3000人の単位制高校
千葉県の幕張高校は単位制高校です。その規模なんと全校で1900人です。
今時、なんでこんなマンモス校なんだ、と思われるでしょうか?
しかし、単位制の理想は3000人というのが一目の私の実感なのです。3000人だって、一クラス30人に出来ます。
大都会にしかない小さな専門店
大都会には当然人口が集中しています。だからこそ、小さな専門店が成り立ち得ます。これと同じ理屈が3000人の単位制高校という発想にはあります。3000人だからこそ、「倫理」だけをもつ専門教員が存在できます。複数の専門教員が存在できるのです。そして、細やかな生徒のニーズを授業クラスとして刻み出すことも可能です。
学校設定科目という発想。大学や専門学校のような授業の設定。これは、単位制高校のフレキシブルなシステムなら、そして、3000人の需要があるならば、かなりの幅で設定することが可能です。大きいから細かなニーズに応えることが出来るのです。
そうです。こうして、選択の意味が、生徒になお実感として感ずることができるようになるのです。
気まぐれという本気
教員は生徒の選択の自由をすぐには「安易」と捉えます。それはまちがっています。消費社会の生命線はじつは、気まぐれです。しかし、その気まぐれのなかから新しい普遍性が産まれてくるのです。もちろん、消費社会はその浪費という裏の問題を常に抱えています。しかし、個々人の気まぐれのなかに、本気へとつながるものを私たちはみるとき、それが、個別性や差別化への一歩を踏み出すことにもなるのです。
私たちの消費社会は、多様なそして、少量の個別性、差別化のなかに価値を見いだすのです。みんなと同じという消費者では新たな何ものもでてきません。お笑いの世界をみてください。彼らは視聴者の気まぐれな笑いを掴もうとすさまじい本気を展開しているではないですか。
みんなと同じではない、細やかな消費者の肥えた舌こそが、創造の源泉となります。それは、微妙な差異にたいする感覚を研ぎ澄ますことです。
だれもが天才的な個性ある生産者であることは難しいと思いますが、個性的な消費者となることは私たちにも十分可能ではないでしょうか?
単位制高校はそういう教科の消費者に対して、細やかな先験的な提案をするにはもってこいの学校なのです。
こういう授業を聞いてほしい、
これは絶対他にはない授業だ聞いてくれ
こうして、生徒の市場へと参入するのです。一緒であってはなりません。それは、結局高度成長時代の重厚長大産業へと後戻りするしかないのです。それは、中国とインドにはかなわないでしょう。単位制高校は、したがってトップダウンで本来人事が行われなければいけません。公募し、どんな授業を展開したいか、シラバスを公募するのです。どんな階層の生徒にその先生の授業は受けていたのか、データが出ています。受講者の声も、データとして手に入ります。何より、試聴コーナーがインターネットで配信されています。
その単位制高校は、こうした、制度の他に、担任が細やかな生徒のニーズに対応するアシストを専門に行っているのです。
じつは、これが、単位制高校のあるべき姿ではないか、と僕は思っています。
そうです。4月は、したがって、履修登録の祭りになるのです。単位制高校はこの履修登録こそがもっとも活気にあふれ、人的直接的交流が生徒間、生徒-教師間でなされるはずなのです。
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