高校公民Blog

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教員の給料が年収200万円以下になる日 4 保護貿易と鎖国

2008-04-22 23:16:08 | 教育制度/行政

なぜ、現在200万円になっていないか?

 
現在の学校は基本的に60歳の感性で運営されています。よく考えてみましょう。ダイエーをはじめとした高度成長モデルの企業がつぎつぎに倒産へと追い詰められていったのです。細やかなニーズに応えるという命題を無視し、自らの墓穴を掘っていったのでした。彼らが墓穴を掘るはめになったのは、グローバリズムという市場原理から逃れることができなかったからです。ところが、学校は今日も

「こんなのもわからねえのか」
とか
「お願いします」と「ありがとうございましたの挨拶はしよう」

という道徳を一つとして疑うことなく、そして、一度として業態の変換もせずここまでやってきてしまったのです。

  私はこう書きました。

服装だの、頭髪だの、生徒のマナーがどうのという安っぽい道徳を振り回す人間でまともに教材研究をやっている人間をみたことがない。

授業がつまらない、授業が意味がない、授業が興味関心の対象にならない

こういうことにまったく頓着ない人間にかぎって道徳を振り回すのです。そして、その教科指導の能力は規制を外されたら、200万円の給与をもらう程度の人間との競争にさえ勝てない。

では、どうしてその彼らが200万円にならないのか?

今日、新しい講師の教員が紹介されました。すべてパートタイマーです。そして、すべて20代と推定される人たちばかりです。それを老人ホーム予備軍が拍手で迎えているのです。なぜ、彼らとの間に同一労働同一賃金という平等な関係が結ばれないのか?そこに身分としかいうことができない関係が維持されていくのか?
 答えはいたって簡単です。そこには、

規制

があるからです。
  学校設立に関する規制、教員免許という規制、必履修という規制、こうした官制の規制こそが防波堤となっているのです。この一つ一つをはく奪したとき、そこには、無能力者としての教員が赤裸々に出現するのです。

数学教師のリストラ

 
単位制高校は生徒の科目選択で成り立っています。すると、とたんに、少し学力が低い学校では、数学と英語の履修選択が減っていきます。つまり、そこで、生徒の選択を優先し、規制をとりはらったとき、リストラが可能となるのです。今でも、単位制高校の数学の教師は定数法ほかで規制されて保護されています。したがって、その担当する生徒の数は、本当に明らかになったら

税金泥棒

以外のなにものでもないことが発覚します。ということは、ここを規制緩和したときリストラが可能となるばかりでなく、どうにかして数学や英語を理解してもらうという命題がはじめて本気で出現するのです。

教員免許という規制も同様です。能力ある予備校や塾の教師が学校への参入を許可されたとき、そこの公立高校の教員との競争関係が出現します。現在は、免許を規制の条件としてそうした道を遮断しているのです。

学校設定科目や現在お遊びでしかない総合学習も同様です。この規制を緩和して、学校がどのような科目も設定してよい、となったとき、そして、学校設立基準が同時に緩和された時、総合学習や学校設定科目という発想を基本にもった学校が、本当に身に付く学力を新たに設定して、生徒を呼び込むことができることになるのです。

こうした規制の緩和を阻んでいるのは組合ではありません。県教育委員会の下で働いている事務局、つまり教育長以下の教育公務員なのです。

保護と鎖国

たぶん、1950年代半ばから1970年代にかけて、日本社会は輸入制限をはじめとした保護政策をとってきたのです。それは、まさに保護であり、そのなかで外国に対抗できる産業を育成してきたのでした。ところが、学校の規制は、まったく事情が異なります。学校には、規制が存在します。しかし、その規制の向こうには容赦ない規制緩和の圧力がある、というようなものではありません。それは、外部なき、内部、内部だけの内部とでも呼ぶべき状況なのです。それは、あくまで共同体的規制が構造として存在しているだけなのです。それは、まさに鎖国と呼ぶにふさわしい。これが学校の教員を保護してきているのです。本来保護しなければいけない国民の側ではそれはありません。

  では、どうして、国民は規制の緩和を求めないのか?
  どうして、選択の自由を求めないのか?


  理由は簡単です。国民が規制の恩恵で食べているからです。道路問題の根源は教育にも反映しているのです。お世話になっている、だの、面倒見てもらっている、という構造が根底にあるから、自分で立とうとしないのです。自力で自立するというエトスは地方にはまずありません。官に依存し、官に世話になり、リトル水戸黄門様が、そこいらじゅうにいるのです。それが、保護政策ではなく、鎖国を根底で支えている構造なのです。ウェーバーはこのように書いています。


したがって、家父長制的家産制は、自分自身に対して、また、臣民に対して、自らを、臣民の「福祉」の保育者として、正当化せざるをえないのである。「福祉国家」こそ家産制の神話であり、それは誓約された誠実という自由な戦友関係に発したものではなく、父と子との間の権威主義的関係にもとづいている。「国父」というのが、家産制国家の理想なのである。したがって、家父長制は、特殊の「社会政策」の担い手たることがありうるし、また、大衆の好意を確保しなければならない十分な理由があるときは、事実、常に、社会政策の担い手になった。(世良晃志郎訳『支配の社会学Ⅱ』392)


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