奥の細道―古人の心を探る幻想の旅 (絵で読む古典シリーズ) | |
富士 正晴 | |
学習研究社 |
「雛の家<その1>」の続きです。
今と違って昔は仕事ばかりしていたような事を時々言っていますが、人は過ぎた過去は美化したがるものですから怪しいものだと思っている方もいらっしゃるかも知れません。それは別に良いのです。だってこの私自身、その過ぎ去った過去を思い出す時、そんな時代があったようななかったようなという気すらするのですから。
でもその時に、頑張っていたらご褒美に本を数冊頂きました。
その本の中にこの「絵で読む古典シリーズ、奥の細道」がありました。
嬉しかったですね。何で、私の欲しかったものを知っていたのかと思ってしまいました。
もちろんそんな訳は在りませんが。
ちなみにこの本も、amazonさんから中古で買う事が出来ます。
・・・・、ややっ、
定価よりも若干お高い・・・!
大事にしよう、この本。←心の声。
この本は写真・解説・ちょっとくせのある現代語訳・旅ガイドと読み応え見応え十分なのです。
ところがその中のあるコーナーの一文を読んで、ドキリとした私。
「雛にも譬えられるような小さな家」
この「ひな」は小さいを指す言葉だと言うのです。
寝転がって読んでいた私は、ガバリと起き、そしてドキドキしたのです。
何でこんな事でって思いましたよね。
中学生の国語の勉強のお手伝いをしていたのはその時より以前の事で、当たり前の事ですが、文献を読みまくってからお手伝いをするわけではありません。そのお手伝いは、教科書を良く理解させその成績を上げることが目的です。その時私が使用していた教科書準拠の参考書では、次に住む人を明らかに意識した訳でした。それで私も、前に書いたM町での体験などを話し、芭蕉は想像の中でそれを未来に感じていたのかも知れないねなどと、子供たちに言っていたりしました。
でもそれが「ひなの家」が「小さなひなの家のような庵」だと、意味が違ってくるでしょう。
何か「やっちまった!」と言うような気がしました。その昔は自分のパソコンなども持っていなかったので、多角的に知識を取り入れるということも、そんなに安易には出来なかったのです。でもその本を頂いた時には、既に自分のパソコンを持っていましたので、検索に走りましたが、そのような説は見当たらず、ヤレヤレとホッとしたものでした。とりあえず1冊の本に頼って怪しい事を教えてしまったと言うわけではなかったからです。
これはそのコーナーを書いた人の暴走か・・・・
でも今回もやはり、かなりの時間「検索ちゃん」をやってしまいました。
疲れて珈琲などを飲んでいましたら、ラッタ君がやって来ました。まあ、この時のお話が「末代まで祟る」なんですが、そんな事ばかりを話していた訳ではありません。
ラッタ君に「ひなの家」の解釈のことを話していましたら、
彼が究極の正解を言い放ちました。
「まあね、芭蕉さんはお亡くなりになっているので、正解は好きなほうジャン。」
「・・・?・・・・・!、確かに 」
まあ、ガッコの先生でもないし、もう中学生の勉強のお手伝いは体力的に限界を感じて卒業したわけで、今晩のおかずにも関係ないのに「ひなの家」で時間を費やしているおばちゃんもいないわな、もう止めと思ったその時、ラッタ君の余計な一言。
「『ひなの家』の『ひな』は掛詞なんだよね。」
「えっ!?聞いた事がない。それ何処で習ったの?」
「鳥の雛と雛人形の雛・・・。あれっ、俺の勘違いかも。」
「聞いた事なかったけれど・・・うーん・・・。なんかそれ、あながち間違いとは言えないんじゃない。」
面倒な展開になったラッタ君は、そそくさとドロン。
「雛の家のような小さな家」と言う解釈は、とうとうネットでは調べられませんでしたが、高校生が使う国語便覧では、通常の解釈の他に但し書きで、別解釈ありと注釈が付けられていました。その別解釈が載っていないのが残念な所。国文学の学生は、そこの所をもっと詳しく勉強するのでしょうか。知っている事があったら教えて頂きたいものです。
だけど「人形の家のような小さな家」ではなく「鳥の雛の家のような小さな家」と思うならば、これは掛詞として何かピンと来るモノがありました。なぜなら雛は育ち旅立っていくもの、そんなイメージの象徴の様な気がしませんか?
旅たちの決意を二重三重に込める。芭蕉さんならやりそうだなと、ちょっとシミジミとしました。
ラッタ君の言葉を借りれば、芭蕉さんはもうお亡くなりになっているので、その真実は知れず。勝手に解釈勝手に感動も、またアリかもしれませんね。