所属という依存
こうした隷属はいったいどのようなからくりで成立するのだろうか?
それは、これまで私が再三述べてきたのだが、基本的には共同体への依存という非自立的な関係性がなせるわざなのである。社会学者の本田由紀がこのように書いている。
「学校経由の就職」は、学校と企業という二つの組織の間での就職―採用をめぐる長期的な取引関係を基盤として成立しており、若者個人の〈教育から仕事への移行〉はそうした組織間の継続的な取引関係に規定されていた。このような形での〈教育から仕事への移行〉は、実は「奇妙な現象」である。なぜなら、個人の生涯を大きく左右する職業の決定が、個々の若者自身の意思や労働力としての質(および排しがたいさまざまな偶発条件)によってではなく、その若者が属している学校という組織の特性であるところの継続的な取引関係にある企業の数や質、および当該学校内の他の生徒に対してその生徒が占める相対的な位置づけによって決定されるということが、大きく問題視もされずこれまで受け容れられてきたからである。(本田由紀『若者と仕事』p18)
能力ではなく、その組織に所属することが大事であるというシステム。そして、基本的にはその所属したシステムからの移動は考えられないというシステム。これを考えてみたい。駒大苫小牧高校の野球部の監督でさえ、野球それ自体で食べることはできない。野球の能力それ自体は非自立的である。そのためには、学校に所属する、企業に所属する以外にない。学校や企業から出て彼らの生活はあり得ない。このシステムと本田が書いている、生徒にとっての学校と進路の関係のからみあいの中からこのすべてが発生する。生徒も学校に所属するよりない。一旦所属したら移動は容易には考えられない。身を落とすようにして退学し、身を落とすように夜間定時制にでもいくか・・・。ここから脱落していくのが、自立した人間にしか見えない、交換関係を基本とした認識である。合理的な等価交換という認識、機能を重視するという認識が脱落していく。
なぜ、進学校へと進学した高校生でさえ塾や予備校へと行くのか、そんなに〈いい学校〉へと進学したのになぜか?それは、所属する高校の教員スタッフの機能が彼らの能力を希望する進学先へと入学するだけのものを提供しないからだ。ここに鮮やかに彼らの進学校への意味付与が現れる。彼らのように自らの実力を頼むよりないという境遇に置かれてさえ、所属すること、所属すれば次があるという認識に拘束されているのだ。別段、所属する学校への機能を求めてでもない。
ましてや、それ以下の学力の学校の生徒にいたってをやである。卒業に至ればいいのだ。そのために所属することが大事なのだ。学校が何とかしてくれる。こうした所属という依存関係の中から等価交換を関係とした合理性や機能重視の姿勢が脱落していくのである。
語学学校
語学学校ECCでもNOVAでもいい。そこへと通う人間は機能だけである。そこにはワンレッスン1200円とかという経済合理性が明確に現れ、機能だけが剥き出しになる。受講生の目的は語学を身につけること、それ以外にない。語学力が身に付かなければ辞めてしまう。また、講師のほうも、語学力と教育力さえあれば採用される。これらの学校はそうした機能を対象とした合理的な交換関係を主にせざるをえない。だから、講師がロクに英語がしゃべれないでは話にならない。ある意味で塾や予備校もそういう機能を組織自体で要求される。
つまり、私たちは最低限度、組織として機能を重視する形態への変態を遂げない限り、教育それ自体への真剣なまなざしを組織にもたらすことはできない。それは、経済社会の動向とも重なることをこの分析で示したつもりである。
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