授業が大切
教育委員会というが、実質、教育委員は活動していない。ほとんど、教育長という官僚によって教育行政は行われている。その教育長は、とりあえず、さまざまな機会をつかまえては授業が大事だというのである。それは形式として、さまざまな言説となるが、現在では学力をあげることが急務だ、というような言い方でなされ、そのための研修の充実をいまの教育長も強調している。
さて、しかし、この授業が大切という言説とは裏腹の現実が存在する。これまで、私がこのブログをとおして書き散らしてきたものをまとめてみたいと思う。
機関として教科主任
学校も官僚組織の一環である。したがって、タテの出世街道が存在する。現場でいえば、教諭の次は課長、学年主任、そして、教頭、校長となる。
とりわけ、学年主任と教務、生徒、進路の主任は手当がつく。月額5000円の手当である。いわば別格なのだ。そして、それ以外の課長がそのあとにつづく。保健、図書、総務といったものだ。そして、そのそれぞれの長と教頭、校長とで開かれるいわば最高顧問会議のようなものがどの学校にも存在する。それが、運営委員会と呼ばれるものだ。この運営委員こそ、学校の心臓部分を形成する。
ここで二つの欠落を指摘しなければならない。
第一に、部活の顧問などというものが正式の会議の中にはなく、従って運営委員会の中にもその意見や要望を公的に提起する場所はないということだ。
第二に、――この文章の趣旨からいって、むしろ、こちらが主なのだが――あれだけ授業が大事だ、といいながら、この中枢の委員に、教科というものが存在しないということだ。教務というセクションが代表するというかもしれない。次の節で教務というセクションをくわしくみるが、とりあえず、教科主任はこの中にはない。ないどころではない。教科主任は管理職が任命するのではない。基本は輪番である。手当の対象でもなく、任命の対象でもないということ、この事実だけをここに添えておこう。これだけでも、教科の主任になろうなどというインセンティブが働くと思うだろうか?大体、現在、教科主任は事務処理係でしかない。しかし、教員が後生大事にとかつぐ教務主任が事務処理係ではないのだろうか?
教務主任
教務課というセクションは、たんなる記録係だというのが私の認識である。あくまで結果としての抜け殻のような数字としての集積と管理、これが教務課の仕事である。出欠の管理。成績処理の最終管理。年末の指導要録の管理。そして、それらをまとめた結果を県へと報告する業務。転出、転入の管理。それから、もっとも授業に絡む、教育課程の編成だが、通常、何年かに一回あるかどうかなのだ。それとても、大半の内実は実は各教科が取り組むのだ。事後処理係。記録係。教員各氏にといたい。教務主任の仕事の成果を個別性のもとで明示できるか?通常不可能だ。意味ではないのだ。このポストが重要なのは、重要だと思っているからである。何が本当に重要なのか?このポストが学力向上とどのような関係に立つのか?立証できない。別のところで論じるが、従って通常、このセクションの仕事をして今はやりの教員のFAは成立しない。いや、分掌の業務というものはすべからくFAの対象を形成しない。個別性を表示することは不可能だ。
大学の教務部
もう少し、この事実を別の角度から見てみたい。大学でいえば学部長が教科主任に該当する。大学は堂々と、学部長が大学の決定権の中枢を占めている。高校でいえば教科主任が学校運営の中枢を占めているということだ。これは決定的だ。
それは、なぜだろうか?
まず、人事権が学部にあるということだ。現場が責任をもってその授業の品質決定権を持っている。これが、制度として大学が示している姿である。大学では、教務部は単独で独立し事務を総括している。成績に関しての事務処理は大学はすべて教務部が執り行う。試験に関しても教務部が取り仕切る。進路課も同様だ。大学では、教授とは分離されて単独で存在している。私は数年前大学院を社会人として体験し、その内実に大変問題があると感じた。したがって、大学にだって問題はあるということを前提にしても、制度として、まだ授業が大事だという人事制度をとっているということだ。
高校ももし、こうなったらどうだろうか。各教科の人事権は教科主任がもつ。その教科主任の人事権は校長がもつ。そのときに、教務的業務や進路といった大変な業務は教科的な能力とは別なセクションとして独立して行わせる。こちらのほうが、能率的だという帰結にならないだろうか。
現状は教科主任は、運営委員に入っていない。
私が問いたいのは、この教科主任がなぜ運営委員会に入るようなセクションと認識されないか、ということだ。
「授業評価は勤務評価に入っていない」
こう、これまでの校長が断言してきた。学校もいよいよ生徒の授業評価を行うところまできた。学校経営計画書に授業評価を行うとし、公開している。しかし、数年前l、組合の
「勤務評価に入れるのか?」
という問いに対して当時の校長はこう断言した。それにしても、授業が勤務評価に入っていないというのはすごいことだったと思わないか。大体、勤務評価は公開されていなかった。これもおかしい。私は二度ほど校長室を訪ね、自分の評価を教えてくれと頼んだが、無回答だった。
「それじゃあ、努力のしようがないじゃないか!」
ともかく、勤務評価に授業は入っていこなかったのだ。大体、管理職が授業を見ることもないなどということはともかく、客観的な材料として授業を評価する素材を今もって管理職=学校はもっていない。ためしに読者に問いたい。
「授業をどのように評価するか?」
「教員の活動の何を、どのような基準で、評価するのか?」
いま、学校には最低40から50人の教員がいる。その授業評価をどう行うのか?
大体、学期の終わりと学年末に成績会議が行われる。しかし、その会議で、数字の乱舞のむこうで、いったいどのような活動が教員側からなされ、生徒は使用前と使用後でどのような変化があったのか?
大体、お得意の到達度という評価でいうならば、どこまで到達したのか?
Aという教員とBという教員でどのような対応の差があるのか?
自分にとって本意ではない教科を持っている人間をどう評価するのか?
すべて不明である。そこには、真っ黒な闇が深く深く存在しているだけである。
評価も不明、達成も不明!
しかし、教員はこう豪語する。
「今年の生徒はできが悪い」
自分の店頭にだしている商品の品質が分からないという事態
つまり、こういうことだ。現在、学校ではだれの何の授業がいい授業なのか?わからないということだ。自分も分からない。そして、経営管理している人間もわからない。
こんなことはあるだろうか?靴屋が自分の店で売っている靴がいい靴なのか、悪い靴なのかわからない。なのに、大切なのはいい授業だという。そういうお題目は何回となく唱えられる。そして、教員の職場で絶対ないのが、人様の授業を見ようという、あるいは、盗もうという人間関係だ。そりゃあそうだねえ。何がいいだか、わからないのだから。
そして、教員はこう豪語する。
「俺の授業が聞けないのか!」
「何だその授業態度は!」
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今試験の採点やら補習の準備で十分なコメントができませんが、ちょっとのぞかせていただいた限りでもわたしが注目してきたことにふれられており、じっくり読ませていただきたいと思いました。このたびは、当ブログへお越しいただきありがとうございました。
トラバを貼らせていただきました。
職員の研修システムの不備は、おそらく一般からすると驚くべき実態ではないでしょうか・・・
ここを変えていく必要を感じています。
■私のこのブログのENTRYに「学校の呪術」というコーナーがあります。学校は決して近代社会を原則として動いているわけではありません。■そして、それは高度経済成長まではある一定の機能を果たしてきました。しかし、あなたがお目にかかられたベテラン氏はどうだかわかりませんが、その成功物語が90年代以降まったく機能しなくなってしまったといっていいと思います。先日、プロ教師の会(このネーミングがやめてくれよ、と思うけどね)の重鎮の方の文章を読んだんです。彼は、おかしい、おかしい、と書いているのです。90年代以降、つまり、日本社会が消費社会段階に入った段階の高校生を自分は理解ができなくなったと書いているのです。それは、正しいのです。実は、このころ、全国で単位制高校ができはじめたのです。それは時代の必然でした。■そして、2003年以降、じつは、学校のパラダイムはガラリと変わったんです。おそらく、ベテラン氏はそのことに気づいていない。学校は、ここ数年でおそらくガラリと変わります。それは、主に税収というカネの問題からです。それは、東京をはじめとした、首都圏、大都市圏から遠ざかるほど歴然とします。これは、また本文で詳しく書くつもりでいますが、学校はおそらく規制を大幅にとりはらい、学校を公務員主体で行うというやり方を変えざるを得ないと思います。学校の民営化ですね。次の小泉は教育の民営化を唱えると思いますね。■登校拒否、いじめ、これらはもう、学校が機能を停止していることの証拠なんですね。僕はまず自動車学校になるのだ、といいたいと思うんです。自動車学校に頭髪検査や服装検査はありますか?登校拒否がありますか?(笑)セクハラはあるかもしれないけど(笑)。
■教員志望の大学生さんへ
一言だけかきます。「教員になったら、理想の教師像とか、教師になってこういう取り組みがしたいといったことは全て捨てなさい。そういったものを持ち込まれても、現場は混乱するだけ、他の先生に迷惑をかけるだけ」というベテランの教員の言葉はよく考えてみる値打ちがあると思いますね。私は、おそらく一生涯カントという哲学者を勉強することになると思っているのですが、そのカントが三つの批判書をかいています。しかし、カントのいう批判は少し通常の批判とは意味が違います。私はカントがいう意味の批判をぜひあなたがなしうるようになられればいいな、と思います。■カントのいう批判を文芸批評家の柄谷行人がこのように書いています。「(カントのいう批判とは)ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であるとおもっていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。」■私が思うに、大事なことは、このベテランの方がどのような前提で、このようなことを言ったのか、それは、どのような意味があるのか、そして、あなたがもっている理想とは現実問題としてそうしたベテラン教師の現実にどのような意味があるのか、それは突き詰めてみる必要があるように思えますね。■私はずいぶん遠回りをしましたが、ある種の理想を生きていて、たしかに周りに混乱をもたらしていると思っています。そのときに、いったい、自分が基盤がなんなのか、そこを吟味するという意味での批判をたえず繰り返したいと思っています。そこが、そこだけが大切だ、と思えますね。そうです。このブログは私の批判のすべてだと思っています。答えになっているでしょうか。
■このたびは私のブログへお越しいただきありがとうございます。さて、たかだか5000円程度の手当でどうして、というご質問ですが、これはいわゆる課長レベルの話です。これが教頭となれば、35000円、校長がたしか40000円の手当が付き、さらに、ボーナスや退職金にもこの手当の計算が累積されます。さらに、教頭校長の給与体系は私たち平とはことなります。だから、なんだかんだで、どうでしょう、平に比べれば年収にして70~100万円くらいちがってくるのではないかと思いますね。退職金や、までひっくるめれば生涯ではかなり異なってくると思いますが、それを大きいと見るか小さいと見るかは見方ですね。■さて、ま、それにしても、中間管理職は、5000円ばかりの手当でどうして勤労意欲をわかすのか、ということですが、このコメントの私の名前をクリックしていただくと(RECENT ENTRYにもありますが)「生徒は遠くになりて」という文章にとびます。そこでも書きましたが、このタテ関係というのは、それ自体、やはり教員にとってのプライドを支えていると思いますね。たとえ、というと、なんですが、部活動で一年生から二年生になり下級生から「先輩」と呼ばれて安物の雪駄のようにそっくりかえって「なんだ?」なんていうやつがいるでしょ?そういうところがあるんですね。お金って麻痺するんです、きっと。それより、主任や課長というまなざしですね、地域社会として閉鎖的な地方はなおさらですね。あんがい、それが支えるのです。そして、それは、決して仕事というものの能力とは併行関係にない。というより、併行関係にあるかどうかが証明できない、だから、能力として錯覚できるのです。そういう構造があると思いますね。お答えになっているでしょうか?
主任には月額5000円の手当が付くとありましたが、5000円というのは、私が今アルバイトをしている塾の場合、二日多く働けば得られる額です。いや、管理職になったとしても、桁外れに収入が増えるわけではないと教職科目の授業で聞きました。それだけに、これらの先生は、例えば経済的収益性のような「実」とは全く別の何かに基づいて動いているという印象を持ったのですが、このことについて考える手がかりをいただければ有り難いです。