氣楽亭 日乗

大阪生まれで奈良県広陵町の長閑で氣楽な田舎暮らしの氣功師が氣ままに綴る懐かしい昭和の年代記です。

トリオ・ザ・パンチ

2012-05-11 09:26:46 | 懐かしい芸人
「トリオ・ザ・パンチ」は1963年に「内藤陳」「井波健」「栗実」のメンバーで結成されました。
「内藤」の「おら ハードボイルドだど!」ギャグが大当たりします。

ウエスタン風のガン捌きや扮装が他のトリオやコントと違いとてもユニークで大好きでした。
「内藤陳」のスリムな体としゃくれた顎が今でも記憶が鮮やかです。

懐かしい昭和の芸人でした。

東八郎

2012-05-10 09:15:06 | 懐かしい芸人
「阿須名八郎」はコメディアンを志して歌手「田谷力三」に弟子入りします。
そして浅草公園六区の「浅草フランス座」などで活躍(この頃のフランス座には「関敬六」「長門勇」「渥美清」など後に
有名に成るコメディアン達が出演していました)しました。
「東八郎」の芸名はフランス座を経営する「東洋興業」創業者の「松倉宇七」にちなんだものらしい。
「ビートタケシ」も後に「浅草フランス座」に出演し「東洋興行」オーナー経営の「松倉荘」に住む。

「東八郎」の直弟子は「萩本欣一」が有名で「車だん吉」は孫弟子でした。
「東MAX(東貴博)」は彼の次男で「萩本欣一」の直弟子です。
父親の孫弟子にあたるのは不思議な廻り合わせだと思いました。

トリオ・ザ・スカイライン

2012-05-09 09:41:20 | 懐かしい芸人
「トリオ・ザ・スカイライン」は1964年に「東八郎」「小島三児」「原田健二」と共に浅草で結成されました。
テレビに進出しコントを行い人気を得ます。
「トリオ・ザ・スカイライン」は1971年に解散し以降は単独で芸能活動を行う。
「三波伸介」とともに、NHK「お笑いオンステージ」にレギュラー出演し全国区の有名なコメディアンと成りました。
その後「東八郎劇団」を結成して後進の育成にも力を注ぎ全国各地で喜劇を演じます。
晩年では「志村けん」主演の「バカ殿様」の家老役や、おでこに「光」のシールを貼りBGMにメンデルスゾーンのヴァイオリン
協奏曲が流れる「ヨード卵光」のコマーシャルが有名でした。

1988年に芸能人養成のために私塾を開くが、これからという矢先の同年7月6日の昼過ぎ自宅にて脳溢血で突然倒れ意識が回復する事
無く同日15時30分に急逝。行年52。




伊藤四郎

2012-05-08 09:44:41 | 懐かしい芸人
「伊藤四郎」は「てんぷくトリオ」唯一の生き残りでバラエティの司会や喜劇やドラマの俳優としても大活躍中です。

「伊藤四郎」は1975年以降「三波伸介」の意向で「てんぷく」名での活動を抑制します。
その頃「小松政夫」との共演が話題になりテレビ番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」での親子コントや「電線音頭」での
「ベンジャミン伊東(この名前の由来はイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンから)」や「笑って笑って60分」での
「小松の親分さん」などのネタで人気に火がきました。
「小松」と2人で生み出したギャグがいくつもあるが正月によく流れる琴による演奏の「春の海」を口で表現する
「つん つくつくつくつん・つん つくつくつくつん・ひやーひんひらひらりー べんべらべんべらべんべらべんべらべん 」は
「伊東」のオリジナルです。
その他にも「ずん」や「ニン」「どーかひとつ」といったギャグも有名に成りました。
「ベンジャミン伊東」としてのスタイルは「藤田まこ」とら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」
と驚嘆されるほどのインパクトがあり「小林信彦」からは大いに絶賛されます。
それまで「てんぷくトリオ」のサブ的役割だった「伊東が」にわかに芸能界で存在感を示し始め1979年には「ザ・チャンス!(TBS系)」
の3代目司会者に抜擢されました。

「ベンジャミン伊東」のキャラクター案は「伊東」が自身の威圧的な顔にコンプレックスを持っていたので「怖い顔でも面白い人はいな
いのか?」と考えた時に「サーカスの団長」が思い浮かんだ事が発端となっているらしい?

現在の「伊藤四郎」のキャラクターからは考えられない「てんぷくトリオ」時代が懐かしい・・・

戸塚睦夫

2012-05-07 10:34:46 | 懐かしい芸人
「戸塚睦夫」は1958年6月 石井均一座の結成に参加し「伊東四朗」「三波伸介」らと知り合います。
はじめ「三波」と組んで活動していたが「三波」が一時期大阪に行っていた間「伊東」とコンビを組み「伊東」は「三波伸介」の芸名を
使用していました。
1961年に「石井均一座が」解散して「三波・伊東」と共に「ぐうたらトリオ(戸塚がリーダー)」します。
翌年「てんぷくトリオ」と改名したしました。
「てんぷくトリオ」は次第に人気が出てきて舞台やテレビでの活動が増えていきます。

1967年には「てなもんや三度笠(甲州編)」に出演しました。
1972年からNHKの「お笑いオンステージ」内の「てんぷく笑劇場」に出演するが、その後間もなく病気により休養、入退院を繰り返しています。
翌1973年5月12日に、42歳の若さで逝去。
「戸塚」の早すぎる死はその後の残された者達「三波・伊東」のそれからの芸能生活に大きく影響したといわれた。

地味だが飄々とした「戸塚睦夫」が懐かしい・・・




三波伸介

2012-05-06 08:53:48 | 懐かしい芸人
1961年に「三波伸介」は「伊東四朗」「戸塚睦夫」と「てんぷくトリオ(結成当時のトリオ名は「ぐうたらトリオ」)」を結成しました。
「てんぷくトリオ」は舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博します。
流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ・・・もう」はこの頃生まれました。

1970年に日本テレビ系「笑点」の3代目司会者に就任します。
その機会は「てんぷくトリオ」としてゲスト出演した地方収録の回に飛行機の欠航により出演できなかった「前田武彦」の代演として
司会を務めたことでした。
元々落語に造詣が深かった事もあり「5代目三遊亭圓楽」ら並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切ます。
番組自体の人気を上げたことはもちろん自身がピン芸人としてブレイクする端緒と成りました。

「戸塚睦夫」の急死の後は「てんぷく」の活動を抑え個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍します。
NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは毎回ゲストの芸能人の似顔絵を
ゲストの家族の言う通りに描き上げ自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称し人気を得ました。

1982年12月8日 自宅の居間で倒れているのを外出から戻って来た家族らが発見 救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で
解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝。

懐かしい昭和の芸人です。

てんぷくトリオ

2012-05-05 09:19:34 | 懐かしい芸人
「てんぷくトリオ」のメンバーは「三波伸介(みなみ しんすけ1930年6月28日 - 1982年12月8日)」・
「戸塚睦夫(とつか むつお1931年4月20日 - 1973年5月12日)」・「伊東四朗(いとう しろう1937年6月15日 - )」の三人です。

1958年ごろ「石井均一座」の旗揚げに参加しここで3人が知り合いました。
1961年に「石井均一座」の解散とともに「ぐうたらトリオ」を結成します。
さらに翌年「てんぷくトリオ」と改名しました。
この名前は当時人気だった「脱線トリオ」(由利徹・南利明・八波むと志)を真似たと思われます。
「ぐうたらトリオ」から「てんぷくトリオ」に改名した理由は日劇の舞台に出演することが決まり「ぐうたら -」ではイメージが
悪く好ましくないという事務所の意向も有りました。

1972年からNHK「お笑いオンステージ」の名物コーナー「てんぷく笑劇場」に出演し人気を得ます。
1973年に「戸塚」が胃癌により42歳で病死しました。
残った「三波」と「伊東」で「てんぷく集団」と改名し活動を続けます。
しかし二人別々の出演や活動が多くなりました。

1982年に「三波」が剥離性大動脈瘤破裂により52歳で急逝。
その突然の死に、相方の「伊東」は号泣します。

懐かしい昭和の芸人でした・・・

八波むと志

2012-05-04 09:55:58 | 懐かしい芸人
「八波むと志」は1946年に「森川信」の一座に入り浅草「常盤座」で初舞台を踏みます。
1956年に「南利明」「由利徹」と「脱線トリオ」を結成し浅草を中心にテレビ・ラジオ・役者として活躍しました。
「三木のり平」に薦められ「東宝劇場」に入っていたこともあります。
1964年1月4日、東京都千代田区において自動車を運転中、安全地帯に激突する自動車事故を起こしその5日後の1月9日に
脳底骨折のため37歳で死去しました。

映画は30以上の作品に出演、テレビドラマはNHKに数本出演し大阪ABC放送の人気ドラマ「てなもんや三度笠」にも出演します。
1962年の「マイ・フェア・レディ」のアルフレッド・P・ドゥーリトル役は当たり役の一つでした。

タレントの「八波一起」は長男。
「コント55号」や「関根勤」が所属する芸能事務所「浅井企画」の社長「浅井良二」は「八波」のマネージャーを務めていた。


「八波むと志」は懐かしい昭和の芸人です。

南利明

2012-05-03 09:45:52 | 懐かしい芸人
「南利明」は「榎本健一」に師事し、のち破門されるが彼の最晩年に破門を許されました。
「由利徹」「八波むと志」と「脱線トリオ」を1956年に結成しリーダー格と成り浅草を中心にドタバタ喜劇の女形の役柄で人気を得ます。
3人とも所属事務所が違った為か間もなくトリオは解散し以降はピンで活躍しました。
大人気TVコメディ「てなもんや三度笠(大阪ABC放送)」に軽妙な名古屋弁を喋る「鼠小僧役」でレギュラー出演し人気を獲得します。

映画では「東映」の「網走番外地シリーズ」や「トラック野郎一番星シリーズ」などには脇役として出演する。

1969年のオリエンタルの「スナックカレー」のCM中での名古屋弁のフレーズ「ハヤシもあるでョ~」は非常に人気を得ました。
後にこのCMをパロディ化した赤城乳業の「カレーアイス」のCMにも出演します。
このCMの締めは「ハヤシはあらせんよ(ないよ)」でした。

その後も喜劇俳優として活躍していたが1995年1月13日に70歳の時に肺癌で死去。
コミックソング「演歌チャンチャカチャン」のヒットで知られる「平野雅昭」は南の付き人でした。
「南利明」は昭和の懐かしい芸人です・・・

由利徹

2012-05-02 09:42:01 | 懐かしい芸人
「由利徹」はもともと「ピストン堀口」に憧れてボクサーを目指していたらしい。
それでなのか後年にはボクサー「斉藤清作(たこ八郎)」を弟子にしました。

映画では「網走番外地」シリーズや「異常性愛路線」で有名な石井輝男といった監督たちに認められその多くの作品に顔を見せています。
石井輝男作品「無頼平野」に出演した際に何回もNGが出されたがその度ごとにアドリブで違うギャグを出して来て周囲を感心させました。
TVの「がんばれ!!ロボコン」に出演していたので子供達にも大人気に成ります。

「ビートたけし」は「クメピポ! 絶対あいたい1001人」の最終回に出演した際「最も面白いと思ったお笑い芸人は誰か?」と聞かれて
本来は芸人ではなく喜劇役者である事を指摘しつつ「由利徹」の名前を挙げていました。

「由利徹」は戦後の喜劇・軽演劇界で活躍したことから浅草出身と誤認されがちだが、本人は「新宿出身だ」と断りを入れています。
もともと「ムーランルージュ新宿座」の舞台でデビューしたのでした。
なお浅草芸人の代表例とし「由利徹」は「深見千三郎(「ビートたけし」の師匠)」の名を挙げている。

「オシャ、マンベ」 このギャグが有名に成った為に葬儀の際には「北海道・長万部町」から弔電が届いたという。
「胸毛もあるのよ」 後年、僚友・南利明の「ハヤシもあるでよ」(南が出演したオリエンタルのCM)というフレーズも流行しました。
(ちなみに由利は胸毛が濃かった)
パントマイムのギャグ 「花街の母」の曲に合わせて縫いものをする。
「チンチロリンのカックン」 「カックン・ルンバ」(歌)『カックン超特急』(映画)などが作られました。
後にプロ野球の凡退時の鳴り物の節として定着します。

なんとも懐かしい昭和の芸人です。