森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

去年の夏を思い出しながら今年の夏を思う

2013-07-09 14:02:08 | 梢は歌う(日記)
 
success summer 2012

夏という季節が好きです。夏は、「暑い」「ダルい」しか言わないような毎日を過ごしているようだけれど、その暑さは、自分の中の何かを燃やすのです。これはきっと、楽しくて自由だった夏休...
 

またも昨年の7月8日に書いた記事をgooさんがメールで送ってくれました。

昨年の今頃私はかなりお気楽な気分で、夏を楽しみながらいろいろ頑張ろうと早めのスタートを切っていたのでしたね。

そしてそんな気分の記事をいくつか書き続けていましたが、パタリと止まりました。

結局、その夏のまとめのようなものは「立ち止まり目をつむり耳を澄ます」という記事にて書かせて頂きましたが、父の病気の事が心を占めていたので、あまりお気楽に夏を過ごしていたというわけにはいかなかったのでした。

今もまた「風のように人生を通り過ぎていく」というタイトルで連投させていただいていましたが、しばらく書く手が止まりました。

5月のあの日、実家にて父の傍らに詰めていましたが、その交代の時間にその文を書き始めたのでした。でもその時は、よもやその数時間後に父が亡くなるとは思ってはいなかったのでした。せめて一日ぐらいの猶予があると思い込んでいた節がありました。だからあの記事は流れで父との別れのシーンを続けて書かざるを得なくなってしまったのでした。

人は病気で死ぬ時、今の時代では病院などでその最後を迎えるというのが普通だったと思います。だけれどまた少し、時代の流れが変わってきたように思います。なぜならホスピスはいっぱいです。「時代」がまた家で最後を迎えるという事を後押ししているように思うのです。

家で看取るということはどういうことなのか、私の稚拙な文でもいつかどなたかの役に立つこともあるかと信じています。

 

では一日の猶予があったら、次の日私は何を書いたのかというと、それはこのシリーズでも次に書こうと思っていた「父との対話」です。年が明けた頃から私は父と会うたびに死について多く語り合ったと思います。父の死を目の前にしてのギリギリで、何も書き始めなくても良かったのでしたが、その死についての会話には拡大解釈されても困るようなものもあって、少々書くことに頭を使いそうだったのです。

要するに頭を使うことから逃げていたのです。それは今もだったかもしれません。

でもこのことから逃げて放り出したら、何かを通して何かを学ぶという自分の人生の姿勢から逸脱してしまうと思うのです。

父の死を通して私は多くを学んだと思います。

だけれど悲しいことに人は、いや私にとってはその学んだことをずっと保持していけるかというと、なかなか難しいものがあるのです。だから私は書くのだと思います。

 これを書かねば先には進めないというのが、それも本音なのですが、これだけ間を空けてしまったので違うことも書いていくつもりです。

 

これが終わったら、溜めてあったいろいろなことの記事を書こうと思っていたのですが、きっと全て忘れてしまいそうなので・・・って情けないですが・・。

 

今年の夏も、夏の暮らしを楽しみますよ、ワタクシ。 

と言っても遊びに行く予定は全くなくて、新盆でまた墓参りに行くという予定しかないのですが・・・。

意外といろいろあれやこれやと忙しいのです。

こういう時は、あれですよ。

あれというのは・・・ゴミ捨て&お掃除です。

しかも時々、父の部屋のゴミ捨てにも行ってます・・・ああ・・・・うう・・・

って、いつかこの「ああ」と「うう」の意味も書く日も来るかと思います。

 

※ 49日の法要は終わり、父が最後に建立したお墓に無事に納骨も済ませることができました。

みなさま、ありがとうございました。

コメント (2)
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