ボストン大学
山田幸子には揺さぶられ続けている。
2月14日、山田は横浜から突如、札幌の某病院へ派遣された。そこの心臓血管外科の執刀医師死亡につき彼に代わる優秀な執刀医の派遣要請が横浜へ来たのだ。双方の医局長同士が知り合いであった。まるでメジャーのトレード、山田は異動通告を受けたその夜すぐに病院へ行き業務の引継ぎをし翌朝一番、羽田から飛び立った。「ジャンヌ・ダルクは闘いに行きます!」というおどけた洒落たメールが来たものである。寒い札幌に寒がりのサチが着の身着のままで身柄だけ動く慌ただしさ。札幌で衣服を買い、なんとか環境になじんだかと思った矢先の3月26日、山田から来たメールに息を吞んだ。
がんの骨への転移か
「わたると医局長だけには告げておくことだけど……」といって、腫瘍マーカーの悪化を伝えてきた。「この辛さは大腸がんのときと同じなんだ……グレード4、骨に行ってたらもう治療法はない」と。山田はプロゆえ自分の病状を冷徹に見ていた。
去年の7月、天地ブログに「サチです。覚えてますか」という書き込みがあったのは去年の7月のこと。すぐ山田幸子とわかった。びっくりした。同年齢の仲間が次々世を去っていく晩年、新たに知人が出来するとは……感動した。35年ぶりのことである。
サチは47歳のときの大腸がんとの闘病に言及、その闘病の苦しかったことを連綿と語った。奇跡の生還だったらしくいま腹にストーマを付けている。以後、メスをふるい続けながら、定期的に検診し腫瘍マーカーへの注意を怠らない。そのがんが再び頭をもたげたのか、あたりがどんより黒ずんだ。
横浜の担当医から「大腸がんの腫瘍マーカーは正常だがほかの腫瘍マーカーが高くて嫌な感じ。札幌で調べなさい」と通達してきた。サチには自覚があった。腰痛で歩くのがままならないのだ。「足に強い痺れと麻痺がある」、また「1トンもある岩の下敷きになっているような凄いからだ全体のだるさ。呼吸が苦しい」と夜中にメールが来た。泣いたことも告白した。「自分はどんな傷みにも耐えて立ってオペをする自信がある。けれどオペの途中で意識を失って倒れたときが心配。クランケを放り出すことが……」と訴える。この事態でそこまで心配する医師にかける言葉がない。聞くだけで何にもできない無力感に打ちひしがれた。
せめて横浜に帰せ
「これは息子にも伝えてない」というので、もしやを思い母危篤を伝える速達を息子あてに出した。ひとりで背負うには重すぎる事態。血を分けた息子と連携しないと自分がつぶれそうであった。
食欲はなく寮の食事は食べられない。紅茶とスープ、アイスクリームしか喉を通らず痩せてゆく。大腸がんのときは35キロまで体重が落ちた。それに酷似しているという。
メールのやり取りでお互い「死」という言葉を封印したが、死がそこに来ている。ならば異郷に放置せず双方の医局長はサチをせめて横浜に帰せ、と怒りが込み上げた。医師でなくクランケじゃないか、それも重篤の……。12月まで札幌に置いておくつもりか、ひとでなし! 無駄でも何か治療しろよ!
小生の罵詈雑言が聞こえたかのように渡瀬医局長が動いた。「山田幸子救済プロジェクト」をひそかに立ち上げていて、深夜、酸素が足りなくてのたうつサチに放射線治療を施した。やはり医療は頼りになる。その1回の治療で「嘘のように軽くなっちゃった! 食事もできる!」とメールが来たとき嘘かと思い、逆に呆然とした。
「がんが骨髄に転移していたら一度の放射線照射で治るはずがない」と医局長は判断。骨髄の病理検査をしたところそこにがん細胞は皆無。背骨をめぐる周辺に病原菌が巣くっていての炎症との結論に至った。一度の放射線照射でもろもろの病原菌が雲散霧消したのであった。医局長を拝む気持ちだった。
めでたし、めでたい……こんな奇跡があるのか! ゴーストバスターみたい。笑いがこみ上げひとり笑った。
以後、健康不安のなくなったサチは年下の麗華医師を熱血指導しつつ、難解オペに邁進している。
アメリカ仕込みのスキル
山田は慶應大学医学部を卒業するとすぐ渡米。マサチューセッツ州のボストン大学へ入学。入学の難度が高いレベルの高い大学。6年ここに在学して大学院へ進んだ。
驚いたことに、サチは慶應大学在学中の21歳のときに長男を産んでいた。息子のことが気になり一時帰国していた。そのとき、サチはわたると遭遇した。サチ27歳、わたる36歳であった。彼女はインターンだといった。2年ほど海山で遊んだりしたがそれはアメリカでの緊張から解き放たれての束の間の色恋であった、といま思う。
驚いたことに6歳の息子がいた。慶応大学在学中に出産したというではないか。「お前はめちゃくちゃ!」といったら「早く生まなきゃだめ、卵子がどんどん古くなる。出産は21歳と決めていた」という。この考えには生殖に関して筋が通っていて感心してしまった。
サチの両親また夫は言い出したら聞かないサチの性格を知っていて、出産して置き去りにしたといえる子どもの養育を引き受けた。彼女の実家は資産があったと思う。
サチは小生と別れて再び渡米。ボストン大学大学院を卒業してシカゴに渡り、シカゴ大学病院へ就職。勤めて2年で執刀医となりバチスタ手術、心臓移植といった難易度の高い症例を多数こなし、高給を得るまでに成長。ここに5年勤務した。スキルを磨かないと生き残れない実力主義のアメリカ。その厳しい現場で粉骨砕身の努力を積み重ねた。高度のスキルはアメリカの競争社会で培われたのである。この履歴は最近、知ったばかりである。
シカゴ大学病院
腕で黙らせてやる
サチは小学生のとき医師になることを決めたという。「生と死を司る職業に就きたい」と思ったとき心臓に思い当たった。それにかかわる医師になるため高校、大学と突き進んだ。
慶應大学卒業後の渡米も早くから決めていたらしい。ボストン大学における勉学のレベルは慶應よりハード。それについて行けず辞める仲間を次々見送ったという。
ボストン大学を終えて帰国せず、シカゴ大学病院へ就職したということは、もし息子がいなかったら当地でメスをふるい続けていた可能性さえある。一人息子はいま44歳。母を尊敬していて夜、緊急の呼び出しがあるとクルマで母を病院へ送る。
サチは帰国してすでにトップレベルの執刀医のスキルがあるにもかかわらずインターンから出発。「日本だから仕方なかった」。男性主体の医療現場にあって、「女だてらに」といった女医への蔑視、揶揄、陰口など有形無形のバッシングを受け続けた。けれどサチの精神力はそんなものは物ともしない。「腕で黙らせてやる」という強い胆力と、患者を一人でも多く救いたいという倫理観で医療の道を邁進してきた。
小学生のときの抱負を貫き、その意思を異国の11年間の競争と自己をのみを頼るアメリカ文化の中で鍛え上げた。筋金入りである。「アメリカで男がいなかったのか」と聞くと「デートしていたら落ちこぼれるし、わたるほどの男はいなかった」と笑った。
サチは自分が人にどう思われようと、言われようといっさい意に介さない。風評などどこ吹く風でおのれの全てをメスにかける。「その点で私とわたるは似た者同志。得難い味方」という。
しかし、サチと自分とは全く別の異界の偉人と思う。サチのメスさばきを目撃したいと思うがそれは夢であろう。遠くから見守る。
サチ先生がそのような深刻なご病気だったとは。その様なお身体で執刀医をなさっていらしたとは。
神様のご加護がありますように。。(特に宗教を持っておりませんが)祈らずには居れません。