出席点だけなら犬でもできる
成績は、学期ごとの評価は10段階で、学年は5段階でつけられます。さて、そのときに、学校の先生のお得意の評価対象が「出席」と「授業態度」なんです。
じつはこれは考えれば考えるほど謎なのです。ちょっとあなたに聞きますよ。
「出席」を絶対評価するってどういうことですか?
あなたはご自分の10段階の成績で「出席」がどのくらいを占めるかご存知ですか?
大体、出席するって何の能力なの?
健康に学校へ来ることができるかという能力?
足があるかどうか、という能力?
歩けるかという能力?
教室を識別できるかどうかという能力?
だったら犬でもできるよねえ。3歳児でもできるよねえ。
大体、その能力と僕の科目の「現代社会」の能力はどう関係があるの?
10段階でも5段階でもよいのです。成績は通常「修得」というように呼ばれます。修得したという能力の中に「出席」があるということは何なのでしょうか?くどいようですが、大体、あなたは自分の成績のなかで出席はどのくらいのウエイトを占めているかご存知?先生に聞いたことがある?
ここまで問うたとき、生徒は沈黙するのです。僕がここで書くのはこの「沈黙」の意味です。
意欲と授業態度
実はここまでの文章を読んだだけでむかむかしている先生がかなりいるはずです。イライラ、むかむかしているのです。特に、頭が体育会系の先生はもうダメでしょうね。
「出席は何の能力か?」
ときくと、それは
「意欲」
だとかならず言う方がいます。
「意欲」
はでは測定できるのでしょうか?
「手を上げる」「授業中の発言」
ということが具体例で言われます。では、「手を上げる」が評価対象だとしたとき、仮にいっせいにみんながいちいち手を上げたら、どうなりますか?あるいは、あげている人みんなに指名がいちいちできますか?大体高校の授業で自分から手なんてだれもあげませんよ!
では、「指名して発言させる」場合はどうでしょうか。これだって問題大有りでしょ。大体、指名された問題が難易の差があったらどうでしょうか?当然ありうるわけですね。たまたまやさしい問題を質問された、たまたま難解なものだった。大体、指名は機会の均等を約束できますか?これらすべてにおいて、成績が前提として保証すべき正当性を獲得することは容易ではありません。
では、その問いを伏せて仮に「意欲」が測定できたとして、
「出席」すれば「意欲」が測定できたことになるのでしょうか?
大体、寝ている生徒がいますよね、それって出席してても出席したことにならないのでしょうか?「意欲」がないわけでしょ?
では、聞いているフリはしているのだけれど、実質「寝ている」人はどうなるのです?
「目をあけて寝る」生徒さんにはこういう器用なことができる人がいっぱいいます。
目はあけているけど寝ている。聞いちゃあいねえ、という人です。目を空けて寝ている人と目を閉じて寝ている人の識別はできるのですか?
大体、数学のような科目は人によっては小学校の段階でもう、さっぱりわかっていない人がいます。そういう人は小学校いらい授業中の先生の言語は「サンスクリット語」と同じです。
「目は空けているけど聞いてもさっぱり」なのです。寝ている人と同じじゃないですか?理解できて寝ている人と比べて御覧なさい。大体このふたりの区別を外見でできるのでしょうか?そこにどのような「意欲」の差がみいだされるのです。そして、それはどのように数値化できるのです。
「あーーーーーーーーーーーー、うるせえ!!!!」
誰ですか?今の声?
さて、話を転換しましょう。
授業態度は点数にできるのでしょうか?
みなさん聞いて御覧なさい、先生方に?
「あの人、ひじをついてきいてますよね、何点ですか?」
「今日の僕の授業態度点は何点ですか?」
これを全員が発して御覧なさい。
「採点不可能」
です。
問題はそこにはない
実際のことを言いますよ。授業態度など成績に入れることは不可能です。僕にはできません。いや、合理的に説明できない。
いえ、実は、問題はそこにはありません。問題はそこではありません。最大の問題は
生徒が
「私の授業態度点は何点ですか?」
という問いが発せられない(「発しない」ではない!)ところにあるのです。
ここを考え違いしてはいけません。
ここに日本の教育の、マインドコントロールの究極の到達点があるのです。
生徒は自分からこの問いを発しないのではありません。発することが「できない」のです。ここに日本の教育のツボがあります。評価される人間に基準を絶対に問わせないように教育すること、これが日本の教育のマインドコントロールとして全力を込めて行っている究極の到達なのです。そして、もっとすごいことは
「評価される人間に基準を絶対に問わせないように教育」
していることを実は教育している人も気づいていないというところにあるのです。
授業態度と出席が存在し続けるからくり
授業態度と出席は全員が自分の成績の中でどのくらいの配分になっているのかを問いただしたときに崩壊します。
なぜなら、説明できないからです。いや、この問いは現実的ではありません。実際は
「何?出席点?つべこべ言うな!全部出ればいいんだ。そんなことは気にするな!」
とこの問いそのものを全力で打ち消されることでしょう。なぜか?
出席点など測定不可能であり、授業態度など点数化できないからです。
出席点は能力ではありません。授業態度も能力ではありません。そういう問いを発することが授業態度点を落とすのです。
「つべこべ言わない能力」
実はこれが出席点と授業態度点の正体なのです。
問題は、ここです。では、何が、出席点と授業態度点を問わせなくさせているのか?なぜ、説明不可能な授業態度点が存在し続けてゆくのか?
何が、この幽霊を消去するのか?
考えてみていただきたいと思います。私の授業では原因として「儒教」を考えることになります。
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■学校祭へお越しいただきまして誠に恐縮でした。さて、掃除大臣のコメントを読ませていただいて、けっして、エントリイの文章とずれないと思いましたね。■お隣の国中国では「三国志」の劉備玄徳幻想というのがありますが、我が国ではいまだに続いている水戸黄門幻想というのがあります。あるいは、金八先生幻想っていってもいいですが、それは、こういう物語です。自分たちの目の前に悪代官がいる。その悪代官に民衆は苦しまされている。革命もできない。ただ収奪される。そのとき、その悪代官のカウンターパンチとして、民衆が創造した良き為政者像がこれらの物語なんですね。こんな「いい先生がいたんです」。これは、悪代官の存在を通して造形されるのです。僕が、恐れるのはこの物語そのものが悪代官のたんなるガス抜きにしかならないというアジア世界の固定性をつくりあげてしまいかねない、という問題です。いい先生がなまじっかいるとそれが悪代官を延命させることになる、という皮肉ですね。ルソーという人がこういっているんです。為政者は最終的に私たちを独り立ちすることへと導かねばならない、と。@-@さんがとてもまずいスパイラルにはまっているのは、先生というものへの気遣い地獄にはまっていきかねない、先生なしでは生きて行けないという地獄にはまりかねないということなんですね。
確かに先生方は、気まぐれに生徒の授業態度を見ているように思う。
それはこういう理由からです。
場面設定は、まじめに取り組んでいる様子を見られる場面
常に自分の学習に取り組んでいる様子を見られ、感心される(取り組んでいるように見えてそうでもない時もかなりあるのに)そしてテストも当然できると期待される。
それが、テストが返ってきて、先生の期待に添えないと、先生の態度が突然変わる。目も合わせてくれない。配布物の渡し方が、そっけなく冷たくなる、話し方が急に冷たくなリよそよそしい。
その態度は、それまでの観察から先生がこちらを期待をし、望みを掛けていて、その期待を裏切られたという無意識の態度と取ることも可能です。こつこつやっている人は、良い成績をおさめなくてはいけないという暗黙の期待と圧迫、裏切りと無意識の態度。なぜこの状態が存在してしまうのか?
そんな先生の態度を見ると、「先生を裏切ってしまった申し訳ない」という気持ちが何処からともなく沸いてきて、その期待に答えられなかった自分をとても責めている自分がいるのです。「あんなに努力したのに、期待に答えられなかった・・・」
でも明らかに言えることは、無心に自分が自分ではないもののために一生懸命にさせられている。自分本意ではない・・・何かに対して・・・・・忠誠を尽くすように・・・。しかも無意識のうちに必死になっているのです。そして、それに答えられないときの責めている自分。それが原因で嘆息し、知らない間に疲れ、ストレスになっている。しかし、どれもこれも変だ。なんなのですかこれは?
なぜあるのか? 暗黙の期待と裏切り
自分の意志とは関係ない忠節心
そして知らぬ間に必死にさせられている
この見えない空気の力・・・・・
ほんとに苦しい。