
俳句は五・七・五に季語を入れて書くものですよと教えられると金縛りにあったように崩さない人がいる。
小生の弟子にも謹厳実直な人がいて「運動会授乳の母をはづかしがる 草間時彦」を見て「上五の運動会は字余りじゃないんですか」と質問してくる。
「字余りなんだけど季語じたいが最初から6音なんだから。それに字余り感ないでしょ」と説明する。
五・七・五音律はたしかに俳句の根幹ではあるがあまり表面的なことに縛られるのはどうか。もっと五・七・五音感の本質を享受してほしい。
そこで中七、下五を厳守したほうがいいが(それも崩すことはできるが初心者にそれを説く段階ではない)、上五字余りはそうとう許される。上五は崩せる場所であり続く七・五が決まれば持ち直す、ということの例句として
凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり 虚子
の文字使いを確認すべくネットをみて
「高濱虚子の100句を読む」という坊城俊樹氏の記事に遭遇した。
司会
この俳句は、まことに長いですが、伝統派の貴殿としてはいかが鑑賞されますか。
坊城
「およそてんかにきょらいほどのちさいさきはかにまいりけり」七・十三・五とでもなりましょうか。七・六・七・五としたほうがリズムとしては短詩型らしい。ともかく、有季定型派としてはまことに困ります。
びっくり仰天した。
七・十三・五も七・六・七・五も困る。この句は<およそてんかにきょらいほどの・ちさいさきはかに・まいりけり>という構造である。
十三・七・五である。
TBSテレビの「プレバト俳句」で夏井いつき氏も長いものを詠みたいときは上を字余りにしていいということの例としてこの句を紹介していた。
上五が八音も突出しているという認識である。
ホトトギスでもない夏井氏も鷹の小生も十三・七・五音律と認識する虚子の句を愛弟子の坊城氏はまったく別のことを考えている。
その発想は俳句のものではないのではないか。
ホトトギス直系がこんなでホトトギスはどうなるのか。
高濱虚子(ホトトギス)→水原秋桜子(馬酔木)→藤田湘子(鷹)→小川軽舟(鷹)と続くだけにおおもとホトトギスにがたがたして欲しくないのである。
俳句もなさっていますか。
今後ともよろしく。