このパネルを借用し掲載することにしました。これによって、五重塔のみならず、四天王寺そのものの歴史を知ることができます。
現在の五重塔は、実に八代目だそうです。四天王寺の苦難の歴史とともに、そのつどよく再建され続けてきたものだと感じ入られます。








四天王寺は聖徳太子が建立した寺で(593年に造立が開始)、蘇我馬子の飛鳥寺と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。回廊に囲まれた内部は、南から中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれている。あの法隆寺より古いのです。ところが五重塔の歴史でもわかるように何度も火災、戦禍、災害で焼失・崩壊、そして再建を繰り返してきた。そして最終的に、先般の戦争による大阪大空襲(昭和20年、1945)でほとんど焼けてしまった。現在の伽藍の大部分が、戦後に再建されたもので、鉄筋コンクリート製となっている。伽藍は皆新しく、建造物で国宝となっているものは無いのです。

南大門を入った直ぐの正面に、平べったい大きな石が石柵で囲まれ置かれている。長さ約2m、幅約1m、地上部分の高さ約15cmだそうです。「熊野権現礼拝石(くまのごんげんらいはいせき)」と刻まれた石碑が建っています。
熊野街道沿いにある四天王寺に、熊野詣の人は必ず立ち寄った。「人々はまず当山に詣でた後、ここで熊野の方向に礼拝し、熊野までの道中安全を祈ったといわれる」。この石の上に立ち、門のはるか南方に位置している熊野に向かって手を合わせたそうです。

 竹本義太夫の墓と庚申堂  


南大門を南に出ると、広い通りを挟み南へ道が通っている。これが庚申堂参りの道「庚申街道(こうしんかいどう)」です。その角っこに超願寺という小さなお寺がある。ここの墓地の一角に竹本義太夫の墓があります。
世界遺産となっている現在の文楽(人形浄瑠璃)の元を築いたのは、節の竹本義太夫、筋の近松門左衛門といって過言ではない。そのため浄瑠璃節は義太夫節とも呼ばれています。
竹本義太夫の墓は、お堂とまではいかないが、屋根付の板囲いの中に納められ、風雨から護られている。今でも根強い文楽ファンの心遣いでしょうか。
なお、堀越神社から南に約100m位の路上に、昭和25年(1950)「財団法人人形浄瑠璃因協会」によって建立された『竹本義太夫生誕碑』が建てられています。ここ超願寺からも近くです。

超願寺を南へ数十m行けば四天王寺庚申堂(こうしんどう)です。日本の庚申信仰発祥の地といわれ、日本最古の庚申堂です。京都八坂、東京浅草と並ぶ日本三庚申堂の一つ。以前は四天王寺の末寺だったが、今は独立して『総本山四天王寺庚申堂』と称している。ここも四天王寺同様に、昭和20年(1945)の大阪大空襲により焼失している。建物は戦後の再建です。
現在のの本堂は、戦災で焼失して仮堂だったところへ千里万博の休憩所を移築したものだそうです。
本尊・青面金剛童子像が祀られているが、秘仏として厳封され、公開されていない。ご開帳は60年毎(庚申年毎、直近は昭和55年(1980))とか。
今日は閑散としているが、新年最初の初庚申日の縁日には多くの参詣者で賑わうそうです。コンニャクの炊き出しが名物。この日、北を向いてコンニャクを食べると、病気が治り願い事が叶うという。

 堀越神社  


竹本義太夫の墓や庚申堂から谷町筋を西へ越えると、熊野第一王子が祀られているという堀越神社があります。
聖徳太子が四天王寺建立と同時期に、その外護として近辺に造営したのが四天王寺七宮。大江神社や堀越神社はその一つ。堀越神社は、聖徳太子が叔父の崇峻天皇を偲んで四天王寺の南西に創建したもの。だからご祭神は、第三十二代崇峻(すしゅん)天皇。

聖徳太子の叔父・第三十二代崇峻天皇は、白昼堂々と暗殺されたのです。日本史上、はっきりと暗殺が諸文献に記録され、後世に伝えられている唯一の天皇さんです。この暗殺から古代史は大きく展開していく。暗殺の首班・蘇我氏を倒した乙巳の変・大化改新から壬申の乱へと繋がる、激動の時代の引き金ともなった。

第31代用明天皇は在位2年という短期間で崩御する(587年)。長子である聖徳太子が有力候補だったが10代の幼少だった。そこで欽明天皇の皇子で、蘇我稲目の娘を母にもつ泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が、蘇我馬子らに擁立され、第32代・崇峻天皇として皇位についた。
しかし物部氏を滅ぼし権勢を得た蘇我馬子の操り人形のような存在。邪魔になればすぐに消されてしまいます。崇峻5年(592)11月3日、蘇我馬子は東国の調を進めると偽って天皇を儀式の庭に臨席させ、東漢直駒に命じ崇峻天皇を弑殺し、その日のうちに倉梯岡陵に葬った、と記録されている。
天皇家の歴史書『日本書紀』には「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調を進る。』という。乃ち東漢直駒をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡陵に葬りまつる。」と記されている。
通常は儀式を数日行った後で葬るのだが、崩御したその日に葬ったとある。別の記録によれば、「陵地・陵戸なし」とも記されている。まさに前例のない仕打ちなのです。
若い聖徳太子は、この推移をどのように見ていたのでしょうか。その後推古天皇の摂政として、大臣の馬子と両輪となって政治を司ってきたとはいえ、複雑な気持ちだったことでしょう。大和からかけ離れた難波の地に、叔父を弔う神社を建てたのもうなずける。

崇峻天皇の皇后と皇子は、大和を脱出し東北に遁れます。その後の経過は堀越神社公式HP「崇峻天皇と皇后・皇子の物語」をどうぞ。

これは堀越神社の一角にある「熊野第一王子之宮」。八軒家浜近くの熊野街道入口にあった、熊野九十九王子の一番目の王子「窪津王子(くぼつおうじ)」は、豊臣秀吉の大坂城築城の際に移転を強いられ、四天王寺西門近くの熊野権現の分霊を祀った熊野神社に移された。さらに大正4年(1915)、窪津王子は現在地の堀越神社に合祀され「熊野第一王子之宮」として現在に至るとされています。


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