撮影地:多摩川(稲城大橋上流300m)
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【球界ここだけの話(1984)】無症状感染はひとごとではない、巨人・坂本と大城のコロナ陽性
サンスポ2020/06/04 13:13
「何ともないから大丈夫」という自覚は、新型コロナウイルスの前では意味を持たない。巨人は3日、坂本勇人内野手(31)と大城卓三捕手(27)が新型コロナウイルスのPCR検査を受け、陽性判定が出たと発表した。その前日も試合に出ていた2人は、無症状だった。両選手は球団関係者に対し、「大変驚いている。迷惑をかけてとても残念。早く合流して開幕に備えたい」と話した。
球団は5月29-31日に希望者218人に抗体検査を実施。すぐに出るものでは全員陰性判定だった。だが、コロナ医療への協力も兼ねて大学医学部の研究に参加する形で行っており、さらに時間をかけた検査では坂本、大城を含む選手やスタッフ4人に対して感染後に回復を示したことを示すIgH抗体を確認された。
坂本、大城はウイルスの遺伝子量(CT値)が微量で正常値ギリギリの「微陽性」であることに加え、回復を示すIgH抗体を持っていた。そのため専門家からは2人とも感染から回復後かなりの時間がたっていると判断されたが、改めて検査結果が届いた2日の試合後、慎重を期してPCR検査を受診。その結果、本人たちも驚きの「陽性判定」が出たのだ。大げさではなく、今の地球に生きる私たち全員にとって、これはひとごとではない。
「何ともないから大丈夫」という自覚は、新型コロナウイルスの前では意味を持たない。
坂本は今年1、2月にインフルエンザB、A型に続けて感染したことで、体調管理にはいっそうの注意を払っていたと聞く。3日の球団発表でも、5月29日に友人と昼食を取った以外、外食も夜の外出も一切なかったという。大城も同28日にチームメートと2時間、夕食を取ったのみ。責められるのものではない。
100%に防ぎようがなく、罹患(りかん)しても気づけない場合がある。なんと厄介なウイルスなのか。「無症状病原体保有者」は日本中にいるはず。それは自分かもしれない。私たちは、それを肝に銘じて行動しなければならない。(谷川直之)
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少し縮めたが以上の記事に注目した。この論調が新型コロナウイルスに関する報道の典型的なものである。伝える基本に、威す心理が働いていないだろうか。
「何ともないから大丈夫」という自覚は、新型コロナウイルスの前では意味を持たない。
大げさではなく、今の地球に生きる私たち全員にとって、これはひとごとではない。
「何ともないから大丈夫」という自覚は、新型コロナウイルスの前では意味を持たない。
大げさではなく、今の地球に生きる私たち全員にとって、これはひとごとではない。
「何ともないから大丈夫」という自覚は、新型コロナウイルスの前では意味を持たない。
特にこのように繰り返し強調して人を不安に追い込んでいる。ここは谷川さんが事実の上に自分の感慨を大きく乗せたところである。新聞記者は事実を丹念に積み重ねればいいのであって、このように主観をあらわにするのは下品でないか。
強調して解決できる案件なら強調する意味はあるだろう。谷川さんは坂本選手、大城選手の生活態度の正しさを認めながら、
「何ともないから大丈夫」という自覚は、新型コロナウイルスの前では意味を持たない
と言う。ならば彼らはどうしたらいいの? 答えがない案件についてこのように言葉を消費して何になるのか。それこそ意味を持たないのではないか。
新型コロナウイルス「微陽性」の人など探せばうじゃうじゃいるだろう。ぼくもそうかもしれない。症状がなくふつうの生活をしている感染者、保菌者がいっぱいいるから今発病者が出ている。それはすでに自明のこと。坂本選手、大城選手みたいに元気な人は通常とおり野球をすればいいのである。試合中止をするようなことなのだろうか。彼らに感染させる力はないとみる。
胃腸に大腸菌を持つ人は調べれば大勢いるだろう。それとなんら変わりのないことである。ここに敢えて言葉をたくさん使って、人を脅して何になるのか。デメリットのみでメリットのない報道である。
今回の感染症に対して報道は、言葉は事態を大きく見せることのみに終始してきている。ガンにかかった人(亡くなった人)、交通事故に遭った人(亡くなった人)も大勢いるだろうに、この感染症のみに言葉を集中させ事態をより深刻に意識させてきた。
その結果、ウイルスに感染しなくても心を病む人を増やしたのではなかろうか。また陰性、陽性という区分で人と人を分けて差別する意識を助長しているだろう。かつてのハンセン病とそう大差ない差別意識を言葉がつくっていないだろうか。
多摩川で桑の実を摘むとき藪の中に自分がいる。桑の木のそばに野薔薇があり多種多様の草が繁茂してからみつく。羽のある虫、毛のある虫、すべすべした虫、あるいはダニや蛇などうじゃうじゃいて、自然界はそのように混然一体となっている。
人はそういう環境で本来生きている。それがふつうのことなのだから敢えて強調することはないだろう。
新型コロナウイルスに対しての報道の言葉は無用の強調と思ってきた。人のように言葉を持たない虫や動物のほうが快活に生きられるのではないかとずっと思っている。言葉を生を助長する方向で使わないと人間に未来はないのでないか。
撮影地:東村山市。加藤さん、この黄金色の草の名を教えてください、よろしく