「小さい秋みつけた」という歌を聞く度に、その秋はどんな秋なんだろうって思うのです。
歌とは離れて、じゃあ大きい秋ってなんだろうとか、それなら小さい春もあるのかしらとか想いはいろいろ飛ぶのです。
ところで先日、公民館での歌う会でこの歌の簡単な説明がありました。
「この歌を作ったサトウハチロー氏が病気で臥せっている子供の視点で作った歌」というのがそれです。
部屋から小さな窓を通して見つけた秋の気配。
この歌はほんとうに素敵な歌だと思います。そして何かを感じる時、または見つける時はやはり5感でというのもポイントなのかと思いました。
1番の歌詞
>すましたお耳にかすかにしみた
よんでる口笛もずの声
2番の歌詞
>お部屋は北向き 曇のガラス
うつろな目の色 溶かしたミルク
わずかな隙から秋の風
3番の歌詞
>むかしのむかしの風見の鶏の
ぼやけたとさかにはぜの葉ひとつ
はぜの葉赤くて入り日色
空気が澄んで口笛やもずの声が空高く響く・・・・
北向きのお部屋で熱のある少年が頂こうとしているのは温めたミルク。溶かしたとあるからスキムミルクなのかもしれません。そこからは湯気がたっていて、手のひらにはその暖かさを感じているのにミルクの湯気を揺らすすきま風はひんやりと冷たい・・・・
年月を重ねた風見鶏の色ははげていて、そこには風で吹き上げられた葉っぱが一枚絡んでいる。その葉っぱは夕日の色と同じに真っ赤・・・
と、ここまで書いたら、なんとなく裏のメッセージを感じてしまいました、私。
なぜなら少年の寝ている部屋は曇のガラス、つまり曇ガラスという透明じゃないガラスの窓なのです。その窓からは風見の鶏も、そして色鮮やかなはぜの葉も見ることは出来ないのではないでしょうか。
つまり少年は湯気の向こうにある記憶の中の秋を見ているのです。だから少年の目は焦点のあっていないうつろな目をしているのではないですか。
そしてこの「ぼやけた」という言葉から来る印象が、それを感じさせませんか。
記憶というのは常にぼやけたもの。くっきりと映像のように見ることは出来ないのです。だけど、そのぼやけた記憶の中に鮮明に蘇ってくる記憶が彼の中にある。それはずっと昔に家を出て行ってしまった母との記憶だったかも。
少年はそっと呟いてみる。
―お母さん
暖かい春の日ばかりではない人生の秋を、少年は感じていたのかもしれません。
もちろんそれは私の妄想的解釈。
だけど「小さい秋みつけた」という可愛らしい言葉の歌なのに、歌うと何故か刹那く胸がきゅーんと締め付けられるような気持ちになるのは、そんな思いが込められているからなのかもしれないと思ってみたりしたのでした。
※ 画像は18日朝の空です。