天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

セクハラが言葉を駆逐する

2018-04-24 03:06:08 | 世相


KYODONEWSが配信した以下のニュースには大笑いしてしまった。

自民党の長尾敬衆院議員(大阪14区)が、野党の女性議員らがセクハラ撲滅を訴える場面の写真を添付して「私にとって、セクハラとは縁遠い方々」とやゆする投稿を自身のツイッターにしていたことが22日、分かった。「私は皆さんに、絶対セクハラはいたしません。宣言いたします」とも記していた。
閲覧者から「その発言こそがセクハラだ」との批判が集中。長尾氏は投稿を削除し、自身のホームページで「写真に掲載されている女性議員の皆様に、心からおわびを申し上げる」と謝罪した。


国会議員になるくらいの人ゆえ知識、見識は水準に行っていると思うのだが、「セクハラとは縁遠い方々」が見事なセクハラであることを、言われてやっと気づいたというのが、おかしくかつ情けない。
長尾議員の意識の外にあるセクハラ意識は根深いものであることを浮き彫りにした一例となった。

他人事でなくぼくもセクハラ発言、差別発言にはかなり気を使っているが、調子に乗ると地雷を踏むことがある。
自分で意識していなくても聞いた人がセクハラ、差別と感じることは大いにある。そのとき抗議してくれるのならまだ対処できるのが、陰に籠ってしまうので厄介である。

言葉に関していうと、「女」がつく表現は今後そうとう数がセクハラで使えなくなるのではないかと思う。
まず「あの女は」というのが引っ掛かりそうで「あの女性は」という穏当な表現になっていきそう。
若い娘を意味する「女の子」というのもセクハラで刺そうと思えば刺せる表現だろう。
「女は化け物」「女の知恵は後へ回る」といった慣用表現も女がらみで(女性がらみと言い直そう)危なくなるだろう。
「女の腐ったような奴」といって男を貶すのは、女も貶しているわけであり不適切。
男性、女性とも貶して成立している慣用表現では、「破鍋に綴蓋(われなべにとじぶた)」はセクハラから逃れられそう。どんな人にもそれ相応の配偶者があるという意味である。

「女腹」は男尊女卑の根源であるから論外。すると「男腹」がいいかといえばこれまた男尊女卑の逆バージョンであることに違いなく、使わないほうが無難。
同様に「女旱」「男旱」もセクハラそのものの言葉。「女向き」は、女性に適することだがこれも微妙になるかもしれない。
「女冥利に尽きる」は、女性が女性に生まれたことを心から喜ぶ表現であるが、男性が「おまえ、女冥利に尽きるだろう」と女性に対して言った場合、セクハラの匂いを濃厚に持つだろう。
要するに、女、男がまつわる言葉は慎重にしないとすぐ横に地雷が潜んでいるのである。

長尾敬衆院議員はこのくらいは最低限考えているべきであった。公衆の面前で語ることが仕事の国会議員さんなのだから。逆にいうとこのくらい言葉のレベルをクリアできない人は国会議員になる資格はないのである。

セクハラ問題、差別問題は言葉の問題に帰結する。大きく差別用語という点を俳句にあてはめてみると、鷹では以下の2句をすぐ思う。

菊人形めくらの杖に突つかれし 細谷ふみを(S55・12)
これ着ると梟が啼くめくら縞 飯島晴子(S44・2)

昭和55年当時、細谷さんの句は彼の代表句の一つでもあるし鷹を彩った秀句であった。しかし、今この句を口に出して読むのがむつかしくなっている。「菊人形盲人の杖突きけり」「盲人の杖突きたる菊人形」とでもしたくなるご時世である。
飯島晴子の場合「めくら縞」という木綿平織物がれっきと存在するので細谷句ほどの問題はないが、それでもはっとする用語である。そう感じる世の中となった。
文芸も世の中の動きから無縁に正当性のみ主張できない。

鷹以外でセクハラ以前に女性蔑視のきわみと思ったのが次の句。

酌婦来る灯取虫より汚きが 高浜虚子

こんな句、よく発表できたものだと思う。普通の感覚では思っていても外へ出せる言葉ではない。それをやってのけてしまう虚子とは……俺はかないっこないと思うのみ。



写真:多摩川河川敷 椎若葉のような動物的匂いのある花  誰かこの木の名前を教えてほしい、よろしく
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