兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、
霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。
それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。(ガラテヤ六・一)
あら捜しをすることに伴う、人を軽べつし害する力を、私は拒否する。他の人の欠点を思いめぐらすことを拒否する。
それを考えることを拒否する。まして、それを口にすることを拒否する。
人の欠点、もろさ、弱さを見つめ、あるいはそれについて語るように誘惑されるとき、私はいつも次のように言う、
「もし私が彼らのように生まれ、彼らのような環境に取り巻かれ、彼らのように裏切られたならば、私の生涯はどうなっていただろうか」と。
神によって照らされた想像力のひらめきによって、私は人の欠点をこう考えよう--もし父なる神の計画されたとおりになるならば、
これらの欠点はどのようになるだろうかと。
私の一大決心は、決して人を非難しないということである!
もし私が欠点について語らなければならないとすれば、多くの祈りののち、彼らを勝利に導く道を見いだそうという動機だけをもってそうするであろう。
「主は我らの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えられる」。私たちも、そのようでなければならない。
自分の見ることのできない人の心を
さばいてはいけない。
あなたのかすんだ目に汚点と見えるものが
神のきよい光に照らして見れば
傷跡であるかもしれないのだ。
あなたなら、気を失い
屈服したであろう戦いの場で
勝利を得たときの傷跡であるかもしれない。
山頂をめざして カウマン夫人著より
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