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京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

竹田城を訪ねる-虎臥山の山頂に築かれた山城-

2021年10月18日 19時56分00秒 | 日記
 10月9日は朝日カルチャー主催の「竹田城を訪ねる」に参加しました。

講師の中井先生に出会ってから「山城」の魅力に取り憑かれ、またひとつ趣味が増えてしまいました。





大阪駅から新快速で姫路駅へ、そこから播但線に乗り換え竹田駅まで、、、自宅から4時間の行程です。

播但線は途中の寺前駅までは電化されていますが、それ以降は非電化区間ですので懐かしい「キハ」の気動車に乗ります。





駅前からは竹田城の石垣が見えます。
雲海に浮かぶ「天空の城」として最盛期には年間70万人もの人々が訪れています。







4ヵ寺が並ぶ寺町通りを過ぎると竹田城跡への駅裏登山道の入口に来ます。 

ここから標高353mの虎臥山山頂を目指します。

約40分の行程ですが、これが結構キツイです。
城跡の手前にある料金所で入山料金450円(団体料金 一般は500円)を払いさらに登り、ようやく竹田城跡に到着です。


竹田城の縄張りです。 
築城は赤松広秀との説が有力ですが、高石垣や礎石建物(天守)、瓦などから豊臣秀吉が築城に関わった典型的な織豊系の城郭です。



城の入口"大手虎口"です。







北千畳と言われる平坦地です。
北方尾根には"登り石垣"が設けられ、井戸曲輪を防御しています。



石垣の随所で折れ曲がる石垣塁戦で敵の多方面からの攻撃に対応した"横矢掛け"が見所のひとつです。



天守の石垣です。
石垣の特徴として石材に多数の矢穴痕があります。
従来は自然石を積む野面積みと言われていましたが、明らかに人工的に割った石材が使われています。

中井先生によると天守は三層構造で、天守への穴蔵や出入り口を伴わない構造から本丸の建物から橋を掛け出入りしていたと推定されています。











赤松広秀は"慶長の役"には参戦しておらず、築城は"文禄の役"直後と考えられます。
十文字紋叩き痕丸瓦や仕切りせきるいさ、登り石垣が根拠になっています。

竹田城跡は築城年代が限定できる極めて重要な城郭です。

また、竹田城跡からは織豊系城郭が朝鮮出兵によって築かれた"倭城"により石垣や縄張り構造がさらに進化し、近世城郭に多大な影響を与えた城でもあります。

矢穴の痕が残る石垣です。







豊臣から徳川の世になり他の多くの織豊系城郭が破城により石垣が崩されていますが、この竹田城は何故、破城を免れたのか謎のひとつだそうです。

当時、天下普請で篠山城が築かれ、竹田城の破城は必要なかったのかも知れないですね!

次は明智光秀が築いた京都京北にある周山城跡へと中井先生の解説をお聴きしながら登る予定です。











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