早退Movie
映画館へカネはらって入って映画をみてて、ちょうどいい場面へさしかかった一時間後に、急に場内が明るくなった。続いてアナウンスが流れた。
「お客様に申し上げます。本日は終演三〇分前に終了とします。お気をつけてお帰り下さい」
もちろん、客はよろこんで帰っていった。
「ラッキー!早く終わったよ!」
気合の入ったレストラン
これはさるファミリーレストランでの出来事である。そこには気合いの入ったウェイトレスがいる。
ウェイトレスが来た。このレストランではウェイトレスが来ると、
「起立!」客が号令をかけ、みずから起立し、
「礼!」とウェイトレスに一礼をする。
「着席」客はすわる。これをしないと大変なのである。
「なぜ、立たないのだ?うん?」これを言っているのがウェイトレスである。
「明日もこいよ!何?どうした、ううん?」とウエイトレス。
客は迷っていた、明日来ようか、と。何せまずいのである、どの料理も。そして、次の日指定された時間に遅れたのである。
「どうしたんだ。ええ、がんばってこなきゃダメじゃないか。今日はこれと、これを食え」とカネをとられ、これまたまずい料理を食べた。と、むこうで叫ぶ声がした。
「何!まずいだと、何いってんだ!帰れ、帰っていい。いいか明日からもう来るな」
「すいません、あやまります」
「いい、帰れ」
もちろん、これ(「いい、帰れ」)を言ってる方がウエイトレスである。
「申し訳ありません」と客。
授業中のケータイ
授業中のケータイをどう考えるか?
いま学校は、早退Movieと気合の入ったレストランであふれている。早退Movieや気合の入ったレストランがなにゆえ存在しつづけていけるのか?という問いは別として、存在しつづけ、ロックのいう抵抗権や革命権が担保されていないとしたら、授業中のケータイを私たちはどう受け止めたらよいのだろうか?
ホッブズはいうだろう。怠け者に自由を与えたらどうなるのだ?怠け者に授業選択の自由や、教員評価権を与えたらそこには、つるしあげと、ラクをしてえという怠け者の逃走と破壊をただただ学校に導きいれることにはならないか?ケータイの林が机上に林立し、授業は崩壊する、と。
ロックはいうのだ。はたして学習したいという、学校社会での「財産」をみずから手にしようとしない人間はいるのだろうか?と。学校が動機づけや興味関心をそぎ、それこそ、国民が血税を投じて、信託した意図を裏切り、学習意欲を奪い、動機付けをまったく与えないものと成り果て、それでも権力を手にしていたとしたら、そして、それにたいして何の抵抗の手段もないとしたら、ケータイの林はせめてもの抵抗とはいえないだろうか?ここには、ジョン・ロックのきわめて楽観的な人間観が前提されている。
選択権や教員評価権を手にできてこそ、人はみずからに本当にあった教育を模索するのだ。実はこれが私がかつて勤務した単位制高校静岡中央高校、三島長陵高校の設立趣旨である。そこが善悪の彼岸としてなぜ貫けないのか?しかし、日本社会は確実にこうした単位制システムを支持する方向へと動いている。
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