高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

世界史を授業する 3 ヨーロッパ史の論点

2008-05-03 23:51:49 | 歴史社会学

オリエンタリズム

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)知の考古学(新装版)

 
今年、ちょっとがんばってエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を原語英文で読みます。はっきりいって、サイードのこの文献は大変です。ボキャブラリーが大変多い。私は今を去ること5年前に、半年をかけて約3分の2の分量の文章を英文で読みました。滔々と流れる彼の論旨はしかし、明快です。影響を受けたであろうミシェル・フーコーの『知の考古学』を私は未読です。しかし、『知の考古学』の論旨を彷彿とさせるサイードの論旨は、大変説得力がありました。彼は
 オリエンタリズム(むりやり訳すと「(西洋から見た)東洋の原理・本質」ですが、こういう訳語はありません)という概念を通して、オクシデンタリズム(ま、むりやり訳すと「西洋中心主義」ですね)をこそ論じようとしているのです。西洋とは何なのか?サイードは、その中心に

支配への意志

をみるのです。ニーチェが、力説して見せた〈力への意志〉こそ、サイードが見出そうとする原風景なのです。

<帝国>Empire史的システムとしての資本主義

  私はもう一人、今年は、ウォーラーステインを読みます。こちらは、原文というわけにはいきません。翻訳で読みます。さらに、英文で、ネグリ&ハートの『帝国』を英文で読みたいと思っています。この英文はサイードとはちがってとても平易です。グローバル資本主義とは何か、これがこの本の分析の中心であり、グローバル資本主義のむこうを懸命に探った本として有名です。

ヨーロッパ文明と異文明の接触点

ことし、世界史の授業を私は担当しています。私の持論は、へたな授業をやるんだったら

いい映画をみせろ

なんです。私は、私が今年伝えたいメッセージを含んだ映画をまず、生徒に提示したいと考えています。

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

 ヨーロッパについては、かなり明確にいま示せそうです。私は、上に挙げた研究者たちにくわえ、マックス・ウェーバー、マルクス、ヘーゲルといった思想家の論点、それから、日本では、柄谷行人(柄谷の上の岩波新書は世界史を学ぶ人には必見)をくわえて、かれらのメッセージを材料にして私の授業の骨格を考えました。
 前半は、中国史を大きな山においています。中国史を考える、という論点はまた紹介したいと思いますが、

少年時代横山光輝 三国志 第1巻

 映画「少年時代」、ドラマ「水戸黄門」そして、アニメ「三国志」といった作品を中心として、歴史のメッセージを形成したいと考えています。

 さて、そのヨーロッパです。ヨーロッパって何だといわれたら、やはり、ギリシアとローマをまずみることです。私は、たとえば、ブラッド・ピットが主演した「トロイ」をみるだけで、西洋世界はまず何なのかが見ることができると思いますね。

トロイ


 異文明との暴力的接触です。ここを問題にしたいと思いますね。異文明との接触をどう描くかです。西洋の図式は、ヘーゲル式にいえば、

主人と奴隷の弁証法

です。ニーチェは、この図式から支配される側の強烈なルサンチマン(怨恨)を西洋世界からえぐりだしたのです。イエスキリストとは、被支配者の復讐=恨み節なのです。この厳しい現実を伝達できればと思いますね。
 西洋の強烈なメッセージとは、まさに、戦わない人間は

奴隷

なのです。この意味です。
 さて、私が今そうした授業の展開うえで、おそらく多くの人たちが何気なく見過ごしているだろう、と(こういう記述がうらみがましいか!)思われる論点があります。それは、たとえていうと、不良同志の最初の

「ガンつけ」

と書いたらいいようなものです。西洋人が

最初に異人種と接触するときの、一貫した姿勢

です。それが何か?
 たとえば、ペリーの来航というのがひとつですね、我が国が体験したのでは。あるいは、黒人奴隷や、インディアンや、インド、インカやマヤといった文明と西洋人のたちの最初の接触もそうですね。いや、何より、ギリシアにせよローマにせよ、彼らは異人種と一体最初の接触をどのように行ったのか?

 で、ふりかえって、私たち日本人にとって、異文明、異人種とは何なのか?その接触に対して私たちと西洋文明はどう異なるのか?考えてみたいと思っています。

空気が読めない人間

 
私たち日本人は異質な人間を排除します。しかし、それは、異質だから排除するのでしょうか?私は、微妙に違うように思っているのです。同質性の中で、自分たちの結束をたかめるために、そのために絶対的に、異質者を必要とする。その同質者の中の異質者こそが、結束のための重要な要素になるのではないか、と思っているのです。それは、西洋世界とは似ているようで、まったく異なるのではないだろうか?
つまり日本の場合は、いっけん異質者のようにみえるけど、じつは、本質は同質者であって、その同質者のささいな差異を、ささいな差異の存在をどうしてもひつようとするのではないだろうか、つまり、同質者であるから、排除される。そして、排除される人間は、本質的に同質者ゆえに、排除をただ受け入れるよりないのではないか?
それと、西洋のそれは同じだろうか?私は異なるように思えるのです。西洋はたえず、異質者とま向かうのです。そのうえで、彼らの原理は成り立っている。日本社会は違いますね。本当の異質者はこわがって触れようとしない(笑)。そんな感じがしますがね。
 そういう意味で、空気を読めない人ってこのことを考える絶好のサンプルになるように思えるのです。


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