ユニオンスクウェア(撮影:テリー)
ニューヨーク在住のテリーさんから便りが来た。先日、小生が関心を持った水に言及し「ニューヨークの水は安全で美味しいと定評があります。ニューヨーク元市長のブルンバーグさんも市長時代、毎日飲んでいるとおっしゃていました。あの大金持ちのブルンバーグさんでさえも飲んでいると聞くと余計安心な気がしたものでした」などと書いている。「ユニオンスクウェア、いつもならここに水のブースが出るのに今年は見当たりません」とも。疫病ゆえの外出の少なさであろう。
ではテリーさんの俳句30句をみることにする。
少年の目覚めし性や木下闇
性の目覚めということを木下闇という鬱勃した季語でとらえようとする発想は納得できますが俳句としては観念的にて、「木下闇少年自慰を覚えけり」のように具象化することをおすすめします。
手探りの再スタートや夏旺ん
時節柄、新型コロナウイルスの自粛を行政が緩和したことかな、とは思いますが観念的です。コロナ、コロナと連発する俳句も多く世の中に出回っていますがそれも表面的です。この事態を詠むのはそうとう胆力が必要ですね。
蛍追う人差し指のしなやかさ
蛍の微細な明かりに対して指のしなやかさは微妙に響き合うでしょう。「追う」のは人差し指ですか、それとも上五で切って私が蛍へ向かっていることでしょうか。とにかく「追う」はないほうがいいと思います。「蛍火に人差し指のしなやかさ」とダイレクトに合わせたほうが感覚的でイメージが鮮明になるのではないでしょうか。
新品の赤豹跳びし白い靴
まず「白い靴」は「白靴」のことだと思います。季語「白靴」を「白い靴」としてはいけません。それは「雲海」を「雲の海」にしてしまうのと一緒で季語破壊です。「赤豹跳びし」は靴の白いところに赤い豹の柄があるのでしょうか。そうだとしてそれを「白靴」というのかという疑問です。波多野爽波に「白靴の中なる金の文字が見ゆ」がありこれは実直ですかっとします。このようなことでしょうか、参考に。
籐寝椅子足の彼方に島の影
籐寝椅子のある部屋は窓が開いていて風が吹いています。籐寝椅子の伸べる方向に海が広がっていて島が見えます。籐寝椅子から島にいたる大きな空間を作ってすばらしいです。
日替わりの弁当届く木の芽風
樹木の多い住まいでたぶん昼食の弁当が届いた。簡潔に書けていていいです。弁当に対しての期待、喜びが出ています。
風薫る心の距離は近づきぬ
これは抽象的でわかりません。「心の距離」というのですから相手または動物、あるいは関心事があるはず。対象を明言したいです。抽象的な内容でも俳句が成立することはありますがその場合、季語は具象にするのが定石です。季語まで形のない「風薫る」では取りつく島がありません。
プルルンとゼリーのごとき未来かな
少女の作ったような句で甘いといえば甘いのですが作者の言いたいことはきちんと言葉になっています。未来を悲観していない前向きの作者が見えます。
湧き上がる勇気飲み干すソーダ水
ソーダ水の無数の泡を勇気と見たのは明るい性格です。前の句とあわせ、進取の気性に満ちた作者の人となりが見えます。
まず水母いつもの順序水族館
文脈が支離滅裂にて何を言いたいのかわかりません。水族館に入るとまず蟹がいて次にヒラメがいてその次が水母というような現れ方の順序を言いたいのでしょうか。
蛍狩濡れしペディキュアルビー色
蛍の手の指の句がありましたがこれは足の指とのかかわりです。サンダル履きで行くと足が濡れますからそこに目をつけたのはいいです。しかし「ペディキュアルビー色」と片仮名を連発するとどうしても軽薄になってしまいます。「蛍狩濡れてペディキュアくれなゐに」みたに和語を生かして詩情を増したいところです。
夏つばめ出前の声の威勢よさ
夏つばめの元気のよさと相俟って出前の人はよく見えます。結句は「威勢よし」として落ち着かせるのがいいでしょう。
丁寧に包丁研ぎて鱧料理
「丁寧に包丁研ぎて」、そりゃまあそうでしょう。これは常識の範疇で発見がありません。
空豆や生まれながらに福の耳
空豆のあの形を耳に見立てたのですね。おもしろいと思いますが「福の耳」は「福耳」と言ってこそ効きます。「生まれながらに」は必要でなく「空豆はまこと福耳」のように言って、さてあと五音でどう展開するかでしょう。
戻りくるサーファーの影青岬
「青岬」は多くの歳時記にないのですが「波の穂のみなわれに向き青岬 藤井 亘」「青岬尖りて浪を二分けに 西村秋羅」のような作例があり季語としていいでしょう。海から上がってこちらへ来るサーファーの濡れて黒々とした感じを「影」と見ました。ほんとうは「サーファー黒し」と言いたいのかもしれませんが「青岬」と色がぶつかるので避けたと忖度します。
孫も猫も乗って来るくる籐寝椅子
楽しいです。「来るくる」は「くるくる」という擬態語で遊んでいる様子でしょうか。「孫」を詠むと甘さの極致にてやめて「子」にしましょう。「子も猫も乗ってくるくる籐寝椅子」でいかが。
水打って一掃したきコロナ菌
こうおっしゃりたい気持ちはわかりますが今年はコロナコロナの句が頻出しています。この歴史的な災害を書き留めたい衝動はわかりますが、コロナコロナといってレベルが高い句になるとは思えません。連呼するのは選挙カーに任せ、俳句ではむしろコロナを言わない道を模索すべきでしょうね。
待ち人の来るを信じる蛍の夜
「待ち人の来るを信じる」はていねいに自分の気持ちが出ていて納得できます。蛍ということで恋の気分濃厚です。このままでもいいですがさらに精度を上げるには「夜」を削ることでしょう。「待ち人の来るを信じる蛍かな」、この文脈で蛍が人を待っているという読みも生じますがそれでもかまいません。読みの鋭い人は蛍と作者がひとつになっていると解釈してくれるはずです。
蘇る野生のリズム南風吹く
「蘇る野生のリズム」はサンバでも踊っているのでしょうか。ここが具象化できれば季語は効いてきます。「胸ゆらし踊るサンバや南風」だとゴーギャンの絵みたいにエネルギッシュになります。
エンデングノート書き終え蛍狩
エンデングノートという現代的な素材と伝統的な蛍はよい出会いです。この文脈は皿洗いしたあと床磨きするみたいな作業を感じてせっかくの素材がもったいないです。「蛍の夜エンデングノート書き終えし」、中八ですがこうしたほうが詩情が増すように思います。あるいは、書いている最中でもよく、「エンデングノート書きをり蛍の夜」でしっとりとした句になるでしょう。
あと二軒配達員の脇の汗
配達という仕事のたいへんさに共感しました。それはいいのですが「脇の汗」はスカート覗きみたいでやや品がない感じがします。部位でいくのなら「首の汗」「額(ぬか)の汗」といった第三者がすぐわかるところがいいでしょう。
父の日の父は本気で腕相撲
ユーモアがあって楽しいです。このままでいいかなあ……。「父の日の父の本気の腕相撲」もありかと。同じ助詞を4回繰り返すのは異例ですが(成功率が低いという意味)、この畳みかける気合はいいように思います。
めくるたびギシギシしなる籐寝椅子
「めくるたび」がわかりません。使わないとき覆いをかけてあるのでしょうか。それを取ったとして「ギシギシしなる」でしょうか。
夏空へぐんと伸びゆく飛行機雲
子供っぽいです。芭蕉は三歳の子供の心で俳句を書けと言いましたがそれとは意味が違います。飛行機雲はこのようなものであり敢えて言葉にする必要はないでしょう。むしろ消えてゆく飛行機雲のほうが詩があるかもしれません。
缶ビールナイスキャッチの内野席
素材がおもしろいです。つなげないで「缶ビールナイスキャッチや内野席」と切れを入れることでもっと句は立って軽快になるでしょう。離れて座った友人同士でしょうか。売り子が商品を放るとは思えないので離れて座った友人同士でしょうか。想像が広がって楽しいです。
気配りの嘘も方便雲の峰
嘘を言う人聞く人がいるという世間に対して「雲の峰」は離れていておもしろくなりそうです。「嘘も方便」はよ手垢がついているのでやめて「気配りの嘘」だけで攻めるほうがいいでしょう。嘘をつくのが作者で相手はどんな関係の人物であるか、またはどういう話であるのかといったヒントがあればもっと見える句になります。
粛々と進むデモ隊汗しとど
きちんと書けていますがそうおもしろくありません。それは見方がまだ表面的のせいでしょう。「横断幕持ちて行進」とか何かこれぞという切り口が欲しいです。
深呼吸初期化完了青岬
「初期化完了」はパソコンないしIT関連の用語。使い方次第で転用はできそうですがこの場合は安っぽい。その背景に三段切れがあります(深呼吸/初期化完了/青岬)。上五中七の間が切れるのは避けたいです。「深呼吸してリセットや青岬」ならいちおう文脈は整い流れとリズムは生じます。
向日葵や雨の滴のフリルつけ
「フリルつけ」が少女趣味でよくないです。もっと目を利かして描写に徹することです。フリルよりは「向日葵や雨の滴の燦燦と」のほうが若干よく、「向日葵の雨滴をどつと浴びにけり」だとかさらに自分なりの滴を追求しましょう。描写に徹することは俳句を書く基本的な有効な手段です。水というのは基本的な要素にてわれわれは手を替え品を替え挑んでいい素材です。
驟雨来る話なかばで走り出す
こういうことはよくありますね。このままでもいいですが上五は「夕立や」と簡略化して一句を締めてもいいでしょう。
父の日の父の水割りやや濃い目
凝らずに卑近なところに目を止めました。俳句はこれでいいです。前に出た父の日の句で「の」の繰り返しをアドバイスしましたがここは切れがあったほうが落ち着くかもしれません。「父の日や父の水割りやや濃い目」。