氣楽亭 日乗

大阪生まれで奈良県広陵町の長閑で氣楽な田舎暮らしの氣功師が氣ままに綴る懐かしい昭和の年代記です。

あの頃のTV

2005-06-30 01:22:46 | 懐かしいTV番組
我が家のお隣がKさんというナショナルの特約店で電器屋さんでした。
昭和20年代の後半にTVの放送が始まりました。
Kさんの店頭にはプロレスや相撲が放送されると黒山の人だかりです。
隣のよしみで大変に可愛がって貰い(自分で言うのもなんですが幼少の時は可愛かったらしい)店頭ではなくお店の中でお菓子をもらい特等席でTV鑑賞させて貰いました。
三菱電機提供のダイアモンドアワーがプロレスを放送していて大人気です。
力道山とシャープ兄弟や鉄人ルーテーズの対戦は手に汗を握り空手チョップに大拍手でした。

大相撲は若乃花(初代)の大フアンでした。
鏡里、大内山、栃錦、琴ケ浜、朝潮・・・懐かしい関取の四股名です。
大阪場所が始まると下寺町には相撲部屋が多く逗留していて各部屋へ稽古を見に行きました。
高砂部屋、花篭部屋、などが記憶にあります。

野球はほとんどがデーゲームであまり見ていません。
大阪タイガース、近鉄パールズ、南海ホークス、大毎オリオンズ、西鉄フライヤーズ、松竹ロビンス、東急セネタース?古い球団名しか記憶に有りません。

この高級で高価なTVがカラー放送になり各家庭に普及し、しかもBS,CS、デジタルハイビジョンまで登場しています。
ビデオ、DVD機能も内蔵しプラズマ画面・・・

しかし心躍らせて放映日を待ち手に汗握る番組のなんと少ない事か・・・
「過ぎたるは及ばざるが如し」を痛切に感じる頃日です。


傷痍軍人

2005-06-29 10:18:24 | 懐かしい言葉
生玉神社や高津神社の夏祭りの参道に露天に並ぶ白装束の集団が居た。
アコーデオンやハーモニカで悲哀なメロディーの軍歌が聞こえてくる。
此処は~お国を~何百里~離れて~遠き~満州の~赤い夕日に~照らされて・・・」

旧軍の軍帽を被り白い着物を着用している。
募金箱を持つ手は肘のところから欠損していて金属製のフックに成っている。
両足が膝から無い人は膝にパットを装着しハーモニカを吹いている。
五体満足で両眼を失明し黒眼鏡をかけ白い杖を持っている。
片足の人、片手の人・・・様々な肉体的欠損を持つ傷痍軍人の募金活動である。

春秋のお彼岸さんの四天王寺の参道や石の鳥居脇などでも沢山の傷痍軍人を見た。
阿倍野、天王寺、難波、大阪駅、梅田、京橋の各ターミナルでも見かけた。

電車や汽車の中でも良く見かけた・・・
旅から旅を掛けて全国を募金活動しながら幾つもの傷痍軍人集団が存在したのだろう。
子供心に不気味で怖かったことを思い出した。

昼下がりの銭湯で傷痍軍人の集団に出会った事もあった。
傷口がハムのように丸くピンク色をしていた・・・
負け戦で手足を失ったオジサン達はもの悲しげで僕達に初めて悲哀を教えてくれたのだ。
夏が来ると思い出は懐古モードに入り際限が無い。

市電

2005-06-28 10:12:13 | 懐かしい思い出
我が家の前が千日前通りの市電、下寺町停留所の前でした。
通りの北側なので市電の行く先は今里でした。

今里には大叔母がやはり昔から神具店を営んでいました。
今里警察の手前の通りで昔の「暗闇街道」に沿っていました。
其の街道は玉造~今里~深江~生駒の暗闇峠~大和・・・伊勢に到る「伊勢街道」です。
落語の「東の旅」に出てくる街道です。

我が家の向かい側の停留所から市電に乗れば千日前~湊町~賑橋~桜川~大正橋~境川へ行けます。
境川で乗り換えて堺の大浜海水浴場へ行った思い出が微かに有ります。?
市電の路線が堺の大浜まで有ったのか疑問ですが古い記憶なので確かな事は解りません。

其の頃、大阪市内の各ターミナルの市電や市バス停留所付近には大勢のオバサンが乗車回数券のばら売りをしていました。
10枚綴りの回数券を仕入れて1枚ずつ乗客に売るのです。
初乗りが市内1区10円だったと思います。
10枚売れば1枚が儲けになり大流行したのだと思います。
大阪駅前梅田や天王寺阿倍野や難波などでは何十人ものオバサンがたむろしていました。
其の周辺には闇市の名残がそこはかとなく漂っていました。

皆が貧しくとも明日に希望が持てたあの頃の思い出です。


輪タク

2005-06-27 10:21:58 | 懐かしい商売
ベロタクシー(人力自転車タクシー)が東京、京都、などで人気があるそうだ。
愛地球博覧会の会場にもあるらしい。
省エネルギー、スローライフ、地球に優しく、エコロジー・・・今の流行言葉。
でも電動アシスト付きのベロタクシーはちょっと変だと思う。
ドイツから輸入したベロタクシーもあるらしい。

またもや敗戦後の話になるんですが・・・
あのころ「輪タク」と謂う自転車タクシーが有りました。
自動車が輸入出来ません(外貨が無いから)でしたし国産車もありません。
重工業はアメリカの犯罪的な無差別爆撃で壊滅状態でした。
勿論のことガソリンは貴重でした。
タクシーやハイヤーは一部の特権階級(高級官僚、闇成金、財界)のものでした。
庶民は公共交通機関を利用するしか手立ては無かったのです。

そのころ豊富なのは人力(沢山の失業者、復員軍人)だけと言う悲しい事情があったのです。
自転車を三輪車に改造して後ろに二人くらいの客を乗せる「輪タク」が出来たのです。
前は自転車で後部に二輪を付けそこを客席に改造しキャンバス地で屋根とドアを装備していた。
しかし坂を上るのは大変だったと思う・・・
我が家の前の千日前通りは下寺町を過ぎて松屋町を越えると谷町九丁目まで急な坂道です。

ベロタクシーも輸入なんかしなくても昔の「輪タク」を再登場させれば良いのに・・・
日本の技術で再設計したら素敵な「輪タク」が出来ると思う。

エコライフが流行ではなくてスローライフしか出来なかった時代の話です。
でも頃日は無闇にあの頃が懐かしいのです。
夏が来ると思い出します。

松屋町筋

2005-06-26 02:16:06 | 懐かしい思い出
大阪市内の大通りは東西を~通り、南北を~筋、と呼んでいます。
市内の東を南北に張り出した台地を上町台地と云います。
その台地の裾野が古代の海岸線であったと聞かされました。
そこを南北にのびる大通りが松屋町筋で玩具問屋、人形問屋、駄菓子問屋が軒を並べています。
大阪人は「まっちゃまち」と呼ぶ有名な問屋街です。
千日前通りの交差点で問屋街は終わり其処からは寺町で寺院が軒を並べています。
その交差点の北西に私の生家がありましたが現在は阪神高速の高架の下で道路に成っています。

交差点の道路際に馬の水飲み場がありました。
馬力といって馬が荷車を引いて大阪市内を闊歩していたのです。
トラックやオート三輪もありましたがリヤカーや馬が引く荷車が残っていたのです。
その馬が水を飲む場所が市内のあちこちにあったのです。

交差点は交通巡査が台の上から手信号で交通整理をしていたのを覚えています。
信号機のことを「ゴーストップ」なんてアメリカナイズされた呼び方をしていました。
連合国の兵隊を占領軍と呼ばずに進駐軍と呼んでいたのもおかしな呼び方ですね。
敗戦後しばらく続いた占領下の思い出です。

セルロイドの船

2005-06-25 11:02:09 | 懐かしい玩具
樟脳(ナフタリン)で進むセルロイドの船があった・・・
私は昭和二十五年に大阪市南区(現中央区)で生まれました。
近郊のM市に引っ越すのは昭和30年です。
生まれた家は千日前通りと松屋町筋との交差点の北東で市電の下寺町停留所の前です。
神具店を営んでいました。
高津神社の氏子でしたが生玉神社の方が距離的には近かったのです。
どちらの夏祭りも盛大で夜店が賑わい楽しみでした。

赤や青、黄色などの原色のセルロイドを張り合わせた船を組み立てながら商売している店があり子供が集まっています。
其の船は不思議な船で樟脳のかけらを船尾にはめ込むとタライの水の上をスイスイとアメンボウのように進んでゆきます。
ブリキでできて小さなローソクに火をつけて遊ぶポンポン船がありましたがまた別の物です。
音も立てずにスイスイ進むセルロイドの船は魅力的でステキでした。
小さな船から大きな船まで値段が数段階に分かれていました。
中くらいのセルロイドの船を買って貰った事を覚えています。

セルロイドの人形や家具など色々な玩具が有りました。
プラスティックが世に出るまでの素材ですが燃えやすく危険でした。
けれどもセルロイドには懐かしい響きがあります。
日本がアメリカに占領されていたメイドインオキュパイドジャパン(被占領下日本製)の時代を思い出させる響きです。



模型の進化

2005-06-24 10:14:46 | 模型懐古譚
模型と言えば昭和20年代後半は木製模型しか有りませんでした。
ゴム動力の飛行機は竹ひごをローソクの火であぶり(説明図にあわせて曲げる)ニューム管で接続し紙を張り主翼、垂直尾翼、尾翼を作ります。
子供には到底無理な話です。
竹ひごを燃やしたり、強く曲げすぎて折れたり・・・
木製の0ゲージのトロッコ、電気機関車、貨車、客車、線路も木製です。
モーターボートや戦艦、巡洋艦、航空母艦、駆逐艦、潜水艦・・・木製です。
自動車、戦車も木製です。
全部がただの木の細切れ状態で箱絵とは似て非なる物でした。
想像力とイマジネーションが唯一の武器だったのです。

昭和30年代中頃に国産のプラモデルが登場しました。
戦闘機の曲線や風防、リベットまで再現してあるのには驚いた。
今思えば玩具に近いものでしたが・・・

プラモデルのメーカーは雨後の筍のように誕生しました。
木製模型メーカーの田宮模型や玩具メーカーのマルサン商店などが2派の流れの源流です。
木製模型メーカーの流れは静岡県に集中し、玩具メーカーは東京に集中していました。
愛読している月刊誌、少年、少年クラブ、少年画報、漫画王、冒険王、ぼくら、おもしろブックや週刊少年マガジン、サンデーにはプラモデルの広告が満載されていました。
ベビーブーマーの団塊の世代の我々をターゲットにした商戦国時代の幕開けです。
其の頃の雑誌や模型メーカーは殆ど残っていません。


海洋堂模型店の思い出

2005-06-23 11:21:01 | 模型懐古譚
京阪D駅前通り商店街の東側に小さな海洋堂という模型店が開店したのは小学生の4~5年生の時だった。
K小学校の正門の一つ手前の通りがその商店街で僕らの日常の行動範囲内でした。
店主は宮脇さんという名前のおじさんで帆船模型と小説を書くのが趣味の人でした。
子供心に普通の大人ではない趣味人を感じて毎日ほど店に入り浸った。

其の当時の模型店の店主は因業者が多く買いもしないひやかしの子供は嫌われた。
模型の専門店は少なく文房具屋さんや本屋さん駄菓子屋さん玩具屋さんの片隅に模型は置いてあった。
子供が模型の箱を開けて中を見ることは厳禁で箱を紐で難く縛って有った。
当然、部品が破損したり欠品したら売り物には成らないからである。

しかし宮脇のおじさんは違った、偶にしか買わない僕らでも大事にしてくれて模型の箱の中身も見せてくれた。
僕がおじさんのフアンになり小遣いを貯めては模型を買ったのは昔々の45年位前の忘れていた古い思い出でした。

頃日、TVの特集番組で門真市のフィギュアメーカーとして世界的に有名な(株)海洋堂を取り上げた番組を何の気なしに見ていた。
会長のインタビユーの場面でアナウンサーが「宮脇会長」と言った・・・
なんとあの宮脇のおじさんではないか!
ガレージキットで以前から海洋堂の名前は知ってはいたがM市のD駅前通り商店街の海洋堂が門真市に移転し(株)海洋堂に大発展していたとは夢にも思わなかった。
今ではその精巧な商品は大英博物館にも認められて英国へ納品しているとは驚いた。

宮脇おじさんの小説家への夢は叶わなかったけれど良かったですね。
昔々の小さな縁ですが海洋堂模型店のフアンだった事を感謝します。

往事茫洋

2005-06-22 08:20:55 | 懐かしい思い出
幼い頃の思い出は(特に初夏から夏休みの期間)茫洋として尽きる事はありません。
私が住んでいた大阪市近郊のM市には淀川が流れています。
昔「水都祭」という大きな花火大会が淀川の岸辺で開催されました。
ナイアガラの滝なんて云う仕掛け花火もあり大層に賑わいました。

近所にはM神社、T神社、H神社と夏祭りも3回もあります。
氏子のM神社は一番大きくダンジリがでました。
他の神社は北河内らしく布団太鼓が出ます。
当然喧嘩も祭りの華です。
宵宮、本祭りと各2回、合計6回も露天店が出ます。
それに月3回の夜店を加えると・・・小遣いがピンチです。
近所と雖も校区が異なる神社の祭りに行くには緊張します。
昔の子供は他校の子供と仇のように敵対し眼が合えば喧嘩です。
けれども加減を知っていたから大事には到りません。

夏休みになると近所の公園で町内子供会のラジオ体操がありました。
1回ごとに役員さんにスタンプを押してもらい最後には賞品が貰えます。
スタンプの数で賞品に区別がありました。

学校のプールが新設され市営プールが造られたり街は復興のさなかです。
高度経済成長の前段階の発展ですが皆が貧しかったあの頃です。
初夏から夏休みはアッと云う間に終わりました。

夏至

2005-06-21 10:11:50 | 日記
夏至は二十四節気の一つで旧暦五月中気の事です。
一年中で昼が一番長い日ですが通常なら梅雨でお天気は悪く余り感じられません。
今年の梅雨はカラ梅雨でしょうか?
余り雨が降らないので紫陽花は未だ咲きません・・・
夏至の日に毎年の恒例として庭の紫陽花を一輪切ってトイレの天井からぶら下げます。
婦人病の呪術とかで亡き母から家内が引き継いだ我が家の行事です。
一年前の紫陽花と取り替えるのですが・・・今年の紫陽花が咲きません。
旧暦の夏至まで待つか、何処かで咲いている紫陽花を調達するか?
家内の意向に任せます。
トイレの天井は高いのでなかなか取り替えにくいので背の高い私の役目です。