氣楽亭 日乗

大阪生まれで奈良県広陵町の長閑で氣楽な田舎暮らしの氣功師が氣ままに綴る懐かしい昭和の年代記です。

傘直し

2006-09-16 00:01:02 | 懐かしい商売
昭和40年代頃までは「傘直し」が行商に来ました。
傘~こうもり傘の~張替え~」
雨傘や日傘の折れた骨を修繕したり破れた生地の張替えをしてくれます。

当時は100円のビニール傘は未だ有りませんでした。
傘は貴重品で大事に使う物だったのです。
それに今のように何本も使い捨てにする事は有りません。
大事に修理しながら何年も使いました。

傘の生地もナイロンなどの化学繊維ではなく木綿だった記憶が有ります。
上等な傘は絹だったのかな?

どんな物でも壊れたら修理していた頃の懐かしい思い出です。

下駄直し

2006-09-15 00:01:14 | 懐かしい商売
昭和30年代の中頃まで「下駄直し」が町々を行商(修理)していました。
なお~し 下駄なお~し」の声が聞こえると痛んだ下駄を直して貰う。

門口に荷物を下ろすとそこが直ぐに仕事場に成る。
切れた鼻緒や磨り減った下駄の歯を入れ替える修理をしてくれるのです。

あの頃は大人も子供も男女を問わず下駄が一般的でした。
利休下駄や日和下駄に雨下駄(高下駄)・・・何処の家にも有ったのです。

下駄が日常で履かれなくなるのは何時頃からか?
多分オリンピックが有った昭和39年頃からではないだろうか・・・
お母さん方の和服や割烹着が着られなく成った頃からだろうと思う。
此の頃は商店街にも下駄屋さんは見かけなく成りました。

いかけや

2006-09-14 00:14:52 | 懐かしい商売
昭和30年代の後半頃まで「いかけや」のオジサンを町で見かけました。
「いけけや」は穴が開いて使えなく成った鍋や釜を修繕する商売です。
いか~け~」と声を張り上げて町を流して来る・・・

小さな鞴(ふいご)などの道具を持ち行商して来る修理屋さんです。
注文の声が掛かると門口に腰を下ろし道具を並べて修理に取り掛かる。

穴の開いた鍋や釜に金属の部品を挟み込み簡易溶接をします。
上手に修理し穴が塞った鍋や釜はまた使えるように直りました。
未だ大量消費時代が来る前の懐かしい商売の思い出です。

修理する前に捨ててしまう・・・
修理しようにも修理屋が無くなった・・・
修理の方が高価に成り買った方が安い・・・
こんな事は不自然で何だか変だと思いませんか?

ヤマガラの御神籤

2006-05-30 07:47:39 | 懐かしい商売
昭和30年代に街頭で「ヤマガラの御神籤(おみくじ)」を見かけました。
縁日や神社の参道で商売をしています。

「ヤマガラ(野鳥・小鳥)」がお客さんの10円玉を嘴で咥えて小さな神社の鳥居を潜り階段を登る。
10円玉を賽銭箱に入れて神社の鈴を鳴らし社殿の扉を開けて中の「御神籤」を一つ咥えて戻ってくるのです。

オジサンがその「御神籤」をお客に渡す・・・面白いパフォーマンスでした。
野鳥を飼いならし芸を仕込むのは大変だと子供心で思いました。

高度成長と共に消えてしまった懐かしい商売です。

ポン菓子

2005-12-12 10:19:15 | 懐かしい商売
昭和30年代の初め頃に「ポン菓子」が流行しました。
今でも駄菓子屋で丸く固めた「ポン菓子」を見かけますが似て非なる物です。
勿論どちらも米を加工したお菓子ですが懐かしい「ポン菓子」は家からお米を何合かオジサンに渡し目の前で作って貰う。
大きな「ドッカン~」という派手な音と共に「ポン菓子」が出来上がる楽しいお菓子でした。

小さな圧力釜と薪や大きな金網の筒、ブリキの櫃、ヤカン、などをリヤカーに積んで「運搬車」と言う頑丈な自転車で街を流して来るのが「ポン菓子」加工屋さんです。

注文が有れば自転車を停めてその場で商売を始める。
圧力釜の下で薪を積み上げ火を熾します。
我々は家から2~3合のお米と砂糖を湯呑み一杯位を持って「ポン菓子」屋さんの周りで並び順番を待つ。

オジサンは圧力釜の中にお米を入れてクルクルと火の上で廻す。
圧力釜には圧力計と柄がついている。
小さな鍋で砂糖を水に溶かして飴を作ります。
火にかけた砂糖水の泡が小さくなって粘りが出て来る頃には圧力釜からも芳ばしい香りが「プ~ン」と匂って来る。
いよいよ「ポン菓子」の出来上がりです。

オジサンは「さ~ぁ 出来上がり皆は後ろへ下がっといてや・・・」と言いながら大きな金網の筒を圧力釜にセットする。
圧力釜のロックを金テコで外すと・・・「ドッカン~
大音響と白い煙が立ち込めて金網の筒の中には膨れ上がって湯気を立てたお米で溢れかえります。
我々は耳を指でしっかり押さえていますが体全体で圧力を感じます。
小さな子供は大きな音に驚いて泣き叫ぶ・・・

オジサンはすかさずブリキの櫃に「ポン菓子」を入れて砂糖で作った飴と手早くジャモジでからめてしまう。
甘くて芳ばしく美味しい「ポン菓子」の出来上がりです。
ブリキの缶に入れて家に持ち帰りました。
加工賃は一合あたり10円~20円位だったと思います。

派手な音と手際の良い手捌きがパフォーマンスのような「ポン菓子」屋さんは街の人気者でした。
偶にイベントに呼ばれた「ポン菓子」屋さんをTV番組で見ますが街を流す姿は何十年も見た事が有りません・・・

チンドン屋

2005-12-11 09:02:05 | 懐かしい商売
「チンドン屋」を街で見なくなった。
昭和30年代の初め頃には商店の開店や大売出しの宣伝に「チンドン屋」をよく見かけました。
チンチンドンドン~チンドンドン~」
鉦と太鼓のリズムにクラリネット、サキソフォン、トランペット、三味線のもの悲しい調べが街に響きます。
白塗り三度笠の股旅姿やサングラスに船長帽子のマドロス、三味線を持った鳥追い姿、道化のピエロ・・・色々な扮装をした一団が街を練り歩く。

「チンドン屋」の調べを聴くと我々、悪ガキ連はビラを貰いに後ろを同じ様に練り歩いた。
童話の「ハメルンの笛吹き」について歩く鼠のように何処までも「チンドン屋」の後をついて歩きます。

街角の所々で「東西~東西~皆様御存知の京阪商店街におきましては~歳末大売出しを実施中で御座いますれば~皆々様の賑、賑しい~御来店を・・・」口上を述べビラを配りました。
一枚貰えばそれで良いのに「チンドン屋」の後を何処までもついて歩きます。
周りが暗くなりコウモリが飛び交うと慌てて家路を急ぎました。
最近はあんな「懐かしい商売」を見なくなりました・・・

紙芝居

2005-08-20 09:50:48 | 懐かしい商売
昭和30年代の初めに「紙芝居」に熱中した。
そのころ私は大阪市の近郊であるM市のK小学校に通学しています。
そのK小学校の隣のM3中校門の近くにTさんというお家があった。
Tさんの家業は「紙芝居」の貸し元である。
「紙芝居」を売人に貸し出すと共にお菓子なども卸し売るのです。
Tさんの家には北河内の「紙芝居」の多数が毎日、自転車を連ねて「紙芝居」の交換とお菓子の仕入れにやって来る。
活気に溢れ賑わっていた。

同学年のM君のお父さんは「紙芝居」をしていた。
Tさんの家の近くに住んでいて幹部であったのか?
他の「紙芝居」は自転車だがM君のお父さんはオートバイで商売をしていた。
そのオートバイも大型で立派な車で人気がある。
陸王と言う今は無い国産の大型オートバイだった。
機動力を生かして遠方まで「紙芝居」に行っていたそうだ。
今から思えばM君の兄弟に遠慮して近所を避けて「紙芝居」をしていたのだろう。

M君の家に遊びに行って陸王を触らせて貰った。
オートバイは大きくて憧れの的である。
お父さんが帰ってきて叱られた。
「倒れたら怪我をするし子供の玩具では無いから遊ぶな!」
皮のズボンに半長靴、皮のジャンバー、飛行帽に身を固めたM君のお父さんはメチャクチャ格好が良かった。
「紙芝居」の思い出は尽きません。

ロバのパン屋

2005-07-29 09:49:24 | 懐かしい商売
昭和20年代後半~30年代初めにかけて「ロバのパン屋」が来た。
ロバに引かせた荷台に蒸パンを積んで音楽を鳴らしながら街頭販売に来る。
その音楽は「ロバの~おじさん~チンカラリン~チンカラリンロンやって来る~」でした。
派手でお洒落な荷台にテントの屋根があり、ガラスのショーケースに色々な蒸パンが並べて有ります。
チョコレートパン、クリームパン、餡パン、色々な蒸パンがありました。

音楽とロバの蹄の「パカポコパカ~」という音が聞こえてくるとお母さんや子供が表へ出てきてパン屋さんを止めます。
パンは美味しかったけれどロバは汚くて臭かった・・・

「ロバのパン屋」の訪問はあまり長続きはしなかった記憶がある。
販売場所を変えたのか?
家の近所へは来なくなったのです。
大阪だけではなく他の府県にも「ロバのパン屋」は来たのだろうか?
京都が発祥の地だと聞いた事があるのです。

夏の風物詩

2005-07-09 10:21:07 | 懐かしい商売
夏になれば金魚屋さんが天秤棒にタライを前後に付けて売りに来た。
「きんぎょ~ぇきんぎょ~ぉ」とゆっくりとタライを揺らさないように歩いてきます。
ガラスの口が朝顔型になって青い線が縁取ってある金魚鉢も天秤棒に括り付けてある。
出目金やリュウ金を何匹か金魚鉢と一緒に買って貰いました。

あの頃は沢山の物売りが次々とやってきた事を覚えています。
竿竹屋さん・・・「たけぇ~さお~だけ~ぇ~」
麦茶屋さん・・・「むぎちゃ はったいこぉ!」
傘屋さん・・・・「かさぁ~こ~もりがさ~しゅうぜん~」
下駄直し屋さん・「げた~はいれ~かえ~」
鋳掛屋さん・・・「いかけぇ~いかけ~ぇ」
研ぎ屋さん・・・「とぎぃ~はもの~とぎぃ~」
目立て屋さん・・「めたてぇ~めたてぇ~」
羅宇屋さん・・・「ぴぃ~~~~~~~~」

鋳掛屋さんは鍋や釜の穴をハンダで修理する職人さんで今は見られません。
桂春団冶の有名な落語「いかけや」が有名です。(但し明治時代の話)

目立て屋さんは鋸の刃を小さなヤスリで一つ一つ磨いて切れ味を良くする職人さんです。

羅宇屋さんは煙管の竹の部分(羅宇ラウ)の取替えや煙草脂の掃除をする職人さんです。
小さな蒸気釜を自転車やリヤカーに積んでいて熱い蒸気で脂を溶かし掃除をする。
その蒸気釜の「ぴぃ~」という音が売り声の代わりをしています。
もう刻み煙草を吸う人も居なくなって羅宇屋さんもなくなりました。
煙管の羅宇はラオスの竹が有名でその名になったと聞いています。

今は軽四輪でエンドレスマイクを喧しく鳴らしながらバイクの回収などが来ます。
ただ騒音を振りまくだけで風情も何も有った物ではありません。

覗きカラクリ

2005-07-03 10:19:46 | 懐かしい商売
見世物小屋に並んで覗きカラクリがあった。
小屋と違って移動可能な組み立て式の小型の舞台のような形をしていた。
前面に丸い筒状のレンズが入った覗き窓が2列に並んでいる。
高い所の覗き窓は大人用で低い所の覗き窓は子供用だ。
全部で20個くらい有っただろうか・・・
覗き窓の上には演し物の看板があった。
その看板の後ろが舞台でオジサンとオバサンが拍子をとって竹を叩き口上を語るのです。
もう一人は集金したり物語の話の進行を聞いて紐を引っ張り上げて覗きカラクリの場面を変える。

覗き窓からレンズを見ると暗い背景の中に明るく照明された場面が見えた。
人物や建物は全部「押し絵」で立体的に見える。
着物は本物の着物の端切れで作ってあった。
しかし古びて所々に虫食い跡や綻びがあり骨董品のようだった事を覚えている。

演目も古くて「地獄極楽」「不如帰」などだった。
三府の一の東京でぇ~父は海軍中将にてぇ~姓は片岡~名は浪子ぉ・・・」
さびた覗き節が郷愁を誘う・・・
あまり楽しい娯楽では無かったが見ておいて良かった。

昭和20年代の後半までは明治大正の残照がまだ存在したのです。
たぶん我々が最後の体験者だと思うので伝えたいのです。